猫とクジラと夜の森










それからしばらく経っても、森は動く気配をみせなかった。今日は出ないのかもしれない。
静かな夜の森で、二人きりだ。交わす会話も少なめに、異変を待つ。

ふと、ボリスは、アリスがもじもじしていることに気がついた。
視線はちらちらとボリスへ――ボリスのファーへと向けられている。


(お?)


ボリスは、その様子を注意深く観察した。アリスはそわそわと――うずうずしている。


「アリス、触りたいの?」


ボリスがそっと声をかけると、アリスは飛び上がった。
図星をさされて気恥かしくなったのか、アリスの頬が赤くなる。


「そっ! そんなわけ」
「ない? 触っていいよ、あんたなら」


ボリスは肩からファーを外すと、アリスを包み込んだ。


「……」
「触りたいだろ?」


アリスの耳元で、ボリスは魅惑的に囁く。妖しい響きに、アリスは耳まで赤くなった。
ふかふかのファーの誘惑に負けたアリスは、そろっと手を伸ばした。


「気持ちいいわね、これ」
「だろ? 気に入った?」
「うん、すっごく」


いいなあ、と呟くアリスの目はきらきらしていて、とても可愛い。
ボリスは和やかな気分になって、優しい目でアリスを見つめていた。

ボリスの手が、アリスの手に添えられる。


「これはあげられないけど、今度、似たようなのをプレゼントするよ」
「え、本当?」


思いがけない言葉をもらい、アリスは顔をあげた。
ボリスは機嫌よさそうにニコニコしていて、その声音もやわらかい。

何でそんなに機嫌がいいのか、アリスにはわからなかった。
わからなかったが、すぐに思い当たった。


(ああ、ファーかな?)


確か、すごくこだわっていると聞いた覚えがある。
自分がこだわった部分を認めて貰えるのが、嬉しくないわけがない。


「うん、本当本当。会合の時に持ってってるヤツなんだけど、手触りもいい」
「ああ……黒いやつ?」


アリスが返すと、ボリスは嬉しそうに笑った。


「そうそう。覚えててくれたんだ?」
「うん」


ピンクと黒、という強気な取り合わせだ。目をひかない方がおかしい。
しかも、どこかホストっぽい雰囲気があった。そんな彼は、人ごみでも一際、目立っていた。

アリスがボリスに気づいて視線を送ると、決まって、ボリスはアリスを見つけてくれるのだ。
それが後ろからでも横からでも、ボリスは器用にアリスの視線だけに応えてくれる。

どうして、アリスだとわかるのだろう。

それがアリスには不思議で、先の会合の時、彼に聞いてみたことがあった。
すると、彼は照れくさそうに、

『あんたの視線は特別なんだ』

と笑って言ったのだ。
その時は、なんて気障な猫だろうと呆れるばかりであったが――。


(……特別)


言われた時は感じなかったのに、今になって思い出し、動揺している。

こんな暗い森の中で、二人きりで――いつもより、密着しているからだろうか。

そう冷静に状況を考えてしまったのが悪かった。
アリスは視線を移すと、ボリスの横顔を眺め見た。

夜でも目立つピンク色の猫は、『猫』であって『猫』ではない。
何度くりかえし見ても、ボリスは人間寄りにしか見えない。

そのせいだろう。僅かに意識してしまっているのは。
ボリスは、普通に『格好いい男の子』としてアリスの目に映っている。普通に、というのも妙な感じだが。


(変なの)


特別。
アリスだけは、特別に。

その甘美な響きが、アリスの胸をやわらかく締めつける。
今、アリスにもわかった。ボリスとアリスは、たしかに特別な友達だ。


「あれ、どうしたの? ひょっとして、飽きちゃった?」


顔を覗きこまれて、アリスの息が止まる。


(う、わ……)


考え事をしていたせいで、すっかり油断していた。

吸い込まれそうな金色から、目が離せない。
アリスは冷静さを取り戻すべく、自己暗示をかけようと試みた。


(猫よ、猫。ねこ……)


ボリスは猫だ。猫だから、こんな風にくっついていたって自然な筈だ。
アリスは猫が好きなのだから、こうしてボリスと顔を寄せ合っていても不自然では――。


「……」


思いこもうとしたが、駄目だ。


(不自然、よ)


不自然すぎる。
ボリスは猫のようには可愛がれない。


「アリス?」


我に返ったアリスは、やっとボリスから視線を剥がした。
取り繕うように、張りついた笑顔を作る。


「い、いいえ。飽きてなんか」
「ふーん? なーんか、怪しいな」


ボリスは物言いたげに、じろじろとアリスを見る。
いつもは聡いのに、勘弁してくれと言いたくなる。


(いや、聡いから……も、もしかして、気づいたの?)


それなら、かなり良い性格だ。アリスと張る。

その時。
ちゃぷ、と響く音があった。

ざぷん、と地面が波立つ。
水音にしか聞こえないが、この辺りに池や湖など無かった筈だ。それに――波立ったのは、地面だった。


「……え?」


地面は、まるでそこが水面であるかのように、さらさらと揺らぐ。


(な、なにこれ)


アリスは、目に見えてうろたえた。


「こ、これ……何、何かいるの?」


ついさっき感じた甘いときめきも、驚きで綺麗に流されていた。


(え、え、どうなってるの? 地面が水みたいに……水みたいな地面? 地面みたいな水?)


アリスの混乱は深まるばかりだ。

救いを求めてボリスを見やるが、ボリスは全く驚いていない。
まるで、そう在るのが普通なのだというように。


「んー、何かは居そうだね……釣れるかな」
「え」


アリスは訝しげに眉をひそめた。

いま、何と言った?
『釣れる』とは、何が。

アリスの疑念に応えたかのようなタイミングで、ぱしゃん、と地面から『何か』が跳ねた。
ボリスの顔色がパッと明るくなる。


「お、魚だ。魚がいるぜ、アリス」
「……」


アリスは目を疑った。


「魚……?」


形は魚だ。魚のような形をしている。でも、形だけだ。


「俺、釣ってこようか。食べてみる?」
「い、いや……いい、いいっ!」


アリスは思いきり首を振った。勢いに任せて、立て続けに訴える。


「あれ、魚の色じゃないわ! 食べられるように見えないし!」


ボリスは「確かに」と素直に頷く。
頷くのだが、その体から発している冒険心は消えていない。


「そうだね、あれは魚っぽいものだ。でも、食べられるかも」
「いや、無理に食べなくてもいいんじゃないかな……」


どうしてこう、危ない方向に好奇心旺盛なのだろう。
アリスがやや引き気味に言うと、ボリスは口を尖らせた。


「え〜〜、いらないの? 捕ったら、あんたにあげようと思ったのに」
「いらないです……」


やっぱり、ボリスは猫だ。
猫以外の何者でもない。そう痛感した。






それからしばらくの時間を過ごしたが、変化の兆しはなかった。


「んー、今はこれ以上、出ないみたいだね」
「そう……残念ね」


アリスは小さく息を吐いた。
ボリスの言うように、森にクジラが出るのなら、この目で見てみたかった。


(非現実的なことに、もっと)


首まで浸からせて欲しかった。
この世界も、たいがい非現実的な世界ではあるのだが。

ボリスの尻尾が、なぐさめるようにアリスに絡みつく。


「まあ、そういうこともあるって。また、夜においで」
「うん」


アリスは素直に頷いた。ボリスは、こういう嘘はつかない。
思いきり持ち上げておいて突き落とすような真似は、しない。だから、アリスはボリスを信じられる。


(それに、ここに来る理由ができた)


これで、大手を振ってボリスを訪ねることができる。

この気持ちが一時的なものかどうなのか、アリスは確かめなくてはならない。
スッとボリスが立ち上がった。


「俺、送ってくよ。アリス」
「あ……そうね。お願いするわ」


アリスがためらいがちに頷くと、ボリスは手を差し伸べてきた。
それが自然な動作だったせいか、アリスは素直に手を取ることができた。


「おう。じゃあ、一緒にいこっか」


軽く引っ張られ、アリスも立ち上がる。

そうしてそのまま、二人は夜の森を歩いた。
手を繋いだまま、二人は歩きだした。

森の奥へと。


「え」


アリスは目を丸くした。

アリスの方向感覚が正しければ、こっちに森の出口はない。
けれど、ボリスはしっかりとした足取りで、ずんずんと進んでいく。


「ちょ、ちょっと、ボリス?」


アリスが思わず声をかけると、ボリスは顔だけで振り返った。


「どうした?」
「ボリスこそ……道、こっちじゃない?」


間違っていないのかと問いかけてみても、ボリスの歩みは止まらない。
アリスは手を繋がれたままなので、ボリスに引っ張られ、共に歩くしかない。


「ううん、こっちこっち。近道があるんだ」
「近道?」
「そうそう。近道」


歌うように、ボリスは『近道』と繰り返す。


「こんな暗い夜道を、ひとりで帰らせるわけにはいかないだろ? だから、近いほうがいい」


それもそうか、と、アリスの気持ちは落ち着いた。
ボリスの言い分も一理ある。そして、アリスの知らない道を、ボリスが知っていてもおかしくはない。


(近道……けもの道とか? 私が通れるような道だったらいいんだけど……)


ボリスもついていることだし、そこら辺りは大丈夫だろう。きっと。
アリスが納得しかけた、その時だった。

少し開けた場所に出た。
アリスのよく知る場所に。


「!」


目の前には、無数のドアの群生が広がっている。


(ドア……ドア!? まさか)


まさか、近道というのは――『これ』のことなか。

アリスは青ざめた。
血の気が失せていくのが、自分でもわかる。


「ボリス!?」


アリスは怯んだが、ボリスはにっこりと笑うだけだ。


「俺がいる。怖がらなくても平気だって」
「だって、そんな」


アリスは思わず手を振り払ったが、ボリスはアリスの手を離してくれない。


(こ、この猫っ……!!)


明らかにアリスが怖がっているのは分かるだろうに、手を離してはくれない。

怒りを覚えたアリスは、無理矢理に立ち止まった。
ぐぐぐ、と握られている手には力が入る。

連れて行こうとするボリスは、抵抗されたことが意外だったのか、初めて足を止めてアリスを振り返った。


「どうしたの? 行こうよ」
「嫌よ、私」


怖い。
怖いものには、近づけないで欲しい。

アリスは懸命に頭を振ったが、ボリスは優しくなかった。


「大丈夫だって。俺が信用できない?」
「そういう問題じゃ……」
「んん? じゃあ、どういう問題??」


気の抜けるような言葉を交わした隙に、ボリスはアリスを抱き上げた。
そのまま、スタスタとドアへ向かう。


「ボリス!!」
「大丈夫、大丈夫。怖がらなくていいよ。ドアは怖いものじゃない」


なんでそんなに自信があるのか問い詰めたいぐらい、ボリスは悠々としている。もう、ちっとも安心できやしない。


(私は怖いんだってば!)


話の通じなさにどうでもよくなり、アリスは心の中で盛大に罵った。
本当に、どいつもこいつも人の話を聞いちゃいない。

ボリスの胸に顔を埋めるようにして、ぎゅっとしがみつく。
体が震えているのは伝わっている筈なのに、何故ボリスは意地悪なのだろう。


「っ!」


がちゃり、とドアノブが回った音がした。
次いで、重たい音を立てて開く――。

ドアが開く。


(嫌だ……)


言いようのない恐怖が襲ってきて、アリスは硬く目を閉じた。


「はい、到着」


呑気な声がするけれど、アリスは目を開けなかった。

もうボリスは信じられない。信じないことにした。
あのときめきは、嘘だったということにしよう。


「目を開けてみて」
「……」


ボリスに促され、アリスは迷ったが――おそるおそる、目を開けた。ずっと目を瞑ったままというわけにもいかない。
広がる光景を見、アリスはぽかんと口を開けた。


「え……」
「どう、びっくりした?」


得意そうなボリスの声。
けれど、そんな事には構っていられない。

確かに、アリスは森にいた筈だ。
森のドアをくぐっただけなのに、どうして――今、アリスは、アリスの部屋にいるのだろう。


(実はボリスがものすご〜〜く俊足で、私が目を閉じた直後、疾走した……とか?)


もしかすると、ボリスにまんまと騙されたのではないだろうか。

アリスの疑念は膨らむ。
思わせぶりに連れていかれたが、ドアなんて通らなかったのかもしれない。

でなければ、説明がつかない。
森のドアが部屋へと繋がっているなんて、馬鹿馬鹿しい――。


「そんな、どうして……。あ」


ドア。
森のドアは、確か。


『ドアを開ければ、一番行きたいところに行けるんだ』


アリスの頭は、ようやく混乱から抜けた。


「そう、思い出した? 俺の役目。切ったり貼ったりできる……ア、アリス?」


悪戯が成功した、と少年のような笑顔を見せてきたが、アリスは応えてあげられなかった。
脱力して、その場に座り込む。緊張感から解放されたおかげか、うっすらと涙が滲んできた。


「……心臓が止まるかと思った……」
「ご、ごめん! 俺、驚かせすぎた?」


ボリスの焦る様子がなんだか可笑しくて、アリスは小さく笑った。








ボリスはアリスが落ち着くまで、一緒に居てくれた。
やっとアリスの気分が落ち着いた頃、ボリスは立ち上がった。


「じゃ、俺は帰るな。またね、アリス」
「ボリス」


アリスは思わず声をかけていた。
あの暗い森へ、独りで帰るのかと思うと。


「ん? どうした?」


ボリスが振り返る。
アリスの顔を見て、何かしらの意思を汲みとったのだろう。ボリスは優しい眼差しになった。


「……ああ」


わかった、と言われたような気がした。
アリスは、上手く言葉にできずに俯くことしかできないのに。


「あんたが気にしなくっていいんだよ。俺は男だし、猫だし」
「でも」
「ありがとな、アリス」


気にしなくていいと言いながらでも、気にかけて貰えるのは嬉しい――言葉には、そんな含みがあった。
去ろうとするボリスに向かって、アリスは手を伸ばしていた。ファーを掴む。


「ま、待って!」
「うん? なに?」
「……えっと」


アリスは言葉に詰まった。


(なに……って、何を言おうとしたんだろう)


わからない。
わからないけど、いまはボリスと離れがたい。いま、独りで行かないで欲しい。


(でも、そんなんじゃなくって)


なにが『そんな』なのか、もう自分でもよくわからない。
ただ、変な風に誤解されてしまうと、ちょっと困ることになる。何か、よい言葉はないものか。


「お……お茶でも飲んでいかない?」


アリスの苦し紛れの言葉に、ボリスは目を瞬かせた。


「いいの? お言葉に甘えて、お邪魔しちゃおうかな」


ボリスは応じてくれた。
アリスはほっとして、ファーを掴んでいた手をようやく離した。

厨房を借り、手早く紅茶の用意をする。
一式を持って部屋へ戻っていると、途中の廊下で、双子とばったり出くわした。


「あれ、お姉さん!?」
「え? どうして、お姉さんが?」
「な、なに? 何かまずかった?」


ディーとダムが騒ぐので、アリスは訳もなくうろたえた。ダムが首を振る。


「ううん、まずいことなんてないよ。でも、まずい」
「どっちよ」


アリスが返すと、ディーとダムは互いに顔を見合わせた。


「お姉さん、門を通らなかったでしょう」


指摘されて、アリスは「ああ」と思った。だからこの子たちが驚いていたのか。


「そうね、通らなかった」
「でしょう? なのに、なんでお姉さんが屋敷にいるのかなって思って……それは?」
「ああ、これは」


ディーの視線の先は、アリスの持っている物に向けられていた。


「さっき、森に行っていたの。ボリスが送ってきてくれて、いま私の部屋にいるのよ」
「ボリスが?」
「うん」


アリスが小さく頷くと、ディーとダムは微妙な顔をした。


「……」
「あ、の……二人とも、ごめんなさい。入れちゃダメだった?」


聞くまでもなく、駄目だろう。

アリスは自己嫌悪に陥った。
ディーとダムは門番なのだ。
二人がせっかく仕事をきちんとこなしていたのに、アリスが勝手に屋敷内へ招き入れていたのでは、彼らにとって不満以外の何者でもない。

だが、ディーとダムは揃って首を振った。


「ううん、ボリスはいいよ。でも、お姉さんの部屋っていうのがムカつくな」
「そうそう。それがムカつく」


言いながら、ダムはポケットを探っている。
探り当てたらしく、アリスに向かって何かを差し出した。


「はい、お姉さん。これ、持ってて」
「え? なに……!?」


思わず受け取ってしまい――手の中のそれを見て、アリスはぎょっとした。


「護身用だよ。猫に何かされそうだったら、使って」
「な……」
「ぶすっとやっちゃっていいからね、お姉さん」


にこーっと邪気なく微笑む彼らに寒いものを覚えながら、アリスは思いきり首を振った。


「いらない、いらないからっ! 第一、私には扱えないしっ!」
「え〜〜〜〜……そっか、お姉さんは武器が使えないんだね」
「そんなの、余計に心配だよ」


アリスに突っ返されたナイフを渋々受け取ったものの、まだ双子は口を尖らせている。


「……心配されるようなことはないから、安心してていいわよ」


そんな展開にはなりそうにもない。
言うと、ディーとダムは神妙な顔になり、アリスを見上げてきた。


「……お姉さん」
「ボリスを信用してるんだ?」


信用。信頼。
――ついさっき崩れそうになったものの、結局は――。


「うん、それは……まあ。友達だからね」
「そっか……でも、気をつけてね」
「? うん」


気をつけるというのは、何に対してだろう。
アリスが聞く前に、ディーとダムは『じゃあ』と去って行った。


(気をつける……って、ボリスに?)


確かに、気をつけなければならない相手なのかもしれない。
けれど、ボリスが相手ならば、アリスが細心の注意を払っていても、なんだか意味がないような気がする。


「……紅茶が冷えるし、また後で考えよう」


言い訳めいたことを呟く。
後回しにしたかった理由は、それだけではないのに。

アリスは考えることを止めると、自室に向かって歩き出した。









   


===== あとがき ===


ちょっと不穏なネコ。
もうちょい続きます。