猫とクジラと夜の森















その日、ボリスは木の枝の上で、悠々と寝転んでいた。

ピンク色の長い尻尾が、気ままにゆらゆらと揺れる。
きらきらしい木漏れ日に目を細めながら、ボリスは何の気なしに空を仰ぎ見た。

木々の隙間から覗く空は、絵の具をぶちまけたような青が広がっている。

先だってハートの国からクローバーの国へと『引っ越した』折に、ボリスは遊園地から弾かれた。

弾かれるのはよくあることだったし、第一、弾かれたことで、ボリスにとって特に不都合なことなどない。
猫は柔軟だから、どこでも生きていけるのだ。

けれど、アリスは、一人残ったボリスが寂しくないようにと、よく森へ来訪してくれるようになった。

ボリスの口元が自然と歪む。
アリスは何と滑稽で、何と愛しいのだろう。

寂しくなどあるはずがないのに、アリスは、寂しくはないかとボリスに問う。

だから決まって、ボリスは「寂しくない」と答えるのだ。


(それ以外の答えなんて、俺にはない)


これは誓って言うが、強がりでも何でもなく、それがボリスの心からの答えなのだ。

だから、寂しくないとしか――他に答えようがない。
ボリスがそう答えると、アリスは納得のいかない顔をするのだった。


(俺がさみしいって言うまで、アリスは聞くのかな)


ふと浮かんだ考えを、しばし吟味してみる。

ボリスが肯定の意を示さないから、アリスは何度も足を運んでくれるのかもしれない。
ボリスにはない感情を、彼の仕草や表情から、どうにか見つけ出したくて。

あの縋るようなアリスの眼が、ボリスはたまらなく好きだった。小動物を思わせる。

そう。
アリスは、かよわい生き物だ。

アリスは強いとばかり思っていたから、そこはボリスには意外だった。


(別に、言ってあげてもいいんだけどね)


小さな欠伸を噛み殺しながら、ボリスはゆっくりと目を閉じた。
硬質に見えるが、木の上は存外、心地よいものだ。

アリスの求める答えを知りながら、答えてあげないのは――確かに、いささか意地悪なのかもしれない。
足をぶらぶらさせながら、ボリスは考える。


(寂しい……? 寂しいことなんて、あるかな?)


確かに、遊園地の喧騒を思い返せば、この静か過ぎる森は少しばかり物足りない。

だが、特に大きな問題ではないだろう。
森には暇つぶしに最適なネズミだっているし、とりあえず『友人』である双子だって、この世界にいる。

そして、もっとも大切なこと。
アリスがいる。

アリスがいる限り、ボリスは寂しいと思うことはない。
だから、何の不満があるだろう。もしもアリスと別たれていたならば、きっと――。


(でも、俺はアリスに会いにいける)


二度と会えないわけでもない。

ボリスがドアを開ければ、きっとすぐにアリスへと繋がる。
だから、そうなったら寂しいかと問われても、ちょっと悩んでしまう。


(余所者って大変だよなあ)


面倒なことで悩むんだな、と思う反面、どこか彼女のことを羨ましくも思う。


(けど)


何故だろう。

守りたいと思っているのに、何故か彼女を傷つけたくなる時があるのだ。
サッと引っ掻いて、なかなか消えない傷を、アリスにあげたい。


「だって、あんたは帽子屋を選んだ」


ボリスは拗ねたように、ぽつりと零した。
帽子屋を――というと、すこし語弊があるかもしれない。アリスはその滞在先を、帽子屋屋敷に決めたのだ。

だから。


(……って、おいおいおい。やばいんじゃないの、俺って)


ボリスは器用に寝返りをうった。


「……あー。ガキみてぇ」


照れ隠しに呟いてから、ボリスは自分の考えを振り払った。

ボリスが「寂しい」と嘘をつけば、アリスはきっと、安心するだろう。


(けど、それじゃ駄目だな。あんたは来なくなる)


アリスの来訪。

そのこと自体はありがたい。
ある意味、彼女の気を引くことができている、ということだ。

悩ませているとなると、話は別だけれど。
アリスのことは好きだから、彼女の負担にはなりたくない。悩ませたいわけじゃない。

ずっと、自分に気を向けて欲しいと願っていただけだ。
だから、今の歪んだ状況は、ボリスにとって嬉しいものでもあった。


(もう少し、俺のために会いに来てよ)


アリスは、帽子屋屋敷に滞在している。
帽子屋屋敷には友人もいることだし、今となってはボリスの立場は、ほぼ中立に近い。
ボリスがその気になれば、いつでもアリスに会いに行くことはできる。

けれど、アリスの方から訪ねてくれている、という事実は、ボリスの自尊心を満足させていた。
閉じた喜びも、喜びの一種には違いない。

そう、もう少しだけ。

ほんの少しだけなら、今の状況につけこんでも許されるだろう。


(その間に)


アリスに罠を。

もう、単なる引っかき傷では済まないかもしれない。
罠にかかって傷ついたアリスを、恭しく救いあげてやるのだ。

ボリスはにんまりと笑う。
そして今日もまた、アリスは森へとやってくる。










近づいてくる足音に、ボリスは耳を立てた。

まっすぐな足音だ。
木の葉を踏む軽い音。自分へ向かって一直線に。

サク。

近くで、足音は止まった。
次いで、アリスの視線を感じる。彼女は今、ボリスを見上げている。

ボリスは、ゆっくりと目を開けた。


「こんにちは、ボリス」


アリスと視線をからませてから、ボリスは体の向きを変えた。


「こんにちは、アリス。来てくれたんだ」


後ろ暗い嬉しさを隠して、ボリスは微笑む。


「ええ。ボリスは変わりない?」
「うん、俺はいつもどおりだよ。あんたは? もう、クローバーの国には慣れた?」


今日は矛先を逸らす為、わざと先回りして質問を投げかける。
問いかけると、アリスの表情は曇った。俯きがちに首を振る。


「ううん、ぜんぜん慣れない。まだ変な感じだわ」


土地が回るという『引越し』。アリスの常識がまったく通用しない世界だということを、改めて痛感する。

ボリスは「そう」とだけ呟いた。
まだ慣れていないうちは、アリスは会いに来てくれる。


「まだ安定してないからね。でも、不安定だからこそ楽しいこともある」
「どんな?」


ボリスの慰めに、アリスは顔を上げた。
縋るような青い目が、アリスの控えめな期待を物語っていた。

期待されている。

嬉しくなったボリスは、木の上から飛び降りた。音も立てずに、軽やかに着地する。


「例えば、クジラとか。あんたは見たことある?」
「え」


アリスは目を瞬かせた。


「クジラ……」


うーん、と小さく唸ったアリスを見て、ボリスはおや、と思った。


「あれ? もしかして、クジラを知らない?」


意外だ、とボリスは目を丸くした。

アリスは本が好きだし、クジラならば誰でも知っていると思っていたが――ひょっとして、アリスの居た世界と、知識が異なっているのだろうか?
胸がチリッと痛みを訴えたが、無視してしまうことにした。

アリスは小さく首を振った。


「いや、知ってる……けど、何でクジラ? この国は、海に面してるの?」
「ううん、違う。海はないね」


ボリスが首を振ると、アリスはますます訝しげな顔をした。


「海がないのなら、何でクジラが?」


ようやく、ボリスはアリスの困惑の根源に気がついた。
クジラは海に生息する生き物だ。一般的には。


「ああ。そいつ、森に出るんだよ」
「……?」


説明されても、意味が飲み込めない。
露骨に表れた戸惑いを見て、ボリスはペロリと唇を舐めた。

そうか。
これはアリスの『常識』の範囲外だったのか。


「だから、森にクジラが出るんだ。いつ出るかは決まってないけど、夜が多いかな」


ボリスが丁寧に説明を加えたが、アリスはますます混乱を深めてしまった。


「……森にクジラって、何で?」
「いまは土地が不安定だから、さ。陸と海の境界があいまいなんだろ、多分」


ボリスとて、どういう仕組みになっているだとか解説できるほどには詳しくはない。
それがこの世界の『常識』であったから、不思議であるとすら思ったことがなかった。


(ほんと、アリスは不思議な子だねえ)


改めて、しみじみ感じ入ってしまう。


「でも、そんな……クジラって、本当に?」


森クジラは、ある意味レアなものだ。
引越し後の不安定な時期にしか現れない。

けれど、レアとはいえ、ボリスは見たこともあるし、引越しの風物詩のようになっていて、慣れっこだったが――。

アリスがそんな風に言うと、価値あるものに思えてくるから不思議だ。
ボリスは軽い調子で頷く。


「うん、本当本当。なんなら、しばらく森で居てみる? 森にいれば、間近で見れるぜ」
「クジラ……」


アリスの瞳が、興味で揺れ動く。


「見てみたい」


根負けしたアリスが答えると、ボリスは楽しそうに微笑んだ。

ああ、アリス。
君はなんて――。


「だろ? あんたなら、そう言ってくれるって思ってた」


邪な心など欠片も見せないように、ボリスの口は動く。

アリスの不安を、ゆるやかに別方向へと持っていってやる。
そうすることで、いくらかアリスの気が紛れたらいいと思う。


「夜になれば、見られる?」
「んー、どうだろうね。夜が多いけど……試してみる?」


アリスはしばらく迷った後、小さく頷いた。彼女の好奇心は、実に強い。
ボリスの唇が、嬉しそうに弧を描いた。


「決まりだね。あんた、砂時計は持ってる? なければ、夜の時間帯になるまで一緒に居よっか」


ボリスはニコニコと笑顔で、長い尻尾をすり寄せた。アリスは払いのけたりしない。
アリスは「うん」と答えながら、スカートのポケットに手を突っ込んだ。


「砂時計は……確か」


アリスの手には、砂時計が握られていた。


「あった」
「お。じゃあ、夜にしてくれる?」
「ええ」


アリスは砂時計を天にかざした。


(ちぇっ、あったか)


少しでも長く一緒に居たかったボリスとしては、いささか残念であった。

赤く染まった森が、黒へと世界を変える。

この辺りには、光源がほとんどない。目が慣れるのを待って、アリスは空を見上げた。
空への視界は生い茂る木の枝に阻まれ、あまり多くは見えない。


「クジラ、出るかしら」
「どうかなー、出るといいけど……っと、こっち来て、アリス」
「ん?」


言われるままに、アリスはボリスに寄り添った。


「ここ、少し冷えるからね。夜は特に」


言いながら、大きなファーでアリスを包みながら、自身の隣へと引き寄せる。
この方が温かいだろう、とボリスは笑う。


「ありがとう、ボリス」


アリスは照れくさそうに礼を告げると、再び空に目を向けた。
その横顔を、ボリスがじっと見つめているなんて、気づきもしない。
アリスは、なんて無防備なのだろう。






   


===== あとがき ===


2010年8月発行の、「in the Dark Forest」より。
「夏っぽいもの」をテーマにした合同誌でした。

長かったので、いくつかに分けました。もうちょい続きます。