佳人と槍
との生活は穏やかに過ぎていく。
確かに裕福な生活状況とはいえないものの、この乱世で戦にばかり関わってきた姜維にとっては、ぬるま湯そのものだ。
鳥の声で目を覚まし、朝の静かな風を感じる。
体を起こすと、既には先に起きて働き始めている。
その後ろ姿を見るのが、姜維は好きだった。
妻を持てたならこんな感じだろうか、と甘い夢をみているようで。
姜維が起きた事を察したのか、は振り返った。
顔はいつも仮面に隠れていて、一度も素顔を見たことはない。
だが、慣れとは恐ろしいもので、それを異常だと感じなくなっていた。
「おはよう、殿」
「おはよう、伯約殿。今日の加減は如何です?」
「ん、悪くない。手伝おう」
「ありがとう」
と姜維は、一日のほとんどの時間を共に過ごすようになっていた。
日々の家事や水汲み、森への採取や小さな畑の手入れ、家の細かな修繕等までも彼女1人で行っていたようだ。
慣れた手つきで行われていく生活に、姜維は寄り添った。
は姜維のことを元々共に居たかのように自然に扱っているし、何も詮索はしてこない。
姜維ものことを詮索しない。ほどよい距離感がある。
いつしか互いの間には、奇妙な信頼関係が芽生え始めていた。
そうして、いくつもの夜が過ぎた。
小雨が静かに振る、少し肌寒い朝のこと。
姜維が川で発見されてから、十日ほど経っただろうか。
はいつものように、姜維の傷を綺麗に洗い包帯を交換する。
す、と額に手をあて、熱の有無を確認する――この瞬間はいつも、何故かどぎまぎしてしまう。
は顔色ひとつ変えないが、何も意識していないのだろうか。
「熱も引きましたし、傷の経過もいいですね」
「……ああ」
は静かに呟いた。姜維は少し迷いながら答える。
しばし、互いに黙りこむ。
「……出ていけ、とは言わないのか?」
「出ていく、とは言わないのですね?」
お互い顔を見合わせると、同時に苦笑した。
同じことを考えていたのか、と。
姜維は僅かに目を伏せた。
体が回復したのは、本当に喜ばしいことなのだけれど。
「……本来なら、すぐに戻らねばならないのだ」
はわかっている、と言いたげに頷く。
口には出せないが、お互いに気づいていた。
居心地の良さに、囚われてしまいそうになる。
姜維はふと、窓を見やった。今日は天気が悪い。だから。
「……今日は、雨だな。話をしないか?」
「はい」
わざと目を逸らしてきたことに向き合うには、ちょうど良いのかもしれない。
薬草茶を淹れましょう、とは湯を沸かし始めた。
静かな時間が流れている。
もっとこの時間が続けばいいのに、と密かに願っていた。
しかし、夢に溺れるには無視できない現実が姜維にはある。それこそ現実には、問題が山積みだ。
思いがけず与えられた休息だったのだ、と姜維は思う。
しばらく互いに黙っていたが、先に姜維が口を開いた。
「聞いても良いのか、迷っていたのだが……殿は、何故そのような……仮面を?」
まっすぐな目で、じっと見つめられる。
それが単なる――悪意ある好奇心ではないことを、は知っていた。
姜維は一度たりとも、の仮面を暴こうとはしなかった。
「……両親から、周りの人の為にも身につけるように、と言われていました」
良くも悪くも影響を与える娘を、両親は守ろうとしてくれた。幼少の頃だけは。
両親は悪ではなかった。生活が苦しくならなければ恐らくは、をそのまま普通に扱ってくれただろう。
「確かに、山での暮らしには必要ないこと。疑問に思うのは当然です。今は……あなたを信用していない訳ではないのですけれど」
念のためなのです、とが答えると、姜維は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すみません、私が無神経でしたね……。ですが、顔の造りなどよりも、心が美しい方が遥かに重要です!」
「そんなこと」
姜維は真剣な眼差しで訴える。
「あなたは優しい。見ず知らずの私を助けてくれた」
「そんな大層なことでは……」
「いいえ。献身的に看病してくれた。それくらい、動きを見ていれば分かる」
本当は見捨てるかどうか迷ったのだ、とは、何となく告げにくい。
思いきって行動して良かった、とは思った。
姜維との生活はとても穏やかで、それでいて――そう、は楽しかった。誰かと居ることが、楽しいと思えた。
「私を見つけたのが、あなたで良かった」
「……私も。あなたが助かって良かった」
心から、そう思う。
まるで奇跡のような出会いだった。
姜維とはお互い見つめ合った後、柔らかく笑った。
「あなたは……戦に戻られる方なのでしょう? ならば、私はお引き留めできません。どうかご武運を」
ついて行く事はできない。ついて行きたいとも言えない。
だから、は深々と頭を下げた。
せめて、どうか彼の未来が明るいものでありますように、と願わずにいられない。
そんなを、姜維はじっと見つめている。その視線は、どこか寂しそうだ。
「……」
一緒に来て欲しい、と――喉もとまで出かかっていた。しかし。
姜維は目を閉じると、静かに感情を抑えつけた。
「ああ」
戦の状況がわからない今、下手な手を打ってを危険に晒すわけにはいかない。
恐らくある程度どうなっているかの見当はついているが、もし読みが違えば――激しい交戦中であれば、事態は最悪になる。
今はまだ、離れるしか術はない。
「また、私はここに来てもいいだろうか」
「ええ。あなただけなら、いつでも」
が頷いてくれたので、姜維は安堵した。
これで二度と来るなと言われたら立ち直れない。ひとまず、次の機会に望みをつなごう。
姜維は正直に打ち明けることにした。
「まだ……戦が終わっているかどうかわからない。だから安易な事は言えない」
「はい」
仮面で隠されているからか、が実際どんな表情をしているのかはわからない。
けれど、真面目に自分に向き合ってくれていることだけはわかる。
だから、のことは後からちゃんと――時間をかけて、丁寧に考えることにしよう。
これから、戦場へ戻るのだから。
今は冷静な状況判断が優先だ、と姜維は思考を切り替えた。
「殿、地理がわかるだろうか? ここはどの辺りなのか」
「ええと……うろ覚えですけれど」
覚えていることを、は語った。
山へ入って数年が経つ。色々と変わったことがあるかもしれない、と前置きをしてから。
幸い、姜維はすぐ見当がついたらしい。
十日の時を考えると、戦況は変わっているだろう。
恐らくこの辺りに移動している筈、状況はこうだろう、と算段し始める。
そんな姜維の姿を目の当たりにし、は内心、驚いていた。
(……やはり、ただの兵士ではなかった)
判断に迷いがない。
共に暮らしていた時から薄々感じてはいた事だが、今はっきりと判る。この人は只者ではない。
「……なるほど。1日あれば、元の場所には戻れそうだ」
「そうですか、それは良かった」
は、小ぶりな包みを姜維に差し出した。
去ると言いだした時にすぐ渡せるよう、既に準備はできていた。
「食料と水を、ここに。一応、お薬も入れておきました。お持ち下さい」
「感謝する」
姜維は荷を受け取った。
その代わりに――と、引っこめようとしていたの手を取る。
初めて自ら触れた彼女の手は存外華奢で、姜維は頬が赤くなるのを感じた。
「せめてもの礼に、これを受け取って欲しい」
「これは」
「山暮らしでは不要かもしれないが」
言いながら、姜維はの手のひらに小さな翡翠を落とし、握らせた。
鎧の装飾品だったもので少々傷も入っているのだが、今はこれしか渡せるものがない。
「それに……再会の約束に、形あるものを残していきたい」
真剣な、熱のある声だ。
はそんな姜維を静かに見つめた後、素直に品を受け取った。
「ありがとうございます」
大事なものを抱きしめるように、ぎゅっと握りしめる。
姜維の気持ちが、とても嬉しかった。
も、形あるものが欲しかったのだ。これからの――姜維のいない生活は、きっと少し寂しいだろうから。
夢では無かった、と。
目に見える確かな証拠があれば、また生きていけるだろう。
姜維は徐に立ち上がった。
の手を取り、立たせてくれる。
そうして、二人は二人の生活に終止符を打った。
山を降りるまでは、が先導した。二人は黙々と、ただ歩くのみ。
「また会おう」
姜維は途中で、一度だけ振り返った。名残惜しそうに――を見る目は、どこか切ない。
わかっている、とが頷き返すと、姜維は再び歩き始め、それからはもう振り返ることはなかった。
姜維の姿が遠く見えなくなるまで、は手を振り続けていた。
(どうか気をつけて)
ふう、とは息を吐いた。
行ってしまったな、と――心に隙間風が吹いているような、妙な心地だ。
(多分、二度と……)
姜維には、もう二度と会えないかもしれない。
慌ただしい日々に戻れば、きっと綺麗に忘れてしまうだろう。
山で出会った怪しい仮面の女は幻か何かだったのかもしれない、と。
はそれでも良かった。
姜維はにとって、希有な存在だった。
世の中にはあのような誠実な男性もいるのだと知ることができたのは、にとって僥倖だった。
希望のようなものを胸に植えつけて。
――さあ。
の心は、彼に託した。
(ありったけの食料を渡しちゃったし、採取しに行かなきゃ)
は踵を返すと、元気良く山小屋へと戻って行った。

===== あとがき ===
少し前向きにさせてくれました(・ω・)姜維は誠実なタイプだと思う。
読んで下さってありがとうございます。もうちょい続きます。
2022.6.11 山藤