特製チーズタルト事件・改








軽い足取りで、ピアスは森を歩く。

今回は大きな拾い物もしたし、仕事もうまくできた。
帰り道、猫にも遭わずに済んだ。

ここのところ、怖いくらい絶好調だ。あとは――。

はた、とピアスは足を止めた。
空気の流れが、一部だけ異なっている。


「あれ、アリス? アリスがいる」


確かにアリスの気配がする。
けれど、居場所の特定はできない程度の気配だ。ピアスの位置からは離れている。

何処に居るんだろう。

ピアスは周囲を見回した。
不安定な空気を嗅ぎ取り、妙にそわそわする。

自然と足早になりながら、ピアスはアリスの姿を捜し求めた。
早く見つけないと、と焦燥感すら覚える。

ピアスは素早い身のこなしで、森を駆けた。


「アリス?」


遠目に、求めている少女の姿が見える。

駆けたまま彼女に近づこうとして、アリスの様子がおかしいことに気づく。
アリスは難しい顔をして、食い入るようにひとつのドアに魅入っている。

いや、魅入られているのか。

その足がじりじりとドアに近づき、ためらうように、ドアノブに向かって手が伸ばされる。

ピアスは目を瞠った。
直感的に危険を察して、頭が警報を鳴らす。

アリスが行ってしまう。
ピアスの手が届かない場所に。

考える間もなく、体が動いていた。
疾風のごとく木々の間を抜け、アリスに向けて一直線に駆ける。

細い木の枝がピシリと体に当たったが、そんな些細な痛みを感じている猶予すら、今は無い。


「アリス!」


ピアスは、ドアノブにかけられたアリスの手を、ぎゅっと握りしめた。

今まさに、ドアは開かれようとしていた。

寸でのところだった――と、ピアスは小さく息を吐いた。

ドアは、けして怖いものではない。
だが、今のアリスでは、ドアを開けてはならないのだ。
理由はわからないが、ピアスは何となくそう感じる。

アリスはハッと顔を上げると、ピアスを見た。
ピアスは手を握る力を、更に強くした。


「アリス、駄目だよ。それは駄目」


ピアスは、何度も言葉を繰り返して訴える。


「駄目だよ。ドアを開けたら駄目」


アリスはぼうっとした目で、ピアスを見ている。

夢心地のような、虚ろな瞳。
きっとアリスは今、ピアスを映してはいない。

不安に押しつぶされそうになりながら、ピアスは懸命にアリスに訴えた。


「俺を置いていかないで、アリス」


握りしめたアリスの白い手は、悲しいほど冷たくなっていた。
一体、いつからこうして居たのだろう。
仕事があったから森を離れてしまったけれど――アリスと一緒にいてあげればよかった、と、ピアスの気持ちは沈んだ。


「アリス、アリス。俺の声、聞こえる?」


アリスの反応はない。
ピアスは祈るような気持ちで、両手を重ねた。

どこにも行かないで欲しい。

まだ、自分の傍から離れないで欲しい。
まだまだ喋りたいことはいっぱいあるし、一緒に行きたいところだってある。
教えてあげたいことも、沢山。

呆然自失のアリスと、その手を握りしめるピアス。

どのくらい、そうして居たのだろう。
恐ろしく長い時間だった、とピアスは感じた。

しばらくすると、ようやくアリスの雰囲気が徐々に元に戻っていった。同時に、ピアスの緊張も溶ける。
心から安堵しながら、ピアスはふるふると首を振った。

夢から覚めた直後のようなフワフワとした頭で、アリスは懸命に思考を手繰り寄せた。
その青い目に、はっきりと焦点が戻る。


「ピアス……いつから、そこに」
「俺? 俺はずっと居たよ、アリス」


答えると、アリスは地面にへたり込んだ。

ピアスはおろおろしながら、放心しているアリスの顔を覗き込む。


「どうしたの? アリス。気分が悪い? 悩んでる顔」
「気分は悪くない……けど、悩んでるのよ。多分ね」


だから、こんな所までフラフラと来てしまった。
これが無意識の行動なのだから、なおさら怖い。

沈み込んだアリスの表情を、ピアスは心配そうに見つめている。
どうにかして、アリスを助けてあげたい。


「そっか。アリスは悩んでるんだね。アリスの悩みって何? 俺、解決してあげるよ!」


アリスは悩んでいるという。
その悩みをピアスが解決してあげたら、アリスにこんな顔をさせなくてもすむ。
しかも、アリスに喜んで貰える。

我ながらいい思いつき、とピアスは微笑んだ。

場違いに明るすぎる声に、アリスは目を瞬かせた。


「……ピアスが?」
「うんうんっ! 俺、何でもやるよっ」


大好きなアリスの役に立ちたい。

さあ何でも言ってみて、と言わんばかりの勢いに、アリスはクスリと微笑んだ。
いい感じに気が抜けたのか、アリスの表情に柔和さが戻る。


「じゃあね、ピアスにお願いごとをするわ」
「うんうんうん、何なに? 俺が叶えてあげる!」


ピアスは身を乗り出した。


「美味しいチーズケーキが売っているお店を、知ってたら教えて頂戴?」


ピアスは、きょとんと目を丸くした。


「チーズ? アリス、チーズが好きなの?」
「ええ、好きよ」


答えると、ピアスの目は輝きを増した。


「俺も俺もっ! チーズって美味しいよね。一緒だね、アリスと一緒!」


ピアスはきゃあきゃあとはしゃぐ。
そんな姿を見ていると、ピアスの方が年上だという事実がますます疑わしくなってくる。


「行こう、アリス。俺が連れていってあげる!」
「うん」


ピアスは得意げに宣言すると、アリスを先導する。
ゆらゆらと揺れる尻尾は、誇らしげにふっくらしていた。












二人で森を抜けて、街に出る。

小ぢんまりとした店が立ち並ぶ、穏やかな一画。
そのひとつの店の前で、ピアスは足を止めた。とても可愛らしい外観で、明るい雰囲気のお店だ。


「ここだよ、ここ。俺のおすすめ」
「へぇ……」


アリスの見たことのないお店だった。
もとい、こんな場所に来たことがない。
こんな所にお店があったのか、と感嘆の溜息が零れる。

ガラス越しにも、温かい雰囲気が伝わってくる。
良さそうなお店だな、とアリスは思った。


「ピアスは何がおすすめなの?」
「全部!」
「え」


思わぬ発言に、アリスは動きを止めた。


「ぜーんぶ美味しいよ。そうだ、全部買う? うんうん、それがいい。全部食べようよ!」


ピアスは無邪気に微笑んでいる。
その笑顔に罪はない。罪はないのだが――。


(ぶっ飛ばしたい)


思わず、拳に力が入ってしまう。
アリスは顔をやや引きつらせながらも、なんとか笑顔を取り繕った。


「全部、は……一度には、食べきれないと思う」
「え〜、そう? そうかな? アリス、好きなんでしょう? だったら」
「無理」


遠回しに言ったのでは、ピアスには通じないらしい。
アリスはぴしゃりと切り返した。

この男は、何てことを囁くのだ。

全部買うなんて――ときめくではないか。

一度は夢見ることだ。けれど、何よりも。


(流石にカロリーが……)


すごく気になる。
気にせずに居られる強者な乙女は、恐らくいないだろう。


(男の子だし、そういうのは考えないのかな……意外と運動してるから、そのくらい平気なのかも)


恨めしい。
けれど、強制的な運動――ピアスは時々、ボリスに追いかけ回されて森中を走り回る羽目になる――は、ちょっと遠慮したい。
追いかけ回された直後でもけろりとしているから、実のところ、彼の体力は半端ないのだろう。


「ひとつを選んで買って、大事に食べる方が美味しいと思うの」
「うーん? そう? そうかな?」
「そうしましょう」


ピアスは、今一つ納得がいかないらしい。意外としぶとい。
そんなピアスを強引に説き伏せて、アリスは宣言した。


「それで、戻って一緒にお茶にしない?」
「うんっ。それ、いいね。すっごくいい! 俺、アリスとお茶したいなっ」


アリスが提案すると、ピアスは幸せそうに頷いた。
うまく丸め込まれてくれたらしい、とアリスはホッと胸をなでおろした。

陽だまりのような雰囲気のまま、二人は店に足を踏み入れた。

途端、店内が緊張にざわめく。
畏怖の視線は、ピアスへと注がれていた。


(ああ、そうか……役持ちだから)


だが、ピアスは、役持ちの中でも比較的穏やかな気性の人物だと思う。
恐れられる要因は、他の役持ちに比べて限りなく少ない。

性格……は、一部に難はあるけれど。
所構わず、ちゅうちゅう言うところとか。

そう考えて、アリスは息を吐いた。


(でも、マフィアだったわね)


マフィアという肩書きだけで、世間一般では恐れられても仕方がない。
それは、いたって普通の反応だ。

だが。

気のせいだろうか。
余所余所しい視線は、アリスにも向けられているような気がしてならない。


(……あれ? 私も?)


試しに近くの一人を見つめてみる。
ギクリと表情を強張らせた後、目を逸らされた。
危険なものを見るような目つきが、印象に強い。

これは気のせいでは済ませられない。

アリスは口元を引きつらせた。


(うわあ、気まずい……)


アリスは余所者だ。
基本的に、この世界の大抵の人に好かれる存在だ。


(いや、自分でいうのも恥ずかしいな……)


訂正。
好かれると言われているらしい。

今更ながら、恥ずかしい設定だ。頭を抱えたくなる。

話を元に戻そう。

ハートの世界でも、アリスは特に嫌われてはいなかった。そう思う。
それが今――実感するほど、とは。

マフィアと親しい子、という認識が、すでにこの辺りにも広まっているのだろうか。
別に、間違った噂でも何でもないけれど。

役持ちと親しいというだけで、彼ら顔なしにとっては脅威になり得るのかもしれない。
アリスとて彼らと同じ立場ならば、そういう相手を目の前にして畏怖しないとは言い切れない。

けれど。

やっぱり少しだけショックで、アリスは僅かに肩を落とした。

だが、店の中で落ち込んでいても仕方ない。
さっさと購入して、早く店を出ないと迷惑がかかる。
アリスはショーケースに向き直ると、真剣に検討を始めた。


「……ん?」


そういえば、とアリスは隣のピアスに視線を向けた。
珍しく、ピアスが黙り込んでいる。
ついさっきまで、あんなにはしゃいでいたのに。


「……?」


怪訝に思ったアリスは、俯くピアスに声をかけた。


「どうしたの、ピアス……ピアス?」


言いながら、アリスはギクリとした。
ピアスの目が、見たことがない程に深く沈んでいる。


(どうして……)


見ていて不安になるほどに。良くない予感がして、胸がザラザラする。


「アリス……俺、困っちゃった」
「? 何、を困ってるの?」


ピアスは神妙な眼差しで、アリスを見つめ返してきた。
こうして真面目な顔をしていると、意外と格好良いではないか。たくましくさえ見える。
新発見だなあ、とアリスがぼんやりと考えていると。


「特製チーズタルトと、紅茶のチーズスフレ。どっちにしよう?」


それはそれは大真面目な声だった。







紙袋を抱え、アリスとピアスは歩く。

袋を持つのはアリスの役目だ。
落ち着きのないピアスでは、ケーキが危ない。


「早く戻ってお茶会しよう、アリス」
「ええ、そうね」


今にも飛び跳ねかねないほど、ピアスはうきうきとしている。
その無邪気さは、見ていて微笑ましい。

自分は中途半端だ、と思い知らされる。
アリスは、子供っぽくも大人っぽくも振舞えない。


「あ」


ピアスは突然、立ち止まった。
大きなグリーンの瞳が、じいっと一点を見つめる。

思わず、アリスもピアスの視線を追う。
ピアスは、細い路地を見ているらしかった。

何の変哲も無い、ただの寂しい路地だ。

一体、何があるというのだろうか。
不思議に思ったアリスは、首を捻った。


「ちょっと待っててね、アリス! すぐ戻るから」
「うん」


ピアスは急ぎ足で、たたたっと駆けていく。

アリスは大人しく待つことにした。
視線は、自然とピアスに向かう。
転ばなければいいけど、と姉のような母のような心境になり、アリスはクスリと笑った。


(あれ? あれは……)


無人のように見えた路地に、人影があった。

彼らのことは、アリスもよく知っている。
ブラッドの屋敷で働いているメイドさん達だ。
彼らの特徴的な装いは、街中でも目立つ。

ピアスは彼らと二言、三言ことばを交わすと、くるりと向きを変えた。
アリスが目を離した隙に、メイド達の姿は綺麗さっぱりと消えていた。


「お待たせっ」
「ううん。……何を話していたの?」
「話? ああ、あのね、仕事の話。次の仕事の話だよ」


ふぅん、とアリスは気の無い返事をした。
ピアスは、それ以上の話をしてこなかった。

ピアスの方からあまり喋らないということは、聞いて欲しくないからなのだろう。
アリスはピアスの仕事を知っている。
だから、言われなくても十分に予想はできた。

きっとまた指示を受けて、何処かへ――指示しているのは、ピアスの方に見えたけれど。

胸に芽生えたわずかな違和感は、すぐに溶けて消えていった。






挽きたてのコーヒー豆で、丁寧にコーヒーを入れる。
香ばしい香りは、それだけで心を豊かにしてくれる。
自分用に紅茶を用意することも忘れない。

アリスは二つのカップをそれぞれの前に並べると、紙袋からケーキの箱を取り出した。
買ったばかりのケーキを、慎重にお皿に移す。

悩んだ挙句、購入したのはチーズタルトの方だった。
チーズスフレも捨てがたいと思ったけれど、こちらのタルトは時期によって、上のフルーツが変わるらしい。
上にたっぷりと乗せられている色とりどりのフルーツは、目にも鮮やかだ。
イチゴにマスカット、そしてベリーが二種類。
それらが薄い膜のゼリーでキラキラと宝石のように輝いていて、見ていると心が躍った。

危ういバランスで美しさを保っているケーキ。
これを突き崩してしまうのは、非常に勿体ない気がした。
かといって、崩さぬようフルーツだけを食べ進めるのは邪道すぎる。

アリスの葛藤を知ってか知らずか、ピアスはお構いなしに、グサリとフォークを突きたてた。
口に運び、ニコニコと嬉しそうに食べる。


「……」


子供のような笑顔に、気が抜けた。
アリスはフォークを持ち直すと、ケーキの一角を小さく崩した。
タルト生地は脆く、サクサクと崩れていく。こぼさないように、そっと口に入れる。

肝心のチーズ部分は、薄めの層と、厚めの層で出来ていた。
違う種類を使っているのか、チーズの風味がそれぞれに違う。芸が細かいな、とアリスは感心した。
甘さもちょうど良く、フルーツとうまく調和している。


「美味しい」


素直な賛辞がこぼれる。
もやもやした気持ちも、甘さと一緒に溶けていくようだ。


「うん、すっごく美味しい。美味しいね!」


ピアスも上機嫌だ。
語尾に音符がついてもおかしくはないほどに。

ケーキをぺろりと平らげたピアスは、一緒に買ったチーズクッキーに手を伸ばした。
アリスにも、とひとつを手渡される。

アリスは促されるままに、一口齧ってみた。
チーズの塩味が効いていて、これも美味しい。


(作り方、教えて貰おうかな……でもあの様子じゃ、無理かな)


露骨に怯えられた。

こちらから近づいて怖がらせることもないか、とアリスは息を吐く。
聞かずとも、試行錯誤したらいいことだ。

今度、ピアスの為に――ピアスとのお茶会の為に、作ってみよう。
しばらく菓子作りから離れていたせいか、妙にやる気が沸いてきた。

二人で、他愛のない話に興じる。
今日は、お喋りではなく、ケーキを楽しむお茶会になってしまった。
こういうのもたまには良いだろう。


(いい天気だし)


文句なしの穏やかな時間だ。
悪い天気は、この国に来てからというもの、一度たりともお目にかかったことがないけれど。


(悪い天気……とんでもないことになりそうだから、良い天気で上等だわ)


ひょっとしたら、またアリスの想像を超えることが起きるのかもしれない。


「ね、ピアス。天気が荒れることってないの?」
「天気が荒れること?」


何故そんなことを聞くのだろうか、とピアスは聞き返してきた。ピアスはしばらく考え込んだ。


「ある……かな。うん、あるよ。天気が荒れることはあるんだ。でも、本当にたまーにしかならないよ」
「そうなの」


曖昧な答えに、アリスは不満を覚えた。
けれど、ピアスを責める気はない。


(たまーに、か)


何せこの世界では、急な突風すら吹かないのだ。曇ることもない。
常に概ね晴れていて、風はほとんど無く、気温も変化なし。


「アリス、天気が荒れて欲しいの?」


ピアスは食べる手を止めて、じーっとアリスを見つめている。


「ん……いや、そういうわけじゃないけど」
「そっか、よかった」


否定すると、ピアスはホッとしたようで柔和に笑った。せっせと食べることを再開する。


「え、よかったって……どういう意味で?」


ピアスの反応がよくわからない。


「ええとね、天気が荒れるのは、あんまり良くないことなんだ」


口をもごもごさせながら、答えてくれる。
だが、アリスには飲み込めない。


(よく分からないな……)


この世界の仕組みは複雑怪奇だ。
アリスが知らないことは、まだ多くあるのだろう、きっと。

この世界にずっと居ることになるのだから、アリスはもう少し突っ込んで知った方がいいのかもしれない。
若干の勇気は必要だが。

ピアスは時々、思いがけずにアリスに真理をくれる。
知ってはいけないことは教えてくれないけれど、疑問をぶつけるには良い相手なのかもしれない。

何より、彼と共にいて気が安らぐ自分がいる。
すぐにちゅうちゅう言うから、気を緩めてはいけないけれど。

今は後ろめたい想いの方が勝るから、しばらくはアリスの胸に秘めておくつもりだ。

ピアスに、危ういところを救い上げられたことが何度もある。
初めて会った時もそうだったし、この前も――この前は、かなり危ないところだった。

何故、ドアを開けようとしてしまうのか。

アリスは自ら望んでこの世界に留まっている。
だから、どこか別の場所へ行きたいなんて思ったことはない。

思うのは、遊園地のこと。
元の世界に居る姉のこと。
そして、この場所。

一番いきたい場所が何処なのか、知るのが恐ろしい。
ドアを開きたくない。見たくない。
きっと、抗えないだろうから。

だから止めてくれたピアスには、アリスはとても感謝しているのだ。








時間帯が変わった。

辺りが薄闇に包まれる。
ぬくぬくとした空気が、次第に落ち着きを取り戻して冷えていく。


「さて、と」


区切りがいいから、これでおしまいにしよう。
名残惜しいけれど。

アリスが片づけを始めると、ピアスも素直に手伝いに参加した。
テーブルを拭いて、これにて閉会だ。


「すごく楽しかった。楽しかったね、アリス」
「そうね、楽しかった」


おかげさまで、ほんわかした時間が過ごせた。
これもピアスの人柄のおかげだろう。
ピアスは時々――いや、よく困ったことを言うけれど、帳消しにできる程に、アリスの癒しになっている。

アリスは立ち上がると、何冊かの本を手に抱えた。
全てブラッドからの借り物だ。


「あれ? 何処かに行くの? アリス」
「ブラッドのところ。本を返しに行ってくるわ」


夜の時間帯のほうが、ブラッドの機嫌も良いのだ。
頼みごとをするには、し易い方が良い。

夜に異性を訪ねるという事実からは、目を逸らしておくことにする。

ピアスは心配そうに眉をひそめた。


「夜道は危ないよ、アリス」
「……気をつける」


特に、足元に。

ついこの前も、アリスは夜に外出した。
その時、みごとに木の根に引っかかって転んだことは、まだ忘れてはいない。しばらく忘れられそうにもない。


「大丈夫よ、ピアス」


それでも、ピアスはしばらく渋っていた。
が、急に耳をピンと立てた。

いいことを思いついた、と、その表情が明るくなる。


「そうだ、俺も帽子屋屋敷に行くっ!」


アリスは驚いて、二度三度と眼を瞬かせた。


「珍しいのね。ピアスも誰かに用事があった?」


ピアスはこくこくと頷く。


「うんうん、えりーちゃんにね、用事があるんだ」
「エリオットに?」
「うんうん、えりーちゃん」 


ピアスは嬉しそうに繰り返した。

エリオット以外にはあり得ないだろうな、とアリスは勝手に納得する。
ブラッドやディーやダムには、たとえ用事があったって近寄ろうとしないだろう。きっと。

二人で夜道を歩く。

暗い木々に、うっかり飲み込まれそうになる。
枝の隙間から差し込む月光を頼りに、足元に注意しながら歩く。


(光源を……カンテラか何か、そろそろ買わないといけないな)


いつも思うのだが、夜は大抵、アリスは就寝しているのだ。
出歩くことが滅多にないから、うっかり忘れてしまっている。
次の勤務が終わった後、帰りに何処かで購入しよう。

それにしても。

アリスは、隣を歩くピアスを横目で見た。

同行者がいると、心強い。
鼠だから夜目がきくのだろうか、ピアスの足取りはしっかりしていて、羨ましいほど迷いがない。

ピアスとならば、森の道も怖くはない。
ドアの群生も、囁きも。聞こえない振りをして抜け出すことができる。

そういった意味でも、アリスにとってピアスは貴重な存在だった。

森を抜けると、ぽつぽつと灯りが増え始める。
密かに安堵の息を漏らしながら、アリスの足取りは軽くなった。



 



屋敷の門前に、エリオットはいた。
人を待っている様子で、門にもたれかかっている。葉巻を咥え、のんびりと煙を燻らせている。

その姿が存外さまになっているので、アリスは驚いた。
危惧していた双子の姿はないから、いまは勤務時間外なのだろう。アリスは胸を撫で下ろした。

双子が居た場合、ピアスが怯えてしまわないかと心配だったのだが――杞憂に終わって本当に良かった。


「えりーちゃん!」


突撃しそうな勢いで、ピアスは駆け出した。
勢いに任せて抱きつこうとした寸前、エリオットの手がピアスの頭をしっかりと掴んで固定する。
ピアスの目論みは阻止された。


「来たか。アリス、久しぶりだな」
「こんにちは、エリオット」


エリオットはアリスの姿を認めると、にかっと笑った。


「暮らしに不自由してねえ? あんたなら、いつでもこっちに移ってもいいんだからな」


アリスは微笑んで返す。
彼の率直な親切さは温かく、ありがたい。


「ありがと。でも、大丈夫よ」
「そうかー? 妙な遠慮すんなよ?」
「うん」


アリスは頷いた。
確かに、妙齢の女性が森暮らし、というのはあまり推奨されることではないのだろう。

けれど、森を移る気にはなれなかった。

森は、ちゃんとした居住地――とはいえない。
不便さも確かにあるし、何よりも、ドアの群生はアリスにとって脅威だ。


(自虐趣味でもあるのかな)


薄っすらそんな予感がして、アリスは苦笑いを浮かべた。
森から他へ移らない理由は……何なのだろう。

かつての遊園地面子だった、ボリスがいるから?
他へ移ったら、ゴーランドに悪いような気がするから?
生命の危機のある――主にボリスによって――ピアスが放っておけないから?

地を離れた後に『引越し』が起きてしまったら、自分はどうなるのか――また弾かれる羽目になるのか、不安だから?

どれも当たっているように思えるが、外れている気もする。自分でも良く分からない。

きっと、何処にも属せないのなら、何処に居たって同じことなのだろう。
それがアリスには哀しかった。

エリオットのように、他の皆も、アリスが不自由してないかと気を使ってくれる。
それが少し、嬉しいのかもしれない。


(そうだとしたら、ひねくれすぎてる……)


自分が残念すぎる。

アリスは考える事を止めた。
なるべく明るい声で、エリオットにたずねる。


「ブラッドは居る?」


エリオットは頷いた。


「ああ、居ると思うぜ。たぶん部屋に居るだろ」
「わかったわ、ありがとう」


またブラッドに本を借りよう。
考える暇もないくらい、本の世界に浸りたい。

自らの暗い考えに囚われてしまわないように。

今まで一生懸命に頑張っていたピアスは、パッと顔をあげた。


「またね、アリス。俺、えりーちゃんに話があるから」
「ええ。またね、ピアス。エリオットも」
「おう」


鼠と兎に囲まれる時間は、切り上げられた。
にこやかに二人と別れたアリスは、屋敷への道を歩き始めた。





   


===== あとがき ===


2008年12月発行の、「特製チーズタルト事件」より。
当時、書いててお腹がすきました。
クローバーが舞台です。まだピアス→アリスな感じ。

長かったので分けました。後編もどうぞー。