彼はいつだって唐突だ。
何の前触れもなく現れたと思うと、唐突に不可思議な話を始める。
そうして、アリスを混乱に陥れたまま、嵐のように去っていくのだ。
そう、いつだって。
今も。
眠りネズミの眠れない日々
「ねえねえ、アリス。アリスは、どうして俺と一緒にいてくれるの?」
しばらくぶりに会った、第一声がこれだ。
コーヒーを淹れる手が、ピタリと止まる。
「え? ……」
アリスはピアスに会うために、森を訪れていた。
ここのところ、宿での仕事が忙しかった。
久しぶりの休憩を使って、確かに、こうして訪ねてはきたのだけれども。
「そんなに私たち、一緒にいる?」
アリスが質問で返すと、ピアスはこくこくと頷いた。
「うん、俺たち一緒にいるよ。ほら、今だって、君は俺と一緒にいてくれる。それにね、君の方から、俺に会いにきてくれた」
「うーん……」
アリスの方からピアスに会いに来ている、ということは認める。
現に今も、そうやって二人は一緒にいる。
(でも、そんなに?)
改めて言われてみれば……と、指折り数えてみたのはいいけれど。
(別に、特別多く一緒に居るわけじゃないと思うんだけどなあ)
特に理由があるわけではない。
アリスは、ボリスや他の領地の人たちとも会っている。大事な友人だった。
けれど、ピアスほど、心を占める人はいない。
仕事をしていても、不思議とピアスの顔が浮かぶのだ。
ボリスに苛められていないだろうか。
双子に追い回されていないだろうか。
ちゃんと眠れているのか。
ピアスは男性だ。
しかも、アリスよりも少し年上の。
だから、アリスがこんな心配をするのは杞憂だろう、と一笑してしまいたいところなのだが――理性ではわかっているが――。
どうにも、ピアスに関しては、そうとは言い切れないところがある。と、アリスは思っている。
ピアスが気がかりで、会いにきた。
そのことは事実だから、言い訳はしない。けれど。
(ひょっとしたら……)
ひょっとすると。
ひと際、大きな鼓動の音がした。
アリスが勝手に、ピアスと会う口実にしていたのではないか。
(……えええええ!? わ、私って)
まさか、そんな筈が。
頭をかきむしりたい衝動に駆られたが、ピアスの手前、なんとか抑えることができた。
アリスは動揺を隠しながら、作った笑顔で誤魔化した。
「そう、かしら。ピアス」
ピアスは大きく頷くと、ぐっとアリスに詰め寄ってきた。
「うんうん、そうだよ。俺と一緒に居てくれるのって、アリスだけだよ? アリスだけなんだ。なんでなんで?」
会話するには、距離が近すぎやしないか。
アリスは思わず後ずさりしていた。
「ど、どうしてそんなこと聞くの?」
「うん? えっとね」
せっかくアリスが開けた距離を、ピアスは悪びれもせずに詰めてくる。
(こんなに近いと、話がしにくいでしょうに)
アリスはそう思ったのだが――実際、アリスは話がしにくいのだが、ピアスはそうでもないらしい。
ピアスは「うーん」と考え込んでいる。
その様は、アリスの目に可愛らしく映る。
(和むなあ……)
元の世界でネズミを飼ったことはないが、目の前のネズミは愛らしい。
不意に、ピアスが顔をあげた。
訝しげな顔をして、アリスを見る。
「俺ね、俺……ちょっと最近、変なんだ」
「変? 変って……どういう」
「俺、アリスが来たって思ったら、すっごく嬉しくて、でも、アリスが帰っちゃう時は、すっごくきゅうってなる。俺がこんな風に思ってるの、駄目? 嫌?」
打ち明けるように静かに告げられ、アリスは戸惑った。
静かなピアスに、どういうわけだか――アリスは気圧されている。
「あ、りがとう……」
アリスが何とか言葉を絞り出すと、ピアスはくるりと雰囲気を変えた。
「ねえ、どうして? どうして俺、こんな風になっちゃうのかな?」
心底わからない、とピアスは首を捻っている。
「ピアスは、嫌だったの?」
少し寂しくなってアリスが聞き返すと、ピアスは目を丸くした。
「えええええっ!? そんなことない、ないよっ! 俺、アリス好きだもん! 何でそんなこと聞くのっ!?」
「な、なんでって……」
とんでもないことを言わないで、とばかりに勢いよく捲くし立てられて、アリスは面食らった。
何で、と、こちらが聞きたい。
「急に……ピアスが、私が一緒に居ちゃダメみたいに言うから」
「ええええええ!?」
ピアスは大げさに驚いている。
いや、彼はわざとオーバーリアクションをしているわけではない。
これが彼の素なのだ。素……だと、アリスは思っている。
「俺、そんなこと言わないっ!」
「言ってはないけど、だって……どうしてって、聞くのは何故?」
どうして、どうしてと互いに応酬する。
傍から見て、ひどく滑稽な会話だろう。
「どうしてって……だってだって、分からないんだもん、俺」
ピアスはしゅん、と項垂れた。
と思ったら、パッと表情が明るくなる。面白いぐらい、表情がくるくる変わる。
「あ。そうか……アリスは俺のものだから、一緒にいるのかな?」
「あんたのじゃない」
アリスはぴしゃりと返したが、それしきのことではピアスはめげなかった。
「でもでも、アリスは俺のものだよ。俺が拾ったんだからね」
「……はあ」
毎度毎度訂正するのにも飽きたし、ピアスは改めようとしないので、もうそのままにしておくことにした。
「アリスと一緒。アリスと一緒。へへっ、嬉しいな」
くるり、とピアスは無邪気に回る。アリスにはない無邪気さだ。
二度三度と回って気が済んだのか、ピアスははしゃぐのを止めた。
そうして、今度は不思議そうにアリスを見つめてくる。
「でも……どうしてアリスは俺と一緒にいるの? 俺、嫌われてる、汚れたネズミだよ?」
「ピアス」
これまでにも、何度かされた質問だ。
覚えていないのか忘れてしまったのか分からないけれど、ピアスは真剣そのものだ。
「……確かに、仕事内容はちょっとアレだけど、あなた自身が汚れてるなんて、思ってないからね」
アリスは、決まって同じ答えを返す。
すると、ピアスはとても喜ぶのだ。
(って、嘘ついてるわけじゃないけど)
ピアスの喜ぶ顔が見たいから、そう答えるわけではない。
アリスが思っているままを口にしているだけだ。
ピアスは、ふわりと表情を緩めた。
「アリスは優しい子。いい子。俺、君を拾ってよかった」
優しい声で、嬉しそうに笑う。
その笑顔に、アリスは小さな違和感を覚えた。
(あれ? いつもと……ちょっと)
違う気がする。
気のせいかもしれない。
この胸がやけに高鳴っているのも、きっと気のせいに違いなかった。
可愛いアリスを目の前にして、ピアスの心は弾んでいた。
住み慣れた森が、今は違った景色に見える。
嫌われ者のネズミでも、アリスに好かれることができたと、自慢して回りたい。
さあ、誰に――。
ピアスはふと、黙り込んだ。
「……俺」
自分は皆から嫌われている。
アリスは皆から好かれている。
「ピアス? どうかした?」
嫌われ者のネズミと、余所者の女の子。
「アリスは、俺と一緒に居たら駄目かもしれない……」
「え」
アリスの声は戸惑っている。
可哀想だ。
ああ、なんて可哀想なんだろう。
「だって、俺はネズミだもん。だから、俺と一緒に居たら、アリスも嫌われちゃう」
一人ぼっちの女の子を、さらに一人ぼっちにさせてしまう。
「アリス、俺っ……!」
一緒にいるところを、誰かに見られたら。
アリスは、ボリスからも庇ってくれる。
ボリスはアリスを好きだから、ボリスに嫌われない限りは、アリスが彼から危害を加えられることはないだろう。
けれど、ボリスは猫だ。
猫は気まぐれな生き物なのだ。
アリスはちっちゃいし美味しそうだから、猫が狙わないなんて保障はない。
もし、アリスが猫に追いかけられる羽目になったとしたら。
猫に追いかけられたら、きっとアリスは捕まって、食べられてしまう。
「俺……」
嫌だ。
そう思うよりも先に、体の方が動いていた。
「ピアス!」
背後から戸惑う声が聞こえてきたが、ピアスの足は止まらなかった。
場に残されたアリスは、呆然と立ち尽くす他なかった。
展開についていけない。
「……行っちゃった……」
呟く声が、自分のものでないようだ。
「……」
ピアスが何を考えて、どうして駆けていったのか。
会話の前後を辿ってみても、アリスにはさっぱり見当がつかなかった。
ピアスは真剣な顔をしていた。
真剣に何かを考え――おそらく、ぶっ飛んだ方向に思考がいき――彼なりの判断をし、離れた。
「え〜……」
彼の思考は特に突拍子もないので、アリスにはなかなか彼に沿うことが出来ずにいる。
けれど、良い方向にむかっているのではないことぐらい、アリスにも理解できた。
(ピアス)
急に不安になり、アリスは落ち着きなく周りを見渡した。
深い森で、アリスは独りだ。
妙齢の婦女子が独りで森にいるなど、かなり特異なシチュエーションだ。
よくあるホラー小説の始まりか、もしくは、これで狼でも出れば完璧に――物語の舞台として整っている。
ピアスやボリスがいるから一人でも平気で森に来られたのだ、と、アリスは今更ながら気がついた。
(怖い)
森は、冷たくアリスを見下ろしている。
ピアスがニコニコと笑って待っていてくれるから、森を怖いと感じたことがなかった。
ピアスがいるから、ドアの群生が待ち構えていようとも、耳をふさいですり抜けてしまえる。
でも今は、アリスは独りで――初めて、森を怖いと思った。
「ピアス……」
うっかり口から飛び出た言葉で、アリスは我に返った。
自分を疑った、といった方が正しいかもしれない。
(……何て声を)
アリスの心を冷やすような声。
木の陰に怯えるような純朴さは持ち合わせていないくせに、と急に頭が冷静になり、感じた恐れすらも退けてしまえる。
そんな、誰かに追い縋るような、弱々しい声だった。
何でこんなことになったのだろう。
アリスは自問自答する。
ピアスとは、クローバーの国になって初めて会ったばかりだった。
他の役持ちと比べて、彼との付き合いは短い。
短いのだけれど、親しくなるのに時間はかからなかった。
彼を見ると、心がふわっと開いていくのが、自分でも分かるのだ。
(やばい……)
いつのまに、こんなにハマってしまったのだろうか。
(油断していたことは確かね)
ピアスのせいだ。
ピアスがあんな風だから、つい守ってあげたくなってしまって、どうしても放っておけなくて、気がつけば。
気がつけば、こんなにも、アリスの心に入り込まれていた。
「……わあ」
本当にもう、『わあ』としか言いようがないではないか。
アリスは、ピアスを――ネズミを好きになろうとしている。
(で、でも、ピアスって……ネズミだけど、ネズミに見えないし)
可愛い弟……というのでもないのだ。
帽子屋ファミリーのディーとダムは、何となく『弟』みたいだと思うのだけれど。
何らかの理由をつけたくなっている自分がいることに、アリスはがっかりした。
理由というか、むしろ言い訳を探している。
好きになった言い訳。
好きになりたくない言い訳。
そのどちらも。
どうも自分は、深い理由がないと、人を好きになってはいけないと思っている節がある。
(前は……こんなこと、考えたことがなかったのにな)
好きだから、好きになった。
ただそれだけでいいじゃないか、と言い張れるほど、あの時より、アリスは素直ではない。
(素直に……なれる? もう一度?)
とても難しいことのように思えたけれど、ここは幸いワンダーランドで――森の中だ。
ここでなら、何を思っても許されるような気がして、アリスは目を閉じた。
ピアスは違う。
ピアスは特別に――。
思考を遮るように、カサリ、と足もとで音が鳴った。
(ん?)
アリスが足もとに目をやると、靴の先が真っ赤な枯れ葉を踏みつけていた。
(枯れ葉……)
珍しいものを見たかのように、アリスは目を瞬かせた。
アリスは葉から慎重に足をどけると、しゃがみこんだ。
踏みつけたばかりのものを、まじまじと見つめる。
そういえば。
(この森って……枯れ葉、あんまり落ちてなかったような気がする)
数枚は、ある。
ディスプレイのように地に『落ちている』枯れ葉ならば。
けれど、こんなに赤い葉を――血のように赤い枯れ葉を、アリスは見たことがなかった。
(この辺りに、こんな紅葉してる木があったかな?)
上を見上げてみるが、青々とした木ばかりが見える。
赤く染まった木は見当たらない。木は、見当たらないのだけれど。
「……あれ?」
アリスはぽかんと口を開いた。
赤い枯れ葉は、他にもあった。
アリスを誘うように、道に沿って点々と落ちている。
「気づかなかった」
アリスはぽつりと零した。
(さっきまで、あったかな??)
これほどまでに目立つ赤が、目に入っていなかったというのか。
赤とはいっても、どこか不安を煽るような赤だった。
確かに美しい色はしているけれど、毒々しい雰囲気すらある。
「見落としてた……?」
疑念は湧くものの、否定してしまうには確証がもてなかった。
森の奥深くへと続く、赤い標だ。
ピアスが去っていったのと、同じ方向の道。
「……辿っていけば、ピアスがいる?」
馬鹿らしい、そんなことある訳がない――頭はそう考えてしまうのに。
(もしかしたら……)
ぼんやりとした頭のままで、アリスは立ち上がった。
ふらりと一歩踏み出してから、足が棒のように止まる。
(……いま、私、何をしようとしてる?)
赤い誘惑に惑いそうになっている。
先にピアスがいる、という保証もないのに、ふらふらと歩いていきそうになっている。
ざわりと背筋が寒くなった。
悪寒がするわけではない。自分の行動が寒い。
「……馬鹿みたい」
アリスは深くため息を吐くと、赤い道に背を向けた。
眠れない。
ピアスは、あわあわと焦っていた。
あわあわ、おたおたと。視界がぐるぐるする。
「どうしよう、どうしよう……っ!」
自分のせいで、アリスが嫌われてしまったらと思うと、眠気も吹っ飛んだ。
いまは眠っている場合ではない。
考えなくちゃいけない。
ベッドに横たわったものの、ピアスは眠れずにいた。
ここはピアスの部屋だ。
猫もいないし、数時間帯くらいは熟睡できる筈――その筈だった。
けれど、思い浮かぶのは、アリスのことばかりだ。ちっとも眠れやしない。
思考がポロポロと口をついて出る。
「アリスは俺のものだけど、アリスが嫌われちゃうのは可哀想……うん、可哀想だ」
ピアスは、嫌われることには慣れっこだ。
ネズミは嫌われるもののようだし、何より、自分は汚れている。
嫌われても仕方ない、と思っている節がある。
けれど、アリスは――違う。
彼女はとても綺麗なのだ。
あんなに綺麗なのに、ピアスと一緒にいるというだけで、他から嫌われてはたまらない。
勿論、そんなつまらない理由でアリスを嫌うような連中は、ピアスが始末してあげるけれど。
それでもきっと、アリスは悲しむだろう。
アリスは優しくてやわらかく、とても傷つきやすい生き物だ。
これはいけない。いけないことだ。
ピアスを、唯一――ただ一人、嫌わないでいてくれる、変わり者の女の子。
彼女は、この世界の全てから大事にされるべきなのだ。
出会った当初の、彼女の顔を思い出す。
進むべき道を見失い、どこか泣きそうな顔をしていた、迷い子。
あの時、ペーターは何をしているのだろう、とピアスは思ったのだ。
「ぺたちゃんは案内人なのに」
心細いアリスは、誰かが先導してあげなくてはならないのに。
そして、それはペーター=ホワイトの役割でもある筈だった。
案内人の居ないアリスはドアに惑い、翻弄されていた。惑うということは――。
「アリスは道がわからない、可哀想な子。迷子」
アリスには、ドアを開けることができない。
それでいて、迷っている。
迷いがあるから、どこにも進めない。
ドアの声が聞こえるということは、そういうことだ。
今となっては、ペーターよりも先にアリスを拾うことができてよかった、と心から思う。
「可哀想な女の子。迷子の女の子。俺がしっかり守ってあげなくちゃ」
アリスの細い腕を、首を、足を、思い出す。
ピアスはネズミだから、けして強くはない。
けれど、そのピアスですら、アリスを害するのは易い筈だ。
アリスが来てからというもの、森での生活は一挙に楽しいものとなった。
ボリスという最凶な――とても凶悪な生き物はいるけれど――それを差し引いても、アリスが居てくれるだけでピアスは嬉しい。
アリスはピアスに優しかった。
それだけで、ピアスは嬉しかったのだ。
だから、守る。
アリスだけは、たとえ猫が邪魔をしてきたって、守らないといけない。
短絡的な思考のように見えて、ピアスなりの、真剣に考えた結果だった。
アリスは余所者で、他の役持ちとも友好的のようだ。
だから、自分がアリスに寄り付かなければ、きっとアリスが嫌われることもない。
アリスの為に、自分がもっと、我慢しなければならない。
傍によらないように――けれど。
「でもでも、傍にいないとちゅうができない……それって嫌だな。すっごく嫌だ」
それが一番の問題だった。
ピアスにとって、とても重要なことだ。
先ほどよりも、より真剣な顔で、ピアスは小さく唸り声をあげた。
「そっか、そうだ。わかった。いいこと思いついた。俺、わかったよ、アリス」
アリス。
声だけが、いつものように無邪気だった。
===== あとがき ===
2010年8月発行の、「in the Dark Forest」より。
「夏っぽいもの」をテーマにした合同誌でした。
長かったので、いくつかに分けました。もうちょい続きます。