Find Out








アリスとピアスは、連れ立って歩く。
二人きりだ。他には誰ひとりとして、すれ違わない。

どのくらい経ったのだろう。
もう、結構な距離を歩いたような気がする。

上機嫌で元気なピアスとは対照的に、アリスは終始そわそわと落ち着かなく――とあることが、気になって仕方がなかった。


「楽しいなっ、アリスと一緒だと、すっごく楽しい!」


はしゃぐ彼の声も、今のアリスの胸には痛いだけだ。

もう限界だった。
たまりかねたアリスは、思いきって口を開いた。


「……ねえ、ピアス?」
「ん? なになに、どうしたの? アリス」


ピアスはいつもと変わりない。
その事が、今は少し恐ろしい。
笑顔は邪気がない。ただ、血まみれなだけで。


「その……その人、どうするの?」


その人、とピアスの左手の先に、視線を投げかける。
あまり直視していたくはなかったので、アリスはすぐに目を逸らしてしまった。

ピアスは、自分の左手に視線を落とした。
そうしていくらか考えた後、ピアスはのんびり答えた。


「あ、忘れてた」
「〜〜〜〜!」


アリスは声にならない叫び声をあげた。
そのせいでアリスは緊張しっぱなしだったというのに、何という言い草だろう。


(忘れないでよ、そんな重要なこと!)


心の中で、アリスは盛大に悪態を吐いた。
幸いにして、今は、自分たちの他に人が居ないから良いものの、誰かに見られたらどうするのだ。アリスは、さっきから気が気でなかったのに。


(ああ、でもマフィア……だったっけ、ピアスも)


目撃されても、へっちゃらなのかもしれない。けれど。
ピアスはきょろきょろと周囲を見回した。


「んー、この辺でいいかなぁ? ちょっとだけ待っていてくれる? アリス」
「な、何をする気?」


それ以上の、何を。
彼が絶命しているのは火を見るよりも明らかで、もうピクリともしない。滴る血も勢いを無くしている。

戸惑うアリスに向かって、ピアスは平然と言い放った。


「俺、お片づけしなくちゃ」
「お片づけ?」
「そうそう。よいしょっと」


ピアスは『それ』を、ドサリと地面に投げ捨てた。
乱暴な手つきに、アリスは眉を顰めた。

ピアスは自由になった両手で、木の根元を掘り起こし始めた。


「……」


せっせと土を掘り返すピアスの背中を、アリスはぼんやりと眺めていた。
頭の芯が痺れ、ものすごく鈍い。


(死体遺棄……殺人も、か)


こんなことを冷静に考えてしまう自分が嫌だ。
いや、ショックを受けすぎて、一時的に思考回路がおかしくなったのかもしれない。
そうであって欲しい、とアリスは思う。


「うーん、これでいいかな? いいよね」


ぽんぽん、と土を叩く。
出来栄えに納得したのか、ピアスはくるりと振り返った。

にっこりと笑う様は、アリスの目に、土遊びを終えたばかりの子供のように映った。


「終わった。終わったよ、アリス。待たせてごめんね」
「……ううん、いいの」


アリスはそう答える以外になかった。

見慣れている、ピアスの笑顔だ。
今は、背筋に薄ら寒いものが走る。

ざわめく心を何とか押し隠して、アリスは無理に笑顔を作った。


「じゃあ行こうか。アリス!」
「っ!?」


ピアスは、血と泥にまみれた手を、アリスに向かって差し出した。


「へへっ。お片づけしたから、これで俺達、手をつないで歩けるよっ!」


手を繋いでいこう、とアリスを誘うピアスは愛らしい。


(どんなホラーよ!?)


動揺を隠せないアリスは、じりじりと後退する。ピアスはニコニコと迫る。
アリスはオロオロするだけで、声をあげることすらできない。

ふいに、人影があった。
アリスが緊張に身を固くすると、見慣れた明るい色の巻き毛が視界に飛び込んできた。


「おい、ピアス……って、アリス!?」


思いがけない同行者の姿に、エリオットは素直に驚いた。


「エリオット……」


安心しすぎて、泣きそうになる。
アリスが弱々しい声で呟くと、エリオットは急いで駆け寄ってきた。


「アリス、大丈夫か!? 何かあったのか!」
「わ、えりーちゃんだっ!」


奇妙な空気も全く気に留めず、ピアスは満面の笑顔でエリオットの登場を喜んだ。


「俺、ちゃーんと仕事終わらせたよ。ちゃんと片づけしてきた!」


ピアスの口上を聞き流しながら、エリオットは、ピアスとアリスの間に割って入った。


「そうか。って、お前……今、そこに埋めたのか?」
「うんうんうん、そうだよ。だいぶ引きずっちゃったけど」


悪気なく答えながら、ピアスは得意げに頷いた。

エリオットは顔を引きつらせながら、おそるおそるアリスを見た。
アリスの表情が、彼女の氷のような心情を物語る。
エリオットの顔色は、目に見えて悪化した。


「……あんた、見た……よな?」


何も見ていないから平気よ、などと答えてあげることは不可能だった。
アリスは黙ったまま、ためらいがちに頷く。
途端、エリオットの目がつりあがった。


「てめえ、この馬鹿っ! あんなもん、アリスに見せるんじゃねえ!」


ピアスは驚いて目を丸くすると、慌ててアリスに向き直った。


「ええっ!? アリス、見た? 見たの? 見てないよね?」


アリスは今度こそ脱力した。


(何で、見てないなんて思える……)


見ない振りはできたが、それは、見なかったことにはなり得ない。


「見たわよ、ばっちり」


アリスが力なく答えると、ピアスは目を見開いた。


「ええ〜〜〜どうしよう、えりーちゃん!」
「どうしよう、じゃねえよ! アリス、嫌なもん見せて悪かった。ほんっとーに悪かった」


エリオットのまともさに、うっかり感動してしまう。
アリスの凍えた胸に、やっと体温が戻ってきたようだった。

渋い顔で謝るエリオットは、傍できょとんとしているピアスに向かって低く呟いた。


「……お前も謝れ、ほら」
「え? なんでなんで?」


エリオットのこめかみに、くっきりと青筋が浮かぶ。


「……怖がらせといて、この野郎……。ま、お前がアリスにすっっっげー嫌われて構わねえんなら、別にいいけど?」
「!」


ガッと腕を掴まれ、アリスはたじろいだ。ピアスは涙目でアリスに訴える。


「ごめん。ごめんね、アリス! 怖かったの? 俺のこと嫌いになる?」
「な、ならない。ならないから」


ピアスの勢いに動揺しながら、アリスは懸命に首を振った。
そう答える以外に、返答の仕様がなかった。


(怖かったけどね……すっごく)


今後の付き合いをどうしようか、真剣に検討してしまった程度には。

アリスが答えると、ピアスの表情が明るくなった。
本当に、ピアスは表情がくるくると変わる。


「よかったぁ! 俺、アリスに嫌われたくないもの」
「俺だって嫌に決まってる! あー……」


エリオットは、深く深く溜息を吐いた。
やり取りに疲れたのか、背中が丸くなっている。
広い背中には、中間管理職の哀愁が漂っていた。

アリスは労いの意を込めて、その背を軽くポンと叩いた。


「……お疲れさま、エリオット」
「……サンキュー」


わかってくれるか、とアリスに向けて苦笑する。
アリスは頷きながら、エリオットの苦労を想った。


(ブラッドが上司で、ディーとダムとピアスが部下……)


もしも自分が、エリオットの立場だったなら。


(うわぁ)


考えただけでもうんざりする。

エリオットの胃は、いつ穴が開いてもおかしくない状態だろう。
本人はけろりとしているが、エリオットでなければきっと、心労に倒れている。

気を取り直して、アリスはエリオットに話しかけた。


「どうしてエリオットがここに? 仕事?」
「ああ、仕事だ。ここで、一度こいつと落ち合う予定だったんだが……」


判断を間違ったな、とエリオットは溜息を零した。


「で、どうだった? ピアス」
「うーんとねー」


ピアスは、そのまま語りだしそうな勢いだった。

そのまま。
アリスの前で。

エリオットは、すかさずピアスの首根っこを掴んだ。


「……こっちこい。小声で話せ」
「うんうんうん、そうする! 俺、そうするよ!」


苛立ちを抑えるように、エリオットは息を吐いた。
アリスから少し離れた位置にある、木の下へ移動する。

トコトコとついて行きかけて、ピアスは思い出したようにその足を止めた。


「あっ!」


唐突に声を上げ、くるりとアリスに体を向ける。


「ねえねえ、アリス、アリス」
「うん?」


ピアスの無邪気さにも、もう動揺しない。
エリオットのおかげで、アリスの心は平穏を取り戻しつつあった。


「俺、あれから抜き取ってたっけ?」
「な、何を?」


こちらに話を振られても困る。
しかも、ピアスの言い方は要領を得ない。


「手紙だよ、手紙。俺が持っていないから、どこにやったんだろうって思ったんだ。アリス、知ってる?」
「手紙……」


血が滲んだ手紙。
アリスはぎくりとした。


「……知らないわ。見ていないもの」


口が勝手に動いていた。
口にしてから「しまった」と思ったが、もう手遅れだった。

ピアスは、アリスの言葉を疑わなかった。
「うーん」と小さく唸りながら、首を傾げる。


「そっかあ。どこかで落としちゃったのかな?」
「掘り起こして、確かめてみたら?」


もう、アリスは見たくないけれど。


「ああ、一緒に埋めちゃったのかな……うーん……掘り起こすのって面倒だなぁ。すっごく汚れちゃう。でも、仕方ないよね」


ピアスは素直に、埋めたばかりの遺体を掘り起こしにかかった。

アリスはぼんやりとした頭で、その背をただ眺める。
視線を背中に意識を集中させ、手元は見ないようにした。


「あんた」


エリオットに声をかけられて、アリスは現実に引き戻された。


「な、何?」


アリスが聞き返しても、エリオットはすぐには答えなかった。
悩む素振りを見せた後、ぽつりと呟く。


「いや……気のせいかな」
「何が? 気になるじゃない、そんな言い方」


嘘を気取られまい、と思いつつも、アリスの心はしっかり動揺している。
それでも言おうか言うまいか悩んだ末、エリオットは口を開いた。


「それもそうか。……ちょっとだけ、あんたから血の香りがしたんだ」


アリスは目を丸くした。
何という嗅覚の良さだろう。

違和感の正体を掴みあぐねているのか、エリオットはいつになく迷う口ぶりだった。


「……この辺り一帯に漂ってない? それ」


先ほどから、むせかえるような鉄の匂いが周囲一帯を包んでいる。
アリスが指摘すると、エリオットは軽く頷いた。


「あー、そうかもしれねえ。あんたの血の匂いでもねえしな、これ……怪我はしてないな?」
「してないわ」


アリスが首を振ると、エリオットはホッと息を吐いた。


「そっか、よかった……もし、こいつがあんたに怪我させてたんなら、こいつ〆てやろうと思ったけど」
「ぴっ!?!?」


ピアスは、尻尾を盛大にふくらませた。


「おおお俺! アリスに怪我なんてさせない! させないよ!」


わたわたするピアスの頭を、大きな手でぐいっと抑える。


「わーかってるって。冗談だ」
「はは……」


和やかなやり取りに混じりながら、アリスの心は暗く落ち込んだ。


(どうして、隠しちゃったんだろう)


アリスのポケットに、手紙はある。

おそらく――ではなくて、これが、ピアスが言っていた代物だろう。
アリスは、帽子屋屋敷に滞在している身だ。
だから、考えるまでもなく、この手紙は隠さずおくべきだと理解できるのに。

あの必死になって託した目が、焼きついて離れない。


(誰に渡せばいいのか、聞けなかった)


それは少なくとも、エリオットやピアスではないことは確かだった。


「エリオット、ディーとダムを見なかった?」


話題を変えようと、アリスはエリオットに話しかけた。
『ディーとダム』に反応したピアスは飛び上がって、ぷるぷると震えだした。


「!? 双子っ!? 双子がいるの!?」
「いや、居ないと思うんだけど……」


青い顔のピアスを宥めてやりながら、アリスは考え込んだ。


(……居たらどうしよう)


完全に否定はできない。ここにはエリオットも居る。
休暇だと言っていたが、仕事が入るということも十分に有り得るのではないだろうか。

エリオットは不思議そうに目を瞬かせた。


「んー、あいつらなら、休暇だと思うぜ。どした?」
「あのね……」


アリスは、事の顛末を話して聞かせた。
素直に聞き入るエリオットもピアスも、興味で耳の毛が膨らんでいる。

聞き終えると、エリオットは「はあ」と息を吐いた。
自分の知らぬ間に、そんな事が繰り広げられているとは。


「……へぇ。そりゃー分が悪いな、あんた」
「でしょう」


やはり、エリオットにもそう見えるらしい。アリスは肩を落とした。
気の毒に思ったのか、エリオットはアリスに情報をくれた。


「あいつら、屋敷には居ないぜ。どっか他を探しに行ったんじゃねえ?」
「そうなの……ありがとう」


まずいな、とアリスは思った。
どこかで彼らと鉢合わせしてしまう可能性が出てきた。
帽子屋屋敷に戻ろうか、それとも別の場所で居る方がいいのか、迷う。


(妙に勘がいいよね……)


彼らの裏を掻こうとしても、なかなか難しい。
アリスが必要な情報は、もうひとつあった。


「ところでエリオット。もうひとつだけ、聞いてもいいかしら」
「おう。なんだ?」


ついでに聞いてしまおう、とアリスはエリオットに持ちかけた。
エリオットは、気の良さそうな笑みで頷く。


「ここは何処?」
「ここ? ここはクローバーの塔の近くだ」
「そうなんだ」


クローバーの塔なら行ったことがある。
知った場所と、さほど距離が離れていないことを知り、アリスはホッと息を吐いた。


「もしかして……迷ってたのか? あんた」
「う」


言い当てられて、アリスは口ごもった。自然と声が小さくなる。


「……はい」


正直、こんなことが知られたら、きっとからかわれるのだろうなと思ったのだ。
この年で迷子だなんて、恥ずかしいことには違いない。

けれど、エリオットはただ頷くだけだった。


「そっかー。まだ慣れてねえからな、あんた」


労うかのように、アリスの頭に、ポンと手を置く。


(……あれ?)


想像していた反応と違ったので、いささか拍子抜けしてしまった。


「ここを真っ直ぐだ。で、つきあたりを左。そうしたら塔の正面に出るぜ」
「本当? ありがとう!」


エリオットの説明を聞く限り、もう迷わないだろう。
俄然、元気が出てきた。


「どういたしまして。逃げ切れよ、アリス!」
「ええ!」


エールに元気よく答えながら、アリスは二人と別れた。
エリオットに教わった道順を、早足で歩く。目指すはクローバーの塔だ。



× × × × ×



帽子屋屋敷に、ディーとダムはいない。
余所の領土に居るのなら、ここはどうだろう。

クローバーの塔は中立地帯だ。
ディーとダムが好んで訪れるとは思わないが、自分の思考を読まれていたら。

先回りされているという可能性は捨てきれない。


(……どうしよう)


ナイトメアとグレイ。
彼らなら、上手く匿ってくれそうだった。
だからあとは、アリスが飛び込むか否かの問題だ。


「アリス?」


唐突に名前を呼ばれ、アリスは飛び上がった。
低いテノールの声。ディーとダムではない筈。


「グレイ……」


アリスを驚かせたことに気づいたのか、やや早口で弁明を始めた。


「いきなり声をかけてすまない。君が、塔の前に立ったまま動かないからどうしたのかと……気分でも悪いのか?」
「ううん、平気」
「そうか、よかった」


グレイはふっと表情を和らげた。


(私も、グレイでよかった)


これがもしディーとダムだったなら、心臓が止まっていたかもしれないな、と呑気なことを考える。
グレイは塔に向かいかけ――アリスが立ち止まったままでいることに気づき、振り返った。


「どうした? ここに用事があるんじゃないのか?」
「いや……用事という用事はないの」


ただ、隠れ場所にしてもいいものかな、と思っているだけで。
アリスが正直に答えると、グレイは表情を曇らせた。


「そうか。……それは残念だな」


グレイは口だけでなく、心から残念そうに言ってくれる。
背中を押されたような気になり、アリスは思いきって口を開いた。


「あの……用事はないけど、寄って行ってもいい?」


グレイはアリスの申し出を受け、嬉しそうな笑みを刻んだ。


「勿論だ。歓迎しよう」


塔に足を踏み入れ、二人で並んで歩く。

もしも塔にディーとダムが居たとしても、グレイと一緒ならば何とかなりそうだ。
アリスの緊張は久しぶりに緩んだ。足取りも、やや軽くなる。

グレイは口数が少ない。
けれど、沈黙が苦になったことはない。

アリスは、自分から話題を振ることにした。
話題は、自分が置かれている状況について。


「今、ディーとダムと鬼ごっこをしているの」
「ほう」


時間制限があること。
帽子屋屋敷の領土以外でもいいこと。

そして、捕まったら、アリスの負けになること。

たいしたことない話でも、グレイはきちんと聞いてくれる。


「……そうか。彼らが塔に居る、という情報は入っていない。だから、まだここは安全だと思う」
「よかった」


グレイの言葉は、アリスを安心させてくれた。
そんなアリスを見るグレイの目は、どこか優しい。


「君さえよければ、好きなだけ居るといい。生憎、俺は今は仕事が入っていて、ずっとは一緒に居てやれないが……」
「ううん、十分よ。気にしないで」


そろそろ、何度目かの会合期間が迫っているのだ。
主催であるクローバーの塔は、再び準備に終われていることだろう。

彼らの仕事の邪魔にならないように気をつけねば、とアリスは気持ちを引き締めた。

グレイは、申し訳なさそうな苦笑を浮かべた。


「すまないな。俺が居れば、もし彼らと遭遇しても君を逃がしてやれる。もしもの時は、俺のところに来るといい」
「うん」


気遣ってくれていることが嬉しい。
アリスは笑いながら頷いた。
もう少し大人っぽい返事の仕方があったのではないか、という後悔に変わる。


(あれ、でも……ディーとダムを相手に、逃がしてやれるって言った?)


グレイは断言的な物言いをした。
双子に必ず勝てる、という――そんなに、腕に自信があるのだろうか。


(グレイは強そうだけど、でも……)


二対一なのだ。
グレイの方が、やや不利なように思う。

アリスは、こっそりと、グレイのコートにぶら下がっているナイフ達に目を落とした。


(……いや、強そうだよね)


グレイが戦う姿を、アリスは見たことがない。

けれど、あのナイフの数々は、ただの装飾品としてつけているわけではなさそうだ。
グレイはそんなタイプではない。きっと実用なのだろう。

グレイとアリスは穏やかに歩く。
数々のドアがある階段も、難なく通り過ぎた。

グレイがいるから、今日は迷わず歩くことができる。
ドアの囁きは、あいかわらず聞こえる。
けれど、聞かない振りを決め込むことができた。

あと少しでナイトメアの部屋、という時だった。


「……アリス、頼みがある」
「ん?」


ためらいがちな声に、アリスは顔を上げた。


「こんなことを君に頼むのは心苦しいが……」
「いいわ、何でも言って」


滅多にないグレイの頼みごとなど、苦でも何でもない。

アリスが快諾すると、グレイはしばらく黙り込んだ。
本当に言ってもいいのだろうか、とその目が揺れる。

雑用でもお使いでも買出しでも――買出しは少し危険かもしれないが、何だって良いと思った。


「ナイトメア様を、見張っていてくれないだろうか?」
「……え?」


思いがけない頼みごとに、アリスは目を丸くした。グレイは続ける。


「仕事が山積みなんだ。全てナイトメア様の決裁待ちの書類ばかりで、今、あの方に逃亡されては困る。だが、俺も手が離せない」
「ああ……なるほど。ナイトメアが逃げないよう、見ていればいいのね」


グレイは深く頷いた。


「ああ。やってくれるか?」
「ええ、勿論」


お邪魔している身だ。
やれることがあるのなら、少しでも手伝いたい。

アリスが受けると、グレイはホッと表情を緩めた。よほど彼には手を焼いているらしい。


「ありがとう。やはり、君は優しい」
「そっ……そんなことは、ないけど」


どちらかと言うと、酷い子の部類に入るだろう、とアリスは考えている。
だからあまり、そんなことを言わないで欲しい。幻滅されたくない。


「アリス」
「うん?」


グレイは、何か言いたそうな素振りを見せた。


「いや……何でもない」
「? そう」


結局、グレイは言葉を濁した。
それ以上は聞けない雰囲気だったので、アリスも流すことにする。

前を向いたアリスの横顔を、グレイは神妙な顔で盗み見た。


(彼女のものではない血の香がする……怪我はしていないようだが)


疑念は、ある。
けれど、あまり執拗に追求し、鬱陶しがられるのは避けたい。
しかも自分は口が上手くないのだから、尚更のことだ。
自分で自分をフォローできるとは思えない。


(……はあ。難儀なものだな)


言葉というものは、時として。

グレイの静かな葛藤を余所に、二人はナイトメアの部屋に到着した。
部屋に人の気配はあるので、とりあえず中には居るらしい。
それは別にいい。当然のことだ。

ただ、どこまで仕事が進んでいるのか――そこが問題だ。


「ナイトメア様、入りますよ」


軽くノックをした後、グレイはゆっくりとドアを開いた。


× × × × ×







   


===== あとがき ===

2009年8月発行『Find Out』です。

冒頭のエリオットとピアスの部分は、山藤が書きました。この二人、なかなか書いてて楽しかったのを覚えています。