答えはあなたに
空は青。
森の中、大樹の下にアリスは居る。
涼しい木陰で、アリスは静かに本を読んでいた。時折、思い出したように風が吹いた。
(いい天気)
本から目を離して、アリスはぼんやりと空を見上げる。
葉の間を抜けて零れる光は、白くて眩しい。
(……ほんと、いい天気だわ)
絶好の読書日和だ。
しばらく昼の時間帯が続けばいいのだけれど、と考えながら、アリスは隣へ目を向けた。
アリスの傍らには、気持ちよさそうに眠りこけているピアスが居る。
「……」
深い眠りに落ちているその顔には、全く邪気がない。無防備な寝顔だ。
見つめていると急に愛しく思えてきて、アリスは慌てて目を逸らした。
ピアスは、すうすうと眠っている。
安心しきっている様を見ていると、アリスの心はむず痒くなった。
(可愛い……)
アリスは無意識に、彼の尻尾に手を伸ばしていた。
手触りはふかふかしており、なかなか癖になる。
眠っているピアスは、お世辞抜きで綺麗だった。アリスが見惚れてしまうほどに。
睫毛は長いし、髪は艶やかな色をしているし、毛並みも上等だし、と、外見のマイナスポイントを見つける方が難しい。
けして派手な美貌ではないけれど、ピアスは綺麗な男の子だった。
(羨ましいくらい、綺麗よね。私、完全に負けてるし。いや、それはいいんだけど)
いや、あまり良くはないのだけれど。
少しばかり複雑なオンナゴコロだ。
(それが、私の隣で寝てるんだもんね……いいのかな)
信頼してくれているのは、嬉しい。
ピアスが気を許してくれている証拠に他ならない。
(……寝てる、なあ)
どれほど眠れていないのかは知らないが、ピアスは貪るように眠っている。
眠っているせいか、起きている時よりも若干幼く見えた。
とくん、と鼓動が高鳴る。
アリスは思わず胸を抑えた。
(……やだ。ドキドキする)
アリスはピアスから目を逸らすと、無理矢理に本へ戻した。危ないところだった。
「むにゃ……アリス〜〜……きみ」
「な、なに?」
突然声をかけられて、アリスは上擦った声で返事をした。
けれど、続きがない。
訝しんでピアスを見やると、彼の瞳は閉じたままだった。
(何だ、寝言か……紛らわしい)
よかった、とアリスは密かに胸を撫で下ろした。
さっきは、変な風に声が出てしまったから。ピアスに聞かれなくてよかった。
「おいし〜〜……チーズ味がする〜」
「……」
楽しそうな寝言が聞こえてきて、アリスは沈黙した。
複雑だ。
夢の中で、アリスはピアスに食べられているらしい。
美味しいか不味いか、で言うと美味しい方が良いに決まっているけれど。
けれど、食べられていると言う事は――。
(……うん、微妙)
夢の中のアリスはどんな状態なのか、とても気になる。もう、本どころではない。
ふ、と周囲が暗くなった。
「あ……」
アリスが空を仰ぐと、漆黒の空に満点の星空が広がっていた。
本当に――と、アリスは溜息を零した。
前触れもなく唐突に、時間帯は変わる。それが時々、小憎らしい。
アリスはピアスの肩を揺さぶった。
「ピアス。ねえ、起きて。ここでは風邪をひくから、部屋に戻りましょう」
「う? ん〜……うぅ〜……ふぁ」
ピアスはぐずりながらも目を覚ました。
固まった体をほぐすように、大きく伸びをする。
「おはよう、ピアス。よく眠れた?」
「うんうん、たくさん眠ったよ」
のっそりと立ち上がりながら、ピアスは微笑んだ。
当然のようにアリスへ手を差し伸べて、立たせてくれる。
「どんな夢を見てたの?」
「えーとね、君の夢を見てたよ」
「……そう」
甘ったるい言葉だ。
その言葉だけなら、アリスもときめきそうなのに。
実態は齧られていることを知っているせいか、今ひとつ残念だった。
部屋に戻って眠り直すのかと思いきや、もう目が冴えたとピアスは言う。
それならば、と、中断していたお茶会の続きを、二人でやることにした。
お湯を沸かして、丁寧にコーヒー豆を挽く。
湯が沸くまでにカップを選んで並べ、お茶菓子の用意に移る。
まるで魔法みたいだなあ、とピアスは思った。
彼女の慣れた手つきはしなやかで、美しい。
それが自分の為となれば、尚更に神聖なものであるかのように映る。
「ねえ、アリス」
一連の動作を大人しく見守っていたピアスは、唐突に口を開いた。
「アリスは俺のこと好き?」
「え」
ぴたり、とアリスの動作が止まった。
そんなに驚くような事を聞いたかな、とピアスは首を捻る。
アリスは目を丸くして、ピアスを見つめ返す。
瞳は、綺麗な困惑の色をしていた。
「……いつもと、聞き方が違うのね?」
「えー、そう? そうかな」
ピアスとしては、いつもと同じように聞いたつもりだったのだけれど。
アリスは小さく首を振った。困ったような顔が、ピアスの好奇心をつつく。
ちょうど、湯が沸いたらしい。
アリスはピアスに背を向けると、ポットに手を伸ばした。
「違うわ。いつもは、嫌いじゃないかって聞くのに」
「あれ? そうだっけ?」
「そうよ」
背を向けたことで安心したのか、アリスはお茶の準備を再開した。
とぽとぽ、と湯を注ぐ音がする。その途端、部屋中がコーヒーの香りに包まれた。
(わあ、いい匂い。いい匂いだ)
立ち上る香りに、ピアスの心は躍る。
アリスの淹れてくれるコーヒーは、とても美味しいのだ。
豆自体は同じ物なのに、ピアスが淹れるのとは全然違う味になるから不思議だ。
(どうしてかな? アリスの淹れる方が、絶対に美味しいんだよね。何でかな?)
コーヒーは好きだが、チーズ程には拘りが無い。
眠らない為に飲んでいる、ということもあって、味の事はあまり考えたことがなかった。
どれも同じだと思っていた。
苦いだけの黒い液体。
その味が違うことに気づいたのは、アリスと一緒に飲むようになってからのこと。
(苦いだけじゃなくって、アリスのおかげで美味しくなった)
やっぱり、アリスには魔法が使えるのかもしれない。コーヒーを美味しくする、素敵な魔法が。
しばらくして、ピアスは気がついた。
「……あれっ? ねえねえ、アリス」
「なあに、ピアス」
答えてくれる声が優しくて、ピアスは嬉しくなった。
「俺、まだ答えが聞けてないよ?」
肝心な、とても大切なことが。
「答え? って?」
「俺のこと。好き?」
アリスの背に向かって、ピアスはもう一度同じ質問を繰り返した。
ずっと、嫌いにならないで欲しい、とピアスは思っていた。
ただ、アリスが自分を嫌いでなければ、ピアスは満足だった。
それなのに。
(実はね。今は、すこし違うんだ。俺……)
今は、アリスが好きになってくれたらいいのに、と。
少しでも多く、彼女と時間を共有していたいのだ。
アリスが自分を好きになってくれたら、ずっと一緒に居られるから。
(よく分からないけど)
日増しに膨れ上がるこの想いの名前が何なのか、ピアスには解からない。
ただ、アリスと居たい。
アリスと居なくては、と感じているのだけは確かな事だった。
(俺、アリスに好きになって欲しい)
ずっと一緒に居られるには、それが手っ取り早い。
いつしかピアスは、そう願うようになっていた。
コーヒーを注ぐ手は止めないまま、アリスは押し黙った。
「……」
気づいたのか。
アリスは内心、舌打ちをした。そして、ピアスにどう答えればいいのかを考える。
ピアスの事が、好きかどうか。
これは大変な問題だった。
少なくとも、嫌いではないことは確かである。だって、こうして自分の部屋の中に彼を招いている。
けれど、好きなのかと聞かれたら――。
(……うーん。違うような気がする)
アリスがそう思いたいだけ、なのかもしれないけれど。
(でも……ピアスが、わざわざ聞いてきたんだから)
正面から投げかけられた問いを、誤魔化して放りだす訳にはいかない。
だからアリスは、正直に答えるしかなかった。
「わからない」
「え〜〜〜〜!? アリス、俺のことが好きかどうかわからないの!?」
ピアスは不満も露わに声を張り上げた。
やっぱり、それでは納得して貰えなかったか。
けれど、どう答えたらピアスに理解して貰えるのだろう。
テーブルに戻りながら、アリスは思考をあれこれと巡らせた。
「うーん……分からないというか、確信がないというか……」
「確信? ええっと……それって、どういうこと?」
アリスに聞かれても、アリスもよく分からない。けれど。
(え、好き寄りなんだ)
そう考えている自分に、アリスは少し驚いた。
いつの間に、自分はピアスの事を――。
(いやいやいや、好きじゃなかったら、こうして異性を招き入れたりはしないって事……だよね? きっと)
アリスは愕然とした。
それでは、アリスはピアスが好きだということになるではないか。
(好き、なのか……な?)
思わぬ問題にぶち当たってしまい、アリスの心は戸惑った。
無意識にピアスにコーヒーカップを手渡しながら、アリスは視線を落とした。
「ちょっと、考える時間をちょうだい……」
「? うん、わかった。わかったよ」
ピアスが素直に承諾してくれたので、アリスはホッとした。
アリスはピアスが好きらしい。
けれど、それが異性として好きなのかどうか。そこが一番の問題だった。
友達として好きなだけなら、まだ良い。まだ大丈夫だ。
何が『大丈夫』なのか、よくわからないけど。
(異性として……私の好みっていうか、ピアスは先生とはかけ離れてるよね……私、範囲が広すぎじゃない?)
むしろ、全く違うタイプだからこそ、アリスはピアスを望んだのだろうか。
アリスは自嘲気味に笑った。
(流石に、それはないかな)
ない、と思う。
(ピアス……ピアスねえ)
アリスは考える。
ピアスを異性として見たことが無い、と言いきれるかどうか。
(ない、とは言い切れないなあ……)
最近の自分を思い浮かべて、アリスは溜息を零した。
窮地に追い詰められて「好きだったのに」と思ったこと。
ついさっき、寝ているピアスを見つめて「綺麗だな」と思ったこと。
(意識して……いや、そこまで意識はしてないんだよね、多分)
意識をしているのなら、こんな風に自然に部屋に上げたりはしない。
だとしたら、アリスはどっちなのだろう。
「ねえねえ、アリス。アリスってば」
視界いっぱいのピアスに、アリスはギクリとした。
「……どうしたの? ピアス」
びっくりしたせいで、胸がドキドキしている。いつの間に、こんな至近距離に。
「俺のこと、好きか分かった?」
「まだ分からない」
アリスは正直に首を振った。
そこを真剣に考えているところだ。
遠まわしに「嫌いだ」と言っているようにも聞こえて、言葉にするのは気が引けるけれど――幸い、ピアスはストレートに受け止めてくれたらしい。
「そっか、そうなんだ……。じゃあ、もう少ししたら分かる?」
ピアスは往生際が悪い。アリスといい勝負だ。
「……分かるかもしれないし、分からないかもしれない」
「えぇっ!? そんなの困るよ!」
ピアスは唇を尖らせた。
(私だって困るわ!)
心の中で叫びつつ、アリスは頭を抱え込んだ。
ピアスは許してくれないし、考えてもよく分からないし、どうしたらこの質問から逃れられるのだろう。
ふと、手が重ねられる。
アリスは驚いて顔をあげた。
真剣なピアスの瞳とかち合い、どぎまぎする。
こうして真剣な顔をしていると、ピアスも案外格好いいんだなあ、と――。
(待て待て待て、ちょっと待って)
ときめくな。
意識するな。
そう思えば思う程、逆にアリスの心は侵されていく。重なった手が熱い。
(こ、これは……まずい)
この感覚には、覚えがある。
忌まわしいとすら思う、あの時のような。
先生。
「ねえ、アリス。どうして分からないの?」
「どうして、って……」
分からないものは分からない、としか言えない。
それよりも、アリスは芽生えた熱を抑えるのに必死だ。
「ピアスはどうなの」
乾いた声で、アリスは質問を投げ返す。ピアスはきょとんとした。
「俺? 俺がどうかした?」
「ピアスは、私のこと……すっ……」
好きなのか。
だから、執拗なまでに答えを乞うのか。
そう、アリスは聞きたかった。
聞きたいのだが。
(言えるか)
恥ずかしくて聞けない。
自分が好きなのかだなんて、そんな。
ピアスの首を傾げる動作が、小動物的で愛らしい。
「す……? あ。好きかどうか?」
「あー……そ、そうね。そんな感じ。ピアスは、どうなのよ?」
「俺は、アリスのこと好きだよ」
ピアスが落ちつき払って答えたので、アリスは面食らった。
(どうして)
アリスには出来ないことを、ピアスは平然とやってのける。
それが時折、すごく羨ましい。
アリスにも、そんな風に純な部分があれば良かったのに、と申し訳ないような気さえするのだ。
アリスがもっと可愛らしい女の子なら、ピアスも。
「どうして、そんな風に言えるの」
「そんな風って?」
何が、とピアスは照れもせずにアリスを見つめる。
「……照れずに堂々と言えるのか、ってことよ」
腹立ち紛れに問いかけると、ピアスは目を瞬かせた。
「照れずに? だってだって、俺はアリスが好きだもん。それって、恥ずかしがるようなこと? 照れるようなことじゃないでしょ?」
「……」
アリスは目を丸くした。
悔しいほどに、ピアスの主張は、至極真っ当に聞こえたのだ。
「そりゃ、まあ……そっか」
いや、これはピアスが正しいのだろう。
(むしろ、好きな事を恥じられる方が微妙なのか……)
常識の分野でピアスに負けたことが、ちょっぴり腑に落ちない。
ピアスは無邪気な笑みで、アリスに詰め寄った。
「ねえねえ、俺のこと好きかどうか、わかった?」
「……まだ」
「えぇ〜〜!?」
アリスが澄まして答えると、ピアスは大げさに声をあげた。
悔しかった分、もうちょっと、ピアスをはぐらかしても良いだろう。
そんな意地悪な気持ちが、少しばかり芽生えてきた。
けれど、ピアスはめげなかった。
その打たれ強さには目を瞠るものがある。
「じゃあ、何をしたら分かる?」
「へ?」
「アリスは何をしたら、俺のことが好きかどうか分かるの?」
ずいっと詰め寄られ、アリスは言葉に詰まった。
今日のピアスは、何故か強気だ。
「え、ええっと……」
「好きだったら、何をしたらいいの?」
「え」
「好きだったらやること、だよ。俺が君にそれをしたら、君が俺を好きかどうか分かるでしょ?」
ピアスはぐいぐいと迫ってくる。
免疫の少ないアリスは、目に見えてうろたえた。
「え、ちょっとまって、どういう……」
「嫌いなら、イヤだと思うよね。じゃあ、嫌じゃなかったら、好きってことでしょ?」
「……ああ、なるほど……って、ピアスっ!」
唇が重なりそうになり、アリスは慌ててピアスを押しやった。
いつの間に、両肩を彼に掴まれているのだろう。
ピアス独自の理論を展開されている間に、アリスの思考能力は落ちに落ちていたらしい。
油断も隙もあったもんじゃない。
唇をガードしつつ、アリスは慎重に言葉を選んだ。
「何でそんなに急ぐ必要があるの?」
「え? 俺、急いでる?」
「うん」
ピアスは、やけに急いでいる。アリスにはそう見える。
アリスが肯定すると、ピアスはしばらく考え込んだ。
「うーん……そうかもしれない。だって、急がないと」
「何でよ」
ぐい、と肩を掴む手に力がこもる。アリスは必死に己と戦った。
目の前にはピアスの顔があり、がっちり拘束されていて、これで動揺しない方がおかしい。
うっかり流されて、目を閉じそうになる。
「だって、急いだ方がいいでしょ?」
ピアスはアリスの耳元で囁いた。
囁く声音の艶っぽさに、背筋がぞわりとする。
「だから、何で」
力が抜けそうになりながら、アリスは懸命に己を保った。
何故だろう。このまま、身を任せてしまいたくなる。
(……ピアスって……ピアスって、すっごく凶悪)
自身の魅力を理解しておらず、あくまで自然な所が特に。
こちらも警戒していないから、その威力は絶大だ。
ピアスは囁き声のまま、紡ぐように呟く。
「だってその方が、はやく俺たちが楽しいじゃない。それに、君が他の好きを見つける前に、君のことを隠さないと」
「あの……ピアス、その、離れて」
物凄くぞわぞわするので、耳元で囁かないで欲しい。
アリスはピアスの体を力いっぱい押しやった。
けれど、流石に男の子だ。離れる気がないらしいピアスは、ビクともしない。
「嫌だよ。離れたくない。俺、アリスとくっついていたいんだ」
「〜〜〜〜〜っ!!」
アリスは耳まで真っ赤になった。
こういう時はどうしたらいいのか、頭をフル回転させる。
(ど、どうしたら……っ)
もう流されちゃってもいいかな、とも、頭の片隅で考えた。誰に咎められる訳でなし。
でも――。
(まだ、分からないのに)
ピアスはどうか分からないが、アリスの方には、まだ気持ちに確証がない。
そんな半端な状態で、流されるのは嫌だった。
もっと、ちゃんとした状態でアリスは向き合いたいのに。
「ね、ねえ……それは、後にしてよ。コーヒーが冷めるわ、ピアス。冷めないうちに飲んでよ」
「コーヒー?」
苦し紛れに伝えると、ピアスはきょとんとした。
思い出したようにその視線をテーブルに向け、コーヒーカップを見る。
「ピアスの為に淹れたんだから、先に飲んでくれなきゃ」
我ながら、何を言ってるんだと突っ込みを入れたくなる。
取っ掛かりはコーヒーでもチーズでも何でもいい。
何でもいいから、今はただ、別の方向へ流れを持って行きたかった。
ピアスはしばらく考え込んだ後、アリスの肩から手を離した。
「そっか。それもそうだね。うん、俺、後にするよ」
言いながら、ピアスは自分の席へ戻る。声のトーンも、いつも通りだ。
(よ、よかった……)
心臓がバクバクしている。ピアスが離れてくれて良かった。
あのままでは、後で後悔することになりそうで――ピアスにも悪い事をしてしまうところだった。
(離してくれた)
そんな素振りは見せないけれど、多分、ピアスはアリスを見逃してくれたのだろう。
アリスは、フラフラと席に着いた。
美味しそうにコーヒーを啜るピアスを、ぼうっと眺める。
ああ、今日も美味しそうに飲んでくれて嬉しいな、と、回らない頭で考える。
「美味しい?」
「うん、すっごく美味しい。美味しいよ」
「よかった」
自分の声が遠いような気がする。
アリスは徐々に、思考の正常さを取り戻し始めた。
ピアスに言われた事。された事。
見つめられた視線の意味を、じっくりと考える。
(……なんか、変なこと言ってなかったっけ?)
隠したい、とか何だかを言われたような気がする。アリスを隠す、とは一体。
疑問に思ったアリスは、そのままを口にした。
「隠したいって、どういう事?」
ピアスはコーヒーカップをテーブルに戻すと、にこりと微笑んだ。
「そのままの意味だよ。誰も目のつかない所に、俺だけが知ってる場所に、君を隠したいなって。駄目?」
「だ、駄目」
前回のことを思い出し、アリスは頬を引きつらせた。あれは本当に怖かった。
(殺されると思ったもんね……心臓に悪い子だな……)
ひとまず、あれは「アリスの勘違い」という事になっているけれど。
「っていうか……物騒なのはやめてよね。心臓に悪いから」
あの時、確実にアリスの寿命は縮まっただろう。
アリスが釘をさすと、ピアスは瞠目した。
「えええ!? 物騒なことっ!? 何それ何それっ!? 俺、アリスにそんなことしないよっ!!」
「……それは同意できかねるなあ……」
「ええええええっ!? 何でっ!?」
ピアスはショックを受けているようだが、アリスはじろりとピアスを睨みつけた。
(この間のこと、忘れたとは言わせないわよ……)
ピアスは余程心外だったらしく、不満そうに小さく呻いている。
その萎れた横顔を見つめながら、アリスは頬杖をついた。
(……うーん)
打ちひしがれている彼の傍に、そろりと近寄ってみる。
(……うん)
アリスは何かを確かめると、次の行動に出た。
膝がくっつきそうな程の距離に、縮めてみる。
(これも……)
更に、次だ。
アリスは、ピアスに顔を近づけた。
ピアスは小さく息を呑んだ。
落ち込んだ世界に居たピアスにとっては『突然のこと』だったのだろう。
視界に、いきなりアリスが飛び込んできたように感じたに違いない。
「な、なにっ? 何してるの、アリス?」
うろたえるピアスが可愛らしい。
アリスは口元で笑みの形を作りながら、真剣な目で検証を続ける。
じっと、探るようにピアスを見つめる。
「ちょっと、確認をね」
「確認? 何の確認?」
「ないしょ」
アリスは短く返すと、そのついで、とばかりに身を乗り出した。
ピアスの頬に唇を押しあてて、すぐに離す。
「……!」
ピアスの目がキラキラと輝く。
あまりの眩しさに、アリスは目を逸らしたくなった。
「俺もっ! 俺もちゅうする!」
「ピアスは駄目」
うきうきとひっついて来ようとするピアスを押し止めて、アリスは無情にも首を振った。
ピアスにされると、せっかく取り戻した冷静さを失ってしまうから。
「えぇ〜〜〜っ!? 何で!? ずるいよ!」
「ずるくない、ずるくない……」
ピアスを適当にはぐらかしながら、アリスは別の事を考えていた。
即ち、アリスがいま仕掛けたことについて――この『恋人距離』に踏み込んでも、アリスが平気でいられるかどうか。
その事を、アリスは自ら行動することで、確認していた。
少しでも拒絶の意思が芽生えたなら。
その場合、ピアスには申し訳ないけれど、もうしばらく待って貰うつもりだった。
アリスの心が不動になるまで。
(困ったなあ……ちっとも嫌じゃないなんて)
本当に困ったことになった。
溜息のひとつでも吐きたい気分なのに、裏腹に、アリスの口元は自然と綻んでいた。
(……困ったな)
微笑みながら、そう思う。
ピアスはというと、アリスに拒否されたせいか、小さくなっていじいじと拗ねていた。
「ねえ、ピアス」
「ちゅう〜……なに? アリス」
「私のこと、どれくらい好き?」
今、じわりと胸に広がるものがある。
それはとても温かくて優しく、ちょっぴり切ないような。
ピアスは目をぱちぱちさせた後、満面の笑みを浮かべた。
「アリスのこと? チーズぐらい好きだよ!」
ピアスは堂々と宣言する。
チーズと同列にされてしまった。
(わあ、私って食べ物レベルなんだ〜……)
けれど、思いがけず、アリスはちっともショックではなかった。
言われた事はアレなのに、不思議と気持ちは穏やかなままだ。
笑顔のピアスに、アリスも微笑んで返した。
「……微妙。はい、また今度ね」
「ええっ!? なにがっ!?」
「さっきの答えと、続き」
アリスは澄ました顔で答える。ピアスは目を見開いた。
「ピアスが満足できる答えをくれたら、私も貴方に答えてあげる」
とりあえず今は、いっぱい話をしよう。そうして、いつかきっと。
「それまで、続きは無し。ちゅうも駄目」
「えええっ!? ちゅうも!?」
「当たり前よ」
常には垂れている茶色い尻尾がピン、と固まった。
そっちの方に、ピアスは多大にショックを受けたらしい。
あわあわと慌てふためくピアスを、アリスは頬杖をついて眺める。
「ちゅうも駄目なの!? 酷いよアリス!」
「酷くない、酷くない」
アリスは頑なに首を振った。
ピアスが答えをくれるまでは、その一線を許すつもりはない。
隙を見せないようにしないとなあ、とアリスはぼんやり考えた。
ピアスは青ざめた。
そんなに衝撃的なことを言ったつもりはなかったのだけれど。
「ま、待って! 俺、考えるっ!!」
小さく唸りながら、ピアスは真剣な顔で考え込んだ。
そうして。
「じゃあ……えっと、えっと……エリーちゃんよりも、ぺたちゃんよりも好きっ!!」
これはどうだ、と言いたげなピアスの眼差しを受けて、アリスは口元を緩めた。
「すごく微妙」
「えええええっ!? これも駄目なのっ!?」
どうしたらいいの、とピアスは頭を抱え込んだ。
そうして再び、うんうんと考え始める。
(そうよ、もっと考えて。私のこと)
その間に、アリスは覚悟を決めるから。
この狂った世界で、眠たそうなネズミさんと生きていく覚悟を。
(はやく答えてあげたいな……)
アリスは柔らかく微笑む。
青い森の匂い。コーヒーの香り。そしてピアス。この光景がずっと続いていく為に。
全ては、ピアス次第なのだから。
【答えはあなたに/了】
===== あとがき ===
2011年12月発行のピアリ合同誌『 YAMANE 』より。
『隠れて見つけて』の後になります。可愛らしい系のピアス。
読んでくださってありがとうございました。