隠れて見つけて
深い森の奥。
青い木々の葉の間からは、光が白く差し込んでいる。
緑が深いせいか、この場所は一層、空気が清い気がする。
そんな中、アリスは立ち尽くしていた。
「……」
体はじっと固まったままだが、アリスの視線は一点に注がれている。
アリスの目の前には、もっさりとした茂みがあった。
どうして、こんな所で足止めを喰らっているのかというと。
(ええと……)
それを見つけた時、アリスはどう反応していいのか分からずに――結局、足を止めることしか出来なかった。
そして今に至る。
かれこれ十分は経っているだろうか。
時間の狂った世界で、その『十分』というのもただの体感だけれど、もっと長いかもしれない。
茂みから生えている、長い尻尾をまじまじと見つめる。
思わせぶりにちらりと覗く、長くて茶色がかった尻尾。
時折、ぱたぱたと動いているのがご愛嬌だ。その尻尾には見覚えがあった。
(ピアスだよね……完全に)
まあ、尻尾だけでは――本体そのものを見ないことには、完全にはピアスであると言い切れないけれど。
(どうしようかな)
おそらく、ピアスはその茂みに隠れているのだろう。
大人しさの欠片もない尻尾を見る限りでは、彼が本気で隠れているつもりかは、若干、疑わしいけれど。
そんな彼に声をかけるべきかどうか、アリスは迷っていた。
見ない振りをしてあげることが、せめてもの優しさかもしれない。
けれど、そうもいかない事情があった。
そもそもアリスは、彼を訪ねてきたのだから。
特に用事があるわけではないのだが、何となく足が向いてしまう。
(和むのよねー)
ピアスと一緒に居ると、不思議とアリスは落ち着いた。
だから今日も、一緒にお茶でもしようと誘うつもりだった。
それなのに。
(……どうしよう。声、かけたいけど)
不用意に声をかけて、悪戯に驚かせたくはない。
アリスがいることに気づいて、ピアスの方から出てきてくれたらいいのにな、と期待の眼差しを注ぐが、いま一つ伝わってはいない様子だ。
アリスは小さく息をついた。
仕方ない。
せめて穏やかに聞こえるよう、アリスは身を屈めた。
「……何してるの、ピアス?」
「わっ!?」
声をかけた途端、茂みの中からピアスが飛び上がった。
相変わらず良いリアクションを取ってくれる。
ピアスは青ざめた顔で、おそるおそるアリスを見た。
「み、見つかった……っ」
「どうしたの?」
そんなに怯えないで欲しい。
アリスの顔を見ても尚、怯えを消さないピアスを見て、アリスは落ち込まないようにと自分に言い聞かせた。
きっとピアスに悪気はない。
悪気はないと思う。その筈だ。
「俺……っ、隠れてるんだよ! アリスも! 早く!」
ピアスは慌てふためきながらも、素早くアリスの腕を掴んだ。
その力の強さに、アリスはぎょっとした。
「な、なに……」
驚いている間に、残った片腕も、ピアスにがっちり掴まれてしまった。
ピアスの手からは、尋常ではない震えが伝わってくる。
「怖い生き物がいるんだ……! とっても怖くて、すっごく恐ろしい」
「猫?」
「っ!?」
震える言葉をアリスが遮ると、ピアスはいよいよ真っ青になった。
彼の反応だけで十分、アリスは事態を把握した。
ピアスが何故、こんなところで隠れているのか。
「……つまり、ボリスから隠れてるのね」
アリスが小さく嘆息すると、ピアスは大きく頷いた。
こくこくと、首がちぎれんばかりに力強く。うっかり首を痛めそうで、アリスは密かに心配になった。
「そう! そうだよ! だからアリスも隠れなくちゃ!」
「え〜……」
ピアスは急かすが、アリスには同意できかねた。
(別に……ボリスは私には優しいから、隠れる必要なんてないんだけど……)
ボリスの狙いはピアスだけだ。
アリスは彼の狩りの対象ではない。
むしろ、ピアスといる方が危ない。
「早く早くっ! にゃんこに引っかかれてもいいのっ!?」
「それは嫌だけど」
「じゃあ、早く隠れようっ!」
「ピアス、そんなに引っ張らないで……わっ!?」
ぐいぐいと一方的に手を引かれて、アリスは体のバランスを失った。
それを幸いとばかりに、ピアスはアリスを引き寄せた。
そしてそのまま――アリスを腕に抱えたままで、元の茂みへと身を伏せる。
「ちょ、っと、ピアス……」
彼の上へ倒れこむような形になってしまい、アリスは息を呑んだ。
(な、なんて体勢でっ!!)
しかも、顔が近い。
それも問題だが、もっと問題なことがある。
妙齢の淑女が、男性の上に――ああ、はしたないにも程がある。
顔がカッと熱くなるのを感じて、アリスはすぐさま彼から離れようとした。
しかし、肝心のピアスがアリスを離そうとしない。
それどころか、アリスをぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
(〜〜〜〜っ!!)
アリスの羞恥心は高まるばかりで、アリスは叫びだしそうになった。
鼓動が早鐘のようで、胸が苦しい。
「あの、離して……ピアス?」
アリスは控えめに訴えた。
しかし、怯えきったピアスは、アリスの言葉も耳に届いていない様子だ。
突き飛ばしで逃げ出したい。
そうしたって、花も恥じらう乙女としては許される筈なのに。
(何で、私はそうしないんだろう)
自分でも不可解だが、どうもそこまでして彼と離れようという気が起きない。
ピアスには力では敵わない。
自力では、どうすることもできないからだ。
そうアリスは思うことにした。
せめて落ち着こうと、深呼吸を繰り返す。
「ね、ねえ、ピアス……」
「……ううう、にゃんこ怖いよ〜……」
「……」
今にも泣きだしそうな声で、ピアスはアリスに縋りついている。
ぎゅっと目を瞑って、身を縮こまらせて。
そんな彼の様子を見ていたら、昂ぶった気持ちがいくらか落ち着いてきた。
「平気よ、へーき。落ちついて、ピアス」
アリスは、できるだけ優しく声をかける。
もし手が使えていたら、彼の頭を撫でてあげられるのだが。
がっちり拘束されている今、アリスに出来ることは限られていた。
「……?」
アリスが根気よく繰り返し声をかけると、ようやく耳に届いたのか、ピアスはゆっくりと目を開けた。
「……落ち着いた?」
ばっちりピアスと目が合ってしまい、アリスは思わず頬を染めた。
けれど、何故か目が逸らせない。
(ピアス……)
こんな至近距離で見つめあったことなんて、ない。
だから――だから、アリスはじっくりと向き合ってしまった。
ピアスの――グリーンの大きな目や、柔らかい毛並をしている耳。
不思議な色合いをした髪に、たまに自分のものと重なることがある唇。
うっかり唇の暖かさまで思い出してしまい、アリスの鼓動はドキドキと高鳴る。
(わ、私……!)
うっかり何を想像しているのか。
(そんなつもりじゃないのよ! 全然、そんな)
一体、何に対して言い訳をしているのか分からぬまま、アリスは苦しい弁解をした。
これは違う。何かの間違いだ。
アリスはときめいたりしていない。
決して、ピアスと見つめ合ってドキドキしていたりなんか――。
(ピアスって……意外と力が強くて、やっぱり男の子なんだなあ……って、そうじゃなくてっ!)
どうも、ピアス相手には思考が緩みがちだ。
「ねえ、ピアス……?」
彼にだけは動揺を悟られないように、アリスは冷静を装った。
(……あれ?)
ピアスの震えは止まっていた。
だが、ピアスはアリスを見つめたまま、微動だにしない。
「ん?」
不可解に思ったアリスが首を傾げると、ピアスは目を見開いた。
まるで、目の前にアリスがいることに驚いているような。
「俺……」
アリスを見つめたまま、ピアスは動揺している。
自分の手がアリスを掴んでいることに気づいたのか、慌てて拘束を解く。
「俺、俺……っ」
「ピアス?」
アリスはようやく自由になった。
身を起こしてピアスの上から退くと、ピアスもつられて起き上がった。
「う」
「う?」
いつもと様子が違う。
何だか心配になってきたアリスは、ピアスの顔を覗き込んだ。
ピアスは、明らかに戸惑う表情をしていた。
(え、どうして……あ、そうか)
アリスが長いこと上に乗っかっていたせいで、体の何処かを圧迫し、悪くしたのかもしれない。
心なしか、頬が上気しているように見える。
不審に思ったアリスは、遠慮がちに声をかけた。
「あの、痛いところとか」
その途端。
「わああああっ!!」
「!?」
唐突に短く叫ぶと、ピアスは風のように走り去ってしまった。
驚きのあまり、ピアスを制止することもできなかった。
「……何だったの、一体」
呆然としたアリスの呟きが、森に溶けて消えていった。
ピアスは町での用事を終えた後、帰路についていた。
森へ。アリスの居る森へ。
ピアスは小さな包みを大事そうに抱えていた。
慎重に運んでいるせいか、歩みはいつもより遅い。
(だって、大事なものだから。汚れたり壊れたりしたら、嫌だから)
何時間帯もかけて一生懸命に考え抜いた、仲直りのプレゼントだ。
この前は、いきなり逃げ出したりして、アリスに悪いことをしてしまった。
(うぅ……ごめん、ごめんね、アリス)
あの時、何故、アリスから逃げたりしたのか、自分でもわからない。
あの時は――そう、自分でも訳がわからなくなってしまったのだ。
(よく分からないけど、何かこう、ぶわってして……俺、びっくりして)
アリスに見られているのが恥ずかしくてたまらなくなって、ピアスは逃げた。
心か体か、その何処からか、むず痒いような面映ゆいような――少し恐ろしいような、そんなものが顔を出したから。
(ごめんね、アリス……俺)
森中を駆け回ってやっと冷静さを取り戻した時、ピアスは、自分のしでかしたことに青くなった。
あれから独り森へ残されて、アリスはどんな想いをしたのだろう。
きっと、ピアスが居なくなって寂しくなったに違いない。
そう考えるだけで、ピアスは苦しくなる。
だから、だ。
どうしたらアリスの寂しさを塗り替えてあげられるだろう、とピアスは考えた。いっぱい考えた。
その『考えた結果』が、このプレゼントだ。
(アリス、喜んでくれるかな? 喜んでくれるよね)
これを見れば、優しいアリスはピアスを許してくれるに違いない。
そう思うと、うきうきと心が弾む。
(笑ってくれるかな? くれるよね)
アリスの笑顔が好きだ。
いつだって、アリスには笑っていて欲しいと思う。
アリスが穏やかに笑っているだけで、ピアスは幸せな気分になれるから。
それで十分だと、ピアスは思っていた。
十分、幸せ者のネズミだ、と。
(でも……なんだか最近、ちょっと変な感じがするんだよね。怖い……のとは、ちょっと違うな。ううん、怖いかな)
それは、アリスへの。
尽きることのない感情を、ピアス自身も持て余している。
恐ろしいのか嬉しいのか、よく分からない。
アリスと居ると、分からないことばかりだ。
いつしかピアスは、アリスの部屋に到着していた。
躊躇うことなく、ドアノブに手をかける。
「アリス、アリス。俺だよ」
ドアを開け放ちながら、ピアスは部屋の主に声をかけた。
けれど、ピアスの思惑は外れる。
「……アリス?」
ピアスはきょろきょろと部屋の中を見回した。
けれど、どんなに目を凝らしても、中にアリスの姿はない。
「あれあれ? ここはアリスの部屋だよね」
よく知る森で、ピアスがアリスの部屋を間違える筈はないけれど。
「ここには居ない……うーん……何処かに隠れちゃったのかな?」
今、アリスは仕事ではない筈だけれど。
ピアスは徐に、テーブルの上の紙を手に取った。
アリスの仕事の予定表だ。視線を走らせて、一応、確認する。
「うん、違うね。違う。なら、お出かけかな?」
けれど、何処に?
「……?」
他の場所に居るのかもしれない。
他の誰かと居るのかもしれない。
だが、考えてみても、よく分からなかった。
「ピアスー、何やってるのー? そこ、アリスの部屋でしょう?」
背後から、仲間のネズミの呑気な声がした。
「ん? ああ、ちょっとね。考えてたんだ。何でアリスが居ないのかなって」
「アリス? アリス、いなくなっちゃったの!?」
うわあ、どうしようどうしよう、と顔なしネズミは慌てふためいた。
大変なことが起きてしまった、と言わんばかりの狼狽えっぷりにつられたのか、呑気だったピアスも段々と焦ってきた。
「まさかピアス、とうとうアリスに捨てられたの!? 捨てられちゃった!?」
「捨てっ……!? 違う違う、俺、捨てられてないよっ!!」
とんでもない事を言い出したので、慌てたピアスは思いきり首を振った。
アリスが自分を捨てるなんてこと、ある筈がない。
「本当かなぁ。だって、ピアスでしょ」
酷い言い草だ。
同族とはいえ、これほどまでに言われ放題なのも珍しい。
ピアスは声を張り上げた。
「だ、だって、アリスは俺のだもん! 俺のものなんだから、俺を捨てる筈がないよ!」
「そっか、そうだね。じゃあじゃあ、何でアリスは居なくなっちゃったの?」
顔なしネズミは首を傾げた。
そこが分からないから、ピアスも困っている。
「うう、分からないんだ……。どうしよう、どうしたらいいと思う?」
「ええっ!? ピアスに分からないなら、俺に分かるわけないじゃないか」
それもそうだ、とピアスは思った。
気のいいネズミは、小さく唸って考え込む。
「いない、いなくなる……そうだ、アリスは隠れてるんじゃない?」
ピアスはきょとんとして、目を丸くした。
それは思いつかなかった。
「そうかな……隠れてるのかな?」
「そうだよ、多分そう。かくれんぼだね、ピアス」
自分の思いつきに自信を持っているらしいネズミは、うきうきと楽しそうに笑う。
そう言われると、そんな気もしてくる。
「かくれんぼか〜……そっか」
アリスは寂しいから、ピアスに見つけ出して欲しいのだろう。きっと。
何て可愛いアリス。
「よーし! 俺、アリスのこと見つけてみせるよ!」
「うんうん。頑張ってね、ピアス!」
ネズミはピアスを激励し終えると、そそくさと部屋から出て行った。
「さあ、かくれんぼだね。かくれんぼ」
ピアスは、さっそくアリスを探し始めた。
見つけるのは早い方がいい。
他の誰かが、彼女を見つけてしまう前に。
まずは基本の、アリスの部屋からだ。
「何処かな〜。アリス、何処に隠れちゃったのかな〜」
ピアスは小さく呟きながら、注意深く部屋中の気配を探った。
人の気配は皆無だ。けれど、もしかしたらということもある。
「ここかな?」
スタスタとベッドに近寄ると、バサリと毛布を剥がす。
けれど、アリスは居ない。
ほのかなアリスの香りが、ピアスの鼻孔をくすぐった。
優しい匂いだ。ピアスの気持ちも、優しく緩んでいく。
「好きな匂い。何だか眠たくなる……う〜ん……って、ああっ! 俺、アリスを探さなきゃいけないんだった……」
まどろみそうになるのを奇跡的に耐えて、ピアスは頭を振った。
ベッドの下を覗き込む。隠された空間は薄暗くて、少し独特の空気を保っていた。
この暗がりの中に、アリスが居るような気がしたのに。
(いないかな? いるかもしれないかな?)
僅かでも可能性があるなら、探さなくては。
アリスがピアスを待っているのだから。
ピアスは躊躇うことなく、ナイフを振りかざした。
部屋中を引っくり返すようにして、ピアスはアリスを懸命に探した。
それはもう、一生懸命に。
けれど、まだアリスは見つからない。
(ここはアリスの部屋なんだから、一番アリスが居そうな場所なのに)
ピアスは、無残な姿を晒す化粧台からふらりと離れた。
こんなに頑張っているのに、どうしてアリスは出てきてくれないんだろう。
「出てきてよ〜アリス〜」
きっと、すごく怒ったに違いない。
だから出てきてくれないんだ、とピアスは主の居ない部屋で捜索を続ける。
(この部屋にはいないのかな……森へ探しに行こうかな? でも、ちゃんとここにはいないってことを確認しておかなきゃ)
まだ無傷のトランクに目をつけた。
この中に、アリスは居るだろうか。
(俺、知ってる。中に入れるもん、これ。アリスは小さいから、絶対に入れるよ)
何度もそういうトランクを運ぶ仕事をしたことがあるのだから、間違いない。
その中身を確かめるべく、ピアスはトランクを手元に引き寄せた。中身がある重さだ。
そのまま開こうとしたが、鍵がかかっているようで、トランクは開かない。
「うう、開かないなあ……でも、開けなきゃ」
中に、アリスが詰まっているかもしれないから。
ピアスはナイフを握る手に力を込めた。
「せーのっ」
ガツッガツッと、ナイフの柄を思いきり叩きつける。
何度か鈍い音をさせると、鍵は呆気なく壊れてしまった。
「ねえねえ、アリス。この中に居る? 居るかな?」
そう期待しながらトランクを開いた、その時だった。
「ただいま〜」
背後から声が聞こえて、ピアスは反射的に振り向いた。
ドアを開けた人物がアリスであることを認めると、ピアスは立ち上がった。
「あ! アリス!」
良かった、アリスが居た。
その事が嬉しくて、顔が勝手に笑う。
アリスはただ、目を丸くしている。
ピアスが自分の部屋にいるなんて、思いもしなかったのだろう。
「あら? ピアス? 私の部屋で、どうし……た……の……」
アリスの言葉が、途切れがちに小さくなっていく。
それに伴い、アリスの表情もみるみる硬化していった。
「ピ、ピアス……」
「会いたかった! 俺、すっごく探したんだよ?」
引きつった顔のアリスに向かって、ピアスは心から満面の笑みを浮かべた。
「ベッド、の……下も?」
ピアスは目をぱちりとさせた後、頷いた。
「そうそう。アリスがいないかなーって思って」
アリスは緊張した面持ちで、一歩、後ずさりをした。
その距離を縮めたくて、ピアスは一歩、アリスへ歩み寄る。
「本棚、も?」
「うんうん。アリスが隠れてるかもしれないから」
ピアスの笑顔に邪気はない。
アリスが見つからなければどうしよう、とピアスは本気で思っていたからだ。
じりじりと後退していくアリスと、じりじり距離を詰めていくピアス。
顔色も動作も、何もかもが対照的だ。
「でも、見ぃつけた」
「……!」
にっこり笑って告げると、何故かアリスはより一層青ざめた。
「よかったぁ、アリスが見つかって……あれ? アリス、顔色が悪いよ? 気分が悪い?」
心配になったピアスは、アリスへ駆け寄ろうとした。
いや、実際、駆け寄ったのだ。
それなのに。
アリスの肩が、ビクリと震えた。
「……っ! ごめん!」
「ええっ!?」
アリスは身を翻して、青い森へと駆けていく。
驚いたのはピアスだ。
どうしてアリスは逃げるんだろう。
せっかく会えたのに。
不思議に思いながらも、ピアスは駆け出した。
せっかく会えたのに、離れては意味がない。
ピアスは慌てて、遠ざかるアリスを追った。
「アリス、アリス! どうして逃げるのっ!?」
その背に向かって声をかけると、アリスはパッと振り返った。
そして、信じられない、と目を瞠る。
「っぎゃー! ナイフ持ったままでこっち来ないでよー!」
アリスが叫ぶので、ピアスは驚いた。
「えええっ!? どうしてっ!?」
「怖いのよ! 怖すぎるの! 何で私を探すのに、ベッドをあんなに切り裂く必要があるのよ!」
アリスが見たアリスの部屋は、見るも無残な姿をしていた。
ベッドは崩れ落ちて『ベッド』の形を成さず、本は床に散乱し、カーペットはビリビリに裂けて布きれと化し、棚という棚は破壊されて――ああ。
狂気じみた光景を目に、アリスは何も言えなかった。
やらかした本人を前に、怒鳴りつけることもできなかった。
ピアスが、ナイフを持って笑っていたから。
下手に刺激すると危ない、と、アリスが本能的に彼を回避しようとしたのも無理はなかった。
だが、ピアスはそんなアリスの心情に気づかない。
「だってだって、隠れてると思ったんだもん! 細かく切らないと分からないでしょ!?」
「もし隠れてたとしても、私まで粉々になるわー!」
アリスとピアスは、互いに声の限りで言い合いを続ける。
森はただ静かに、その喧騒を受け入れていた。
「アリス〜! 逃げないでよ〜〜!」
「だから、ナイフをしまってー!!」
アリスの切なる叫びが、森に木霊した。
森の中を、素晴らしい速さでアリスは駆けぬける。
その後ろからは、ピアスが追ってきているだろう。
アリスはまだ、ピアスに追いつかれてはいなかった。
(ず、随分、走ったけどっ……!)
息を切らしながら、アリスは前だけを見据える。
足は痺れるように痛いし、鼓動も激しくなっている。
先ほどは怒鳴り合ったが、今は後ろを振り返る余裕がない。
人間、追い詰められたら思いもよらぬ力が出るものだ。
火事場の何とやら、がアリスにもあったとは。
足元の悪さも物ともせず、アリスはピアスから逃れようと懸命に走る。
「アリス……逃げちゃ嫌だよ、アリス!」
ピアスの悲痛な声に、アリスの胸は痛む。
けれど、あの光景を目の当たりにしたばかりの今、ピアスと普段どおりに向き合える自信がない。
「っ!?」
足に刹那的な痛みを感じて、アリスは顔を顰めた。
痛い、と思った途端、足が止まってしまう。
「な……」
アリスは痛みを感じた部分に目を向けて、思わず息を呑んだ。
自身の右のふくらはぎが、ぱっくりと裂けていた。
伝って滴り落ちていく赤いものを、アリスは呆然と見つめる。
傷は深くないか、と鈍い頭でぼんやりとアリスは思う。
目の端に、地面に転がるナイフが視界に入った。
その切っ先は赤かった。
「俺から逃げないでよ、アリス。俺、怖いことなんて何もしないよ?」
のんびりと声をかけられて、アリスは我に返った。
その途端に、鋭い痛みがアリスを襲う。
「い、痛っ……」
どうやら、やっと傷を自覚したらしい。
アリスは地面にしゃがみ込むと、傷口を手で抑えた。電流のように痛みが走る。
(なんで、ピアスが)
ショック、だったのだろう。
それも、とても大きい。
ピアスに攻撃されたことが、アリスには――。
「怖いことなんて、何もしない。君には嫌われたくないもの」
「ピアス、止めて!」
嫌だ、とアリスは首を振った。
ピアスに傷つけられるのは嫌だ。絶対に。
今まで信じていたものが、崩れてしまう。
(好きだった、のに)
アリスは、ピアスが好きだったのに。
追い詰められた状況でその感情を思い知るなんて、我ながら間抜けな話だけれど。
「え? どうして?」
ピアスは、止めろと言われて悲しそうな顔をしている。
本当に何も分かっていないのか、わざと知らない振りをしているのか。
「俺、アリスのことが好きだよ。大好き。だから、もっと近寄る。いいでしょう?」
「……っ!?」
ピアスは泣き出しそうだ。
アリスは、そんな彼を拒む術を知らない。
ピアスは、アリスの足へと目を向けた。
傍にしゃがむと、器用な手つきで止血をし始めた。
(なに……?)
アリスは呼吸をするのも忘れ、ただ固まっていた。
ピアスが何を仕掛けてくるのか、それだけを警戒して。
手当をした後で刺されても、今のアリスなら不自然だとは思わないだろう。
「あ……もしかして痛かった? ごめんね、俺、臆病なネズミだから。怖いから、加減ができなくて」
ごめん、と謝りながら、唇が重なる。
その柔らかさと手にしているナイフと、気遣うピアスが――ちぐはぐな感情に、アリスはすっかり混乱していた。
「怖いって、なにが」
ピアスの方が、よっぽど怖い。
「アリスだよ。アリスが近くに居てくれないと、俺、怖いよ」
手当をされた部分が、熱を持ったように熱い。ピアスは何を言っているのだろう。
(怖いって)
ピアスの方が怖いのに。
現にいまも、ピアスはナイフを手放してはいない。
(あれ……じゃあ、さっきのナイフは、別のものだったの?)
落ちていた辺りに目を向けたが、血のついたナイフは見当たらない。
「ピアス……お願い、ナイフを」
「ねえ、アリス」
静かな声音に、アリスはぎくりとした。
「な、なに……」
ピアスは、食い入るようにアリスを見つめている。
「ずっと近くに居てくれる? 俺と一緒に居てくれる?」
居たいに決まっている。
それなのに、アリスはすぐに答えることができなかった。
けれどピアスは、最初から答えなど望んでいないかのように、新たに言葉を紡ぐ。
「俺は、ずっとアリスと一緒にいるよ。アリスの傍に居てあげる」
ピアスの言葉が、鎖のようにアリスを囲う。
深い濃いグリーンの瞳に魅入られたアリスは、なす術もなく見つめ返すのみだ。
彼の瞳の奥底に、吸い込まれてしまいそうになる。
その、果てない深淵に。
「ねえ、アリス」
「やっ……!」
ピアスが手を伸ばしてきたので、アリスは思わず身構えた。
「はい、アリス」
手を取られて、小さな箱をそっと手渡される。
「これ、あげる。俺からのプレゼント」
「な、に?」
思考がままならない。
ピアスの言葉も、すんなり理解できない。
アリスは、ピアスと箱とを見比べた。ピアスは得意そうに微笑んでいる。
アリスがプレゼントを開けようとしないのが焦れたのか、ピアスは箱に手を伸ばした。
手早く包みをほどいて、中の物をアリスに見せる。
「それはね。アリスに似合うと思って、俺が町で買ってきたんだ。アリス、好き? 気に入ってくれた?」
「え、ええ……」
箱の中には、綺麗な緑色のリボンが入っていた。
銀の刺繍も丁寧で、滑らかな光沢を放っている。
アリスがおずおずと頷くと、ピアスは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「アリスは優しいから、大好き」
俺がつけてあげるね、と言いながら、ピアスはリボンを手に、一層アリスへと近づく。
ざくり、と土を踏む彼の靴音が、やけに大きく感じられた。
「……」
アリスは息を殺して、不安そうにピアスの動作を見つめることしかできない。
青ざめるアリスとは対照的に、ピアスは柔らかに微笑んでいる。
アリスは思わずピアスから目を逸らした。
「じっとしててね。俺、失敗しちゃう」
するり、と首に細く滑らかな感触がする。
(……? ああ、そっか。リボン……)
それがリボンである事を、アリスは薄っすら思い出した。思考がいまいち鈍っている。
(首?)
なぜ、首にリボンが。
そうアリスが考えたと同時に、ピアスの動きがピタリと止まった。
「……あ、の」
乾いた喉が張りついて、声が上擦る。
眩暈がする。ぐらりと、地面が歪んだ気さえした。
ピアスは何を考えているのだろう。
アリスの首に、リボンを押し当てたままで。
(まさか)
――まさか、このまま。
すごく嫌な想像が、アリスの頭を駆け巡る。
「ねえ、アリス」
しゅる、と擦れる音がする。
リボンを結ぶために、ナイフは何処かへ置いているようだ。
ピアスがようやく凶器を手放してくれていることに、アリスは僅かに安堵した。
そうして、自分の置かれている状況がいよいよ危ういことに気づく。
ピアスはその両手にリボンの端を握りしめて、笑っている。
「俺のこと、嫌いじゃないよね?」
嗤っている。
「〜〜〜っ!!」
「わっ!?」
アリスは渾身の力で、ピアスを突き飛ばした。
折れそうになる心を奮い立たせて、アリスは走る。
「待ってよ、アリス!」
背後からピアスの声が追いかけてきたが、アリスに振り返る余裕などない。
捕まれば、もう――。
崩れてしまう。
今まで信じていた物も、せっかく芽生えかけていた想いも、全て。
じわりと、目尻に涙が滲んだ。
怖くて、ただ怖くて、頭がどうにかなってしまいそうだった。
前方に人影が現れたことにも、すぐには気付けなかったほどに。
「あれ、アリスじゃん。どうしたの、そんなに急いで」
呑気な声がして、アリスは顔をあげた。
ふさふさしたピンクの襟巻が、目に飛び込んでくる。
「ボ、ボリス……!」
彼がいつ現れたのかなんて、今のアリスにはどうでも良かった。
ボリスはそんなアリスの様子を見て、訝しげに首を傾げた。
「ん、なに? アリス。どうし……」
「ボリス、助けてっ!」
「おわっ!?」
アリスは、反射的にボリスに飛びついていた。
彼女らしからぬ行動に、訳が分からないボリスは、ただ目を白黒させている。
「どうしたんだよ? ほら、落ち着いて。もう大丈夫だ。俺がいる」
優しく宥めるようなボリスの声に、アリスはようやく安心することができた。
ぽろり、と涙が頬を伝う。
アリスは、震える声でボリスに訴えた。
「ピアス、ピアスが……」
「……なに?」
ふと、アリスから血の匂いがした。
ボリスは、素早く視線を走らせた。
よく見れば、アリスのふくらはぎに傷がある。
真新しい傷だ。まだ鮮やかな血が滴り落ちている。
切り傷だろうか。そう、刃物で切られたような。
そして、彼女の青いスカートは、何か所か小さな破れが見られる。
ボリスの瞳が険しくなった、その時。
ガサガサと茂みを掻き分け、目の前にピアスが現れた。
「アリス、待ってよ〜〜俺まだ、何も……ぴっ!? にゃんこっ!?」
ピアスはボリスの姿を見つけると、みるみるうちに真っ青になった。
ボリスは無言で、アリスとピアスとを見比べる。
「……」
傷や着衣の乱れなど、尋常ではない様子のアリス。
ピアスを見て、体が震えたアリス。
となると、答えは一つしかない。
ボリスの額に、くっきりと青筋が浮かぶ。
縮こまるアリスの肩を抱くと、自分の背後へ誘導した。
背中からホッと緩む気配がして、それが尚更、ボリスの怒りに変わる。
「てめえ……」
ボリスの地の底から響くような声音に、ピアスは竦みあがった。
「な、なにっ!? どうしてっ!? 何でそんなにボリスが怒ってるの!?」
「当たり前だろうが!!」
ボリスは短く怒鳴ると、躊躇いなく銃を抜いた。
固まるピアスを睨みつけながら、銃口を向ける。
「ピアス……無害そうな面しやがって、堂々とアリスを襲うとはな。お前にしちゃあ、いい度胸じゃねえか!」
「襲うっ!? お、おお、俺、そんなこと」
「言い訳無用。とっとと散りな!」
「わあああっ!?」
静かな森に、立て続けに銃声が響いた。叫び声と、怒声も。
「待ちやがれ! てめえ、骨も残してやらねえ!」
「ぎゃあああああっ!?」
ピアスは必死の形相で、器用に銃弾を交わして逃げていく。
ボリスは、そんなピアスを容赦なく攻撃し続けた。
けれど、彼の後を追いかけはしなかった。
「……ちっ。逃げ足となると早いんだよな、あの野郎」
ピアスの姿が見えなくなると、やっとボリスは撃つのを止めた。小さく舌打ちをするに留まる。
ボリスは、くるりとアリスの方へ向き直った。
「ごめんね、あんたの為にも、あいつにトドメ刺してやりたかったけど……。今は、あんなのよりも、あんたの方が心配だからさ」
ボリスは苦笑しながら、アリスの顔を覗きこんだ。
追いかけて行かなかったのは、アリスが居たからなのか。
「た、助かった……」
急に疲れを感じて、アリスは地面にへたり込みそうになった。
そんな力の抜けた体を、そっとボリスが支えてくれる。
「大丈夫?」
「あんまり……でも、ありがとう。ボリス」
アリスが力なく笑うと、ボリスは目を細めた。
「……やっぱ、追いかけて殺ってこよっか?」
不機嫌そうな物言いに、アリスは小さく首を振った。
アリスの答えは、ボリスとしては不服なようだが、殺られては困る。
(ピアス……)
ピアスの事が、浮かんでは消える。
ともかく、ボリスが現れてくれて本当に助かった。
あのままピアスに殺されていても、何ら不思議ではなかった。それも、訳の分からないままに。
好きな人に殺されるのは、ある意味では幸せなのだろう。
けれど、そんな悟りの境地には、まだアリスは至れなかった。
(……やっぱり、踏みとどまるべきかな……)
自制が可能かどうかは、別の話として。
「えええ!? アリス、俺に殺されると思ったっ!? な、なな、何でっ!?」
「だ、だって……」
カチャ、と慌てた所作で、ピアスはコーヒーカップをソーサーに戻した。
追いかけっこ騒動があって数時間帯後、アリスはピアスと一緒に居る。
ピアスの方から、お茶の誘いがあったのだ。
冷静さを取り戻せていたアリスは、お茶の誘いに乗ることができた。
(どうして……)
殺そうとしたのに、何故、いつものような笑顔で誘いに来れるのだろう。
(……何か、腹がたつわ)
アリスばかりが振り回されている。
苛立ちすら覚えたアリスは、思い切って、ピアスに真意を問いただしてみた。
「どうして!? 俺、アリスを殺そうなんてしてないっ! してないよっ!!」
ピアスは余程心外だったのか、あわあわと慌てふためいている。
そんなピアスを、アリスは横目で眺め見た。
(……そうかなあ?)
アリスには、さながら悪魔のように見えたから。
いや、あの状況では、そうとしか見えなかった。
「部屋中は無茶苦茶にしてるし、ナイフ持ったまま追いかけてくるし、とうとうナイフまで投げてくるし、リボンは首に巻くし、もう何がなんだか」
アリスは指を折りながら、怖いと思ったポイントを口にする。
やっぱり――改めて羅列していくと、ピアスに殺意があったとしか思えない。
アリスはこっそりと、ピアスから距離を取った。
「ぬ、濡れ衣! 濡れ衣だよ!」
「へえ? 私の部屋、ピアスがやったんじゃないのね?」
「うっ……そ、それは、俺だけど……でもでもっ! 俺、アリスが隠れてると思ったんだよ! この間は置いてけぼりにしちゃったから、アリスが怒って隠れちゃったのかもしれない、って。だからねっ! 俺、アリスを探したくって、つい……」
ピアスの弁解を聞き流しつつ、アリスは思い出した。
そういえば、ピアスに逢いに行ったのに、逃げられてしまったことがある。
(あれも、結局よく分からないままなんだよね……)
ピアスを理解するには、まだ相当な努力が必要なのだろう。アリスの方に。
ただ、分かる事は。
(あー……悪気はなかったのね……)
プレゼントを用意した、と言った理由を、アリスはようやく理解した。
――あの所業、ピアスに悪気はなかったのだとしたら、そっちの方が性質が悪い気がするのだが。
「確かに、ナイフ持ったままで追いかけちゃったけど……アリスが見つかったから、俺、嬉しくて」
ピアスの懸命な説明は続く。
「でもっ! でもね! ナイフは、俺、つまづいて転んじゃった弾みで飛んで行ったんだよ! わざとじゃないよ!」
それは――ピアスなら、有り得る話だ。
そこは信じることにして、だ。
「じゃあ、リボンのことは?」
どうして、リボンを首に巻きつける必要があったのか。
ピアスは真剣な顔で、アリスに訴える。
「リボン、首に巻こうとしてたよ? だって、首にリボンをつけたら俺のって感じだし、いいと思ったのに」
そう言うと、ピアスはしょんぼり項垂れた。
「……そう、なの」
彼の言い分からすると、ピアスには悪意はなかった。
それならば全て、アリスの早とちりだったのか。
「酷いよ、アリス〜〜……俺、アリスのことが好きなのに」
さりげなく離した距離を、縮められる。
気がつけばピアスに唇を重ねられて、アリスの思考は安堵に緩んだ。
よかった。やっぱり、ピアスはいつものピアスだったのだ――と。
疑い深い性格が、矛先を自分へ向けてしまっただけだ。
ただ、それだけの話だった。
それでも頭の何処かで、燻ぶっている。
(不自然な気がする)
ピアスの言ったことは、全て本当のことなのだろうか。
ナイフは、二本あったのではないか。
(確かに、あの時は)
アリスを傷つけたナイフは、ピアスの持っていた物と違っていた。
けれど、確証がない。
あの時アリスは酷く混乱していた。
そのせいで、記憶が錯綜しているのかもしれない。
アリスには、真実はわからない。
【隠れて見つけて/了】
===== あとがき ===
2011年12月発行のピアリ合同誌『 YAMANE 』より。
不穏な感じのピアスが書きたくて。
真意はどこにあるか分からないってのが魅力的。
読んでくださってありがとうございました。