帽子屋パラダイス
静まり返った夜の森に、銃声が響き渡る。
夜の帳に眠りについていた鳥達は、強制的に目を覚ますことになった。
不意打ちの轟音に対しての抗議を鳴き声に変えながら、次々に暗い空へと飛び立っていく。
「ピーアースー?」
「わわわわわっ!」
重苦しい緊張感の中、対峙しているのはボリスとピアスだ。
薄暗い森の中、互いの表情はわからない。
ボリスは習性なのか、ネズミ――ピアスを追いかけることを好む。
ただ追うだけなら可愛いものだが、ピアスにはもれなく死の危険が付随してくるのだ。
毎度毎度、ボリスに見つかる度に、ピアスは追いかけまわされることになる。
そうして、命からがら逃れ――けれど、今日は違った。
今日に限って、ボリスは執拗に追いかけてくるのだ。どこまでもどこまでも。
ピアスは森の端から端へと逃げ惑ったが、まだボリスは諦める様子がない。
追いかけるスタイルも普段とは違う。
いつもならナイフとフォークだけを構えているのだけれど、今日のボリスの手にあるのは拳銃だ。
森中をすばしっこく逃げ回りながら、ピアスはふと眩暈を覚えた。
ボリスはまだついてくる。濃密な怒りの気をまとって。
(ど、どうしよう、逃げなきゃ! 食べられちゃう!)
どうしてこんなことになっているのか全く解からぬまま、焦燥感だけが募る。
ボリスに捕まったが最期、死ぬ。
そのことを、本能的にピアスは察知していた。
早く飽きるか諦めるかして欲しい、と一縷の望みを抱く一方で、そう上手くいく筈がないことも、心のどこかで判っていた。
けれど、こんな所で死ぬわけにはいかないのだ。
まだボリスに食べられるわけにはいかない。
一人の優しい少女の顔を思い出す。
次の夜に一緒に遊ぼう、とアリスと約束したのだ。
話したいことだって沢山あるし、二人で行きたい場所だって山ほどある。
彼女が笑う顔をもっと見たいし、もっと名前を呼んで欲しい。
そして、やわらかい指で優しく髪を撫でて欲しい。
やはり捕まるわけにはいかない。
もっともっと一緒に遊んで、いっぱいやりたいことがあるのだ。
(そうだ、アリス! アリスならっ!)
きっと助けてくれる。いや、これは男らしくなかった。
アリスが傍に居るならば、たとえ猫にだって立ち向かえる――かどうかは、わからないけれど。
ピアスは残る力を振り絞って、全速力で駆け出した。
アリスの滞在先でもある、帽子屋屋敷へ向かって。
ピアスは駆ける。
遠目に目的の少女の姿をやっと見つけると、一直線に飛びついた。
「アリス、アリスー!」
「え」
屋敷内に響くような声に驚き、アリスは手を止めて振り返った。
「ど、どうしたの、ピアス。こんな所で」
驚きのあまり、声が上擦ってしまった。
何故、ピアスが屋敷内にいるのだろう。
ピアスといえば森、というイメージが、アリスの中に定着していた。そして、ふと気づく。
(って、別にいいのか……ピアスも関係者なんだし、一応)
考えてみれば、そう不自然なことではない。
けれどピアスは、滅多なことでは帽子屋屋敷に寄りつかないのだ。
仕事関係で近づくことはあれど、プライベートでピアスが屋敷に居る場面をアリスはついぞ見たことがない。
それは、双子に容赦なく苛められ、ブラッドには瑣末な理由で迫害され――その暗い思い出のせいだろう、とアリスは勝手に思っている。
考えている途中で、ピアスにがばーっと抱きつかれた。
完全に不意打ちだったので、アリスはもんどりうって倒れそうになった。
だが、幸か不幸か壁際に居たせいで、壁に激突する程度で済んだ。けれど、かなり痛い。
「いっ……!」
文句のひとつでも言ってやらねば気がすまない、と口を開きかけて、止めた。
ピアスは、それはそれは悲壮な表情で、アリスを見上げていたのだ。文句も止まる。
「アリス、助けてっ! にゃんこがっ!」
「にゃん……ボリス? ボリスに追いかけられているの?」
ピアスは涙を浮かべ、アリスに訴えた。
「そうなんだよっ!
今日のボリス、何だか変なの! すっごく怖い顔してたの!
それでねそれでね、俺のことずーっと追いかけてくるんだ! ずーっとだよ!?」
ピアスは一気にまくしたてると、アリスだけが頼りだと言わんばかりにしがみついた。
「お、落ち着いて、ピアス」
ついには震えだしたピアスをなだめすかしながら、アリスは冷静に考えた。
実はアリスも混乱しかけたのだが、ピアスの方がもっと錯乱している。
片方は冷静で居なければ、まともな判断ができない。それは、今のアリスの役目でもあった。
まずはピアスを落ち着かせなければ、とアリスはひとつ提案する。
「そうね……とりあえず、私の部屋に来る?」
そうでなくても、アリスは仕事の途中だ。
しかも場所は廊下である。これでは落ち着いて話もできない。
ピアスの丸い耳が、ピクリと反応した。
パッと表情を明るくすると、こくこくと頷く。
「アリスの部屋? うんうん、行く行くっ! 俺、行くよっ!」
ピアスは大人しく、アリスに手を引かれる。
年齢はきっと同じくらいの筈なのに、自分より遥かに幼いと感じてしまうのは、彼の言動によるところが大きい。
ピアスを見ていると、母性本能が妙に疼くのだ。守ってあげなくては、と思ってしまう。
自室まで辿り着くと、アリスはピアスをソファに座らせた。
「ここに隠れていて。私は仕事の続きをしてこなくちゃいけないから、大人しく待っていてね」
そう言いながら離れようとすると、ピアスは慌ててアリスの手を掴んだ。
勢い良く引っ張られたので、危うく転びそうになる。
「嫌、嫌だよ、アリス! 俺を一人にしないでっ!」
「大丈夫よ、ピアス」
アリスは苦笑を浮かべながら、掴まれていない方の手で、優しくその髪をなでる。
(ボリスも、さすがに屋敷の中にまでは追ってこないと思うんだけどな)
このクローバーの国には遊園地がない為、もうボリスとは敵対しているとはいえない。
味方ではないが敵でもない。
だから、今はボリスの侵入を許してしまうかもしれない。
「それに、すぐ終わるから。一人って言っても、ちょっとの間だけよ?」
尚も不安そうな視線を向けるピアスに向かって、アリスは大丈夫だと微笑む。
小さい子に語りかけるように、視線の高さを合わせる。
ピアスの目はうるうると潤んでおり、アリスの心はぐらりと傾きかけた。
「本当? 本当に、すぐ戻ってくる?」
「ええ。急いで片付けてくるから」
ここでいい子にしていてね、と付け加えると、ピアスは渋々頷いた。
「わかった、わかったよ。俺、大人しく待ってる……」
「ごめんね。すぐ戻るから」
しょんぼりと項垂れるピアスを見て、アリスはぐっと言葉を飲み込んだ。
本当なら、ずっとついていてあげたい。
だがしかし、与えられた仕事を途中で放棄するなどという責任感のないことは、絶対にしたくなかった。
後ろ髪を引かれる思いだったが、アリスは心を鬼にして扉を閉めた。
一人残された空間を、ピアスは物珍しそうに眺め見た。
「……アリスの部屋」
屋敷内にある他の部屋と、外装は特に変わらない。
けれど、アリスがいるというだけで、そこは特別な部屋だ。
「アリスがいる部屋……アリスの部屋だ」
ピアスはソファからゆっくり腰をあげると、きょろきょろと部屋中を見回した。
不思議と、妙に胸が疼く。
ピアスは、そーっとアリスのベッドに近づいてみた。
誘惑に耐え切れずベッドに倒れこむと、途端に優しい香りが広がった。
胸いっぱいに吸い込みながら、ピアスは自然と微笑を浮かべていた。
どうしてこんなに優しい気持ちになれるのだろう。
今まさに追われているのに、何故か安心して心がとろけてしまう。
アリスはなんて不思議な子なんだろう。
このクローバーの国になって、本当によかった。
アリスと巡りあえた幸運を、ピアスはそっと噛み締める。
「いい匂い……」
襲ってくる睡魔には勝てず、ピアスはもぞもぞと毛布にくるまった。
アリスは、額に浮かんだ汗を男らしい動作でぬぐった。
できるだけ早く、と猛スピードでがっしがっしと床を磨き、ばさばさと箒で掃き掃除をし――半ば強制的に、本日の仕事を終わらせた。
我ながら、乱暴な手つきだったと思う。
やり残した部分もちらほらある。
不満は残るが、目を瞑ることにした。今はピアスの方が気がかりだ。
「よし、後は道具を片付けてくるだけね」
もう使わないであろう道具を手に取る。
少し離れた場所にいる同僚に、作業の邪魔をしないように声をかけた。
「これ、外かしら?」
同僚は手を止めると、ゆったりと視線を向けてきた。
「はい〜そうです〜。私が片付けてきましょうか〜?」
「ううん、私が行くわ。ありがとう」
一分一秒でも惜しい今、本当は言葉に甘えたいところだが、こういう部分では甘えられない。
「わかりました〜。お疲れさまです〜」
「お疲れさま」
和やかに声を掛け合い、アリスはメイド達と別れた。
辺りに人気がなくなったことを確認すると、途端に小走りになる。
急いで階段を降りようとして、アリスは何の気なしに窓の外を見た。
そうして、ぴたりとその足を止める。
(あれ?)
門の所に違和感を覚えて、アリスは改めてじっくりと目を凝らしてみた。
ディーとダムは今、勤務時間である。
二人がいることには、特に問題はないのだが。
遠目にもよくわかる。
赤、青、ピンクの極彩色三人衆は、並んでいるだけでも目立っていた。
「……ボリス?」
ボリスしかいない。
あのピンクの代名詞のような猫を、アリスは他に知らない。
(どうしたんだろう……って、まさか)
『今日はすっごくしつこいんだ』と言っていた、ピアスの言葉が脳裏に蘇る。
(まさか、ピアスを追って?)
そう思ってから、アリスは首を振った。
ボリスはそんなにしつこい性格ではない。
どちらかというと、彼の気性はカラッとしている。
(……まさか、ね。単にディーとダムに用事があったのかもしれないし)
双子とボリスは仲がいい。
ブラッドやエリオットも、ボリスの来訪を知っていても、特に咎めはしていないようだった。
(でも)
ボリスの現れたタイミングが引っかかる。
片付けがてら近くに寄ってみよう、とアリスは階段を駆け下りた。
「へえ、そうなんだ」
「それは許せないよね」
「だろー?」
三人は、何やら熱心に話し込んでいる。
熱心というか、殺気すら漂っているではないか。
そんな彼らの黒々しい雰囲気を遠目に見て、アリスは少し躊躇した。
声をかけ辛い状況ではあったが、アリスは意を決して三人へと近づいた。
「こんにちは、ボリス」
声をかけると、三人は一斉にアリスの方を見た。
声の主がアリスだと知ったボリスは、その視線を和らげる。
「お、アリス。こんにちは。その格好、仕事中?」
「うん」
双子はアリスを見るや否や、胸に飛び込むように抱きついてきた。
「お姉さんだ!」
「こんにちは、お姉さん!」
無邪気にじゃれついてくる二人を受け止めながら、アリスは微笑んで返した。
「こんにちは、ディー、ダム。さっき、二階からボリスの姿が見えたから、つい。今日は三人で遊ぶの?」
問いかけると、ディーとダムは揃って頷いた。
「うん、三人で遊ぶんだよ。そうだ! お姉さんも混ざらない?」
「それはいいね。楽しくなるよ」
俄然張り切り出した双子を見るアリスの瞳が、次第に柔らかくなる。
こうして遊びに夢中になっているところなんかは、子供らしくてとても可愛い。
パッと見、彼らは、邪気なんて言葉とは縁がなさそうに見える。実際に一番近いのは、この二人なのだけれど。
「何をして遊ぶの?」
重ねて尋ねると、三人は笑みを深めた。
「とっても楽しい遊びだよ、お姉さん。お姉さんが参加してくれるなら、きっともっと楽しくなるよ!」
「うん、名案だ。ね、アリス。俺らと遊ばない?」
ボリスも快諾し、三人は揃ってアリスを誘ってくる。
「あー……」
その誘いは、とても魅力的だった。
双子だけならともかく、ボリスがいるのなら、そう酷い目にはあわないだろう。
きっと楽しく過ごすことができる。アリスは迷った。
ピアスの泣きそうな顔を思い出し、それが決断の決め手となった。
アリスは小さな嘘をつく。
「ごめん、仕事がまだ途中で。また今度誘ってね」
「えー」
双子と猫は、揃って口を尖らせた。
けれど、三人の中では最も聞き分けの良いボリスは、あっさりと引いてくれた。
「ちぇっ、残念。ところでさ、アリス」
「うん?」
「ネズミ、見なかった?」
ぎくりとして、アリスは表情を強張らせた。
いけない、と慌てて表情を取り繕うも、彼らには見抜かれたかもしれない。
「……ネズミ?」
聞き返すと、ボリスは大きく頷いた。
「うん、そう。頭の悪いネズミ」
すぐさまピアスを連想してしまい、アリスは彼に申し訳なくなった。
ボリスの言葉を引き継いで、双子がにこにこと続ける。
「そうそう。おっきなネズミがここに紛れこんだらしいんだよねー。だから、三人でネズミを探し出す遊びだよ」
「うん、ネズミを探し出すんだ。三人で」
クスクスッと笑う三人の顔は、邪悪と形容しても過言ではない。
アリスは頬を引きつらせた。
(ピアスが逃げ出すわけだわ……)
関係ないはずのアリスだって、この三人を相手にしろと言われたら逃げ出したくなる。絶対に無理だ。
「ネズミなんて、見かけなかったけど」
アリスはぎりぎりの答えを出した。
本当に、ネズミは見かけていないのだ。本物のネズミは。
(……ピアスが偽物のネズミっていうわけじゃないけど、ね)
とりあえず心の中で、この場に居ないピアスに弁解しておく。
三人は、意外と素直にアリスの言葉を信じた。
「そっかー、見なかったんだ……じゃあ、庭かな?」
「ここの庭、無駄に広いもんね。探しに行こう」
「おう。じゃあね、アリス。ネズミ捕ったら、あんたに見せてやるから。楽しみにしててよ」
ボリスは魅惑的に微笑む。
誇らしげに獲物を見せに来たダイナを、瞬時に思い出す。
すごいでしょう、褒めてと輝く瞳と共に。
「い、いらない……って、ネズミって、まさかピアスのこと?」
アリスは、念のために確認することにした。
本当のネズミでも要らないことには変わりないが。
ひょっとしたら、ピアスのことではないのかもしれない。
そんなアリスの期待を裏切って、三人はあっさり肯定した。
「うん、そうだよ。馬鹿なネズミ」
「一等頭の悪いネズミだよね、あいつ」
アリスはむっとしかけて、それでも踏みとどまった。
(何も、そこまで言わなくっても)
確かに、ピアスは頭があまり良くないと思う。
けれど、あんまりな言い分だ。虐げて当然、としているところが気に食わない。
けれど、アリスは懸命にも口を噤んだ。
ボリスは恐ろしく聡い。ディーとダムも然り。
彼らに、絶対に気取られてはならない。
言動が不自然に聞こえないようにする為に、アリスは慎重に言葉を選ぶ。
「ピアスなら、森にいるんじゃないの? どうしてここを探すのよ」
とりあえず、すっとぼけておく。
これは妥当な反応だろう。
「ううん、あいつは今、森にいない。森中を追っかけまわしたからさー、逃げ出したんだ」
ボリスは事も無げに答えた。
その口調は、「魚がいたから捕まえたんだ」ぐらいに軽い。
「……何でまた、そんなこと」
心からの溜息を吐きながら、アリスは呟いた。
けれど、ボリスはけろりとしている。
「俺は猫だもん。猫はネズミを追いかけるものだよ。それに」
ボリスは妙なところで言葉を切った。
彼の表情が言葉の途中で変わったようにも見えたが、それは単なる気のせいかもしれない。
「それに?」
「ううん、何でもない」
ボリスはにっこりと笑う。
気にはなったが、それ以上、下手に追求することもできなくて、アリスはもやもやした気持ちを胸の奥底へと押し込んだ。
「……ねえ、あんまりピアスを苛めないであげてね」
ボリスだけならまだしも、双子も加わったとなると……不憫すぎる。
最初は『怪我でもしないか心配』だったのだが、『死なないか心配』に悪化した。
すると、ボリスはスッと表情を消した。
ディーとダムの視線も、やや冷たくなったように感じる。
想定していたどの反応とも違い、アリスの心はざわめいた。
「アリス……あんなのが好きなの?」
「え? そりゃ、まあ……嫌いじゃないわよ」
そう、嫌いではない。
(……ちゅうちゅう言うけど)
あれはかなり困る。
けれど、何だかんだいってピアスは憎めないのだ。
可愛いとさえ思う。癒される、と言ってもいいかもしれない。
二人のやり取りを黙って見ていた双子も、ほんの僅か、その声音を低くした。
「ネズミは害獣だよね、駆除しなきゃ」
「そうそう、駆除しないとね。汚染が広がる前に」
確かにそうとも言えるが、ピアスはそれほど害はないのだ。
「ディー、ダム……ほどほどにね。ピアスは仲間じゃないの」
「仲間? 違うよ、お姉さん」
諌めようとするも、双子はあっさりと切って捨てた。
はっきりした物言いに、アリスの方が面食らってしまう。
「たった今から、あいつは敵とみなすことにしたんだ」
「そうそう。僕らの敵。ボリスの敵でもある。利害の一致した関係っていいよねー」
「え、ええ?」
ディーとダムとボリスは、互いに頷きあっている。
共通するものが何なのかを見いだせなくて、アリスはただ困惑した。
その間に、三人はくるりと体勢を変えた。
「じゃあ、行ってくるね」
「期待しててねー」
「は、はは……」
ひらひらと手を振りながら立ち去る三人を、アリスは乾いた笑顔で送り出した。
冷や汗が一筋、アリスの背中に滑り落ちた。
「……まずいんじゃないの」
想像していたよりも、もっと事態は深刻のようだ。
「ピアス、いるっ!?」
勢いよく扉が開かれ、アリスが部屋に飛び込んできた。
まどろみの中にいたピアスはすぐさま反応し、がばっと跳ね起きる。
「いるいる、いるよっ! お帰りなさい、アリスっ!」
「わっ」
ピアスは、満面の笑顔でアリスに抱きつく。
「俺、大人しく待っていたよ。えらい? えらいでしょ?」
「そ、そうね、えらいわね」
追われている身なのに、大人しくして当たり前だ。
そう言いたかったのだが、このキラキラした目を前に、口にすることはできなかった。
「ねえねえ、アリス。ちゅうしよう? アリスがお仕事頑張ったご褒美に、俺がちゅうしてあげる!」
「は?」
「ちゅうしたくなったんだ。俺とちゅうしようよ」
じりじりとにじり寄られて、アリスは後ずさった。
隙をみては距離を詰めてくるピアスを、ぐいぐいと腕で押しのける。
「あ、あのね……そんなことしてる場合じゃないの。聞いて頂戴」
「うんうん、聞くよ。なになにっ?」
ピアスは姿勢をきちんと改めた。
こういう彼の素直な部分にホッとする。ピアスは比較的、操縦しやすい方だと思う。
「ボリスがいたわ」
「ぴっ!?」
ピアスの表情が、かちんこちんに固まる。
追撃するのは酷かと思ったが、更に言っておかねばならないことがある。
まるで死刑宣告をしているような気になった。アリスの気持ちも沈む。
「……しかも、ディーとダムと手を組んだわ」
「え、えええええっ!?」
ピアスは文字通り、真っ青になった。その尻尾がぶわりと膨れ上がる。
「ど、どうしよう!?」
「うーん……一緒に考えましょう」
関わってしまった手前、ピアスを一人でここから放り出すわけにもいかない。アリスはそこまで薄情ではない。
「うんうん、俺考えるよっ! たくさん考える!」
「ええ。何だか、見つかったらおしまいな気がする……協力は惜しまないわよ」
「ありがとう、アリス! 君ってやっぱり優しいよね! 大好きだよ、アリス」
きゅっと両手を握り締められ、アリスはぎくりとした。
「あ、ありがとう……」
ピアスは感動してくれたが、言うほどアリスは優しいわけではない。
優しい、と断言されると、やや気後れしてしまう。
「本当に本当だよっ! だって、ネズミに優しくしてくれるのなんて、アリスしかいないもん。だから、俺、アリスのこと大好き!」
「……」
いじらしい、と、胸にほろりとくるものがあった。
そう、この子を守る為ならば。
アリスはピアスの隣に腰をおろした。
「庭から捜索するとは言ってたけど、ここも危ないかもしれないわねー……」
「ううう、どうしよう……」
主導権はアリスにある。
もとい、ピアスはアリスを頼ってきたのだ。ここで守ってやらねば、女が廃る。
「移動するにしても、メイドさん達にはなるべく見つからないようにしないとね」
「え? 何で何で?」
「ディーとダムが詰問したら、言っちゃうと思うの」
「そっか……難しいや」
「ええ」
むしろ、ここも危ないのではないか。
そんな予感がひしひしとする。
乙女の部屋には勝手に入らない、と信じたいが、双子がいるのだ。強硬手段を使ってくるかもしれない。
「ここじゃなくって、お城に逃げたらどうかしら? ペーターに頼んで、しばらく匿ってもらう?」
これは一見、いい案に思えた。
ペーターなら、アリスが協力を頼み込めば何とかなりそうだ。
ボリスはビバルディが苦手なようだし、きっと諦めるだろう。
ただ、ペーター自身が、アリスが見ていない隙を狙って、ピアスを撃ちそうではあるが。
アリスの提案に、ピアスは目を見開いた。
「お城……お城は、嫌だっ! 嫌だよ、怖いもん! 酷いこと言うんだ!」
「だ、誰が? ペーターのことは好きじゃなかったの?」
ペーターはピアスを嫌っている。
それはもう、目に見えて毛嫌いしている。
ペーターはピアスに対して、容赦のない言葉をばんばん言う。
刺々しいどころか、棘そのもののような言葉を。
けれど、ピアスは何故かそんなペーターが好きだと豪語していた筈なのだが。
あれだけ言われて、さすがに心変わりしたのだろうか。
「ペタちゃんは好きだよっ! けど、けどっ……!」
「……ビバルディとエース?」
言葉を継いでやると、ピアスは首がもげんばかりの勢いで頷いた。
「そうそう、そうだよ! あの二人、俺に酷いこと言うんだ……嫌い」
しょんぼりと小さくなるピアスを見て、アリスは額に手をやった。
確かに、あの二人とピアスの相性は最悪だ。ペーターとも、けして良いとは言えないけれど。
「そっか、お城はまずいわね……」
女王様に駆除されてしまう。
しかも、ハートの兵士の大軍つきで。
それを考えると、まだボリス相手の方がマシ……いや、こちらもわからない。
いっそのことクローバーの塔に逃げ込めば、とも思ったが――あの場所を今、通りたくはない。あの、扉が囁きかけてくる、奇妙な空間を。
二人で唸りながら考えに考えたが、良い案は思い浮かばなかった。
移動してもしないでも、危険な気がする。どうするべきか、アリスにはわからない。
扉をノックする音が聞こえ、ピアスとアリスは飛び上がった。
===== あとがき ===
ちょいピアス寄りのファミリー本、と言ってたヤツです。
本にしようかなーと思ってたんですが、そういえばHPにまだ作品少ないじゃん、と思いまして。
んで、HP用にしました。削り削り。
後編はちょっと変えようと思うので、もうしばらくかかります。
読んでくださってありがとうございました。
09.1.1 山藤