森に落ちる。前編











 アリスは一人、木の陰で本を読んでいた。

 いま読んでいる本は、アリスにしては珍しい、ファンタジーに類される本だ。
 表紙を見て、つい手にとってしまったのだが、これがまた非常に――面白くない。

 空を飛び交う風船に、色とりどりのお菓子。魔女に妖精にドラゴンに友情、と夢みる乙女的な要素がこれでもかと詰め込まれている。

 けれど、全く心が弾まない。

 物語も佳境に入っているというのに、アリスの気持ちはいまひとつ盛り上がらない。むしろ下がる一方だ。
 勇者がドラゴンを倒そうが、魔女が改心しようが、そんなことはどうでもいい。そんなありきたりな話では物足りない。
 
 特に文章が下手で引っかかている、というわけではない。
 アリスの指先は、至極つまらなさそうに頁をめくる。この物語は、欠けている。


(何が足りないっていうか)


 たとえば――。
 妙な格好をしていて、音楽で人を殺せるという特技をもっていて、それでいてとても優しく笑う人が。

 そんな人が、この物語にも居ない。


(居てくれたっていいじゃないの)


 せめて、お話の中でくらいは。

 アリスは、この本を買った事を後悔し始めていた。
 まったく、表紙で買うものではない。買ってしまったからには、一応は読むのだけれど。
 アリスは難しい顔のまま、また頁をめくった。傍目からみれば、難解な推理小説でも読んでいるように見えるだろう。


(……ん?)


 ふいに、視界が陰った。
 アリスが顔をあげると、ピアスと視線がかち合った。いつの間にか、背後から手元を覗きこまれていたらしい。
 二人の目が合った瞬間、ピアスは嬉しそうに微笑んだ。


「ねえねえ。アリス、アリス」
「ピアス……どうしたの?」


 アリスは静かに本を閉じた。いまはこれ以上、読めそうにもない。
 閉じられた本の表紙には、遊園地が描かれていた。


「俺、お腹すいちゃった。だから、お昼にしようよ! チーズフォンデュしない? チーズフォンデュ!」
「……また?」


 アリスの傍らでぐっすり眠っていたボリスが、むくりと体を起こした。眠たそうに目を擦り、体を伸ばす。


「チーズフォンデュ……そりゃ、俺もチーズは好きだけどさ。何か、続いてない? ここんとこ」
「続いてる」


 アリスは、ボリスにしっかりと同意した。
 アリスが三人で平和的な食事を、と始めたこととはいえ、こうも毎食チーズフォンデュばかりだと飽きる。飽きるというよりも、胃にくる。


「とりあえず、お茶にしましょう。まだお昼には早いし」


 体感、だけれども。
 アリスの提案に、ピアスもボリスも賛同してくれた。立ち上がりかけたアリスは、ふと思いついて、ボリスに聞いてみた。


「そういえば、ボリスはコーヒー派? 紅茶派?」


 ボリスとは長く一緒にいるが、こうして改めて聞いたことはなかった。そういえば、どちらなのだろう。
 ボリスは少し考えた後、小さく肩をすくめてみせた。


「どっちでも。特にこだわってはいないよ」
「そうなの? じゃあ、今はどっちがいい?」


 ボリスが、ブラッドのように絶対に紅茶、などとうるさくなくてよかった。
 内心安堵しながら、アリスは更にたずねた。気分で変わるものならば、彼に合わせてあげたい。


「俺はコーヒー! コーヒーがいいな!」
「お前には聞いてねえって……俺もコーヒーがいいかな」
「ん、わかった。待ってて」


 アリスは今度こそ立ち上がると、さっそく準備に取りかかった。

 アリスが飲み物を淹れている間、ピアスもボリスも細々と動いた。
 大きめの机と三人分の椅子を運び出して、テーブルクロスをかける。少しばかり殺風景だが、森のお茶会の出来上がりだ。
 セッティングを終えると、二人はアリスが来るまでおとなしく席について待った。


「お待たせ。はい」
「ありがと」


 ボリスはカップを受け取ると、そのまま口をつけた。「美味しいよ」と微笑んで言われ、アリスは笑顔で返す。
 ピアスの前にもカップをひとつ置くと、アリスも自分の席についた。自分の分だけは紅茶だ。
 コーヒーも嫌いではないのだが、どちらかというとアリスは紅茶の方が好きだ。

 テーブルの中央に、焼き菓子が綺麗に並べられた皿を置く。ピアス用に、別の物を盛った皿も置いた。


「美味しい! アリス、美味しいよ!」
「そう、よかった」


 はしゃぐピアスに、アリスは苦笑いを浮かべた。ボリスも、実に微妙な顔をしている。

 ピアスの飲んでいるコーヒーには、砂糖とミルクがこれでもかと入っている。ボリスに淹れたものよりも、少なくとも三倍は入っている。
 胸やけがしそうだな、とボリスと目配せをし合いながら、アリスは紅茶に口をつけた。
 クッキーやらマドレーヌやらをちょくちょく摘みながら、三人はゆったりと過ごす。

 三者三様に、和やかな時間を共有していたのだが。
 ピアスがもりもりと食べている物を見て、ボリスは心底いやそうに顔を歪めた。


「コーヒーとチーズってお前……てか、それはいい。百歩譲って、いいことにする。けど、食ってる量がお茶うけの量じゃないだろ、それ」


 指摘されたピアスは、きょとんとしている。
 アリスも頷いた。食事でもしているのかという量のチーズを、ピアスは口にしている。


「俺でもやらねえよ、それ。マジで味覚おかしいんじゃないの?」
「そう? そうかな? でも、美味しいよ?」
「いや、だからな……。チーズが美味いのはわかるけど、組み合わせの問題っていうか……お前のは度が過ぎてる」
「え〜〜!? そんなことないよ!」


 そのまま、二人はぎゃあぎゃあと言い合いを始めてしまった。チーズ談義となると、ピアスは一歩も引かないのだ。


(元気だなあ……)


 こんなとき、少しだけアリスは寂しい。
 気負わずに割って入ればいいだけの事なのだけれど、今はそんな気分になれなかった。

 よく考えると、不思議な光景だ。
 猫と鼠と一緒に、森でお茶会をしている。

 アリスは騒ぐ二人をぼんやり眺め見ながら、一人、思考の淵に沈んでいった。


(ゴーランドがいたらなー)


 ボリスも、役持ちの中では、よく気が回るほうだと思う。まともだといっていい。けれど、ピアス相手では限界がある。
 そんな時も、ゴーランドなら、上手く立ち回って矛先を逸らせてくれるだろう。

 何故ここに、彼だけがいないのか。

 居てもいい筈だ。なのに何故、彼とだけ別たれなくてはならなかったのだろう。不条理だ、と思う。
 アリスは目を伏せ、じっと手の中のティーカップを見つめた。澄んだ茶色い液体が、ゆらゆらと頼りなく揺れる。


「アリス、アリス」
「ん……何? ピアス」


 アリスは、顔を上げずに答える。


「どうして悲しそうな顔をしてるの?」


 驚いて顔をあげると、ボリスとピアスが神妙な顔つきでアリスを見つめていた。

 アリスはきょとんとして目を瞬かせた。一体どうしたというのだろう。
 ついさっきまで、二人で元気よくチーズ談義をしていたではないか。


「どうしたの、二人とも。深刻そうな顔して」


 ボリスもピアスも、耳に元気がない。落ち込んでいるのか。
 アリスが返すと、二人は渋い顔のまま互いに顔を見合わせた。言いにくそうに、ボリスから切り出す。


「だって、あんた……泣きそうな顔、してたよ」
「うんうん。悲しそうだし、寂しそう。どうしたの? 何があったの? アリス」


 アリスは言葉に詰まった。


「ちょっと……考えごとをしていただけよ」


 差し障りのない範囲で、アリスは答える。けれど、二人はそれだけでは許してくれなかった。


「何を考えてたの? 何か辛いことがあった?」
「ううん。何も……ただ」


 アリスは躊躇った。
 こんなことを口にするのは、一緒にいてくれる二人に失礼だ。だが、場の雰囲気が、アリスの言葉に続きを求めていた。


「ゴーランドが居たらなって思っただけ」
「おっさん?」


 ボリスは訝しそうに片眉をあげた。ピアスが表情を緩める。


「ああ、名前が可愛いよね! メリーちゃん!」
「……そんな風に呼んだら、絶対に怒ると思う」
「だな」


 ボリスも強く頷いた。
 アリスは脳裏に、ライフルを片手に鬼神と化したゴーランドが瞬時に描かれた。きっと、ボリスも同じものを思い浮かべたに違いない。
 アリスは気を取り直して、ピアスに尋ねてみることにした。


「ピアスは、ゴーランドが好き?」
「うん! とっても優しいんだ。だから好き!」
「そう」


 期待通りの答えをもらえて、アリスはホッとした。幾分か気が晴れるような気がする。
 そんなアリスの様子を、じいっとボリスが見つめていた。


「なあ」
「ん?」


 ボリスはアリスの傍に椅子を寄せると、探るような視線を向けてきた。指先で、アリスの髪をすくい上げる。


「おっさんがいなくて、寂しい?」
「……そんな」
「言っていいよ。俺には、繕わなくていい」


 アリスは、小さく息を吐いた。


「うん、そうね。寂しい」


 正直な気持ちを吐露する。
 ボリスを前に、嘘をつくことはできない。聡い猫は全てを見抜く。そして、けして逃がしてはくれない。優しくて酷い猫だ。
 あらぬ誤解をされぬよう、アリスは言葉を続ける。


「だから、ボリスが残っていてくれて、本当によかった。もしボリスもいなかったら、もっと落ち込んでた」
「アリス……」


 ボリスは僅かに目を瞠った。沈痛な面持ちで、少しだけ視線を伏せる。


「俺さ、今、心底『弾かれてよかった』って思ったよ。あんたにそんな顔させてたかもしれない、って思ったら、なんか……肝が冷えた」


 どんな顔をしていたのだろう。自分ではわからない。


「アリス。おっさんも多分、同じことを思う」


 ボリスは、いつになく真剣そのものだ。いつもとは違う雰囲気に呑まれそうになり、アリスはドキリとした。
 そんな二人の間に、唐突にピアスが割って入ってきた。


「ねえねえ、俺は? 俺はっ?」


 アリスとボリスの間に流れた空気が、みるみるうちに霧散する。


(気が抜けた……)


 ピアスもある意味、貴重な存在だった。
 アリスが思考の沼に沈みそうな時、タイミングよく現れては、アリスを底から引きずり上げてくれるのだ。


「ピアスも、大事な友達」


 嘘ではなく、心からそう思う。思えば、このクローバーの国になって、最初に助けてくれたのもピアスだった。
 ピアスは、パッと顔を輝かせた。


「ほんとっ!? 俺も、アリスのこと大好き!」
「俺も、って……別に、アリスは好きだって言ったわけじゃないだろ」


 邪魔をされて気が削がれた為か、ボリスは不機嫌そうに釘をさす。


「でもでも、大事だって言ってくれたよ。大事ってことは、好きってことだよ。ねえ?」
「そうねえ……まあ、そうかな」


 アリスの同意を得られたことで自信をもったのか、ほら、とピアスは得意げに笑う。ボリスの尻尾はピンとなった。


「なっ……! あんた、ネズミを甘やかしたら駄目だぜ!?」
「そうなの?」
「ああ、そうだ。ネズミなんか甘やかしたら、駄目になる。ネズミより、俺の方を甘やかしてよ」
「ボリスを?」


 アリスは目を瞬かせた。流されるままに返事をしていたが、よくなかった。話がややこしいことになっている。
 ボリスを、甘やかす。


(……ダイナみたいに?)


 アリスは想像してみた。
 ブラッシングをしたり、ねこじゃらしで遊んでみたり、膝の上で撫でてあげたり……。
 それをそのまま、ボリスにやれというのか。


「ええと……ボリスは、猫みたいに可愛がられてもいいの?」
「うん、いいよ。猫だもん」


 ボリスはあっさりと頷いた。


(猫? まあ、猫かな……だけど)


 無理だ。アリスにとっての『猫』には、ほど遠い。


「え〜〜〜。アリスは、にゃんこなんて恐ろしい生き物、甘やかしたりしないよ」
「んだと? てめえ」


 ボリスはピアスを睨みつけた。ピアスは飛び上がったが、ふるふるしながらも席に留まる。


「……ふふ」


 二人を見ていると、沈んだ気分は残らず消えてしまった。
 アリスは口元に笑みを浮かべながら、すっかり冷えた紅茶を飲みほした。
 次を淹れよう、とアリスが茶葉に手を伸ばした時、すうっと波が引くように、森が暗くなった。

 雰囲気を切り換えるかのように、時間帯が変わる。
 夜のお茶会は、そのまま続行された。


「お」


 ふいに、ボリスが空を仰いだ。つられて、アリスとピアスも視線を上げる。


「あら」


 暗い夜の空に、一筋の光が流れていた。糸を引くような細い光だ。


(流れ星? 珍しい)


 何かで読んだ本には、流れ星が消える前に三度願いごとを言うことができたら、願いが叶うと書いてあった。
 だからといって、そんなキャラには程遠い自分は、やらないけれど。


「……」


 そのまま何となく、星が落ちる様をぼんやりと見守っていた。光は淡く美しく、アリスを惹きつける。
 星はゆるやかな弧を描いて、落ちる。


「……?」


 どんどん落ちていく。


(……やけに長い気がする)
 

 アリスが見たことのある「流れ星」は、ほんの僅かの間しか見えなかった。
 アリスが首を傾げている間にも、星はどんどん落ちていく。心なしか、その光も太くなっているように見える。


(近い?)


 まさかね、とアリスは苦笑した。
 気のせいに違いない、と思ったのに、星は更に落ち続ける。

 ついには、空いっぱいに光が満ちた。

 何だこれは。
 いったい何が起こっているのか、皆目見当もつかない。慌てて二人を見るが、彼らは平然としている。


(な、なんで平気な顔してるの!?)


 アリスが焦っている間に、ようやく終焉が訪れたらしい。
 光の塊は、森の奥へと吸い込まれていった。次いで、僅かに地面が揺れ、淡い光が四散した。
 そうしてやっと星は落ちて、闇へと呑みこまれていった。


(え? えええ?)


 ボリスもピアスも、何事もなかったかのように落ち着いている。何故そんなに平然としていられるのだろうか。涼やかな横顔が憎らしい。


「な、何なの? 今の」
「うん? 何って、星だよ。星が落ちたんだ、アリス」
「いや、そうじゃなくって……って、やっぱりあれは星? 星なの?」
「そうだよ。俺には、星にしか見えないよ」


 アリスの頭は混乱していた。何と言えば、子の混乱が伝わるのだろうか。


(星……星って、星よね? 空にある)


 星。空で輝くもの。
 ずっと昔の光を――と考えそうになって、アリスは首を振った。いまはそこを問題にはしていないのだ。


「星って、落ちるもの?」


 アリスは、おそるおそる尋ねてみた。ひょっとすると、よくあること、なのだろうか。
 よくあることなのだとすると、二人の態度にも納得がいく。
 彼らは落ち着いている。彼らの常識の範囲内だったのならば、騒ぐアリスの方がおかしいということになる。
 けれど、ハートの国ではこんなこと、体験したことがない。


「うーん、まあ滅多にないけど……落ちたい気分だったんじゃない?」


 どんな気分だ。
 ああでもないこうでもないとアリスが言いあぐねていると、ボリスがポンと手を打った。
 察してくれたのか、とアリスが期待の目を向けると、ボリスは楽しそうに笑っていて――アリスは不安になった。悪戯をしている時の、少年の顔だ。


「ああ、あんたは見るの初めてなんだ? よかったね。あれ、滅多に見れないんだぜ。レアだ」


 そうじゃない、とアリスはがっくりと肩を落とした。心を落ち着けるための証明が欲しい。
 ピアスも、ボリスの言葉に便乗する。


「そうなの? 初めてなの? アリス」
「……うん、はじめて」


 脱力しながら、アリスは頷いた。


「そうなんだ。なら、俺が教えてあげる。落ちた星はね、ひとつだけ願いごとを叶えてくれるんだよ」
「へー」


 そんなメルヘンに興味はない。アリスが気のない返事をすると、ピアスは勢いよく椅子から立ちあがった。


「アリス、信じてない? 信じてないよね? じゃあじゃあ、一緒に探しに行こうよ!」


 なんとも面倒くさい展開になってしまった。


(えー……)


 お断りします、と言いたかったのだが――実際、口にはしたのだが、ピアスは聞きやしない。頼みの綱のボリスさえも「そうするか」と席を立ってしまった。
 三人で、落下地点と思われる森の奥へと進む。


(……猫と鼠と、星探し?)


 あまりのメルヘンさに、背筋がぞわぞわする。アリスは、現状を冷静に認識してしまわないように心がけた。








  


===== あとがき ===

 後編へ続きますー。