ハニートラップ
「はい、お疲れさまでしたぁ〜お嬢さま〜」
伸びやかな声がする。
アリスは視線をあげて、窓を見た。
いつの間にか時間帯が変わっていた。
アリスは雑巾を片手に、立ち上がった。
床の汚れに一生懸命になっていて、声をかけて貰わなければアリスは気づかなかっただろう。
「お疲れさま。貴女も上がりでしょう? 途中まで一緒に行きましょうよ」
「はい〜是非〜」
のんびりした口調にも、もう慣れた。
アリスは同僚と連れ立って歩く。
「そういえば、お嬢さま〜。先ほど、唇を押さえてましたね〜? 痛いんですか〜?」
「あー、ちょっとね……荒れてきてる気がして」
実際、荒れている。
乾燥気味の唇は、指で触れるとすこし痛い。
睡眠不足のせいだろう、とアリスは思う。
悩んで寝付けないというのではなくて、エリオットのせいというか、何と言うか。
「そうですかぁ〜? 綺麗な唇ですけど〜」
「そ、そう? ありがと……」
世界にとってはただの顔なしの一人――とはいえ、アリスには一人一人の顔が見えている。
そして、相手は美女だった。
見つめられると、同性だというのに、無性にどぎまぎしてしまう。
「……」
アリスはぼんやりしながら、同僚を見つめ返した。
綺麗だなあ羨ましいなあ、と羨望の色を、眼差しに潜ませて。
アリスは、自分の顔が嫌いな訳ではない。悪くはないと思う。
ただ、これぐらい綺麗だと良かったのにな、と純粋に思うのだ。
「ねえねえ、貴女はどんな手入れをしてるの? いつも綺麗で、羨ましくて」
「え〜〜〜!? 私が〜……嬉しいです〜〜ありがとうございます〜!」
同僚は、ぽっと頬を染めた。肌が薔薇色だ。
「手入れといっても〜基本的なことくらいですね〜。
荒れてるのなら〜……そうですねえ〜。応急処置として〜〜リップクリームをこまめに塗るといいんじゃないでしょうか〜」
「そうね、そうする。次の休みに買ってくるわ」
アリスは頷いた。
恋する乙女としては、唇や肌の荒れは極力避けたい事態だ。
「ええ、それがいいですよ〜。いろいろな種類もありますし〜。そうだ〜。種類といえば〜お嬢さまぁ」
「うん?」
アリスは短く相槌をいれた。
彼女達は、のんびりだらだらーっと喋るものだから、話の区切りが分かりにくいのが難と言えば難か。
「なんでも〜にんじんを使ったリップクリームがあるんですって〜。この前〜新しく発売されてましたぁ」
「……にんじん」
「はい〜。お嬢さまにピッタリだと思うんです〜」
言われて、アリスは動揺した。
「ぴ、ぴったりって……どこが」
「え〜〜? だって〜」
ニヤリ、と綺麗な口元が笑う。
その美しさにそぐわない、一端の悪党の顔になる。
「エリオットさま、喜びますよぉ」
「……!」
アリスの目が見開かれたのを見て、同僚はくすくすと笑っている。
ああ、やっぱり敵わない。
アリスは顔を赤くした。
「そうね、考えてみる……ま、またね」
「はぁい〜ではまた〜」
同僚と別れると、足早にアリスは歩く。
歩きながら、教えてもらったリップクリームのことを、ぼんやりと考える。
(にんじん……って、原材料がにんじん? 確かに、悪くはなさそうだけど)
悪いどころか、健康的に聞こえる。
(まさか、ねえ。エリオットが、リップクリームに気づくとは思えないし……)
成分が一緒なだけで、香りや味がするわけでなし。たぶん。
(……まさかねー)
考えごとをしながら歩いていたせいか、気づけばアリスは自分の部屋へ到着していた。
唇は、やっぱり鈍く痛む。
だから、リップクリームを買いに行くことは、何ら不自然ではない。
そう自分に言い聞かせて。
× × × × ×
(これかー……)
話題の代物を発見し、アリスは足を止めた。
「……」
箱の傍には、香りのテスターが置かれている。
アリスはテスターを手に取ると、鼻に近づけた。
(香りも……うん、香りまでにんじんって訳じゃないみたい。無臭に近いし……嫌いじゃないな)
体にも良さそうだし。
アリスの指先は、無意識に商品の箱を取ろうとしていた。
(あ、危ない……買うところだった……)
何をその気になっているのか。
アリスは慌てて手を引っ込めると、自分を諌めた。
(ここで買っちゃったら、いかにもエリオットの為に買いましたーって感じよね……って、自意識過剰か)
アリスが気にし過ぎ、なのだろう。
にんじんと言えばエリオット、という連想が出来上がっているせいだ。
アリスが警戒し過ぎなのかもしれないけれど。
(気のせい、気のせい……)
――確実に、ブラッド辺りは突っついてくるに違いないけれど。
アリスは首を振ると、考えを追い払った。
(値段は……あった)
値段を見比べてみると、さすがに新商品とだけあって、他のものよりも若干、値が高い。
それでもこれを購入するのか、とアリスの頭は冷静に考えた。
「……これにしよ」
アリスは例の新商品を戻すと、棚に並んでいる中で一番安い物を手に取った。
× × × × ×
そんな事があって、次の勤務時間帯のこと。
「あれ〜? お嬢さま〜普通のにしたんですか〜?」
「う」
いきなりバレてしまい、アリスは言葉に詰まった。何故わかったのだろう。
「うん……」
アリスは申し訳なさそうに頷いた。
あれからもう一度考えてはみたものの、やっぱり気恥ずかしくて買えなかった。
そんなアリスを見て、同僚はニヤニヤと意味深な笑みを浮かべている。
「ふふふ〜〜照れてらっしゃるんですねぇ」
「え〜、何の話〜?」
楽しそうな雰囲気につられたのか、一人のメイドが話に割り込んできた。
「お嬢さまがねぇ〜。唇を気にしてらして〜」
「へぇ〜唇を〜?」
「そう〜。それで〜リップクリームを勧めたんだけど〜私は〜にんじん入りのリップクリームがお勧めだったのに〜。お嬢さまったら〜」
「ああ〜なるほど〜。確かに〜お嬢さまに良いかも〜」
「でしょ〜」
すっかり赤くなってしまったアリスを余所に、メイドの二人は勝手に盛り上がっている。
「でも〜お嬢さまならそうするだろう思って〜。私、買ってきたんです〜」
「へ?」
「はい〜プレゼントです〜」
「!?」
ずいっと差し出されたものを見て、アリスは瞠目した。
「そ、そんな、悪いっていうか、ちょっと!?」
そして、半ば強引に手渡されてしまった。
慌てるアリスを見て、同僚は楽しそうに笑う。
「ふふふ〜、焦るお嬢さまも可愛い〜。それ、つけてくださいねぇ〜」
「……ありがとう……」
間延びした物言いに気が抜けて、それ以上は強く言い返すことができない。
アリスは何とか、それだけを口にした。
(どうしよう……)
部屋に戻ったアリスは、化粧台の前に座ると、静かに戦っていた。主に、自分と。
「別に、悩むことなんてないのよ。自意識過剰すぎるわよね」
フッと苦笑いを浮かべて強がってみたものの、心はそわそわしたままだった。
「……つけよう」
よし、と気合をいれると、アリスはパッケージに手をかけた。
中身を取りだして、蓋を外す。
(あ、綺麗な色)
温かみのある、見事なオレンジ色だ。眺めているだけで、華やかな気分になる。
アリスはしばらく躊躇った後、蓋をした。
(これは、また後にしよう。自分で買ったやつから使わなきゃね)
でも、いつか必ず。
アリスは微笑を浮かべると、椅子から立ち上がった。
× × × × ×
一本目のリップクリームを使い切って、しばらく経った頃のこと。
いつものように、アリスはエリオットの部屋に居た。
「……ん?」
いつものごとく軽い口づけを交わした後、エリオットは僅かに目を瞠った。
「なに?」
「いや、なんか」
違和感の正体を確かめようと、離れていた唇が再び重なる。何度も何度も。
最初は大人しくしていたアリスだが、エリオットは一向に止める気配がない。
耳まで赤くなったアリスは、力任せにエリオットの胸を押しやった。
「ちょっ……っと! やりすぎ!」
「わ、悪い……でも、なんか、さ」
見れば、エリオットの頬も赤い。
照れながらも、何処か嬉しそうに、ぼうっとアリスを見つめている。
「……あんたが、美味くて。いつもより」
「……え!?」
アリスはサッと青ざめた。
乙女の反応としては色々間違っているとは思うが、この場合はしょうがない。
まさか、と思わず口元を押さえる。
思い当たる節が、ひとつだけあった。
「なあ、もっと」
熱っぽくせがまれて、慌てたアリスはポケットに手を突っ込んだ。
「これっ! これのせいだから! 気のせいだから!」
「え?? これ……って」
眼前に突きつけられた物を見て、エリオットは目を丸くした。手に取って、まじまじと眺める。
「ああ、なるほどなー。だから、やけに美味かったんだな」
原材料の欄を読んだのだろう。
エリオットは、納得したようにしみじみと呟く。
「でも、つけてなくたって、アリスは十分美味いけどな……って、痛っ!? な、なんだよ、いきなり!?」
聞くに堪えなくて、アリスは思わずエリオットを殴りつけていた。
抗議の声をあげたエリオットを、頬を赤くしながら睨みつける。
「うっさい! 堂々と恥ずかしいこと言わないでよっ!!」
「恥ずかしいって、どこがだよ!?」
恥ずかしくない、いや恥ずかしい、と押し問答を繰り広げる。もうムードも何もあったものじゃない。
賑やかに鮮やかに、時は優しく過ぎていった。
それは確かに、美しいオレンジ色をしていた。
===== あとがき ===
2011年の夏インテで頒布したフリーブック「すだちMIX」のエリオット話でした。
エリオットとか言っておきながら、メイドの方が出張ってるという。
ではでは、ありがとうございました!
(2012.11.27 山藤)