風邪引きさんには
二度目の会合中、アリスはブラッド達と共に街を歩いていた。
帽子屋ファミリーのトップ二人を前に、道行く人々が波の様に引いていく。
そんな二人の真ん中を歩くのはアリスだ。
人々の畏怖の視線を一身に浴びて、三人は歩く。
だが、今はそれどころではなかった。
エリオットの耳はややへたれているし、せっかくの夜だというのにブラッドの顔色はあまり良くない。
いつもの近寄り難い雰囲気も、若干和らいでいるようだった。
「あー、疲れたなー……ああいうの、苦手だ……」
「だるい……」
溜息と共に、情けない声で口々に呟く。
ブラッドがだるいのは標準装備だが、今は誇張無くだるそうだった。
毎度のことながら進まない会議に、ブラッド達は律儀にも全て出席している。
ブラッドの主な疲れは、紅茶を思うように飲めないことにあるだろう。
我が道を行くマイペースな彼が、長いあいだ他人と合わせていること自体、相当なストレスの筈だ。
エリオットは会議自体が苦手らしい。
会議が好きな者は稀だと思うが、エリオットの気性に合わないことは理解できる。
けれど、ブラッドがちゃんと出るならば、とエリオットも律儀に倣うのだ。
だから、二人とも終わる頃にはすっかり疲れてしまうことになる。
そして、またもや双子は逃亡済みだった。
子供だから退屈な会議は我慢できないのだろう、とブラッド達は意外な寛容さをみせてはいたが。
ブラッドとエリオットの表情は、疲労の色が濃い。隣を歩くアリスも然り。
アリスは――何度か会議を抜けさせて貰ったこともあるが、大抵は彼らに付き合うことにしている。
「……うん、疲れた」
そんな二人のぼやきに、アリスも心から賛同した。
進行役のナイトメアがもう少しピシッとしてくれたら、少しは変わるのかもしれないが。
(そんなナイトメア、ナイトメアじゃないか)
さっさと諦めたアリスは、軽い溜息をひとつ零した。
パリッとピシッとしている彼なんて想像できない。
けれどそういうところが、何だかんだ言って、ナイトメアのことは嫌いになれない要因でもある。
会議中、顔色の悪い彼のことが気がかりで、アリスが消耗したことは否めない。
あれは、見ている側にも変に労力を使わせる。
一番気がかりだったことは、隣でそんなナイトメアの補助をしているグレイの方だったのだが。
彼の胃具合も、かなり心配だ。今度、彼に何か差し入れをした方がいいのかもしれない。
ぐったりしている三人に向かって、ぱたぱたと駆け寄ってくる二つの影があった。
「お姉さーん」
「会議終わったんでしょ? 僕らと遊ぼう!」
ブラッドとエリオットの存在を綺麗に無視して、ディーとダムはアリスの腕にまとわりついた。
「お前ら……会議が終わった途端、堂々と現れるなよ」
エリオットの呆れたような声も物ともせず、ディーとダムはつんとすました顔で平然としている。
「いいじゃないか、別に」
「子供をあんな退屈な会議に参加させるなんて虐待だよ。労働条件には含まれてない筈だし」
ダムがさらりと言ってのけると、ディーも賛同した。
「そうだそうだ。それに、どうせ何も決まらないんだから、出ても無駄だよ」
「うんうん。僕、無駄なことって嫌いなんだ。そんな時間があるなら、休みに回したいよ」
「俺だって嫌いだよっ! あーもう、イライラするぜ」
エリオットは噛みつくように答える。相当ストレスが溜まっていたのだろう。
エリオットは苛立ちを露に、ぐしゃぐしゃっと頭を掻き毟った。
そんなエリオットを見て、双子は冷たく鼻で笑う。
「ふん。じゃあ、ここら辺の奴ら撃っちゃえば?」
「ちょっとくらい撃ってもいいんじゃないの、適当に」
「ああ、そうすっかな」
本当に銃を取り出したエリオットを見て、アリスはぎょっとした。
ただのポーズではなく、止めなければ本当に撃ち始めてしまうだろう。
「駄目よっ!」
慌てて叫んだ途端、くらっと眩暈がした。
部下の暴走を止めるべきであるボスを――ものすごくどうでもよさそうなブラッドを、仰ぎ見る。
「ブラッドも、止めなさいよ」
自分の声を不思議と遠くに感じ、アリスは内心、首を捻った。
「ブラッド」
試しに適当な人物の名を呟いてみたが、やはり遠く聞こえる。
それどころか、ブラッドの姿もぼやけて、はっきりと見えない。
(あれ、フラフラしてる?)
平衡感覚がおかしい。
眩暈はどんどん酷くなるばかりで、アリスは近くの壁に手をついた。地面が揺れる。
「お姉さんっ!?」
「お姉さん!」
足に力が入らなくなり、アリスはついにしゃがみ込んでしまった。
全ての感覚が遠ざかり、視界が暗くなっていく。
最後に認識できたのは、誰かの、半ば叫ぶような声だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
見慣れない天井が、アリスの目にぼんやりと映る。
(……ん?)
違和感を覚えて、アリスはニ、三度瞬きをした。
ここは一体、どこなのだろう。
見たことがあるような気はするのだが。
頭がうまく働かない。視界がはっきりしてくると、今度はずきずきと痛みを訴え始めた。
痛む頭を抑えながら、なんとか上体を起こす。動こうとする度に、手足の関節がぎしぎしと痛んだ。
「アリス、気づいたのか! 大丈夫かっ!?」
がばっと目の前に現れたエリオットを見て、アリスは目を丸くした。
誰かが近くにいるなんて思ってもいなかったから、アリスにはやや衝撃的だった。
エリオットは沈痛な面持ちで話し出した。
けれど、アリスが目覚めたことで幾分安心したのか、少しだけ、その表情が安堵に緩む。
「驚いたぜ。あんた、急に倒れて……とりあえず、部屋に運んできたんだ。屋敷に戻っても良かったけど、こっちの方が近いしな」
エリオットの言葉で、アリスはやっと、ここが何処なのかを思い出した。
(ああ、クローバーの塔か)
違和感の正体がわかり、アリスの心は落ちついた。熱があるらしく、やけに頭がぼうっとする。
「あ、喉、渇いてるよな? これを飲めよ」
エリオットは、ぐいっと吸い飲みを突き出してきた。
素直に口に含もうとしたが、中の液体を見てアリスの顔が引きつる。
「……み、水の方が、いい……」
「何言ってるんだ、にんじんジュースの方が絶対にいいって! ほら、遠慮するな」
ぐいぐいと押されて、アリスは対応に困った。はねのける力が、今のアリスには残っていない。
このままでは強行されてしまう、と青ざめていると、横からスッと制止が入った。
「止めろエリオット。お嬢さんにとどめをさす気か」
「ブラッド」
ブラッドに止められ、流石にエリオットは手を引っ込めた。アリスはホッと胸を撫で下ろした。
咄嗟にエリオットの奇行を止められなかった双子が、ここぞとばかりに口々に責めたて始める。
「そうだよ、馬鹿じゃないの。そんなの飲んだら、お姉さんの気分が悪くなるだろ」
「そうだそうだ。普通、病人にそんなものすすめる? ウサギって馬鹿だよねー」
「んだと、てめえらっ!」
ぎゃーぎゃー騒ぎ出した三人を尻目に、ブラッドはベッドに身を寄せてきた。
「お嬢さん、気分は?」
「……頭に響くー」
特に、後ろでキンキンと響いている金属音が辛い。
ブラッドは微妙な顔のまま、大きく息を吐いた。
「……お前達、お嬢さんの隣で騒音をたてるな。大人しくできないのなら、部屋から出て行け」
怒気すら含ませながら静かに忠告すると、三人はピタリと動きを止めた。
慌てて武器を下ろすと、アリスに向かって口々に謝る。
「ごめんなさい、お姉さん!」
「わ、悪かった!」
「それでいい」
ブラッドは小さく息を吐くと、アリスに向き直った。
「特に持病はなかったな?」
わずかに首を振って否定する。
「なら、過労か風邪の類だろう。無理をしていたのか?」
「わからない」
ここ最近、環境が激しく変わったせいで、よく寝つけなかったことは確かだ。
目が覚めたら置いていかれているのでは、という不安が、アリスの眠りを浅くしていた。
(だって、突然だった)
不安を覚えるほど、何の予兆もなく、ハートの国はクローバーの国になった。
その『引越し』がいつ何時起こるか判らないと彼らは言っていたし、今回は幸運だったが、今度こそアリスは置いていかれてしまうかもしれない。
ピアスは帽子屋ファミリーであるのに、ハートの国には居なかった。
逃げ出したと言っていたけれど、れっきとした構成員の一人だ。
だから、引越しで弾かれる基準がよくわからない。
ピアスでそうなのだから、アリスが『帽子屋ファミリー』というカテゴリーから弾かれてもおかしくはないではないか。
(ああでも、ユリウスやゴーランドに会える?)
懐かしいあの人たちに。
それでもきっと、寂しい。
帽子屋屋敷にずっと滞在してきた身としては、彼らが居ないことには、きっと耐えられない。
ぼんやり思考の波に揺られていたアリスを、ブラッドが引き戻した。
「お嬢さん、何か欲しいものがあるか? 何でも手に入れてきてやるぞ」
「うん……と」
ブラッドの視線を受けて、彼にいつもの気だるさがないことに気がついた。
常よりもしっかりして見えるのは、気のせいではないだろう。
「桃……」
「桃?」
「ん。桃が、少し食べたい」
誰かに甘えることには不慣れだったが、霞がかった思考が抵抗感を薄れさせていた。
何となく思いついて言うと、ブラッドはしっかりと頷いてみせた。
「わかった。買ってこよう。少し眠りなさい」
「他に、何か食べたい物とかあるか? にんじんのおかゆでも作ってこようか?」
エリオットの親切は、ブラッドは心底嫌そうな顔に呆気なく一蹴された。
「そんなものはいらない。というか、そんな新種を作るな、エリオット」
「えー。何でだよー」
エリオットは不満そうに口を尖らせたが、それ以上強く勧めてはこなかった。
「いってらっしゃい、ボス。お姉さんの番は、僕達がするよ。守ってあげるから、安心してね、お姉さん」
「うん、人っ子一人通さないよ。僕らが守ってあげる」
だが、エリオットは無情にも二人の襟首を掴むと、べりっと引き剥がした。
「阿呆か、お前らはブラッドの警護だ!」
「えー、弱ってるお姉さんを置いていくの!? それって酷すぎない!?」
「サイッッテーなウサギだね……」
ディーとダムは、氷のごとく冷ややかな口調で真っ向から抗議した。けれど、エリオットは眉をつりあげて反論してきた。
「違うっ! 俺はアリスを看病できるよう、とっとと片をつけてくる。だからその間、お前らがブラッドの護衛しろ」
「あー……なるほど。でもさ」
渋る双子の視線を受けて、アリスは無理矢理に微笑んでみせた。
「大丈夫よ」
かすれた声で答えたが、ディーとダムの表情は晴れない。
「安心しなさい、すぐ戻る。行くぞ」
ブラッドが促すと、三人は硬い表情のまま、部屋を後にした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それから三回ほど時間帯が変わっても、アリスの風邪は一向に良くなる気配がなかった。
いくらか気分はましになったものの、大半をベッドで過ごしている。
(熱まで出すなんて……すごく久しぶり)
何日も起きられない風邪なんて、子供の時以来かもしれない。
体が弱い方ではなかった筈だが、とアリスは溜息を吐いた。
こんな時期に倒れて、ブラッド達に迷惑をかけてしまったことに対して、心から申し訳ないと思う。
結果的に会議をサボることになってしまったので、アリスの胸には少し罪悪感が芽生えていた。
(今頃、ブラッド達は会議かな)
何を話し合っているのだろう。
ナイトメアは大丈夫だろうか。
ブラッドは我侭を言っていないだろうか。
グレイの心労は溜まっていないだろうか。
ディーとダムは、ちゃんと会議に出て――は、いないだろう。
何となく寝付くことができずに、そんな事をつらつらと考えている。寝すぎだ。
ごろごろと寝返りをうちながら、アリスは一人、ぼんやりと天井を見ながら過ごしていた。
目を閉じていれば、うっかり眠れるかもしれない。
そう僅かな期待をよせて、目を閉じた時だった。
「アリスっ!」
自分の名を呼ぶ声がした。しかもこれは。
(……ペーターの声? いやでも、幻聴かな)
自分が無意識に、かの白兎を期待していたのなら嫌だなあ、と思いながらも、アリスは一応目を開けてみた。
ペーターの顔が目の前にある。
アリスはぎょっとして目を瞠った。心臓に悪い。
「あなたの具合が悪いって聞いて、僕」
アリスの様子を間近で見たペーターは、その秀麗な顔を歪ませた。
「ああ、顔が真っ赤ですよ。熱が高いんですね。痛々しい……苦しいですか? 可哀相に。僕が代わってあげられたらいいのに」
「……うつるわよ、菌が」
照れ隠しに意地悪く呟くと、ペーターは一瞬、怯んだ。
「うっ、それは……でも、あなたがそれで楽になるのなら、菌くらいどうってことないですよ」
「ペーター……」
「ええ、愛の力で耐えてみせますっ!」
誇らしげに宣言するペーターに向かって、アリスは溜息を吐いた。
別の意味で頭が痛くなってくる。
「耐えなくていいから、帰りなさいよ。会議なんでしょう」
仮にも宰相の地位にある男が、ほいほい抜け出してきていいのだろうか。
ビバルディが困るのではないか、と心配になったが、ペーターはにっこり笑って却下した。
「嫌です。さあ、僕が来たからには安心してください! 僕が貴女の看病をしてあげますっ! あ、唇が乾いてますね。さあ、水を」
ペーターは、いそいそと吸い飲みを手に取った。
だが、自分が手にしたものを見て、ペーターの眉間に皺が寄る。
「って、何でこの吸い飲みには、オレンジ色の物体が入ってるんです」
中身はちゃんと水にしてくれているのだが、それがいつの間にかオレンジ色になっているのだ。自然現象と呼ぶには、あまりにも不自然すぎた。
犯人の見当はついているので、アリスは黙っているが。
「あー……それはエリオットがね……」
「……」
ペーターは眉間の皺を深くしながら、深く深い溜息を吐いた。
「すぐ水に入れ替えてきます。待っていてくださいねっ! 氷も足りてませんね。持ってきますから!」
一生懸命な後ろ姿をぼんやりと眺めながら、アリスの口元はわずかに緩んでいた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ドアを開け放ち颯爽と現れた男を見て、アリスはあんぐりと口を開けた。
「やあ。風邪だって? 珍しいね、君が」
「エース」
思わぬ人の訪問に、少々思考が止まっていたようだ。
エースが見舞いに来るなんて思ってもみなかった。
「ああ、いいよ。そのまま寝ていて」
起き上がろうとしたのだが、やんわりと寝かされてしまった。
爽やかな笑顔を崩さず、エースは一人で続ける。
「さっきの会議、いなかったろ? どうしたんだろうって思ってさ」
明るく言いながら、エースは剣をベッド脇に立てかけた。
「出なかったこともあるのに」
「うん、途中からね。でも、最初っからサボったりしないだろ? 真面目だもんなー君。俺はサボりたいよ」
はあっと息を吐きながら、エースは椅子を引き、ベッドの傍らに置くと、どっかりと腰を下ろした。
「それで、君の部屋を訪ねようと思ったんだけど、そもそも俺は、君の部屋がどこかわからない。辿り着けたのは本当、ラッキーだったぜ」
「そ、そう」
ペーターが渋々戻ってから、まだ時間帯は変わっていない。
ということは、さほど迷わずにここへ辿り着けたということか。彼にしてみれば快挙だ。
エースは寝ているアリスを不思議そうに眺めた後、ポツリと呟いた。
「君って、女の子なんだよなー」
さも今気がつきましたと言わんばかりの口調だったので、アリスは一瞬、反応が遅れた。
「どういう意味よ」
じろりと睨むと、エースは「あ」と言い繕った。
「いや、そうじゃなくって。アリスはいつも元気だ、ってイメージがあったから、なんか不思議でさ」
エースは手袋を外し、まるでアリスが触れれば消えてしまうと思っているかのように、そろーっとアリスの頬を触ってみる。
壊れ物に触れるような扱いに、アリスは戸惑った。
「俺、気が利かなくて。何か無神経な事を、君にしたことがあるんじゃないか?」
アリスは記憶を掘り起こした。
割と失礼なことは言われたような気がするが、お互い様だ。
黙って言われっぱなしになるような性格ではないし、特に傷ついてなどいない。
「ううん、多分……特には」
「ならいいけど」
エースはホッとしたように微笑んだ。
離れるついでに、少しずれていた毛布を顎まで引き上げる。
「ペーターさん、来ただろ?」
「うん」
「女王陛下、すっごく怒ってたんだけどさ。戻ってきたペーターさんが、アリスが寝込んでいるから看病してきたんだーって言ったんだ」
聞いていて、アリスはいたたまれなくなってきた。ペーターが怒られたのは、自分が原因なのだ。
アリスがばつが悪そうな顔をしているのに、エースは笑顔で続ける。
「そうしたら陛下、ペーターさんの事、許しちゃったんだよ。これって凄くないか?」
アリスは目を瞠った。あのビバルディが、許した?
「……凄いわね」
「だろー? 愛されてるな、アリス!」
「……」
エースの言葉を無視し、アリスはしばらく考え込んだ。
「で、あなたもサボる口実を作りに?」
呆れたように呟くと、エースはきょとんとした。
「あ、バレた? 鋭いなー君って」
悪びれもせずに、あははーと笑う。アリスは大きく溜息を吐いた。
そう、エースはこんな男だ。
ものすごく優しそうに見えて、どこか冷たい所がある。
自分の想像上の『エース』と大きく外れていなかったことに、アリスは安心する。
最近のエースは何処かおかしかった。
変わりなく見えるのに、どこか違和感を伴う。
何処が、と問われれば明確には答えられないが――クローバーの国になってからのことだ、と気づいたのはいつだっただろう。
「いいわ、きっかけが何であれ。来てくれてありがと」
アリスが笑い返すと、エースの顔から表情が消えた。
だがそれも一瞬のことで、すぐさまいつも通りの彼になる。
「どういたしまして。って、ああ、サボりたかったのは本当だけど、君のことも本当に心配だったんだぜ?」
「どうかしら」
ついでのように付け加えられても、いまいち信用できない。エースは若干焦りながら、尚も続けた。
「信じてくれよー。俺も、看病してあげるから。な?」
以前、ティーセットを運んでくれようとして粉々にしたところを見た身としては、謹んで遠慮したい。
「そうだなー……熱を下げるには、汗をかかなきゃいけないよな! 運動っていう手があるけど。する?」
エースは身を乗り出すと、ベッドに片手をついた。残る一方の手で、アリスの頬に触れる。
ギシ、とベッドにスプリングが軋んだ音をたてた。
「……何を?」
エースは無言のまま、薄っすらと笑う。触れられている頬が熱くなってくる。
アリスが石のように硬直していると、エースは堪えきれずに噴出した。
「君は、何を考えたんだ?」
からかわれた事を知り、アリスの頬にカッと朱がさした。
「ははは、やらしーなーアリスってば」
「ち、違っ」
「俺も同じこと考えたけどな! ははは」
「……」
アリスは顔を引きつらせながら、じりじりと後退した。
「あれ、そんなに警戒しなくってもいいのに」
今のやり取りで、警戒しない方がおかしい。
にこにこと読めない笑みを浮かべたまま、エースはあくまで爽やかに囁く。
アリスの耳元に口を寄せると、エースはぽつりと呟いた。
「君が元気じゃないと、俺は寂しい。はやく良くなってくれよな」
その口調は、いつもの突き抜けた明るさを伴うものではなく、本音が混じっているようにも感じられた。
アリスが驚いてる間に、エースはサッと身を離すと、唇の端を持ち上げた。
「それで、また一緒に旅に出かけようぜ!」
「それは、遠慮する……」
何でだよーと不満そうなエースを無視して、アリスはそっと瞳を閉じた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「アリス、わらわじゃ」
アリスは戸口へと顔を向けた。キイ、と扉が開かれ、次いでビバルディが入ってきた。
部屋の薄暗い明かりの中でも、その美しさは全く損なわれない。
ビバルディはベッドに近寄ると、ゆっくりとその身を屈めた。
空気の動きにあわせて、ふわりと薔薇の香りがした。
「具合は? 心細かったであろう。帽子屋の奴め、そなたを一人にするとは呆れ果てた奴じゃ」
優しく艶めいた声で囁かれると、同姓であるというのに、何だか変にときめいてしまう。
「居てくれようとしたんだけど、一人にしてって私が頼んだのよ。皆がいると眠れないわ」
アリスが苦笑すると、ビバルディは納得したらしい。
「それもそうか。騒々しい奴らだものな……全く。早く、よくおなり」
ビバルディは脇に置いてあった布を手に取ると、そうっとアリスの額の汗をぬぐった。
皮膚を擦らないように注意しながら、喉や首の後ろの汗も、布に吸わせていく。
ぬぐい終わると今度は櫛を手に取り、アリスの髪を少しずつ掬い、そっと梳いていく。
何だか自分が、お人形遊びの人形にでもなったような気分だ。
それも、とびきり上等のお人形。
アリスは照れながらも、なすがままにされていた。
相手は恐れ多くも女王様だ。緊張しない方がおかしい。
けれど、じっとり湿った肌は気持ち悪かったので、これ幸いとばかりに世話をして貰うことにした。
ビバルディが、一生懸命にアリスの世話をしようとしてくれているのが見てとれる。可愛い人だ、とアリスは思った。
「ペーター、会議サボったんでしょう? ごめんなさい」
ビバルディは手を止めると、クスクスと綺麗に笑った。
「何を謝ることがある。おかしな子だね」
再び手を動かしながら、ビバルディは柔らかい声でアリスに話しかける。
「見舞いに薔薇の花でも、とも思ったのだがな。あれは香りが強いから、お前が良くなってからにしよう。すっかり良くなったら、わらわから薔薇を贈ってあげようね」
歌うような声が耳に心地よい。
アリスが嬉しそうに微笑むと、つられるかのようにビバルディの瞳も微笑んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「アリス、医者を呼んできた。腕は心配しなくていい、ナイトメア様の主治医……だ。一応な」
そう言うグレイは、どこか複雑そうだ。
ついでにナイトメア様も診てもらうか、などとブツブツ呟いている。
診断結果は風邪。
それも疲労によるところが大きいというから、グレイは更に渋い顔になった。
「君の不調に気づいてやれなくて、すまなかった。疲れていたんだな。……色々、あったものな」
労わるように付け足された言葉に、アリスは小さく頷いた。
引越しや会合など、アリスにとって気の張ることが多かったことは事実だ。
だが、それが理由で消耗していたというのであれば――自分が恥ずかしく思えて仕方がなかった。
(そんな、繊細な子みたいなこと)
どちらかというと、図太い方だと思っていたのに。
苦虫を噛み潰したような顔をしたアリスを見て、グレイは具合が悪くなったと思ったらしい。
素早く毛布を一枚引っ掴むと、アリスの上に重ねた。
「ああ、そうだ。何か欲しいものがあれば、すぐに言ってくれ。いつでも俺を呼ぶといい」
「ナイトメアの世話もあるのに……ごめんなさい」
申し訳なくてアリスが謝ると、グレイは僅かに目を瞠った。焦ったのだろうか、やや早口になる。
「いや、そんなことは気にするな。君は遠慮しなくていい……本当だぞ。それに」
焦るグレイは珍しい。まじまじと見つめていると、グレイは言葉を切った。
「君の世話をしている方が、遥かに楽しいからな」
また変な理由をつけて、とアリスが笑うと、グレイは「そうか?」と首を捻った。
「苦労人ね……グレイ。お疲れさま」
「……ありがとう、アリス。君は優しいな」
グレイは視線を和らげた。
最初は取っつき辛そうに見えた彼だが、固い態度に慣れてみると、素晴らしく頼もしい人だった。
そして、冷たそうな外見をしているが、すごく優しいこともアリスは知っている
。
彼がいないと、ナイトメアは生きていけないかもしれない。
グレイの静かで落ちついた性格のせいで安心してしまうのか、彼と一緒にいると、つい子供っぽい態度を取ってしまう。そこが問題だ。
「俺は常々、君には恩返しをしたいと思っていた。こういう機会でもないと君は頼ってくれないだろう。だから、存分に俺に頼って欲しい」
グレイは大真面目に切り出した。優しい金色の瞳が、アリスをひどく安心させる。
「そんな、返させるほどの恩は、覚えがないわ」
「あるんだ、アリス」
えらくきっぱりと言い切られたので、アリスは目を丸くした。
グレイが「ある」というのなら、あるのかもしれない。そう素直に思えるから不思議だ。
たとえ、アリスの方には、全く身に覚えがないのだとしても。
「……そうなの?」
「ああ」
グレイが短く答えると、しばらく会話が途切れた。
けれど、沈黙は苦痛ではない。その間にも、グレイは細々とよく動いた。
(グレイがいると、すごくホッとする)
守られている安心感から、アリスの気も緩んでいく。
「寒くはないか? 暑くは? 湿度もある方がいいな、空気が乾いてる。今、用意させよう」
毛布が足りていないのでは、ともう一枚、上から掛けられる。
このままでは蒸されてしまいそうだ、と思いながら、何となく嬉しいのでこのままでいることにした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
静まり返った部屋の中、アリスは一人でまどろみの中にいた。
ただ寝ているだけというのは味気ないが、今は風邪のせいだ。皆が働いてる中でだらだらっと寝ている、という罪悪感も、今は薄れてきている。
汗ばんできたので、そろそろ着替えよう。
アリスはベッドからおりた。ふらふらしながらも、なんとか着替える。
ちょうど着替えが終わって、ベッドに戻った時だった。
ノックもなしにいきなり扉が開かれ、部屋の中は一気に騒々しくなった。
「アリスアリスッ! 風邪!? 風邪なんだって!?」
部屋に飛び込んできたピアスを見て、アリスはぎょっとした。
着替えている最中でなくて良かった、と人知れず胸を撫で下ろす。
「ど、どうしたの、何で」
「えりーちゃんがね、アリスが風邪ひいて寝込んでるって言ってたんだ。アリス、具合はどう? どうなの?」
「だ、大丈夫……」
ピアスの勢いに気圧されていると、上から冷たい声が降り注いだ。
「うるさいよ、お前。静かにしないと、尻尾ひきちぎるよ」
「ぴっ!」
ピアスはビクリと体を震わせると、硬直した。
ふるふると小刻みに震えながら、そろーっとアリスの背後へ回る。
ピアスの向こう側にはボリスが立っていた。
「ボリスまで」
ボリスは念押しとばかりにピアスをひと睨みした後、アリスに向かって微笑んでみせた。
「や。最近、あんたの姿を見なくなったから、何かおかしいと思ってたんだよね。で、妙に慌てて走ってるこいつを捕まえて、聞き出した」
言いながら、ボリスはベッドの端っこに座った。ピアスもこっそりベッドに這い登る。
「顔色、まだ良くないね。あんたがそんな具合悪そうにしてるのって、初めて見たけど……」
ボリスはじいっとアリスを凝視した後、目を伏せた。ピアスも悲しそうな顔になる。
二人の尻尾が、ふわふわと落ち着きなく揺れた。
「不安になるもんだね。あいつらがピリピリしてる理由、わかった。いや、落ち込んでるのかな?」
アリスは不思議そうに首を傾げた。
「あいつらって?」
「ディーとダム。すっげー八つ当たりしてるぜ、あいつら」
「……そ、そうなんだ」
アリスの頬が引きつる。ボリスは楽しそうに、唇の端を持ち上げた。
悪戯を仕掛けている時のように、その瞳が少年らしく輝いている。
「うん。聞く? あー、でも、よけいに具合悪くなりそうだから、止めといた方がいいかな」
「や、やめとく」
大体の想像がついてしまうところが悲しいが、やはり断っておく方が無難だろう。熱が上がりそうだ。
ボリスは小箱を取り出すと、アリスへ差し出した。
「ベタだけどさ、これ、お見舞い。早く良くなってね」
「ありがとう」
にこっと笑うと、ボリスは「気に入ってくれるといいんだけど」と言いながら、箱のリボンを解いた。
中からオルゴールを取り出すと、螺子を巻いてベッド脇の机に置く。
部屋に静かな音楽が零れ出し、アリスは頬を緩めた。
静かで寂しいと思っていたから、こういう品は有難かった。
嬉しそうなアリスを見て、ボリスは表情を和らげた。
アリスとボリスの間に和やかな空気が流れ始めた途端、ピアスが二人の間に割り込んできた。
「俺も俺もっ! アリスにお見舞いっ!」
ピアスは負けじと声を張り上げると、アリスに向かって大きな籠を差し出した。
「あ、ありがとう」
「ね、ね、美味しそうでしょ? チーズとね、チョコレートにクッキーに、飴とケーキ! 俺の好きなもの!」
ピアスがにこにこーっと嬉しそうに差し出すものだから、アリスはつられて微笑んだ。
ただ少し、顔が引きつっていたかもしれないが。
ボリスはそれを見て、アリス同様に顔を引きつらせた後、聞こえよがしに大きな溜息を吐いた。
冷たい声音で遠慮なく、ピアスをバッサリと斬り捨てる。
「お前……ほんっと、馬鹿だな。具合悪いのに、そんなの食えるか」
「い、いいのよボリス。ピアスも、ありがとう。喉が痛かったから、飴は嬉しい」
アリスは慌ててフォローを入れると、籠の中から飴を一粒つまみあげた。
包みを解いて口の中に放り込むと、それはとてつもなく甘い味がした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お姉さん」
遠慮がちにドアが開けられる。
部屋に静かに体を滑り込ませると、ディーとダムは静かにドアを閉めた。
確かボリスが、二人が荒れていたと言っていたが
。
なるほど、どこか不安そうに見える。
ディーとダムはベッドから少し離れた場所で、どうしていいのかわからない、といった風に、ただ突っ立っていた。
(……? なんか、やけに……)
アリスが手招きすると、二人はおずおずと近寄ってきた。
「僕らいい子だから、大人しくしてるよ。だから、傍に居てもいいよね?」
アリスが頷いても尚、ディーとダムは落ち着かない様子で、揃ってベッドの脇に膝をついた。
帽子を脱ぎ捨てると、ベッドにぼふっと顔を埋める。
(確かに、元気がないわねー……)
それに、やけにしおらしい。普段の快活な彼らと比べると、不気味な程に。
何か企んでいるのでは、と一瞬だけ警戒したが、その考えもすぐに霧散した。
「お姉さん、元気になる?」
ダムが小さな声で、ぼそりと呟いた。
アリスは二度三度と瞬きした後、二人の視線の意味を理解して、慌てて頷いた。
身を起こしたついでに、手を伸ばして、あやすようにその頭を撫でてやる。
「なるなる」
「本当に? 嘘は嫌だよ、お姉さん」
ディーの唇は、きゅっと固く結ばれている。アリスはもう一度、しっかり頷いてみせた。
「うん、元気になるから」
「そっか……」
ディーとダムは、そのまましばらく撫でられていた。
柔らかくて少し癖のある二人の髪の毛は、ひどく手触りがいい。
「元気になったら、また茸の場所へ連れて行ってね」
彼らは子供といえど、体力は大人顔負け――もとい底なしだから、アリスがこうも簡単に倒れたことで、酷く不安になったのだろう。
まるで、常は元気にしている母親が、たまに病気になった時の子供のような。
そう思いついた途端、彼らがとても可愛らしく見えてくるから不思議だ。
いつもは、やんちゃの一言ではおさまらない二人なのに。
「……うん、わかった」
ディーとダムはやっと安心したようで、いつもの表情に戻った。
それでいい、とアリスも安堵する。空元気も元気のうちだ。いつか元気になる。
「病気の時って心細いものなんでしょ? だったら、僕達が一緒に寝てあげる」
「僕らで暖めてあげるよ」
含みのない微笑を湛えて、ディーとダムは優しく囁く。
アリスは慌てて二人を制止した。
「駄目、うつるわ」
「いいよ。お姉さんの風邪なら、うつしてもらいたい」
「そうしたら、お姉さんが看病してくれるよね」
二人は躊躇いもせずにベッドに潜りこむと、アリスの両隣を陣取った。
そーっとアリスの体を抱きつき、もぞもぞと横になる。
不安は完全に払拭された訳ではない。できるだけ寄り添って居たいのだ、と解釈したから、アリスはもう強く言わなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
エリオットの顔には、疲労が浮かんでいた。
何かの案件の片をつけると言っていた上に、会議も重なっているのだから、疲労も相当なものだろう。
そんな素振りを微塵も感じさせず、エリオットはベッドに駆け寄った。
自身は椅子に座ると、その大きな手を、そっとアリスの額にあてる。
「熱は……少し下がった、か? よくわかんねえけど。でも、まだ熱いな」
手がゆっくりと離される。ぼうっと見上げてくるアリスに向かって、エリオットは元気づけるように微笑んだ。
「仕事、片付けてきた。ずっと傍にいるから、俺のこと呼んでくれ。ずっと起きてる」
そうして当然だ、という風にエリオットが宣言したので、アリスは驚いた。
「いいから、エリオットも寝てよ。あなたが倒れたら」
もしもエリオットがダウンしたら、帽子屋屋敷が回らないかもしれない。
それ程に、エリオットはファミリーにとって重要な人物だった。
比べて、アリスひとりが倒れても、何の影響もない。
だから、エリオットにそこまでさせるわけにはいかなかった。
だが、エリオットは笑って首を振った。
「大丈夫。徹夜して倒れるほど、俺は柔じゃねえよ……って、あんたが柔だって言ってるわけじゃなくってだな!」
慌てて言い繕うエリオットが可愛くて、アリスはクスッと笑みを刻んだ。
エリオットは照れたように微笑んでいたが、ふっと表情を消した。アリスを見つめ、神妙な面持ちになる。
「あんたが苦しんでるのは、辛いな……」
言いながら、苦しそうに顔を歪める。エリオットの方が辛そうだ。
「あんた、死んだり、しないよな?」
アリスは目を瞬かせた。
もう頭痛は治まっているし、熱が高い状態が続いて辛いぐらいだ。症状もましになってきているし、死ぬようなことはないと思うのだが。
「死なない、つもりだけど」
「そんな弱々しい声で言われたら、不安になるだろ!?」
そんな事を言われても。
「俺、頭悪いから気づかなくて……あんたの体のこと、考えてなかった」
へにょっと耳が垂れていく。アリスの胸はズキズキと痛んだ。
(ああああ、ごめーん……)
悪いことをしている気分だ。エリオットの悲しみは、ダイレクトにアリスの痛みになる。
「俺たちと違って、あんたはそんなに細いし、体力だって」
エリオットの一方的な謝罪は続く。
「あんたを守るべきだったのに。すまん」
アリスは返す言葉に迷った。
これがもし、銃撃戦があって流れ弾が当たってアリスが怪我を、等だったら、エリオットのこの言葉もそんなに変ではない。
けれど、これは単なる風邪だ。
風邪からどうやって守るというのだろうか。けれど。
(守り甲斐のあるような可愛げが、私にもあったらよかったのにな)
残念でならない。
などと、うっかり柄でもないことを考えてしまった。
きっと、エリオットがとても真剣に言ったからだろう。
「だから、あんたは俺がみてる。食欲はどうだ?」
「ん……まだ、あんまり」
「そっか」
エリオットは短く答えると、アリスに大箱を差し出した。
「だと思って、にんじんのプリンとか、喉ごしのいいものを選んで買ってきたんだ。これなら食べられるか?」
にんじんからは逃れられないのか。
けれど、その好意と配慮は嬉しい。
「……ありがと。頂くわ」
「そっか! よかった」
エリオットは満面の笑みを浮かべた。さっそく箱を開けてみて、アリスは一瞬固まった。
「エリオットも一緒に食べましょう」
「いや、これはあんたへのお見舞いだぜ? だからあんたが食べるべきなんだっ!」
エリオットは強がるが、顔がちょっと欲しそうにしている。けれど、アリスも引かなかった。
箱は二段になっていて、しかも全てがオレンジ色だ。
「こんなに沢山は食べられないし、一人で食べても味気ないから……一緒に食べよう」
むしろ率先して食べて下さい。
アリスがお願いすると、エリオットは迷った後、承諾してくれた。きらきらした目で盛大に感激されながら。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ブラッドが訪ねて来たので、アリスは真っ先に礼を告げることにした。
「桃、ありがとう。美味しかった」
珍しく素直に言ったのに、ブラッドの表情は全く嬉しそうにはみえない。
それどころか、苦々しい顔をされた。
御礼を言われるとは思っていなかったのだろうか。
(失礼な)
ブラッドはふう、と軽く息を吐いた。
「喜んでくれたのなら何よりだ。だがな」
「?」
「ちっとも減っていないように見えるが?」
ブラッドは、意味ありげにちらりと部屋の片隅に視線を向ける。
その表情が拗ねているようにも見えたので、アリスはうっかり噴出しそうになった。
桃の甘く青い香りは胸に気持ちがいいから、そのままにしておいてあるのだけれど。
「……あなたが大量に買いすぎたの」
「そんな事はないぞ」
どこがだ。桃屋が開けそうだ。
「ちゃんと食べているのか?」
「少しずつは」
三食全部、桃を主食にしても一向に減る気配がない。
痛まないうちに食べきってしまいたいが、一人では難しい。
元気になったら、桃を使って、たくさんお菓子を焼こう。見舞いへのお礼として、来てくれた皆へ。
「そういえば、医者がぼやいていたよ。余所者を診るのは初めてだとな。だが、万一のことがあっては困る。念を押しておいたから、安心したまえ」
「念?」
「ああ。お嬢さんに何かあれば殺すとね」
「……」
なんというストレートな。
くらくらと眩暈がして、アリスは額に手をやった。
先ほど診に来てくれた医者が酷く緊張していたのは、この男のせいだったのか。
(かえって誤診したらどうするの)
まあ、風邪ぐらいでは誤診も何もないだろうが。
ブラッドは、そっとアリスの額に手を置いた。乱れたアリスの前髪を、指で丁寧に撫でつける。
「目に毒だな。熱に浮かされる君の姿は、なかなかに色っぽい。手を出したくなるよ」
ブラッドは手を伸ばすと、指先でアリスの髪を梳いた。
「心配しなくていい。病気で弱っている君に手を出すほど、無粋ではないつもりだ」
ブラッドは、本気とも取れる艶やかな微笑を浮かべながら、アリスの髪を一房救い上げると、軽く口付けた。
「少し、顔色がよくなったな。君は常に頑張りすぎなんだ。適度に手抜きすることを覚えなくては」
アリスの反応を見て、ブラッドは小さく安堵の息を吐いた。
わかりにくいが、彼なりに心配していたらしい。
ブラッドは、枕元に置いてあったオルゴールに目を留めた。
だが、何処からこんな物を、とは問われなかった。
アリスの傍には見舞いと称したピアスのお菓子籠まであるのだから、見舞いの品であることは察した筈だ。
螺子がきれて止まっていたそれを拾い上げ、キリキリと巻く。
「寝ることに飽きてはないか? 退屈だろう」
「まあ、ね。けっこう寝たきりだから」
「そう思って、これを君に」
ブラッドは、二冊の本をアリスに手渡した。
以前、アリスが続きを読みたいと言っていたことを覚えていたのだろうか。
「あ、嬉しい」
アリスが小さく本音を零すと、ブラッドは満足そうに微笑んだ。
「子守唄代わりに、と思ってね。だが、疲れない程度にするんだぞ」
「ありがとう、ブラッド」
ブラッドは意外にも、細やかな心配りが出来る。
本人がだるそうにしているから、常日頃はなかなか気がつかないけれど。
「君は私が守るよ。だから安心して休みなさい」
驚くほど優しい声で、ブラッドは囁く。アリスはこくりと頷いた。
今日この言葉だけは、素直に聞き入れることができた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「アリス」
呼ぶ声が聞こえて、アリスはきょろきょろと周囲を見回した。
「ナイトメア?」
確かにナイトメアの声だったのだが、姿が見えない。
実は夢を見ているのかとアリスがしばらく考えていると、薄っすらと闇がかった片隅から、彼は静かに現れた。
「……ナイトメア」
「具合はどうだ?」
そう言う彼の顔も青白い。
「ノックもなしに入らないで」
冷たく言い放つと、ナイトメアはたじろいだ。
「こ、ここは私の領地だぞっ!? 何故いけないんだ!」
「それでも、だめ。着替えてたりしたらどうするの」
「そ、それもそうか……悪かった」
ひとつ咳払いをすると、ナイトメアは恭しく花束を取り出した。
やけに気障ったらしい動作だが、憎たらしいことに似合っていた。全く嫌味ではない。
「これを、君に」
ふんわりといい香りがする。
アリスは受け取ると、ナイトメアと花束とを見比べた。
「……お花? ありがとう。でも、どうして二つもあるの?」
一つはナイトメアからと見ていいだろう。けれど、二つとはこれ如何に。
アリスが首を捻っていると、ナイトメアは親切にも説明してくれた。
「ああ、公爵と時計屋に頼まれてね。買ったのは私だが、彼らからだよ」
「え」
アリスは驚いて目を見開いた。
ユリウスとゴーランドの名を、こんな形で聞くことになるとは思いもしなかった。
ナイトメアは続ける。
「君が寝込んでいると話したら、二人ともたいそう心配していたぞ。だから、早く良くなりなさい」
アリスは思わず、花束を胸にかき抱いた。
優しい彼らの顔が鮮明に蘇る。
ああ、確かにあの人たちは優しかった。
しばらくの間、アリスはじっと俯いていた。
うっかり涙腺が緩みそうになるのを堪える。ナイトメアは何も言わずに、アリスをただ見守ってくれた。
危うく乱れかけた呼吸を整えると、アリスは顔をあげた。
「……二人に、伝えてくれる? ありがとうって」
ナイトメアは微笑んで頷いた。
「ああ、喜んでいたときっと伝えるよ。だから、まずは元気になってくれ」
「ナイトメアも、ね」
言葉を付け加えると、ナイトメアはそっぽを向いた。
「私はいいんだっ! そんなことより、君だ。君!」
「私?」
「そうだっ! 全く、君のせいで会合が全然進まないじゃないか」
ナイトメアの無茶な言い分に、アリスは眉をひそめた。
「どうして?」
「君のことが気がかりで、皆、上の空なんだ。ちっとも進みやしない」
不満そうに溜息を吐いたナイトメアに向かって、アリスは辛らつな言葉を投げかけた。
「進まないのはいつものことでしょう。私のせいにしないでよ」
「いーや、君のせいだ」
ナイトメアは堪えることなく、きっぱりと断言した。
何故、と尚もアリスが追求しようとすると、ナイトメアはニヤッと笑ってみせた。
「その中に、私も含まれてるんだ。君の容態が気がかりで、進行役もままならない」
「……いつもは、できてるって?」
アリスは会議中の彼の様子を、頭の中で思い起こした。
しどろもどろな仕切り、隣には、胃が痛そうなグレイ。
(あれで?)
疑いの目を向けたが、ナイトメアは澄まして断言した。
「そうだ。だから君は、早く治さねばならないんだぞ」
よくわからない理屈ではあるが、心配はしてくれているらしい。
「ありがとう」
礼を言うと、ナイトメアは不意を突かれたかのように、ただ目を丸くした。
(何よ、その反応は)
アリスが軽く睨むと、ナイトメアは焦り始めた。
「い、いや、その」
ナイトメアは弁解しようとしたらしいのだが、上手い言葉を見つけられなかったようだ。
ふう、と軽く息を吐くと、ナイトメアはアリスに向かってスッと手を伸ばした。
「さあ、おやすみ。私からの見舞いだ。よい夢をあげよう」
ナイトメアの少し体温の低い指先が、そっとアリスの瞼に触れる。
何だか子供にかえった気分だ。
彼らば勢力関係なく、寄ってたかってアリスを心配してくれる。
何だかくすぐったくて、落ち着かない。それでも、アリスは嬉しかった。
アリスがもぞもぞと毛布に包まると、ナイトメアは満足そうに唇の端を持ち上げた。
大事にされている安心感が気を緩めたのか、アリスはすとんと眠りに落ちていった。
後日、快気祝いと称した大量の贈り物によって、アリスの部屋は埋もれることになる。
===== あとがき ===
2008年の冬コミで頒布したフリーブック「風邪引きさんには」でした。
オールキャラ、書いてて楽しかったことを覚えています。皆でわいわい系。
ではでは、ありがとうございました!
(2012.1.1 山藤)