何処までも広がる、一面の麦畑。
 草の間をぬって通り抜ける、青い風。

 その風景に立つエリオットは笑顔も髪も眩しくて、アリスは酔う。

 そうして、アリスの全ては黄金色に染まるのだ。









  黄金色に染まれ












 温かな光景が、アリスの心を解していく。
 ここには誰もいない。エリオットとアリス以外は、誰も。
 だからアリスは、いつもよりもずっと素直で居られる気がした。

 長めの休暇を得たエリオットに誘われて、二人は小麦畑に居た。
 いつものように二人して寝転び、ぼうっと空を仰ぐ。
 会話はぽつぽつと交わされ、それが心地よい。至極穏やかな空気が二人の間には流れていた。

 視界いっぱいに広がっていた青空が、不意に切り替わった。
 赤く塗りかえられていく空を眺めながら、アリスは目を細めた。

 すっかり時間帯が変わってしまうと、アリスは体を起こして周囲を見回した。
 金色に輝いていた小麦が、夕陽を受けて茜色になっている。

 ぞっとするような美しい光景に、アリスは思わず身震いをした。


「……すごいわね、一面真っ赤になって」

 
 見渡す限り、赤い世界だ。
 ビバルディが見たら喜びそうだなあ、と呑気なことを考える。

 アリスが感嘆の声をあげると、エリオットもむくりと起きあがった。


「おう。なかなか良いだろ?」


 そう言って笑うエリオットの髪さえもが、空の色をうつして普段よりも赤みがかって見える。
 真っ赤な金色の世界に放りこまれて、アリスは目を閉じた。視界を閉じても、鮮やかな残像が僅かに残る。


「ええ。眩しいぐらい」


 ちょっとばかり、目に毒なほど。
 アリスは手を伸ばすと、エリオットの巻き毛に絡みついていた草をやんわりと掃った。

 幸せだ、とアリスは思った。
 エリオットとこうして一緒に居られることが、こんなにも嬉しい。
 やっと掴むことができた幸せに、アリスの思考は緩慢に蕩けていく。


「もう少し早く、エリオットに会えてたら良かったって思う」
「え?」


 何の前触れもなしに、アリスは思いつきを口にした。
 いきなり言われたエリオットは、すっかり目を丸くしている。


「もっと前に?」
「うん」


 そうだ、とアリスは素直に頷く。
 良い関係が築けた今、彼にもっと早く出会えて居たらもっと早く幸せになれたのに、と思うのだから、なかなかアリスも現金だ。

 もしも最初が、あの人ではなくてエリオットだったなら、自分は――。


(……って、無茶苦茶なことを考えるなあ……)


 我ながらそう痛感したが、ちょっぴり考えるぐらいなら良いかな、とも思う。
 無理があることは解かっている。

 言い方は悪いが、彼と出会い別れなければ、アリスはこの世界に来れなかっただろうから。

 アリスはアリスのままで、「姉と自分とは違うけれど、それでいいのだ」と思っていられただろう。
 アリスがロリーナを羨望することも――いや、これはしていたかもしれないが――強くはなかった筈だ。

 きっとペーターも、迎えにくることはなかった。
 そう思うと、エリオットに会えたのは、案外『彼』のおかげなのかもしれなかった。


(よかったのか……)


 過去はアリスの糧になっている。認めるのは、どうも癪だけれど。
 今が幸せなら、それはそれでいいのかもしれなかった。

 アリスが思いを巡らせている間、エリオットはしばらく考え込んでいた。そうして、ぽつりと口を開く。


「俺は、今の俺があんたに会えた方がいいと思うけどなー」
「え」


 思いがけない返答に、アリスはエリオットの顔を見上げた。
 ストレートなエリオットの事だから、きっと「俺もそう思う」と言ってくれるとばかり思っていたのに。


「……どうして?」
「あ、別に会いたくなかったってわけじゃねえぞ!?」


 慌てるエリオットが何だか可愛らしかったので、アリスはクスリと笑みを零した。
 エリオットはバツが悪そうな顔をすると、ぽつりぽつりと語り始めた。


「俺、前は悪いヤツだったからさー。でも、あんたの事は好きになってた筈だろうから」


 だからな、とエリオットは続ける。
 アリスは黙ってエリオットの言葉を待った。

 物申したいことは、ある。
 今は善人とでも言うつもりなのか。
 
 可愛いところが目につくから、うっかり事実を忘れがちだけれど、エリオットは――世間一般でいう裏稼業の構成員であり、しかもトップクラスであり――つまるところ、悪者だ。
 過去のエリオットがどうだったのかアリスの知るところではないが、今でも十分、エリオットは「悪いヤツ」だとアリスは思う。
 

(……あれ?)


 いつの間にか、アリスはエリオットの腕の中にいた。
 引き寄せられた記憶もないのに、いとも簡単に捕らわれてしまう。


「自制きかなくて、あんたを傷つけてたかもしれない」


 いつになく真剣な声に、アリスは目を瞠った。
 エリオットはふざけている様子もなく、ただアリスをじっと見つめている。


(……あ、あれ?)


 ドキリと胸が高鳴ったのは、何故だろう。
 それが不安なのか恋なのか、アリスにはよく分からなかった。


「今は?」


 エリオットの視線は深い。視線を逸らさないようにするだけで、アリスは精いっぱいだった。
 何か言わないと、と焦ったアリスは、短くエリオットに問いかけた。


「今は、待ってやれる。優しくしてやれる。……我慢も、ちょっとぐらいなら、出来る」
「そ、そんなに我慢できない人だったの?」
「あー、うん。そうだなー」


 囁く声が柔らかくて、アリスはホッとした。いつものエリオットだ、と。
 先ほど跳ねたアリスの鼓動も、すっかり落ち着きを取り戻していた。
 
 エリオットの胸に身を寄せると、じんわりと温もりが伝わってくる。温もりと共に、わずかな機械音も。
 エリオットとアリスは違う生き物なのだ、と思い知らされる音。アリスの好きで嫌いな音だ。


「我慢っつーか、面倒だと思ったらすぐ撃ってたからなー。言われてみれば、我慢した事ねえかも」


 エリオットはあっけらかんと答えた。先ほどの陰りは何処へやら、だ。

 何故、とつい聞いてしまいそうになったが、意味のないことに気づいたアリスは止めておいた。
 理由なんてない。それがエリオットだから、だ。


「そっか……じゃあ、いま会えて良かったのね」
「そういうことだな」


 エリオットは屈託なく笑うので、アリスもつられて微笑んだ。
 こうして二人で笑いあえることが、今が幸せなのだとアリスに思わせてくれる。
 エリオットと居ると、自分まで素直になれる気がするから不思議だ。


「ま、俺もあんたに早く会えてたらよかったなーって思うこともあるけどな」
「え、あるの?」
「ある」


 あっさり頷かれて、アリスの頬は引きつった。
 今までのやり取りは何だったんだ、と脱力感さえ覚える。


「そうしたら、俺がずっと守ってやれてただろ?」
「……」


 アリスは言葉に詰まった。
 エリオットの声音に嘘は無い。心からそう思っているのだ、と感じたから、尚更アリスは言葉を失った。


(どうして、エリオットは……)


 こんなにも真っ直ぐに想いをぶつけてくるのだろう。
 嬉しくない訳ではないのだが、どうやって受け止めていいのか分からないアリスは戸惑うばかりだ。


「あんたを傷つけるもん全部から。でも、これからは安心していいぜ」
「やめてよ……」
「……? どうした?」


 俯いた顔を、エリオットに覗きこまれる。
 エリオットは些細な抵抗も見逃してはくれない。アリスは小さく首を振った。


「私をあんまり甘やかさないで。離れられなくなったらどうするの」


 ただでさえ嬉しくて幸せで、これ以上ないくらいなのに。
 エリオットが居るという理由でこの世界に残ったアリスを、どこまでも許さないで欲しい。
 頬を染めながらアリスが訴えると、エリオットの目が驚愕に見開かれた。


「離れ…・…っ!? アリス、俺から離れるつもりなのか!?」
「いや、それはないけど」
「でも今……っ!」
「エリオットが好きだから、離れないわよ。私からは絶対」


 アリスが強く断言すると、エリオットはポッと頬を染めた。


「そ、そっか……? で、でも、だったら、甘やかしてもいいだろ!?」
「駄目よ。調子に乗るから」


 アリスは冷静に言葉を返す。
 けれど、エリオットは納得のいかない様子だ。


「なんか悪いのか? それが」
「え」
「いいじゃねえか、そんくらい。俺としては、もっと我侭言って欲しいけどな」


 エリオットが軽く言うので、うっかり「そうかな?」とアリスは傾きかけた。


「え、そう……? いやでも、私はけっこう我侭だと思うんだけど」
「どこがだよ……はあ」


 溜息と共に、エリオットは肩を落とす。アリスはムッとした。


「我侭だってば」
「じゃあ聞くけど、いま欲しいもんって何だ?」
「え? えーと……うーん」


 アリスは首を捻り、考え込んだ。いま一番欲しいものといえば。
 いざ「何だ」と聞かれても、すぐには返答に困る。


「そうそう。この間、面白い本を見つけたのよ」
「ふうん?」
「で、その続きをね。次の休みに買いに行きたいなーと思ってる」
「……」


 エリオットは無言だった。
 エリオットの耳が力をなくして垂れていくのを見て、アリスは目を丸くした。


「ほらみろ……何処が我侭なんだよ」


 欲しいものは、と聞かれたから正直に答えただけなのに。
 ぶつくさ呟くエリオットに反論しようと、アリスは口を開いた。


「……確かに、あんまり我侭じゃないかもしれないわね、これ。でも」
「もっとこう……高いもんとかさ。ないのか?」


 アリスの言葉に被せるように、エリオットは問いかける。
 アリスは慌てて言葉を呑みこむと、首を捻った。


「高い……高価なもの? うーん……」


 ちょっと手を出すのを躊躇うような値段のもの、といえば。
 思い当たって、アリスはポンと手を打った。


「ああ、そうそう。すっごく綺麗な装丁の本があってね。箱入りで」
「本ばっかりかよ!?」


 すかさず突っ込まれてしまい、アリスはぐっと言葉に詰まった。何が悪いのか分からない。
 ちらりとエリオットの顔を見やると、じとーっと不服そうに見つめられていた。


「指輪とか貴金属の類は? 高価なやつ」
「高いもの? ……んー、好きだけど、たぶん私には似合わないわ」


 相応という言葉があるから、とアリスは思う。
 確かに高価な物は美しいが、それを今のアリスが身につけるとなると、どうしてもちぐはぐになってしまうだろうから。

 アリスがあっさり答えると、エリオットの憔悴っぷりはその影を増した。
 目に見えてがっくりしているので、アリスは内心、焦っていた。

 エリオットに嘘はつきたくないから、正直に話しただけなのだけれど――まずかったのかもしれない。


「……」
「……駄目?」


 アリスはおそるおそる尋ねた。
 エリオットは苦笑しながらも首を振る。駄目なわけではない。


「いや……いいんだけどよー。もうちょっと貢がせてくれよー」
「なっ……?!」


 すねたように呟く言葉が聞こえたのか、アリスは瞠目している。

 エリオットは思う。
 確かに、アリスは「あれが欲しいこれが欲しい」とねだるような女の子ではない。
 先の答えも、ある意味ではものすごく彼女らしいと思った。

 けれど、もっとこう――男としては、もっと甘えてくれて構わないのに、と思うのだ。それが金銭面でも何でもいい。


「……そっか、なるほど。仮にもマフィアbQの恋人なんだから、もうちょっと身なりに気をつけろ的な」
「ち、違うって! そんなんじゃねえ!」


 エリオットは慌てて否定した。アリスはきょとんとしている。

 そういう意味で聞いたのではない。断じて無い。
 むしろ、アリスにあれこれ文句を言う輩が居るのならばエリオットが率先して殺す。


「あれ、違うの?」
「当たり前だろ!? あんたは、もう……」


 心からの溜息をつく。どうしてそんな思考になるのか分からない。
 アリスはエリオット達の思考が飛んでいる、と言うが、アリスだってなかなかのものだ。


「え、エリオット……ごめん、なんか」
「いや、いいんだ。これは俺の問題だからな」


 すまなそうな声に、エリオットは頭を振った。アリスが悪い訳ではない。

 アリスが好いてくれているから、何かしてあげたいのだ。アリスの心を、より自分に繋ぎとめておきたくて。
 その為には、と手っ取り早く思いついたのが形ある『物』だっただけで。

 エリオットは短絡的に考えていたが、これは少し難しい問題なのだろう。
 欲しがらない彼女には何か別の物を差し出さなくてはならないが――とんと見当もつかない。

 アリスが喜んでくれそうな物はないか。


(花とか……なら)


 アリスを盗み見ながら、往生際の悪いエリオットは考える。
 アリスはこの場所を喜んでくれた。エリオットと同じものを好きだと。吹き抜ける風を気持ちいいと笑う。
 花なら、アリスに受け取って貰えるだろう。たぶん。


(いいよな? たぶん)


 宝石よりも、きっとアリスは喜んでくれるだろう。
 そう結論づけたエリオットは、一人で勝手に納得した。

 けれど、花屋なんて町にあったかな、と再び思い悩む。
 花屋なんて縁の無い類の店は、今までちらとも気にしたことがなかった。なので、エリオットの目には入っていなかったのだろう。

 今度、見回りをする際にでも見つけなくては。


「本当に欲しいものなら、もう持ってるから」
「ん?」


 不意に、アリスの呟きが聞こえた。
 エリオットが彼女の言葉の意味を考える前に、アリスは晴れやかな顔で続ける。


「だから、あんまり欲しがったら悪い気がするのよね」


 そう告げて、アリスは屈託なく笑う。エリオットは置いてけぼりだ。


「何の話だ?」
「こっちの話」


 楽しそうに笑うアリスの髪は黄金色だ。風が彼女の髪を撫でるたび、宙にサラサラと舞う。

 エリオットは眩しそうに目を細めた。
 穏やかな場所に過ぎなかったここが、エリオットの中で更に価値を持ち始める。

 好きな風景に好きな人がいる、というだけで、こんなに変わるものなのか。


「エリオット。私、今すごく幸せ」
「そ、そうか?」
「うん」


 アリスがやけに素直で可愛いのは、何故だろう。
 重ねられる手が温かくて、伝わる温もりが嬉しくて、エリオットは微笑む。


「また一緒にきましょうね」


 ――変わらないで欲しい、と今この時ほど強く願ったことはない。


「ああ、そうだな」


 時間帯なんて変わらなければいい。
 そうしたら、いつまでも二人で、この場所で――。
 
 自分がそんな風に考えたことを不思議がりながら、エリオットはアリスを抱きしめる。
 
 こみあげてくる強い感情が何なのか、エリオットには分からない。
 胸からこぼれそうになり、思わず空を仰ぐ。

 エリオットの心情を写し取ったかのような、燃えるような空だった。





 


===== あとがき ===

穏やかなエリオット×アリスでした。

甘やかしたいエリオットと、いまいちその辺りの男心が分かってないアリス。
エリオット×アリスのアリスは、割と素直寄りです。

ではでは、ありがとうございました。

(2011.9.20 山藤)