Eの観察日記
本日は晴天なり。
今日も、帽子屋屋敷の一室では、マフィアの本拠地にそぐわない程の和やかなやり取りが交わされている。
「それじゃあ、またね」
「おう、またなー」
答えるエリオットの声は、突き抜けて明るかった。
太陽の色をした巻き毛が、その長い耳が、弾むように揺れる。
部屋の扉が、少しの軋み音と共に閉じられる。
アリスは我に帰ると――扉が完全に閉じるのを、アリスは無意識に見つめていた――ひとつ、息を吐いた。
アリスは、遠慮がちにソファに座りこんだ。
ソファに置いてあるクッションを両腕で抱きかかえると、やわらかな草の香りがした。
(エリオットと居ることが多いなあ、最近)
そう自覚してしまい、アリスは思わずクッションに顔を埋めた。
しかも、エリオットから来るのではない。
アリスが会いに行くことが圧倒的に多くて――現に、いまだって。
アリスはひとり、エリオットの部屋にいる。
いや、ついさっき一人きりになったばかりなのだけれど。
(エリオットの部屋にまで、会いに来るようになっちゃって……)
私ってば、とアリスは頭を抱えたくなった。
頭を抱える代わりに、腕の中のクッションは、哀れなぐらいにぐにゃりと押しつぶされる。
アリスが一方的に会いたくて、仕事帰りのエリオットに声をかけたのだ。
(だって、何だか、どうしても……)
誰に言うわけでもなく――強いて言えば、自分を欺く為に――アリスは言い訳めいたことを考え始めた。
長い間、エリオットが屋敷を離れていたせいだ。
ブラッドに尋ねても「仕事だ」としか答えて貰えず、それでアリスはやきもきしていた。
(ブラッドのせいじゃ、ないけど)
仕事ならば、アリスの我侭で首を突っ込むことはできない。
そう我慢した分、思いがけない行動に出てしまったのだろう。
冷静になったいま、思うと、よくもまあ行動に移したものだ、と我ながら呆れてしまう。
『エリオットと一緒にいたい』
エリオットと再会した開口一番、アリスは、そう口にした。
言われたエリオットは戸惑っていなかっただろうか。
アリスは記憶を辿るが、高揚していたのか、サッパリ思い出せない。
エリオットの笑った顔しか、アリスには思い出せなかった。
(優しいなあ)
突撃してきたアリスを、疲れているだろうに、エリオットは受け止めてくれた。
エリオットは嫌な顔もせず、アリスと一緒にいてくれるという。
けれど、彼は次の仕事まで、少ししか時間が取れないというではないか。
となると、必然的に場所は決まってしまった。
エリオットの部屋で話そう、と。
だから、アリスは悪くない――と、アリスは責任転嫁しようとしたけれど――駄目だ。無理がある。
現実から目を逸らそうとしても、悪あがきにしかならない。
そもそも、それを提案したのは、アリスの方だったのだから。
アリスはとうとう、エリオットの部屋にまで踏み込んでしまった。
しかも、それを自ら望んで。
この事実は消せない。
いつのまにか、アリスの頬は桜色に染まっていた。
「……ふう」
エリオットの部屋は、その役割を象徴するかのように広い。
けれど、アリスが思っていたよりも簡素だ。
華美な装飾品があるわけでもなく、雑然としているわけでもなく。小ざっぱりしている、というか――。
「あまり、部屋とか気にしないタイプなのかも」
何となく、そんなことを感じる部屋だ。
ぼんやりした頭のままで、アリスは口に出して呟いてみた。
どうせ、いまアリスは一人きりなのだ。
思考を口にしたところで、誰に聞かれるわけでなし。
「気にしない……のは、ちょっと違うか。気にしてない、っていうか」
アリスは今度こそ遠慮なく、エリオットの部屋を見回した。
――エリオットに案内されている間、アリスは好き勝手に『エリオットの部屋』を思い描いていた。
壁一面がオレンジ色だったらどうしよう、と考えていたことは、エリオットには内緒にしておこう。
ともかく、幸いにしてエリオットの部屋は『まとも』だった。
――この前、双子の部屋を見たことがあったせいもあるだろう。
アリスには、眩しいほど『まとも』に見えた。
色づかいだって――所々にオレンジ色が目立つ気はするが、アリスの想像よりは――ずっと、抑えられている。
家具や調度品は必要以上に置かれておらず、殺風景にも映る。
最初は、彼の地位と不釣り合いだな、と思ったが、撤回させてもらおう。
この部屋は不思議と、アリスにしっくり馴染んでいた。
(私の部屋に、似てる)
アリスの部屋は、未だ最初に与えられた姿のままで、いっさい手を加えられていない。
これからも、加えられることはないだろう。
かといって、アリスの趣味ではない。断じてない。
いろいろ物申したいことはあるけれど、絶対に嫌だと思うほどでなく。
つまりは、たいした問題ではないのだった。
「私だって、屋敷に転がり込んだ身だし。部屋まで用意してもらっておいて、こんなの趣味じゃありませんー、だなんて、失礼すぎるもの」
さすがのアリスも、そこまで厚顔ではない。
アリスは呟きながら、ソファに身を倒した。
独り残されたせいで、部屋から出て行くタイミングを計りかねている。
「気持ちいいな……」
ソファの柔らかさに、アリスは思わず目を細めた。簡素ではあるが、物は良いということか。
不自由には感じない程度の、必要最小限でいい。
『趣味ではない』と『嫌い』とは、イコールではない。
華美なものだって、アリスとて見れば「綺麗だな」と思う。
ただ、手に入れたい、というまでは――。
自分の暮らしの中で必ずしも必要なものではない、と思うと、自然と自制できるのだ。
冷めているわけではない。
見ているだけで十分だ、と思うのだ。
「でも、意外。エリオットって、こういう部屋が好きだったのねー……」
主のいない部屋は、奇妙にアリスの肌に馴染む。
アリスはその理由に気づいていた。
エリオットの強いこだわりが、部屋からは感じられないのだ。だから、部屋はアリスを拒まない。
(ほとんど部屋にいなさそうだし)
どうでもいい、とまでは流石に思っていないだろうけれど。
どちらかと言うと彼にとって『興味のない』分類に入るのだろう。
自分と同じだな、とアリスは微笑を浮かべた。
そして、すぐさま諌めるように首を振る。駄目だ。
「私……もう、ダメかも」
こんな所で不意に彼との共通点を見つけては、勝手に喜んでいるなんて。
アリスは大きく息を吐いた。
目を閉じてみると、どきどきと胸が高鳴る。
――ああ、いま、自分はエリオットの部屋にいる。
(エリオットの部屋に……)
そう思うだけで。
(……動悸がおさまらない)
きっとそれが、アリスの答えなのだろう。
◆ ◆ ◆
エリオットの事が気になりだしてから、もうどれくらい経つのだろう。
そう。
アリスは、エリオットのことを――『気にしている』のだ。
気にしているだけ、だ。
アリスはそんな風に、自分に言い聞かせた。
そうやって蓋をしようとしていないと、とんでもないことになる。
とんでもないことに。
例えば――そう。
今までクールを気取っていたくせに、いきなり乙女モードに転換する、とか。
(寝ても覚めてもエリオットが気になった挙句、差し入れにお弁当なんか作っちゃって、エリオットの反応に一喜一憂したりして、それでもって、もっと喜んでくれるにはどうしたらいいかとか悩んで)
そんな薄ら寒いことを、平気で仕掛けていきそうな自分がいる。
「……」
やってみたいなあ、と思ってしまった自分を、アリスはなるべく遠くへ追いやっておいた。
(あんまり、エリオットのことって知らないなあ)
マフィアな仕事をしているウサギさんで、割と口は悪いしストレートだし、大きな体躯は暴力を彷彿させる――けれど、アリスには滅法甘い男だ。
けれど、意外と世話好きで、気の良いお兄さんである――アリスが知ることと言えば、そのぐらいだ。
たったのこれだけしか知らない。
いや、これくらい知っている。どちらだろう。
(エリオットのこと……)
これで十分なのだろうか。
いいや、ぜんぜん足りない、とアリスは即座に思う。
エリオットの事となると、アリスはどこまでも貪欲になれる。
(これだけしか知らないんだもんね……こんなに世話になっておきながら)
アリスは密やかに嘆息した。
零された青い息は、なすすべもなく空に溶けていく。
知らないことは罪ではない。
けれど、なんだか自分がひどく薄情な人間に思えてくるのだ。
(でも、仕方なかったのよ)
アリスは一人、誰に言うともなしに、弁解じみたことを考える。
面倒事は御免だ、と、アリスはわざと厄介なことは避けてきた。
だから、危険の塊のような彼のことを、今の彼女がさほど知らないのも無理はない。
そう、仕方なかったのだ。
すくなくとも、今までは。
アリスは単身で、こんな奇妙な世界へ放りこまれてしまったのだから。
過剰なまでの無関心は、自分を守るためだった。
頑なに自分を閉ざして、守っているつもりだった。けれど。
「守れなかったみたい」
アリスはちいさく呟いた。認めるのは癪だけれど。
アリスは失敗した。
それはもう、見事といって良いほどに。
(なんでだろう)
自分が思っていたよりも、自己評価が高すぎたのだろうか。
ともかく、エリオットその人に、アリスは興味を持っている。天変地異が起こったのか、と思った。
(我ながら不思議だわ)
それが、けして嫌ではないことが、なおさら問題だ。
いつのまに、と歯がゆさも、ある。
図々しいまでに、エリオットはアリスの心に入り込んできた。
そこで、本題に戻る。
「何が必要かな」
アリスはしばらく考えて、結論を得た。
知らないことが多いのなら、埋めたらいいのだ。
まずは、彼に関する知識を集めよう。
そうと決めたアリスは、さっそく街へと出向き、馴染みの本屋でいくつかの書籍を購入した。
購入した本は、マフィアに関するものがほとんどであった。
その中に「うさぎの正しい飼い方」タイトルの本も、密かに含まれていた。
◆ ◆ ◆
埋もれるように何冊も積み重なった本と、何冊かのノートに羽ペン。
アリスは本を片手に、一心に『勉強』に励んでいた。
(久しぶりだな、こんな風に勉強するのって)
学生時に、レポートを書いていた時のことを思い出させる。
アリスは懐かしい想いに駆られたが、懐かしむのも悪い気がして、すぐに溶かしてしまった。
ひとつ違うのは、あの頃よりもずっと、アリスが一生懸命なことだ。
「よし。だいぶ勉強はしたわ」
勉強目的で購入した本は、これですべて目を通した。
ノートにまとめた量も、ずいぶんと厚みをもっている。
アリスは満足そうに一息ついた後、本を棚に戻すことにした。
(でも、本で得た知識だけじゃあねー……)
実態と違っていることが、必ずあるだろう。
ノートをパラパラとめくりながら、アリスは頬杖をついた。
「あとは……」
骨格はできた。
次に、アリスがやることは。
(誰かに聞いてみたい、な。……聞いてみようかな)
いつもエリオットと接している誰かに聞けば、さらに彼のことを理解できるようになるかもしれない。
アリスは、周囲にリサーチすることにした。
何でそのまま本人に聞かなかったのかと言うと、アリスはそんな素直なことができないからだ。
(そんなの無理)
馬鹿なわけではない。
己を良く知っているつもりだ。
(それに……うん。周りからの目って、意外と鋭かったりするもの。本人の知らない悪いところも、良いところも)
それに――今はまだ、エリオットにこの気持ちを知られたくはなかった。
まだアリスには、これが恋かどうかは分からないのだ。
(だって、わからない)
アリスは、誰かを好きになったことはある。
けれど、それは失敗だった。
だから、アリスは次の恋に踏み出す自信が、いまいち持てない。
相手が相手なだけに、アリスはこのぐらい慎重になって良い筈だ。
そう思い込むことにして、アリスは立ち上がった。
◆ ◆ ◆
手始めにアリスが向かった先は、ハートの城だった。
(やっぱり、まずは同じ兎さんに聞いてみるべきよね)
恐らく、ある意味でエリオットを理解しているであろうペーター=ホワイトに会うために。
ペーターの方も、何かエリオットに対して思うところがあるかもしれない。
確実に彼の好意的な感想は望めないけれど、そんなことは百も承知だ。
ハートの兵士たちの視線を流しつつ、城内へと進む。
見逃してくれてありがとう、と心の中で呟きながら。
運よく、すぐにペーターを見つけることができた。
廊下の、かなり離れた場所に、アリスはその姿を見た。
ペーターは書類を抱えて、渋い顔をしている。
ちょうど謁見室から出てきたところ、だろうか。
あまりハートの城の構造を覚えていないから、たぶん、だけれど。
「あ、ペーター」
彼の反応は素早かった。
ペーターはアリスの呟きに、即座に反応した。
口にしたアリスがぎょっとした程だ。
「こんにちは」
目が合うや、バサバサっと書類の束を放り投げて、一直線にアリスへと向かってくる。
(書類、踏んづけちゃってるし……い、いいの?)
アリスとしては、散らばった書類がとても気になるのだが、ペーターはお構いなしだ。
「アリス……! 僕に会いに来てくれるなんて、嬉しいですっ!!」
「あの……」
ペーターはアリスの来訪を手放しで喜んでくれる。それはもう、無邪気に。
アリスは言葉を濁しつつ、視線を逸らした。
(……ごめんね、ペーター。喜んでくれてるのに、私は下心あり過ぎで)
そんなに喜ばれると、うっすら良心が痛む。
「ちょっと、あんたに聞きたいことがあって」
「はいはいっ、何ですかっ? 僕が何でも答えてあげますよっ!」
相変わらず、テンションが高い。
熱い抱擁を何とか回避しつつ、アリスはペーターに問いかけた。
「ねえ、ペーター。エリオットのこと、どう思う?」
ペーターはぴたりと動きを止めると、不思議そうに眼を瞬かせた。
「……エリオット=マーチですか? 三月兎がどうしたんです?」
「あんたと同じ兎同士だし、あんたの目から見たエリオットって、どんな風なのかなーって思って」
やはり、理由を聞かれたか。
答えを用意しておいて良かったな、と内心ホッとしながら、アリスは澄まして答えた。
すると、ペーターは間髪いれずに口を開いた。
「そうですねえ……大嫌いです。僕以外の兎なんて、みな滅べばいいのに」
「な、なんで」
好きだ、とか、好ましい、とかいう単語は端から期待していなかったけれど、滅べとは穏やかじゃない。
己の顔が引きつるのを感じながら、アリスは理由と聞いてみた。
ペーターはそれが当然のことだ、とでも言いたげに、誇らしげに主張を始める。
「愚かなんですよ、あの男は。頭が悪い。悪過ぎる。死んだ方がいいんです」
「愚か、って……確かに、あんまり頭がいい、っていうタイプじゃないけど」
確かに、賢いなあとアリスが思うような言動は普段からしていない――いや、ちょっと待てよ、とアリスは言葉を切った。
(……意外と、頭は良いと思うけどなあ)
エリオットは、帽子屋ファミリーを実質まわしている男だ。
戦闘一辺倒ではなく、諸々の交渉にも行っているという。
それだけでも十分、才覚はあるのではないかとアリスは思う。
そもそも、本当に頭が残念な男ならば、ブラッドもそこまでエリオットを用いなかっただろう。
「エリオット=マーチのことが気になるんですか?」
「え」
考えていたところに図星を指されて、アリスは面食らった。
思わず顔をあげて――ペーターが真剣な顔で、じっとアリスを見つめていたので、アリスはギクリとした。
胸の動揺を抑えつつ、はやく答えなきゃと言葉を探す。
「まあ、そのー……何て言うか、同じ屋敷で暮らしてることだし、少しは知っておきたいと思って」
「そうですか」
ペーターは、意外とあっさりとした反応をみせた。
畳みかけるようにぎゃあぎゃあ煩く言われるだろう、と思っていたアリスには、いささか拍子抜けだった。
ペーターは表情を変えると、ニコリと微笑んだ。
「もう少し、ゆっくりして行きますよね?」
「うん……。あ、ちょっと失礼」
アリスはノートを広げると、白紙のページを探した。
ゆっくりするのもいいが、ペーターから聞いたことを先にまとめてしまいたい。
好奇心を覚えたのだろう。ペーターは、アリスの手元を覗きこんできた。
アリスも、ペーターの視線からノートを隠さない。
「ノート?」
「うん。聞いたこと、まとめていこうと思って」
「貴女は研究熱心なんですね……いいですよ、僕が書いてあげます」
「え」
アリスが目を丸くした隙に、ノートはアリスの手から離れていた。
アリスの手からノートを取り上げたペーターは、サラサラと文字を書き連ねていく。
「……ペ、ペーター?」
「あいつときたら、この間も……ああ、腹立たしい。アリスに好かれるなんて、もっと腹が立つ。同じ兎でも、僕の方がもっと良い兎なのに」
ブツブツと呪詛のような言葉を呟きながら、それでもペーターの手は滑らかに動く。
「さて……こんなもんですかね」
「あ、ありがと……」
ペーターは書くのを止めると、ノートをアリスへ差し出した。
やっと戻ってきたノートを受け取りながら、アリスは遠慮がちに礼を告げる。
「どういたしまして」
ペーターは恭しくお辞儀をする。
流石に、優雅な物腰が板についているな、とアリスは思った。
(うわあ、びっしり……)
パラパラとノートをめくりながら、アリスは苦笑を浮かべた。なかなか手厳しい意見ばかりだ。
「……アリス」
「ん?」
呼ばれて顔をあげると、ペーターは渋い顔をしていた。
「……貴女のためになるなら、僕は何だってできます。やってみせます。けど、これは、なんだか複雑です……」
何故でしょう、と難しい顔のまま首を傾げるペーターをみて、アリスは何も言えなかった。
◆ ◆ ◆
「ねえ、ピアス。エリオットのこと、どう思う?」
屋敷に戻るついでに、アリスは森へと立ち寄った。
ペーターがエリオットに対して、あまりにも辛辣な評価を下したので、少しばかりアリスの気分は落ち込んでた。
だから、だ。
エリオットに対して友好的なピアスの意見が欲しかった。
「えりーちゃん??」
ピアスは目を丸くすると、じいっとアリスを見つめ返してきた。アリスは続ける。
「うん。ピアスはエリオットと仲が良さそうだけれど」
だから、わざわざこうして会いに来た。
いつか、エリオットに飛びついていたことを思い出す。
(なんて羨ましいことをしてたんだろう)
と、今となっては苦く思うアリスだったが、当時は、ただピアスの勢いに気圧されただけだった。ああ、仲良しなんだなあ、と。
ピアスはパッと顔を輝かせると、勢いよく首を振った。
「うんうん、俺ね、えりーちゃんのこと大好き! 優しいし、可愛いよねっ!」
「かわいい……」
ピアスにつられて、アリスは呟いてみた。
エリオットは可愛い、と形容するのは違和感がある。
見た目は可愛くない。むしろ、黙っていれば怖そうな――悪そうな男である。
(でも、可愛いよね……何でかな)
兎耳の効果は絶大だ。
「うん、だって、えりーちゃんは兎だもん! 可愛い。可愛いよね、うさちゃんっ!」
「う、うさちゃん……」
ピアスの花が咲いたような笑顔を前に、アリスは頬を引きつらせた。けれど――。
(一緒にエリオットの話ができるのって、いいな)
和む。
アリスは安堵して、きゃあきゃあはしゃぐピアスを眺め見た。
エリオットの話をきゃあきゃあ言える相手なんて、ピアスしかいないのではないだろうか。
(いや、私はきゃあきゃあ言えないだろうけど)
いつか、言ってみたいものだ。
「ありがとう、ピアス……落ちついてきた」
「?? うん、どういたしましてっ」
ピアスは首を傾げたが、すぐに笑顔になった。
(ピアスって、いい子だわ。すごく)
元より、エリオットに友好的というだけで、アリスの中のピアスの株は絶賛上昇中だ。
アリスはノートを取り出すと、徐に広げた。
(ピアスの評価は……)
文字を書き連ねようとして、アリスは手を止めた。
ピアスが好奇心に毛皮を膨らませながら、キラキラした目でノートを覗きこんできたからだ。
「アリスは日記つけてるの??」
ううん、とアリスは小さく首を振る。
個人的な日記であれば、こんな風に目の前で広げたりしない。
「日記って言うか、観察日記っていうか……エリオットのこと、いろいろ聞いて整理してみようと思って」
「へえ〜〜」
ピアスは興味深そうに、じろじろとノートを見つめている。
「面白そうだね! ね、ね、俺が書いてもいい? 俺も書きたいっ!」
「あ、うん。お願いしてもいいかな?」
「うんうんっ。まかせてっ!」
ピアスは、嬉しそうにコクコクと頷く。
ピアスは満面の笑顔で、アリスからノートを受け取った。
「え〜っとねえ、えりーちゃんはね〜可愛くって優しくって、仕事もバリバリなんだよ〜」
「そうなんだ」
うきうきと語りながら、ピアスはペンを走らせる。
「ちゅうはさせてくれないけど、俺、好きなんだ〜。うさちゃんっていいよねえ」
「……ちょっとあんた、エリオットまで狙ってんの」
聞き捨てならない。
アリスは眉をひそめて、ピアスを睨みつけた。
ピアスは何故アリスに睨まれているのかわからなくて、きょとんとしている。
「可愛いものには、ちゅうしたくならない?」
「駄目よ!」
その理屈は、正直、わからないでもない。
アリスだって可愛い物は好きだから。
けれどアリスは、反射的に言い返していた。
「えぇ〜〜〜〜〜、なんで??」
「なんでも! 駄目ったら駄目なの!」
アリスは声を張り上げた。
言われたピアスは納得いかないようで、しきりに何でと聞いてくるが、アリスは「駄目なものは駄目」で押し通した。
(私だってしたことないのにっ!!)
先を越されてたまるか、とアリスは唇を軽く噛んだ。
実は、ピアスはライバルだったことが判明した。これは非常にまずい。
ピアスは自分の感情に素直だ――アリスと違って。
焦る気持ちをおさえながら、アリスは足早に森を後にした。
◆ ◆ ◆
ちょうど森を抜けた時だった。
「お、アリスじゃん」
名前を呼ばれて、アリスは立ち止まった。
声のした方を見やると、ピンク色が目に飛び込んできた。
「ボリス」
森の中では出会わなかったのに。
彼が歩いてきた方角から察するに、町から戻ってきたところ、だろうか。
「こんにちは」
「や。久しぶりだね。いま帰るとこ?」
パタパタと、彼の尻尾は嬉しそうに揺れている。
それを見て、アリスの心は和んだ。やはり動物は良い。
「うん。帰るところ」
「えー。せっかく俺に会ったんだから、もうちょっとゆっくりしていきなよ」
ねえ、とボリスは間合いを詰めてきた。
至近距離で微笑まれ、アリスはつい、「うん」と答えていた。
(いいか、特に急ぐこともないし……)
次の仕事まで、だいぶ間がある。それに、意見も多いほうがいい。
「ボリスに聞きたい事があるんだけど」
「なに? 突然」
本当に突然だ。
ボリスは多少面食らった様子だったが、アリスは構わずに続けた。
「ボリス、エリオットのことをどう思う?」
「ん〜? 兎のお兄さん? 何とも?」
あっさりと返されてしまい、今度はアリスが面食らう番だった。
「な、何ともって……どんな風に見える?」
アリスは言い方を変え、再びボリスに尋ねてみた。
ボリスは腕を組むと、しばらく考え込んだ。
「ん〜〜〜〜……まあ、頭かたくて応用は利かないみたいだけど、別にいいんじゃない? 人それぞれだしさあ」
ボリスは飄々と答える。
今度は、アリスの為にちゃんと考えて、答えをくれた。
(ボリスって、意外とまともな事を言うのねー……)
アリスは密かに感心していた。
言葉こそ優しくはないが、ペーターのような悪意のある批判ではない。
興味は――心底ないのだろうけれど、それでも毛嫌いしている口ぶりではない。
「あ。でも、俺が屋敷に忍び込んでも目を瞑ってくれてるのには、感謝してるぜ?」
「し、忍び込んでるの?」
アリスは、ぎょっとして聞き返した。
ボリスは悪びれもせずに、あっさり頷く。
「うん。ディーとダム、居るだろ? たまに遊びに行くんだ」
「へえ……知らなかった」
ボリスは、ディーとダムの友人である。
そこまでは、アリスも知っていた。ただ、侵入していたのは初耳だった。
(気づいたのに、許したの?? エリオットが??)
意外だな、とアリスは思う。
ボリスは帽子屋ファミリーの敵ではないから、なのだろうか。
それとも、ディーとダムの友人だから、なのか。
それでも、他の役持ち――ごく、特定の役持ち――に対して寛容なところがある、という事実は、アリスの心を慰めた。
(良いこと聞いたなー)
ボリスの話を聞いてよかった、とアリスはノートを広げた。
アリスの予想外の行動に、ボリスは目を瞬かせた。
「何それ?」
「ノートよ」
「いや、見ればわかるって……どれどれ」
見てもいいか、と視線で問われ、アリスは軽く頷き返した。
勝手に覗きこむ前にアリスの許可を取る、なかなかデリカシーのある猫だ。
「へえ」
ボリスは指先でページをめくりながら、素早く眼を走らせていく。
「マメだなー、あんたって。宰相さんと……これ、ピアスか? 汚い字だよな……もっと丁寧に書けって」
ボリスの正直な感想に、アリスは苦笑した。
確かに、ペーターのかっちりした文字を見た後に、ピアスの自由奔放な字を見ると、そう感じるのは仕方ない。
「どれ、俺も書いてやるよ」
「ありがと、ボリス」
ボリスが手を差し出したので、アリスは素直にペンを手渡した。
ピアスへの対抗心からの行動なのか、持ち前の親切心なのかは、アリスには分からない。
だが、書いてくれるというのなら、書いてもらおう。ボリスの気が変わらないうちに。
「兎のお兄さんは、っと……ん〜〜、なんて書くかな……背が高いのは、ちょっと羨ましいかな」
「そうなの?」
ぽつりと呟いた言葉に、アリスは反応した。
ボリスは子供のような顔で、少し笑う。
「うん。まあ、俺だって、もうちょっと伸びるかもしれないけどさ」
もうちょっと欲しいんだよなー、とボリスはアリスに打ち明けてくれた。
「私より高いのに」
アリスが言うと、ボリスは肩をすくめてみせた。
「そりゃ、まあね。でも、どっちかっていうと、役持ちの中じゃ小柄なほうだろ?」
「……あー、そうねえ」
他の役持ち――ブラッドたちの姿を次々と思い浮かべては、アリスは納得した。
確かに身長順を考えると、ディーとダムが最後尾として、ボリスは下から数えたほうが早い位置にいる。
(そういえば……)
ハートの国だった頃、ゴーランドと並んでいたボリスは小柄に見えたが、今はクローバーの国。
ボリスとよく居るのは、体躯がほとんど変わらないピアスだ。
そのせいか、ボリスが小柄な方だ、というイメージがアからは綺麗になくなっていた。
「格好悪いけど、結構こだわるもんなの。ディーとダムだって、大人になったら兎のお兄さんの背をこしてやるーとか言ってたぜ」
「ディーとダムも……」
うん、とボリスは笑顔で返す。
ディーとダムが大人になっても、エリオットを越えられないことを知っていて笑っているのだろう。
意地が悪い猫だ。
「男って馬鹿だよ、あんたが思ってるより」
「……」
どういう意味だろう。
ボリスに返す言葉を悩んでいるうちに、ボリスは身を翻すと、森へと消えていった。
遠く視界の隅っこに、茶色の尻尾が見え隠れしていた。
「ねえ、それってどういう……あれ、ボリス?」
アリスが顔をあげた時、ボリスの姿はなかった。
さらさらと、梢の音だけがアリスを包んでいる。
「……いつから、一人だったのかな」
恥ずかしい、とアリスは唇を尖らせた。
大方、ピアスでも見つけて追いかけて行ってしまったのだろう。
(一声かけてくれても)
詰りたいが、ピアスを追いかけるボリスは別人のようになるから、仕方ないとも思う。
アリスは帰路につくことにした。
(ペーターと、ピアスとボリスか……三人分、聞けたし。収穫はあったよね)
思いがけず良い方向の情報を得たアリスの足取りは、軽い。
ペーターの意見も『そんなに言わなくても』と思ったアリスだったが、冷静に考えると、批判的な意見もアリスには必要なのだ。
(あ、そうだ)
アリスの足が止まる。
アリスは、もう一人、エリオットに友好的な人物を思い出していた。
「ねえ、二人とも。エリオットのこと、どう思う?」
勢いに任せて扉を開け、開口一番、こうだ。
部屋に居たナイトメアとグレイがしばらく固まっていたのも、無理はない。
彼らの表情を見て、アリスの頭は、幾分か冷静さを取り戻した。
(あ、先に挨拶すべきだったな……)
気が急いて、順序を間違えてしまった。
アリスは軽く咳払いをすると、硬直している二人に向けて笑顔を取り繕った。
「……改めてこんにちは、ナイトメア。グレイ」
アリスが挨拶を告げると、二人はやっと立ち直った。
「ああ、よく来たな……。部屋に入ってきて早々、驚いたじゃないか」
「ごめん……私、今日はちょっとおかしいかもしれない」
恋に狂えば、周りが見えなくなる。アリスは若干、反省した。
淑女たるもの、礼儀を失ってはいけない。
「三月兎……を、どう思うか聞きたいのか?」
「うん」
アリスは心もち控えめに頷いた。
はあ、とナイトメアの色の悪い唇から、溜息が零れる。
「……君はまた、厄介な男に引っかかる」
「引っかかっ……って、人聞きの悪いこと言わないでよ」
むっとしてアリスが言い返すも、ナイトメアは首を振った。
「いーや、引っかかってる。あれは悪い男だぞ。なあ、グレイ」
「ああ、そうですね……よくない傾向です。非常に。アリス、悪いことは言わない。止めておきなさい」
グレイも渋い顔だ。
とりあえずナイトメアに合わせて同意した、という風でもない。
グレイは葉巻を揉み消すと、アリスの両肩を掴んだ。
「悪い男に惹かれる時期があるのは、分かるさ。だがな、アリス。君は女の子なんだ。もう少し自分を大切にしなさい」
「え……っと」
グレイによる突然の説教タイム突入に、アリスは目を丸くした。
冗談でもなく、グレイは至極まじめな顔をしていているので、まさかアリスが流すわけにもいかない。
「エリオットは……そうだな、あいつは確かに一途だとは思うよ。全力で君を愛してくれるだろう。でも、マフィアだ」
ナイトメアの落ちついた声で、アリスの心も落ち着きを取り戻す。
「……わかってるわ」
「いーや、わかってない。もしも君がエリオットのものになれば、君まで危険に晒されることになるんだぞ」
「……」
事実を突きつけられて、アリスは返す言葉もなく押し黙った。
それでも、エリオットを諦めたくはない。
一緒にいると危ないと言われて、はいそうですかーと諦められるほど、アリスの心は素直ではない。
乙女心は理屈ではないのだ。
アリスがむっつり黙り込んでいると、グレイの溜息が聞こえた。
「その顔を見ると、決心は固いようだな……。一度、刺しておくか」
「え」
驚いて隣を見上げると、グレイは微笑んだ。
「なに、少しだけだ。殺してしまっては、君が悲しむだろう」
「え……えええ?」
グレイは一体、何を言っているのだろう。
アリスが驚いたのは、そういうことじゃない。
けれど、グレイはアリスの困惑を汲み取ってはくれない。
「それに、あれには君を守るだけの力が必要だ。実戦形式にはなるが、最低限は叩きこんでおかねばならない」
「あの、グレイ?」
何だか、いつものグレイではない。
どうしたらいいのかアリスがオロオロしていると、ナイトメアの声が飛んだ。
「グレイ、落ちつけ。気持ちは分かるが、焦るな」
「ナイトメア様……」
諭されてグレイは落ち着きを取り戻したらしく、やっと語るのを止めた。珍しい構図だ。
いつもは、落ちつかないのがナイトメアで、落ちついてるのがグレイなのに、今は形勢が逆転している。
(仲、いいなー……じゃなくって、つまり……)
つまり、二人の話を総合すると――。
「二人が、あんまり良く思ってないのは分かった……」
そういう事、なのだろう。
アリスは肩を落とした。
てっきり、ナイトメア達からは好意的なことが聞けるとばかり思い込んでいた。期待していた分、落胆も大きい。
「ちょっとだけ、テーブルを貸してね」
許可を貰う前に、座ってしまうことにしよう。アリスはノートを広げた。
「それは?」
「エリオットまとめ日記、よ。色んな人に聞いて回ってるの」
アリスが視線をあげずに答えると、ナイトメアとグレイはテーブルの周囲に寄ってきた。
興味深そうに、アリスの手元を見やる。
「ほう。面白そうだな。ちょっと見せてくれ」
「うん」
別に隠すこともない。
アリスがノートを渡すと、ナイトメアはノートをパラパラとめくり、読み始めた。
「今のところ……兎とネズミと猫……か。動物パラダイスだな」
「ふふ、そうね」
アリスは苦笑する。
意図したわけではないが、結果的にそうなっていたことにアリスは気づかされた。
「せっかくだ。私も書いてやろうか?」
「いいの? お願い」
アリスが素直に頼ると、ナイトメアは誇らしげに頷いて見せた。
頼られて嬉しいのか、どこか顔色が良い。
「よし、任せておけ!」
喜々としてペンを取りながら、ナイトメアはグレイに視線を向けた。
「グレイ、お前の分も書いてやるからな」
「俺は自分で書きます」
「そう遠慮するな。えー、エリオットは短気でガサツで頑固だが、悪いところばかりではないな。面倒見はいいと思う……だが、あれだけは譲れないっ!」
ぐぐ、っとペンを持つ手に力が籠もる。折れそうだ。
「あれって??」
一体、何のことだろう。
アリスが思わず尋ねると、ナイトメアはバッと顔をあげた。
「私の方が偉いんだ! そうだろう!?」
「あー……それ」
なんだ、とアリスは肩を落とした。
エリオットとナイトメアが繰り広げる、ブラッドとナイトメア、果たしてどちらが偉いのか論争。
いつも決着がつかないという、傍から見ている者にとっては、途方もなく阿呆らしい争い。
(エリオットもナイトメアも、頑固なんだから……)
地位として偉いのは、確かにナイトメアの方が偉いんだろうなあ、とは思う。
けれど、エリオットのブラッド至上主義は、それしきのことでは崩れない。
「絶対に言い負かしてやる……!」
無駄な方向に決意を燃やしているナイトメアを眺め見てから、アリスはグレイに視線を移した。
「……グレイも大変ねー」
「いや……それ程でもない」
本音なのか、どうなのか。
グレイの声には、やや疲れが滲んでいた。
◆ ◆ ◆
帽子屋屋敷へ続く道を、アリスは歩く。
歩きながら、アリスはこっそりとノートを広げた。
ナイトメアからはなかなか良い評価が貰えた――が。問題は次の人物だ。
『三月兎の改めるべき点』と題して、ずらりと箇条書きが並んでいる。
丁寧な文字で、何ページもびっしりと埋めつくされている。
(……わあ)
グレイはなかなか手厳しい。
アリスを大切にすること。
危険な任務を減らすこと。
食事はオレンジ色のものを偏食しないこと。
「……」
ひとつひとつの文字を目で追いながら、アリスは薄っすらと微笑んでいた。
(なんか、お母さんみたいな)
項目のひとつに『歯を磨きなさい』とか、この中に混じっていても、たぶん違和感はないだろう。
結局みんな、あれこれ文句を言いながらも、アリスの為に色々と考えてくれた。
その事が、アリスには嬉しかった。
===== あとがき ===
2011年8月発行『うさぎまにあくす』より。
ほのぼの可愛い感じにしたかったのです。