Eの観察日記
道の向こうから歩いてくるアリスを見つけて、エリオットは自然に声をかけた。
「お、アリス。おかえり」
しかしアリスは顔を上げることなく、ただ真っ直ぐに歩を進めるのみだ。
「……アリス?」
アリスは何かに気を取られているようだ。
とりあえず、アリスに合わせて歩いてみる。
それでも、アリスはエリオットに沿われたことに気づくことなく、熱心に手元を見つめている。
(?? 何を見てんだ??)
エリオットが視線を向けると、アリスの手には一冊の薄い本が握られていた。
アリスの気づかなさっぷりがちょっと面白いので、いつ気がつくか黙っていようかとも思ったが――。エリオットは好奇心に負けて、口を開いた。
「んー? なんだそれ?」
「エリオット!?」
流石に、この至近距離では聞こえたらしい。アリスは飛び上がって驚いた。
焦る彼女が可愛らしくて、エリオットの口元は緩む。
「よう」
「い、いつからそこに」
これだけ驚いてくれると、こちらも甲斐がある。
ディーとダムがアリスに悪戯を仕掛ける気持ちを、エリオットはちょっとだけ理解できた。これは楽しい。
「ついさっき。あんた、俺が声かけたのに気づいてなかったのか?」
「そうだったの……ごめん」
「いや、いいって。気にすんな」
面白い発見もあったことだし、と口には出さず、エリオットは笑う。
そして、エリオットの興味はアリスの心を奪っていたものへと移った。
「さっきから、すげーマジな顔して……それって」
じっと、アリスの手元を見つめる。
さっきは、パッと見て本かと思ったが。
「ノートか。なんて書いてあるんだ?」
「な、なんでもないっ!」
エリオットが手を伸ばすと、アリスは慌てて後ろ手にノートを隠した。
「何だよー。隠されると、余計に気になるじゃねえか」
エリオットが言うと、アリスは顔を赤くして首を振った。
「女の子の秘密なのっ! だから、エリオットは見たらダメなの!」
「え」
伸ばしかけた手を引っ込めて、エリオットは目を瞠った。
「秘密……」
アリスの口から思わぬ言葉が出てきて、エリオットは驚いていた。アリスの秘密。
「……」
アリスは手を間違ったらしい。
エリオットの好奇心は膨れる一方だ。一体、どんなことが。
押し黙ったエリオットを見て、アリスは胸がざわつくのを感じた。
まさか、エリオットは中身が何かを知っているのではないか。
アリスは気が気ではない。
ついさっきまで隣に並ばれていたのだから、その時にエリオットがノートの内容を目にしていてもおかしくないのだ。
「なに想像してんの」
アリスが軽く睨むと、エリオットはぽつりと呟いた。
「あんたの秘密かー……」
そして、ニヤリと笑う。
「いいな」
「へ?」
アリスの思考が、一瞬にして止まる。エリオットは今、何と?
「見たい」
「だ、だめっ!」
再びエリオットの手が伸びてきたので、アリスはやっと我に返った。
その魔の手から守るべく、アリスはノートを胸にかき抱く。
「え〜〜〜……駄目か?」
「駄目よっ!!」
「どうしても??」
「ど……どうしても!」
見たい。
エリオットの好奇の視線に、アリスはグッと耐えた。
こんな代物を、本人に見せるわけにはいかない。
「……私の秘密が知りたいなら、エリオットの秘密も教えてよ」
「俺の??」
「それなら、平等だわ」
何とか当人にバレずに済ませたいアリスの、苦し紛れの提案だった。
エリオットは面食らったように目を瞬かせると、素直に手を引っ込めた。そして。
「なるほどなー……そりゃ、そうだな。俺ばっかりずるいのは駄目だ」
うんうん、とエリオットは一人で納得している。
「……」
しまった。
聞き入れられてしまった。
アリスの肩から力が抜ける。
(何でこんなに素直なの……)
そして、逃げ場がなくなったことを確信する。
「歩きながら話すか」
「そ、そうね……」
エリオットとアリスは、並んで歩き始めた。
歩く歩幅を、エリオットはアリスに合わせてくれる。
「俺の秘密ねえ……あんたは、俺の何が知りたい?」
「え」
投げかけられて、アリスはドキリとした。
「そんなに、いっぱいあるの?」
「いや? そんなに多くはねえと思うけど」
素直に申告するエリオットは可愛らしい。
「うーん……そうね……」
これは――もしかして、チャンスなのだろうか。
思わず訪れた絶好の機会を前に、アリスはごくりと息を呑んだ。
「じゃ、じゃあ……」
「ん?」
何かあったか、とエリオットはアリスの顔を覗きこんだ。
いきなりは心臓に悪いので止めて欲しい。
「あの、ね」
どくん、と心臓が跳ねる。
アリスは視線を上げることができなくなった。きっと、顔がものすごく赤い。
(恋人っているの? って、聞けない、こんな)
そう、ストレートにぶつけてもいいものか。
けれど、エリオットには気づいて欲しいような欲しくないような――ああ、どうしていいのか分からない。
アリスの思考は堂々巡りを始めた。
思考の波は渦となり、ぐるぐると回る。いつしか歩みは止まっていた。
「……」
ふと、唇に触れるものがあった。
それがエリオットの唇だと理解するまでに、少しの時間を要した。
「な、なに、いきなり」
アリスが思わず距離をとると、エリオットはばつが悪そうに自身の髪の毛をかきあげた。
「あ、つい……。わりぃ」
「いや、悪くはないんだけど、びっくりして」
つくづく、心臓に悪い男だ。
いま、口から心臓が飛び出てもおかしくはない。
アリスが早口で弁解すると、エリオットは頬を染めた。
そこは私が染めるところだろう、と突っ込みたくなる。
「だって、なんか……あんたが可愛くて」
アリスはぽかんとして、眼前の男を見つめた。
空耳かと思った。俄かには信じられない。
けれど、それは紛れもなくエリオットが言った言葉だ。
「かわいい……って、私が?」
「ああ。可愛い」
まるで、初めて言われたかのような心地だ。
可愛いと言ってくれたことはあったが、今のは――今までの「可愛い」と、響きがまるで違って聞こえる。
エリオットはまるで、アリスのことを愛しそうに言う。
「……あ、の」
「どうした?」
不思議と、心には落ち着きが戻ってきた。
まっすぐにエリオットが見つめられる。
「聞きたいこと、あるわ」
「おう。なんだ?」
エリオットは鮮やかに笑いながら、機嫌よく応じてくれる。
その姿が一瞬、過去の恋人のものと重なった。
――先生。
アリスは静かに目を閉じると、幻影を振り切ろうと努力した。
過去の幻だ。エリオットと先生は違う。
その証拠に――目を開けると、そこにいるのはエリオットだ。
「エリオット、恋人はいる?」
よかった。
思っていたより、するっと言葉が出てきてくれた。
アリスの問いかけに、エリオットは二度三度と目を瞬かせた。
「……? 恋人?」
「う、うん」
冷静な風を装ってはいるものの、内心、卒倒しないように立っているのが精一杯だ。
冷や汗をかいているのを悟られないよう、気丈に「普段どおり」のアリスを装う。
「いや……」
エリオットは言葉を切ると、じっとアリスを見つめてきた。
アリスの真意を探るでもなく、熱を持っているわけでなく、淡々とした視線だ。
「……」
「エリオット……?」
エリオットがどんなことを考えているのか、アリスにはさっぱりわからない。
アリスが不安そうに声をかけると、エリオットの瞳は色を取り戻した。
「ああ、すまん。ぼーっとしてたな。恋人、だっけ。そんなもん、俺にいるわけねえだろ」
答えを貰えて、アリスの胸は弾んだ。
よかった、と笑みがこぼれそうになる。
「そ、そう。なら」
うっかり続けようとしてしまい、アリスは指で唇を抑えた。エリオットは首を捻る。
「ん? 続きは?」
「ううん……ひとつだけ、の約束だもの。これだけにするわ」
そういう約束だ。アリスが破るわけにはいかない。
生真面目に答えると、エリオットは噴出した。
「いいのか? あんたって欲がないよなー」
コロコロと笑うエリオットを眩しそうに見つめながら、そんなに笑うことないじゃない、とアリスは頬を膨らませた。
(欲、ありまくりだけどね……)
実は。
けれど、エリオットには見透かされたくない。エリオットの前では可愛らしく在りたい。
ひとしきり笑って満足したのか、エリオットはこほんと咳払いをした。
「じゃ、俺の番か。それ、何を書いてたんだ?」
やはり、そう来たか。
「……えー。言わなきゃダメ?」
「あんたは俺に聞いたのに、俺は教えてくれねえの?」
それを言われると辛い。
というか、発端はアリスから言い出したことなのだから、アリスが守らなくてどうするのだ。
「うー」
それでも、なかなか決心がつかなかった。
「笑わない?」
「笑わない、笑わない」
「絶対??」
「ああ、絶対」
しつこいぐらいに何度も念を押すが、エリオットは引かない。
心のどこかで、エリオットが「答えにくいなら別の質問に変えてやろうか」と言ってくれることを仄かに期待するも、これは――。
「で、なんなんだ?」
駄目だ。
逃げられない。
アリスは当てもなく視線を彷徨わせたあと、深呼吸をした。言うしかない。
「……エリオットのこと、書いてたの」
「へ? 俺のこと?」
瞠目したエリオットを見て、アリスは俯いた。
「……」
エリオットは硬直したまま、微動だにしない。
風や葉の音が聞こえる中、静かに時は過ぎていく。
(ふ、不自然に思ってる、よね……バレた……?)
これでバレたとしても、もう仕方がない。
今のアリスの気がかりはそこではない。
気づいたエリオットが、どう反応するのか。
ただ、それだけを気にしていた。
「……なあ、アリス。さっきの、もう一回やろうぜ」
エリオットの挙動を見守っていたアリスは、予想のどれとも違う言葉に目を瞬かせた。
「さっきの?」
「あんたがひとつ、俺がひとつ。お互いに質問し合う」
真面目な声に、アリスは頷いた。
エリオットの顔つきが変わっていることに、アリスは気づかない。
「いいわ。また私から、聞くわね」
「ああ」
アリスは考えを巡らせた。
次に聞くべきは、何なのか。
アリスの次の言葉を、エリオットは見守っている。
いや、観察していると言っていい。
「エリオットの、好みが知りたくて」
「好み? 何の?」
アリスは気まずそうに視線を下げた。
もうバレてしまったのだからこの際本人に聞いてしまえ、と思って口に出したものの、いざ口にすると、急に恥ずかしくなってくる。
「お、女の人の」
「女ぁ??」
エリオットは素っ頓狂な声をあげた。
「……好み、なー」
ぽつりと零される言葉に、アリスは顔をあげた。
アリスの視線を受けて、エリオットはひらひらと手を振ってみせる。
「あ〜〜、好みとか、考えたことなかったぜ……ちょっと待ってくれ、考える」
「うん」
小さく呻きながらも、真剣に考えてくれていることくらいは分かる。
面倒くさい、と投げ出さずにいてくれることが、アリスには嬉しかった。
「……ん〜〜〜。好きな感じ、だろ? 女で好きな感じってことは、あんたか。あんたは、そうだなー」
「え」
エリオットの思考はだだ漏れだ。
正面から見据えられて、アリスは面食らった。
「可愛い、な。頭も良いし、料理もできるし、仕事だって真面目にやるし、肝も据わってるし」
アリスを見つめたまま、流れるようにエリオットは語る。アリスの困惑は深まるばかりだ。
「え、な、ちょっと、エリオット??」
「ん? どした? せっかく考えてるのに」
聞いていられなくなりアリスが口を挟むと、エリオットはようやく言葉を止めた。
アリスは顔を赤くしながら、ぶんぶんと首を振った。
「も、もういい、もういいから」
アリスが如何に恥ずかしいかを、いまいち理解して貰えていないらしい。
エリオットはまだ語りたそうだった。
「へ? そうか?? まあ……あんたが言うなら、いいけど。じゃ、俺の番か」
「……エリオットは、何が聞きたかったの?」
今度の駆け引きは、エリオットが言い出したことだ。明確な目的が、きっとある。
「それのこと」
それ、とエリオットが指差したのは、アリスが持っているノートだ。
「それ、さ。何で俺のことなんか、書いてるんだ?」
「……」
咄嗟に答えられなくて、アリスは口を噤んだ。
理由なんて決まっている。
(エリオットが好きだからよ)
握り締めた指先を見つめて、アリスは不自然に息を止めた。
「エリオットのこと、が」
正直に。
(好きだから)
エリオットが知りたいと言うのだから、アリスは正直に答える義務がある。
そう頭では理解しているのだけれど。
「知らないこと、たくさんあるなあ、って思ったから……だから」
心はアリスを裏切った。
想いを告げる勇気が出なくて、別の言葉に摩り替わる。
(……意気地なし)
アリスは自分に落胆した。最大のチャンスだったのに。
けれど、先ほど見せたエリオットの反応が、アリスにはいまいち判らなかった。
あの視線の意味は、一体。
せめて、この不義理を少しでも補おうと、アリスは言葉を加える。
「エリオットのことを、他の人にも聞きに行ったりしてたの」
アリスは歩き出した。
つられて、エリオットも動く。
「あ、最近よく出かけてたのって、それでか。俺のことを聞きに、わざわざ他の奴らのとこに……」
言いながら、エリオットにも疑念が生まれたのだろう。
せっかく歩きかけた足が、ふたたびピタリと止まる。
「俺のことが知りたいんなら、俺に聞いてくれりゃいいのに」
エリオットは簡単に言うが、そう上手く立ち回ることはできない。
「……だって。エリオットは、私に聞かれてもいいの? そういうの、嫌じゃない?」
誰だって、詮索されるのは好きではない筈だ。
嫌がられるのが怖かったから、アリスは回りくどい手を使ったのに。
エリオットは腕を組むと、しばらく考え込んだ。
「あー……確かに、探り入れられるのは好きじゃねえけど……でも、別にあんたなら構わねえよ。何だって教えてやる。でも……何であんた、俺のことなんて知りたいんだ?」
「!」
カッと頬が熱くなる。と同時に、手が出ていた。
エリオットの背中を勢いに任せて叩く。
「な、なんだよー、怒ることないだろ!?」
「怒るわ!!」
アリスは負けじと言い返した。
(な、なんなの!? このっ……)
病的なまでの鈍さは。
ここまで言われて、まさか気づかないなんて――とぷりぷり怒りかけて、アリスの頭は理性を取り戻す。
「……いや、人のこと言えないわ……」
思わず零れた言葉が、アリスの頭を冷やしていく。
(私だって、私なら)
エリオットと逆の立場だとしたら、とアリスは考えた。
エリオットが自分を知りたいと言う。
そこに、アリスは彼からの好意を汲み取るだろうか。
(たぶん、私は自惚れられない)
好かれるはずがない、と自ら壁を作って、自分を守るだろう。
エリオットが鈍いからといって、アリスに責める資格はない。
「ごめん」
アリスは潔く頭を下げた。
「いや、別に平気だぜ? 俺は。でも、そっか〜、あんたは俺のことが知りたいのか……」
ふーん、と、何処か嬉しそうな眼差しで、エリオットはアリスを眺め見ている。
彼の耳がぴこぴこと跳ねているのが、アリスの視界に入った。
「それ、仲良くなりてえ、ってことだよな?」
「ま、まあ、ストレートに言えば、そうね」
答えてから、アリスは自己嫌悪に陥った。
(何で、こんな可愛くない言い方を……)
何処までもアリスはアリスで、とんでもなく不器用なままだった。
今すぐエリオットの目の前から走り去りたくなる。
「なら、一緒にいるか?」
「へ?」
「アリスはもっと、俺と一緒にいればいいんじゃね?」
うきうきしながら言われては、アリスは肯定するしかない。
「それは……うん、そうだけど」
アリスとて、願ってもないことだ。
否定できないし、するつもりもない。
エリオットが許してくれるなら、不自然でもない。
大義名分ができたと喜ぶのが正しい気がするのだが、それよりも混乱のほうが勝っていた。
アリスが同意したのを見て、エリオットは嬉しそうに顔を輝かせた。
「よっし、決まりだな! じゃ、あんたの仕事内容、ちょっと変えるからなー」
「え、なんで……っていうか、なんで手を」
いつのまにか、エリオットに手を握られている。
「一緒にいるんだろ? 俺と」
だからだよ、とニッコリ微笑まれて、アリスは口をつぐむしかなかった。
握りしめられている手が、やけに熱かった。
「おい」
屋敷に戻ると、エリオットは歩いている使用人を呼び止めた。
「あ〜エリオットさま〜。何か御用ですか〜」
「しばらく、アリスの仕事内容を変える。アリスの気が済むまで、アリスは俺専用だ」
「え〜〜〜〜。それはずるいです〜エリオットさま〜」
エリオットの目が険しくつり上がる。
「うるせえな。文句あんなら、撃ち殺すぞ」
「も〜〜。わかりましたよ〜怖いんですから〜」
エリオットの厳しい声と、正反対の間延びした使用人たちのやり取りに、アリスは口を挟むタイミングが掴めずにいた。
ようやく話が途切れたかな、と思ったところで、エリオットの袖を引く。
「……あの、エリオット。私の意見は無視なの?」
エリオットは表情を変えると、大きく首を振った。
「まさか。あんたの言葉を無視するわけねえだろ?」
「だったら、なんで」
アリスの意見を問うてくれないのか。
アリスの視線には責めるような色が含まれている。
けれどエリオットは、こうするのがさも当然だと言わんばかりに涼しい顔だ。
「俺と一緒にいるんなら、あんたの仕事だって俺んとこ限定にしとけば、一緒にいられる確率が上がるだろ?」
「それは、そうだけど」
それにしたって、強引すぎやしないか。
だが、エリオットを責めるのは後だ。
アリスは使用人たちへと視線を向けた。
「あの、ごめんなさい……」
とりあえず、彼らには謝っておかねば。
「いいんですよ〜お嬢さま〜。わかってます〜」
「そうそう〜。頑張ってくださいね〜」
使用人たちは穏やかに返答すると、のんびりと立ち去っていく。
その後を追おうとしたものの、アリスの右手はエリオットにがっちりと掴まれているままなので、行動することは叶わなかった。
「……あのね、エリオット」
「どうした?」
「どうもこうも……手、いつまで繋ぐの?」
言いにくそうにアリスが切り出すと、エリオットは不思議そうに自身の手を見つめた。
ずっとアリスと手を繋いでいた、ということに意識がいっていなかったのだろう。
言われてはじめて気がついた。そんな顔をしている。
「手……? そ、そうだな。そろそろ、離さねーとな……」
言いながらも、エリオットは離そうとしない。
いつのまにか優しい微笑が、妖艶なそれと替わっている。
「……エリオット?」
エリオットの瞳の深さに、アリスはどきりとした。
「なあ……もうちょっと、こうして」
「おかえりー、お姉さん。遅かったねー」
「おかえりなさい、お姉さん。今日は何処に行ってたの?」
雰囲気をぶち壊す声が、アリスの背後から聞こえてきた。
反射的に、アリスは繋いでいた手をパッと離した。いや、思いきり振り払ってしまった。
「ディー、ダム。ただいま」
見られてないだろうな、とドキドキしながら、アリスは平静を装って二人に応える。
「これから暇? 僕らと遊ぼうよ」
「ええと……あれ?」
ぐい、と後ろから腕を引かれて、アリスはよろめいた。
「……」
「……エリオット?」
見上げれば、不機嫌そうなエリオットがディーとダムを睨んでいた。
その手が、しっかりとアリスの腕を掴んでいる。
「何だよ、馬鹿うさぎ。邪魔するなよ」
双子に不平を言われるも、エリオットは綺麗に無視をした。
「……あんたは、俺の専属だろ。ガキ共になんか構ってないで、俺の相手をしてくれよ」
小さくアリスを詰る声には、拗ねたような響きがある。
(う……か、可愛い……)
長い耳も力なく垂れているし、何よりもエリオット自身が可愛くて仕方がない。
アリスはほんわかしてしまったが、双子は黙ってはいなかった。
「え〜〜〜〜、そんなの横暴すぎるよ!」
「そうだよ! 第一、お姉さんは今、仕事中じゃないんだよ!? プライベートにまで口出す気なの? デリカシーないウサギだよねー」
「うるっせえな、このクソガキ!」
怒鳴りつけながら、エリオットは銃の引き金をひいた。
「わー、怒った怒った〜〜。大人の癖に嫉妬しちゃってさあ。そんなに余裕ないの?」
ディーとダムは怯むことなく、それどころか、一層エリオットを煽り始めた。
頼むから、アリスを片腕に抱きしめたまま銃撃戦を繰り広げないでほしい。
飛び交う弾丸に、アリスは生きた心地がしない。
きっと、アリスは逃避したかったのだろう。ダムの台詞が、アリスの頭を巡る。
(嫉妬……え、嫉妬? 嫉妬ってことは)
つまり、それは。
「心が狭いねー、馬鹿うさぎ。ねえ、お姉さん」
ぴたりと、激しい攻防が止んだ。
「……お姉さん?」
「……どうしたの?」
「な、なに?」
顔を覗き込まれて、アリスは狼狽した。
アリスを見つめる双子の目は、アリスの心を探っている。
「顔が赤いよ?」
「っ!?」
アリスは耳まで真っ赤になると、慌ててエリオットの腕を押しやった。
「な、なんでもないっ! じゃあね!」
アリスは、その場から逃げるように駆け出した。
「え……おい、アリス!?」
背後からエリオットの戸惑う声が聞こえたが、アリスは立ち止まることができなかった。
考えるよりも早く、体が動いていた。
逃げ出したアリスを追って、エリオットは走る。
「待てよ、アリス!」
「追いかけてこないでよっ!!」
「普通、追うだろ!?」
「追わない!」
帽子屋屋敷の廊下を、嵐のように二人は駆ける。
エリオットがいくら声をかけても、アリスの足は止まる気配がない。
(つーかアリス、こんなに足が速かったっけ?)
どう考えても、いつもより格段に速い。
何故だろう、とエリオットは首を捻った。
今のアリスは火事場のなんとやらで、普段の能力以上の瞬発力を誇っていた。
それでも、エリオットはアリスを捕まえた。
ひとえに足の長さの違いが勝因であろう。
何度目かの曲がり角で、エリオットはアリスの腕を辛うじて掴むことができた。
細い腕を痛めないように気をつけながら――それでも強く、エリオットはアリスを引き寄せた。
「は〜〜〜……やーっと捕まえた……」
アリスを腕に閉じ込めてしまうと、ようやくエリオットは一息つくことができた。
アリスはじたばたともがいているが、エリオットにとっては抵抗にも値しない。
「は、離して」
「嫌だ」
エリオットがすかさず返すと、アリスは諦めたのか、やっと抵抗することを止めた。
逃げ出す気をなくしたアリスを見て、エリオットも安堵する。
「どうして」
「あんたは、俺の」
俺のものだと言いかけて、エリオットは躊躇った。
いずれはそうするつもりだけれど、今、ここで言ってしまっていいものか。
エリオットは珍しく自制した。
「……」
ただ、アリスを抱く腕に力がこもる。
アリスは怪訝そうな顔をしている。
「エリオットの専属、ってこと? でも、ダムも言ってたけど私は今、仕事をしてるわけじゃなくて」
「わかってるよ。今は休暇中、だろ? 仕事抜きには傍に居たくねえ、ってことなのか?」
「ち、違うっ」
アリスの慌てる様が可愛くて、エリオットは微笑を浮かべた。
「じゃあ、俺と一緒に居てくれよ」
エリオットは強く断定して、意図的にアリスの退路を塞ぐ。
アリスが断れないことを知っていて、エリオットは言っている。
ずいぶん卑怯な男だな、とエリオットは自嘲気味に嗤った。
「……良い案だと思ったんだ。俺。仕事中は絶対、俺のとこにいるんなら、それがいいと思って」
何せ、アリスが使用人たちと談笑している姿でさえ、エリオットは焦りを覚えるのだから。それに。
(アリスが他の奴らのとこへ行く時間も、減らせる)
それがまず、大きかった。
エリオットに利点が多いよう、アリスが冷静にならないうちに、半ば強引に話を進めた。
「あんたは……俺のこと、知りてえんだろ?」
アリスからそう聞いて、エリオットは嬉しかった。本当に嬉しかったのだ。
エリオットはアリスの肩に顔を埋めた。
アリスの優しい匂いが、エリオットの心を緩ませる。
「……うん」
アリスが照れたように言うものだから、エリオットはいよいよ嬉しくなった。
どうしたら、アリスともっと一緒に居られるのか。
それだけを考える。
エリオットは顔をあげると、壁にもたれかかった。アリスはまだ腕の中、だ。
「一緒にくるか、仕事」
「え」
アリスは静かに目を瞠った。
「それなら、もっとあんたと一緒に居られるし……って、駄目か、それは」
エリオットは頭を振った。
さすがに、そこまでアリスを連れ回す訳にはいかなかった。アリスが危なすぎる。
「……悪い。俺、なに言ってんのかわかんねえ。今のは無し、な」
エリオットは自分を嗤う。
己の欲を律する理性は、まだ僅かに残っていた。
まだアリスの安全を優先してやることができて、エリオットはホッとした。
アリスは、そんなエリオットを見つめている。透き通るような双眸が眩しい。
「一緒に行ったらダメ?」
まさか、アリスからそんな言葉が聞けるとは。
エリオットは瞠目した後、すぐに首を振った。
そう言ってくれるのは嬉しい。だが。
「……駄目だ。俺が仕事してんの見たら、あんた、俺のこと嫌いになる」
それも、かなりの高確率で。
それだけは避けたかった。
エリオットが、今まで何のために我慢していたのか。水泡に帰すどころではない。
「見せたくねえ。あんたにだけは」
「エグいの?」
アリスは臆することなく、良いところを突いてきた。
「……まあ、かなり」
アリスに敬意を払い、エリオットも正直に答える。
アリスが見たことがない世界だ。
エグいものに耐性はないだろうし、アリスが耐えられるとは思えない。
アリスは考え込んだ。
「……うーん。エグいのは苦手だけど……でも、エリオットのことが好きなんだから、頑張るべきかな? でも、それでエリオットに迷惑かけたら本末転倒っていうか」
「え」
飛び出た単語に、エリオットは目を丸くした。
(好き? 好きって言ったか? いま)
どうも、アリスは深く考え込むと、口の方が疎かになるらしい。
いつもよりも饒舌に、アリスは自分の思考を滔々と語る。
「それこそ貧血おこして倒れたりしたら、足手まといもいいとこっていうか、そもそも足手まといなんだけど、でも好きなんだから、そこに目を瞑って好きですーなんて呑気なこと言ってていいの? よくないよね?」
「あ、アリス」
狼狽するエリオットをよそに、アリスは語る事を止めない。
「だからやっぱり、一度くらいはちゃんと直視すべきだと思うんだけど、どう思う? エリオット」
「え、お、俺? 俺は、その」
アリスに見つめられて、エリオットの頭はいよいよ混乱した。
色々と衝撃的すぎて、何を聞かれて何を答えればいいのか、わからなくなる。
(え、ちょっと待てっ……アリス、俺のこと好きって言ったか? 言ったよな? それって)
好きだ、とアリスは言う。
それはエリオットの『好き』と同じ響きを持っていた。
ということは、つまり。
エリオットの頬に、サッと朱がさす。
大の男が一人の少女に翻弄されている様は、実に滑稽なものだろう。
けれど、今はそんな些細な外聞など気にしていられない。事実、エリオットにそんな余裕がないのだから。
「そのっ……あ、あんたの、思うようにしていい、けど」
しどろもどろに答えると、アリスは首を傾げた。
「? どうしたの、エリオット。珍しく歯切れが悪いじゃない」
アリスは、きょとんとしている。
涼しい顔をしやがって、とエリオットは脱力した。
(だっ……誰のせいだと思ってんだ!!)
けれど、アリスは可愛いし、何より嬉しいので、怒るに怒れない。
エリオットの葛藤は溜息に変わった。
「……はあ……」
「ごめん。邪魔になるとは思うんだけど……」
「あ、いや、そういう意味じゃねえって」
エリオットは慌てて首を振った。
溜息は、アリスがついてくるのが面倒くさいとか、そういうわけじゃない。
むしろ、エリオットとしては嬉しい話だ。ただ――。
(……怖がる、だろうな)
エリオットにも、覚悟が必要だった。
それに、肝の据わったアリスを、これ以上エリオットが突き放すことはできない。
「わかった。一度だけ、な。次の仕事は、あんまり危なくねえやつだし……あんたは俺が守ってやるから」
エリオットは仕方なく、承諾した。
アリスが「ありがとう」と嬉しそうに破顔するのを見て、エリオットはようやく覚悟を決めることができた。
仕事の時間は、すぐに訪れた。
街角の薄暗い路地で、潜むようにしてエリオットと使用人たちは居た。その数は十名ほどだ。
約束通り、エリオットの隣にはアリスが居る。
やはり緊張しているのか、少し不安そうな顔をして。
エリオットは部下を集めて、今回の仕事内容を伝達していた。
アリスの為、いくつかの暴力的な説明は省く。
「――以上だ。何があっても、アリスにだけは怪我させるんじゃねえぞ」
「わかりましたぁ〜」
「もちろんですよ〜」
使用人たちは快諾すると、銃を片手に各々の持ち場へと散開する。
「交渉……なのよね」
「ああ」
かたい声に、エリオットは短く答えた。
不安を払拭させるために、エリオットはアリスの肩を抱く。
「まず、お前らが行け」
「は〜い」
エリオットが指示すると、何人かの使用人が建物へと入っていった。
「エリオットは行かないの?」
アリスに見上げられ、エリオットはくしゃっと頭を掻いた。
「あー……俺は後から、だな。あいつらで決裂するようなら、俺が出る」
期待されているのなら、できるだけ応えてやりたいと思う。けれど、仕事なら話は別だ。
(出番、ねえといいんだけどなー)
普段の仕事ではついぞ思ったことのないことを、エリオットはぼんやり考える。
いつもなら、撃つ機会は多いほうがいい、と率先してエリオットが前に出て行くのだが――今は、アリスがいる。
(物足りねえけど、しょうがねえよな〜〜……)
仕事中の自分は、とても柄が悪い。その自覚はある。
仕事柄、上品ではやっていられない。
けれど、それを差し引いても、相当――。
(……やべえな)
そんな姿を、アリスに見られたくない。
(上手く行けばいけどなー)
それ程、ゴネてきそうな奴らではなかった。だから、たぶんエリオットの出番は――。
「エリオットさまぁ〜〜」
「お願いしま〜〜す〜〜」
あった。
交渉は駄目でしたー、と部下の呑気な声がする。
人の気も知らないで、とエリオットは溜息を零した。
「……わかった」
エリオットは苦虫を噛み潰したような顔で、渋々、銃を手にとった。
(あいつら……わざとじゃねえのか?)
アリスとの仲を裂こうと、わざと交渉を決裂させてきたような気がしないでもない。
エリオットの部下とはいえ、そういう事を平気でやりかねない連中だ。
(そうだ……アリスは、ここで待たせておけばいいんじゃね?)
そうしたら、己の姿を晒さずに、しかもアリスは危なくない。
我ながら良い案だ。そうだそうしよう、とエリオットはアリスに視線を向けた。
「アリス、あんたはここで」
「私も行く」
すかさずアリスに宣言されて、エリオットは言葉に詰まった。
思いがけず意思の強い瞳で射抜かれて、二の句が継げなくなる。
「……おう。離れるなよ……」
エリオットは辛うじて、何とか言葉を捻り出した。
「うん」
アリスの表情は硬い。
緊張しきっていることは明らかで、それでも目を逸らすまいと気丈にしている様は、どこか凛々しくもある。
そんな彼女の姿を見ると、エリオットの肝も据わるというものだ。
(……守ってやんなきゃな)
エリオットは颯爽と、歩き始めた。
アリスの手を、しっかりと握りしめたまま。
ここまでは、何の問題もなかった。本当に、何一つとして。
ただ――。
ついうっかり、いつもの癖で我を忘れてヒートアップしたのが良くなかった。
平たく言うと、『取引先』の態度にエリオットはキレた。
「……あ」
暴れ尽くしたエリオットが我に返った時には、もはや手遅れだった。
割れた窓ガラス。
其処ら中に散らばる死体。
床にこびりつくどす黒い血。
そして、アリスの引きつった顔。
「アリス……その、怪我は」
「ないわ。だけど」
やっぱり色々と考え直すわ、とアリスに真顔で言われてしまい、エリオットは盛大に落ち込んだ。
ディーとダムはエリオットの失敗を知って面を向かって嘲笑うし、ブラッドには滔々と諭されるしで、エリオットは尚更、落ち込んだ。
暫くの間、彼の仕事ぶりは散々だったという。
【Eの観察日記。/了】
===== あとがき ===
2011年8月発行『うさぎまにあくす』より。
両想い??エンド。
読んでくださってありがとうございました。