うさぎまにあくす。
(……うーん)
腕組みをしながら、アリスは首を捻った。
アリスは今、とある部屋の前に立っていた。
帽子屋屋敷のボス、ブラッドの部屋。
ただ、アリスの目的はブラッドではなく、彼の部屋にいる彼女の恋人にある。
アリスの恋人で、マフィア上層部でもある、エリオット=マーチ。
アリスは今、無性に彼に会いたかったのだ。
使用人から所在を聞いて、アリスは迷うことなくここへ足を向けた。
そして、ドアを目の前にして、タイミングを見計らっている。
部屋の中では、穏やかな空気が流れているようだ。
エリオットの陽気な話し声が、漏れ聞こえてくる。
「……でな、俺はさー……で……」
「そうか。だが……は……で」
断片的な言葉は拾えるが、彼らが何を話しているかまでは、アリスにはわからない。
随分と盛り上がってるなあ、とアリスは短く息を吐いた。
(ドア、開けていいかな)
二人の邪魔をするのも悪いかなあ、とも思ったのだけれど、結局、アリスはドアを開けた。
きちんとノックも忘れない。
コンコン、と硬い音をさせると、中の二人は談笑を止めた。
「こんにちは」
アリスが声をかけると、ブラッドとエリオットは快く迎え入れてくれた。
「おや、お嬢さん。どうぞ。入るといい」
「おっ、アリス!」
エリオットは顔を輝かせると、ソファから立ち上がった。
既にだいぶ飲んでいるらしく、その頬は、ほんのりと赤い。
エリオットは大股に近寄ると、当然のようにアリスの肩を抱いた。
「お疲れさん。仕事だったんだろ?」
「うん」
優しい労わりの言葉に、アリスの頬は緩む。
エリオットも、仕事をあがったばかりだと聞いた。
アリスよりもエリオットの方が、よっぽど疲れているに違いない。
それでも、まずアリスを気遣ってくれる優しさが、アリスは好きだった。
「エリオットがブラッドの部屋にいるって聞いて、来ちゃったんだけど……邪魔かな?」
アリスはブラッドへと視線を向けた。
ブラッドはその顔色を変えておらず、あまり酔ってはいないらしいことが分かる。
顔に出ない性質である、という可能性もあるけれど。
「そんなことはないさ。お嬢さん、君もどうかな?」
カラン、と氷の入ったグラスを手向けられる。
気障な動作も、彼に似合っているから小憎らしい。
ブラッドは微笑を浮かべながら、アリスに手招きをした。
「むさ苦しい男ふたりで呑むより、お嬢さんがいる方が華がある。是非、居てくれないか?」
「……」
ありがたい申し出だったが、アリスは素直に頷くことができなかった。
ちらり、とテーブルの上に視線を走らせる。
「それはつまり、そこのオレンジ色を少しでも消費して帰れ、と」
テーブルの上には、これでもか、とニンジン料理がてんこ盛りだった。
スイーツもいくつかあるけれど、それも全てオレンジ色をしている。
これでは酒がすすまなくて当然かもしれない、とアリスは思う。
アリスとて、見ただけで腰が引けている。
「そんな事を言ったつもりはない」
ブラッドは大げさに首を振った。
確かに、言葉は直接的ではなかったけれど、アリスにはそんな風に聞こえたのだが。
「君は仕事を終えたばかりだろう? 疲れている筈だ。疲れを癒すには、休むことも勿論大切だが、まずは滋養ある食べ物を摂取すべきだ。幸い、ここにはそういった類のものがある。お嬢さんが積極的に食べて、鋭気を養ってくれたらいいと願っているよ」
ブラッドは熱弁を振るう。
早口でまくし立てられて、アリスは閉口した。
この饒舌っぷりから察するに、彼は非常に――心から困っていたのだろう。そこへ、運よくアリスが現れた。
「それほど疲れては……」
一貫して逃げ腰のアリスの手を、ブラッドはがっちりと掴んだ。
放してなるものか、と視線が物語る。
「いいや、疲れというものは、概ね自覚がないものだ。そうだろう?」
「……」
ブラッドは、逃がしてくれる気がないらしい。
アリスは顔を引きつらせた。
ちょっと、眼が本気過ぎて怖い。
「なんだ、疲れてんのか?? アリス」
座れよ、とエリオットにまで促されて、アリスは渋々腰を落ち着けた。
視界の隅で、ブラッドがニヤリと笑うのを、アリスは見逃さなかった。
エリオットはそんな攻防があったとは微塵も気づかず、ただ純粋に、アリスを心配し始めた。
「平気か? 仕事量、ちっと変えてやろうか?」
「ううん、平気平気。ブラッドが言ってるのは」
ただ、アリスに押し付けたいだけだ。
当のブラッドはというと、先ほどまでの熱心さは何処へやら、だ。
もう涼しげな顔をしてそっぽを向いている。それが、ちょっとアリスの癪に障る。
ずばり指摘してやろうか、とも思ったが、アリスは言葉を変えた。
「……気づかってくれてるの。だから、ブラッドが言う程には疲れてないから」
「そっか、よかった! ブラッドも優しいな〜〜」
「そうねー、ブラッドって優しいわ」
アリスは棒読みで答えた。
チクチクと言葉に棘を潜ませて。
ブラッドを横目で睨んでみたが、効果はないらしい。
確かに、視線は合った。
なのに、あっさりと流されてしまった。
(ちょっとぐらい心を痛めなさいよ)
ふう、とアリスは息を吐いた。
違う、ブラッドと言い争う為にここへ来たのではない。
「優しさに甘えて、お邪魔します」
エリオットは、いよいよ嬉しそうに笑った。
「おう! 嬉しいぜ〜あんたとブラッドと飲めるなんて」
「私は飲まないけどね」
何を勝手にカウントしている、とアリスが釘をさすと、エリオットは瞠目した。
何を馬鹿なことを言っている、と言わんばかりに、アリスに絡む。
「ええっ!? 何でだよー。なあなあ、ちょっとぐらいいいだろ? 飲もうぜ?」
「……いや、私、未成年だし」
ぐいっとグラスを突き付けられたが、アリスは視線をそらした。
「え〜〜〜……あんた、嫌いじゃないだろ? だったらさあ」
エリオットは不満そうな声をあげているが、アリスまで飲むわけにはいかない。
「……俺とは、飲みたくないのか?」
エリオットの声が、しょんぼりと萎む。
アリスはハッと顔をあげると、エリオットを見上げた。
「……っ!」
やはり。
長い耳が、だらりと垂れていく。
すっかり固まっていると、エリオットは拗ねた子供のような目で、アリスの顔を覗き込んできた。
「アリスは、俺が嫌いになったのか?」
ああ、まったく。
今日こそは突っぱねるつもりだったのに、またもやアリスは折れた。
可愛すぎるというのは、実に問題だ。
「わ、わかった。付き合う。飲むから」
「そっか!」
一転して、エリオットの表情は明るくなった。
そんな雄弁な表情を見ると――まあいいか、こんなにエリオットが喜んでいるんだから、とアリスは思うのだ。
半分諦めているわけではない。断じてない。
ともかく、飲むことになったのなら、この状況を楽しむべきだ。
ふと、ブラッドのグラスが空になっていることに気づき、アリスは彼に向かって声をかけた。
「作りましょうか、ブラッド」
「あ、ああ。頼む」
声をかけられて、ブラッドは驚いた様子だった。
どうしてそんなに不思議そうにアリスを見るのか、問いただしたい。
いや、聞かない方がいいのかもしれない。
アリスは空のグラスを受け取ると、たっぷり注いでから氷を足した。
氷のぶつかり合う音が耳に心地よい。
「はい」
「どうも。お嬢さんも好きに飲むといい」
「わかった」
とは言ってみたものの、アリスは作り手に専念しておこうと決めた。
エリオットの杯を空けるスピードが恐ろしく速いので、それで誤魔化し通せるかもしれない。
「エリオットも、ほら」
「お。ありがとな、アリス!」
よく気がつくよなあ、とエリオットは破顔した。
「あんたが注いでくれたら、いつもよりずっと美味い気がするぜ!」
「それは」
気のせいに違いない。
けれど、アリスは口を噤んだ。
エリオットがそう思うのなら、それでいい。
笑顔を笑顔で返しながら、アリスはしっかりと自分のグラスをガードしていた。
とりあえず、中には炭酸水を注いでいる。
「しっかし、あのトカゲ野郎……」
「グレイがどうしたの?」
先ほどまでの、話の続きだろうか。
ブラッドが止めないところをみると、アリスが聞いていい範囲内の話題なのだろう。
アリスが促すと、エリオットは眉間にくっきりと皺を寄せた。
「ブラッドの方が絶対すごいのに……」
アリスは、持っていたグラスをうっかり落としそうになった。
真剣な顔をして、何を馬鹿なことを言っているのか。
ブラッドに視線を送ると、彼はものすごくぐったりとしていた。
「そんなくだらないことは、心底どうでもいい」
ブラッドのため息にも、エリオットは猛然と反論する。
「どうでもよくないって! 俺の方が絶対にブラッドを尊敬してる!! なあ、アリス。あんたも思うだろ!?」
「え」
いきなり会話に巻き込まれて、アリスは目を丸くした。
「……」
グレイとナイトメア。
エリオットとブラッド。
両者の組み合わせを頭の中で比較してみて、アリスは首を傾げた。
比較しようにも、やりようがない。
(だってグレイは、尊敬っていうか……)
ナイトメアのことを、信頼はしているのだろう。
けれど、それと尊敬しているかどうかは、また別の話である。
「……そりゃあ勿論、エリオットの方がグレイよりも尊敬してると思うわ」
アリスが答えると――そうとしか答えられなかったのだけれど――エリオットは、よし、と得意げな顔になった。よほど嬉しかったのか、ガッツポーズまで作っている。
背後から、ブラッドの咳き込む声がする。
咽たのだろうか。だが、アリスは聞こえない振りをした。
「だよなだよなっ!? よし、ブラッドの為にも、俺は引かないっ!! 次に会ったら、絶対に勝つ!」
「どうでもいい。くだらない。馬鹿らしい」
ブラッドのテンションは、だだ下がりだ。
その分、エリオットは声を張り上げる。ここは譲れないのだ、とでも言いたげに。
「よくないっ!! ブラッドの方が、絶対! 偉いんだからな! 俺は負けないぜ!」
アリスは、かける言葉を失った。
というか、合いの手の打ちようがない。
「……」
「くだらない……くだらなさすぎて、目眩がする……」
ブラッドは額を抑えると、盛大な溜息をついた。
誰かどうにかしてくれ、と、気だるげな横顔には、ありありと疲労が浮かんでいる。
(大変ねえ……)
所詮、アリスには他人事だった。
その視線が、アリスへと向けられるまでは。
「おい、お嬢さん。アレをどうにかしろ」
「無理」
アリスが即答すると、ブラッドは目を瞠った。
「君の恋人だろう?! 君が止めなくてどうする!」
「あんたの部下でしょ! あんたが止めなさいよ!」
ひそひそと、小声でやり取りを交わす。
幸い、エリオットは、ブツブツと「どうやって言い負かしてやろうか」とかを真剣に考えるらしく、二人の様子は目に入っていないようだ。
「そう、あれは私の部下だ。だが、恋人である君にも責任があるっ!」
「ないわよっ!! 無茶苦茶なこと言わないで!」
「無茶だと? それは違うな。連帯責任だっ!」
「難癖つけてこないでよっ!!」
まだアリスに難癖をつける元気はあったのか。心配して損した、とアリスは唇を噛んだ。
互いに責任を押し付けあうが、一向に埒が明かない。
「それに、私があると言ったらあるんだっ! なあエリオット、そうだろう!?」
「ん??」
ブラッドに名前を呼ばれて、ようやくエリオットは二人の方へ顔を向けた。
「私があると言うものはある。そう思わないか?!」
それはずるい、とアリスが止める間もなく、エリオットは反射的に頷き返していた。
「おう! よくわかんねえけど、俺はそう思うぜ! ブラッド! で、何の話だ?」
「お嬢さんの話だ。ふっ……ほらな、お嬢さん」
ニヤリ、とブラッドの口元には勝利の笑みが浮かぶ。
そんなブラッドを、アリスはジロリと睨みつけた。
「何を勝ち誇ったように……」
「おや、君の恋人はあると言っているんだぞ。お嬢さんは恋人の意見を聞かないのかな?」
「……!」
アリスは言葉に詰まった。
いつも無気力無感動な癖に、こういう口合戦で、よくもまあこれだけ屁理屈をスラスラと並べたてられるのだ。
(こいつ、卑怯なこと……っ!)
アリスは言い返さずに、じとりとブラッドを睨む。この勝負、勝敗は明らかだった。
不穏な空気を察したエリオットは、しばらくひとりで考え込んでいた。
自分があれこれ考えている間に、何やら二人の間でひと悶着あったらしい、と。
「アリスの話……?? あるとかないとか……ああ、胸の話か?」
「は?」
「え?」
ブラッドとアリスの声が、奇麗に重なる。
「俺、別にないとか思ってないぞ?? 気にするほどでもねーと思うけどな……」
「……エリオット」
いきなり何を言い出す、この男。
アリスは顔をひきつらせた。
話を止めようと名前を呼んではみたものの、エリオットの耳には届いていないらしい。
エリオットは、アリスに視線を寄こした。顔ではなく、その胸へ。
「ん〜〜〜、あるっていうか確かにでかくは……俺は気にしたことねえけど、あんた、気にしてんのか??」
アリスは、カッと頬が熱くなるのを感じた。
怒っているのか恥ずかしいのか、アリスにもよくわからないけれど、たぶん両方だろう。
ブラッドの様子を見ると、彼もまた、アリスと同様にぽかんとしている。
エリオットは、ぽん、と手を打った。
何やら良いことを思いついたらしく、耳がぴょこぴょこっと動く。
「あー、そうだ。あんたは細いし、もうちょっと太ってもいいんじゃねーか? ほら、もっと食えって」
よりによって、何と失礼な言い方をするのだろう、この男。
アリスがまだ言葉を発せないでいるのを見て、エリオットは首を傾げた。
「ん? 食うのは嫌か? じゃあ、俺が揉んでてやろうか??」
アリスは瞠目した。
いろいろと衝撃的すぎて、やっと思考回路が回復する。
「やめてね、それだけは。本気で怒るわよ! そんなことしたら!!」
エリオットが本当に手を伸ばしてきたので、アリスは慌ててその手を叩いた。べちん、と良い音がした。
「……ほお、あるのか」
「しっ、失礼ね!」
意外そうに見られたので、アリスはムッとした。
アリスも人並みにはある。と、思う。
急にエリオットに引き寄せられて、アリスは慌ててグラスをテーブルに置いた。危ない。零れるところだった。
「あんまり見るなよ、ブラッド。俺のだ」
アリスを抱えながら、エリオットはブラッドに鋭い視線を投げかける。
声のトーンが、いつもよりも少し低い。
「わかってる。部下の恋人に手を出したりはしないさ」
ブラッドが承諾すると、エリオットはアリスを解放した。
そうしてまた、和やかな雰囲気で談笑し始める。
「……」
アリスは苦虫を噛み潰したような心持だった。
エリオットをどうにかしなければならない。そんなことを痛感しながら。
アリスは、エリオットの部屋へ向かっていた。
この間はえらい目に遭ったなあ、としみじみ思いながら。
今は、エリオットは自室にいるという。
なので、この前のような酷い事態にはならないだろう。
「……はあ、エリオットってば……」
口が軽いのではなくて――頭が軽いというか、ともかく、アリスの立場も少しは考慮して欲しい。
問題発言は、時と場合を考えて頂きたい。
二人きりの時なら構わないけれど、と考えながら、アリスは歩く。
「エリオット、いる?」
「おう、入ってこいよ」
朗らかな声がしたので、アリスは躊躇いなくドアを開いた。開いて、アリスは硬直した。
「!!!」
部屋にはエリオットがいた。
それはいい。居るのは知っていたのだから。
問題は、彼の格好にある。
「ちょうどそっち行こうと思ったんだけど、あんたの方から来てくれたのか。ありがとうな、アリス」
エリオットは髪を拭きながら、にこやかにアリスへ近づいてくる。
アリスが二の句を継げない間にも、どんどんと傍へ。
(ま、さか、抱きしめるつもりじゃ)
ちょっと待て、とアリスは叫びたくなった。
「ちょっとエリオット!! 真っ裸でうろうろしないっ!!」
「え?」
やっとのことでアリスが叫ぶと、エリオットは歩を止めた。
一拍置いて、あれ、と不可解そうに首を捻る。
自分の格好を見て、周囲を見て、アリスへと視線が戻った。
「でも、ここ、俺の部屋だぜ? それに真っ裸ってわけじゃ」
「真っ裸でしょうがっ!! そんな姿で人を迎えたりしちゃダメっ!」
アリスはエリオットの訴えを全否定した。
腰に布を巻いている以外、彼の体に布はないのだ。真っ裸に限りなく近い。
もとい、アリスにはアウト過ぎた。目のやり場に困るというか、存在に困る。
「えー、そうかあ?」
エリオットは納得がいかないようで、しきりに首を傾げている。
アリスは頬を染めながら、思いっきり頷いた。
視線がやや逸らし気味になるのは、許して貰いたい。
「そうよ。せめて、何か羽織るくらいしてから、入っていいって言ってよ」
小声で文句を言うと、エリオットはニヤリと笑みを浮かべた。
アリスの耳元に唇を寄せ、囁く。
「でも、すぐに脱ぐのに?」
「!」
「あ、そうだ。何なら、今から俺と風呂に入るか? おわっ! いってえっ!?」
アリスは問答無用で、エリオットの耳に手をかけた。
ぐい〜〜っと力任せに引っ張り上げる。
エリオットの悲痛な声が聞こえてきたが、聞こえない振りをした。
「ばかっ!!」
一言だけ吐き捨てると、アリスは踵を返して部屋を後にした。
怒りながら自室に戻ったアリスは、ソファに落ち着いた。
クッションを掴むと、顔を埋める。
(……さっきは、やり過ぎたかなあ)
気持ちが落ち着くと、その途端、自己嫌悪がじわりじわりとアリスを苦しめる。
驚きのあまり、つい怒鳴りつけてしまった。
エリオットも悪いけれど、アリスも悪い。
自分の部屋なのだから、どんな格好をしていようが自由といえば自由だろう。
エリオットからしてみれば、訳のわからない理由で怒られた、と思っているに違いない。
でも、アリスは死ぬほどびっくりしたのだ。
まだ恋人になって日が浅いせいもあると思うけれど。
それでも、アリスが怒鳴る必要はなかった。
「……謝ろ」
気が重いけれど。
アリスは、のろのろと立ち上がった。
廊下の向こうに、エリオットが居る。
飛び出したアリスを追って来てくれたのだろうか。
そう思うと、胸のあたりがむず痒くなってくる。
(悪いことしちゃったな……)
アリスの足取りは、さらに遅くなる。
エリオットは、部下の数名と一緒に、何やら和やかなムードを作っていた。
これなら謝りやすいかもしれない。
よかった、とアリスが安堵したのも束の間。
「そうなんだよ。アリス、照れてんの。すっげー可愛いだろー」
聞こえてしまった会話内容に、アリスは我が耳を疑った。
くらくらと目眩がする。
エリオットが嬉しそうに語ると、部下達の間から、きゃあ、と歓声があがった。
「とっても可愛らしいですね〜。そうなんですかぁ〜。それで〜さっきのお嬢さまは〜ぷりぷり怒ってらしたんですね〜」
しかも、納得されているではないか。
駄目だ、放置していたらもっと酷いことになる。アリスは駈け出していた。
「ばっ、エリオットっ!」
声をかけると、エリオットはくるりと振り返った。
エリオットは満面の笑顔で迎えてくれたけれど、その笑顔が今は腹立たしい。
「お、アリスー」
「アリスーじゃないわよっ! あんた、話題はもっと選びなさいよ!」
アリスはエリオットのコートを引っ掴むと、ぐいぐい引っ張った。
とりあえず、一刻も早くこの場から離れなくては。
エリオットはアリスの剣幕にたじろぎながらも、素直に誘導に従ってくれた。
「だ、駄目か?」
「駄目よっ!! これから彼らとどんな顔して会えばいいか、わかんないじゃないの!」
ぷりぷり歩きながら、アリスはまたエリオットを怒鳴りつけていた。
(あああ、謝ろうと思ったのに!)
どうしてこう上手くいかないのかと、何だか泣けてくる。
そうこうしている内に、二人はアリスの部屋へ辿り着いていた。
部屋に入ると、ドアをきちんと閉じる。
はあ、とアリスは肩で大きく息をした。
「じゃあ、会わなきゃいんじゃね?」
呑気なエリオットを、じろりと睨む。
「そうはいくか。というか、仕事仲間なのよ。どうしたって会わなきゃいけないじゃない」
アリスが怒るのを見て、エリオットの耳が申し訳なさそうに垂れ下がった。
「……」
しゅんとなるエリオットは、はっきり言ってものすごく可愛い。
「悪かった……あんたが可愛くて、俺」
先に謝られてしまい、アリスは困り果てた。
エリオットに悪気はないのは、分かっている。
アリスが怒れば素直に聞き入れてくれるところが、彼の良いところだ。
「……」
そして、素直に謝ってくれているのに、重ねて怒りをぶつけるわけにもいかなかった。
さて、この怒りの落とし所が見つからない。
どうしたらいいのだろう。
アリスが口を閉ざしたままなので、エリオットの声は徐々に焦り始めた。
「いいだろ〜って、言いふらしたかったんだ」
ばつが悪そうな顔で、エリオットは打ち明けた。
「……!」
「あんたは、嫌だったんだな。気づいてやれなくて、悪かった」
エリオットは、おそるおそるアリスの顔を覗き込む。
「怒ってる、か?」
申し訳なさそうな、不安そうな紫の双眸。ふかふかの耳は、力なくへたれている。
「う……っ」
「アリス?」
「……お、怒って……」
アリスが勝てる訳がない。
「ない……」
アリスは、がくりと肩を落とした。
ああ、やっぱり気丈な態度は貫けない。
「ホントかっ!?」
エリオットの耳が力を取り戻すのを見て、アリスの心は和んだ。なんて可愛い生き物なのだろう。
エリオットは照れ臭そうに笑うと、アリスを抱きしめた。
大きなぬくもりに包まれて、アリスは身を寄せた。
「あんたって、すげー優しいよな。そういうとこ、俺、すっげえ好きだ」
唇を、柔らかいもので塞がれる。
アリスはそっと目を閉じた。
鼓動が優しい音を奏でながら、高鳴っていく。
「アリス……」
熱っぽく名前を呼ばれると、もう他の事なんてどうでもよくなってくる。
エリオットだけが大切だと想えてくる。アリスはエリオットの体にかじり付いた。
エリオットの指先が、アリスの服にかけられる。アリスは気づかない振りをした。
エリオットに、アリスを乱してほしかった。訳がわからなくなるまで。
そうして、アリスのつま先まで、エリオットが満ちればいいのに。
目元には、じわりと涙が滲む。
エリオットの舌がアリスの涙を器用に拭っていく。背筋にぞくりとしたものを感じて、アリスは眉をひそめた。
「……っ」
耳たぶを食まれ、首筋に吸いつかれる。
アリスは身を固くしたが、それも束の間のことだった。
エリオットの声や指や視線が、それら全てをもって、アリスの身体を巧みにほぐしていく。
アリスが薄く目を開けると、エリオットの視線が真正面にあった。
エリオットに絡めとられて、アリスはもうエリオットから視線が離せない。
「エリオット、私……んっ」
言葉ごと、エリオットはアリスを食らい尽くす。
(ありがとう、エリオット……)
アリスは優しくなんかない。
そう言いたかったが、今はただ、エリオットに抱かれていたかった。
そんな事があって、数時間帯あとのことだ。
「あら」
「おや」
アリスとブラッドは、廊下でばったり出くわした。
珍しいこともあるものだ、と互いにいくらか言葉を交わす。
話の中で、ふと、ブラッドが思い出したようにアリスに告げた。
「君の話は、あいつからよく聞くよ」
ざわり、と嫌な思い出が瞬時に蘇る。ブラッドのからかうような笑みには、警戒してし過ぎることはない。
アリスは身構えながら、話の先を促した。
「……どんな?」
警戒を緩めないアリスを見て、ブラッドは、クッと喉の奥で嗤った。
「言ってもいいのかな?」
「いや、止めて。お願い」
アリスはすぐさま首を振った。
やっぱり具体的には聞きたくない。精神の安定を保つ為にも。
ブラッドは可笑しそうに目を細めた。
「ふふ、懸命だな。聞けばおそらく、君は卒倒するだろうから」
「!? そんなにっ!?」
アリスは瞠目した。
ブラッドはニヤニヤしたまま、黙ってアリスを見つめている。
一体、エリオットはなにを喋り散らかしているのか。
(卒倒するような、こと……)
あらぬことを想像してしまい、アリスは青ざめた。
そろそろ本格的に、頭を抱えたくなってきた。
「どうした。エリオットに困っているのか?」
「すっごく困ってる。……んだけど、エリオットが可愛すぎて、結局は怒れないの」
それが最近の悩みだと言うと、ブラッドは肩をすくめてみせた。
「はあ。君も大概、獣に弱いな」
貶すように言われて、アリスはむっとした。
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよ。人のことを動物フェチみたいに……」
「だが、その通りだろう? 君は、うさぎマニアだ」
「マニア!?」
アリスが声をあげると、ブラッドは鷹揚に頷いた。
「ああ。マニアだな。エリオットは勿論だが、あの城の宰相にも懐かれているのだろう?」
「……それは語弊が」
「ないだろう?」
「……うう……」
エリオット以外に懐かれても、アリスはあんまり嬉しくない。
「よくもまあ、あの男と付き合う気になったな。君の度胸には恐れ入るよ」
「何よ。けなしてんの」
「いいや、褒めているのさ」
何処が褒めていたのか、アリスにはちっとも理解できなかった。軽く睨むが、やはり効果はない。
「だがしかし、気のいい男だ。大切にしてやってくれ」
「……」
それを何と答えたのか、その後ブラッドとどう別れたのか、アリスには記憶がない。
はあ、とか、まあ、とか、そんな返事をしたのだろうと思う。多分。
フラフラと廊下を歩いているアリスに、声をかける者がいた。
「おーい、アリスー」
「エリオット……」
今日はいろいろな人と廊下で出会うなあ、とアリスは思った。
だが、エリオットなら大歓迎だ。
「なあ、アリス。俺、これから仕事いってくる」
「ああ、そういえば……行ってらっしゃい、エリオット」
もうしばらくは暇になるなあ、とアリスはぼんやり考えを巡らせた。
仕事まで、まだ数時間帯ある。今から何をしようか。
「……? どうしたの」
エリオットが立ち去る気配がない。
不思議に思ったアリスがエリオットを見上げると、エリオットはもじもじしている。
「……いつものアレは、してくれねえのか?」
期待を込めた眼差し。
「いつもの……? って……あ」
アリスは思い出した。
少し前から、アリスはエリオットを仕事に送り出す際、彼にキスをしている。
エリオットも喜ぶし、アリスも自分からキスができる大義名分ができた、と続けていたけれど――まさか、あれのことか。
「あ、あれは、二人きりだったからしてただけで、こんな処で」
「……駄目か?」
ぐ、とアリスは言葉に詰まる。
(そんな目で見ないでー!)
捨てられた子犬のような目で訴えないで欲しい。
案外エリオットは、アリスが弱いことを知ってて、わざとやっているのではなかろうか。そんな気がしてきた。
アリスは覚悟を決めると、エリオットに向けて両手を伸ばした。
精一杯つま先で立つのは、なかなかに苦しい。
「……あれ。唇じゃねえのか?」
「不満?」
ぶっきらぼうに言うと、エリオットは首を振った。
「いーや。これはこれで、イイな。ちょっとくすぐったいけど」
エリオットは、照れ笑いを浮かべている。
彼の照れがアリスにも伝染したに違いない。アリスまで気恥ずかしくなってきた。
「行ってらっしゃいっ!」
「おう! ありがとな。何か、元気出た。すぐ帰るからなー!」
言いながら、エリオットは元気よく駆けて行った。
(……廊下で、私……いやいや、誰もいなかった。ってことにして、さっさと部屋に戻ろう)
くるりと向きを変えた瞬間、アリスの心臓は飛び上がった。
「お嬢さん」
「!!」
よりによって、一番見られたくない人物がそこに居た。ブラッドは意地悪そうに笑う。
「見ていたぞ」
「うっ……」
アリスは頬を熱くした。言い逃れできない。
ブラッドは面白がっているのだろう。にやにやとアリスを追撃する。
「君は、意外と大胆なことをするな。エリオットの影響か?」
「……そうよ。エリオットといると、私」
変になる。
理性が感情に勝てない。
モラルって何だっけ、と綺麗さっぱりアリスは忘れてしまう。
言いかけて、アリスは口元を押さえた。
違う。エリオットのせいにしてはいけない。
「っと……ごめんなさい。これからは、気をつける」
アリスが素直に頭を下げると、ブラッドは緩慢な動作で首を振った。
「いいや、気にしなくてもいいさ。恥ずかしがる君も、なかなか面白いからね。どんどんやりなさい」
「どんどんやらないわっ!!」
推奨されても困る。アリスは抗議の声を上げた。
「心配しなくても、私がエリオットを焚きつけておいてやろう」
「!!」
アリスは瞠目した。
ブラッドは優雅に身を翻すと、とどめと言わんばかりに艶やかに微笑んでみせた。
「ではな、お嬢さん」
「〜〜〜〜っ!!!」
アリスは拳を握りしめた。
ブラッドに、良いように翻弄されてしまった。
それが非常に悔しかったが、アリスが弱みを見せてしまったのも事実。
このやり場のない鬱憤は、アリス一人で呑みこむしかなかった。
まさか、エリオットにぶつけるわけにもいくまい。
いつか絶対に仕返ししてやる、とアリスは瞳を燃やしていた。
【うさぎまにあくす。/了】
===== あとがき ===
2011年8月発行『うさぎまにあくす』より。
エリオットに振り回されてます。通常運転です。
読んでくださってありがとうございました。