白いうさぎの行方
それからアリスは、エリオットから言われた通り、エリオットに会いに行くようになった。
エリオットの部屋で、彼が仕事に打ち込む姿をたっぷりと見つめる。
アリスはベッドの端に腰かけ、エリオットは机に向かっている。
これが、なかなか悪くないのだ。
「……」
エリオットの真剣な横顔は凛々しく、アリスの口元は自然と緩んでしまう。
エリオットの持ち前の、ワイルドな雰囲気も素敵だ。
彼の頭上にある長い耳を除けば、エリオットは男前だとアリスも断言できる。
いつもは耳のせいで、どうしてもアリスの目には『可愛い』フィルターがかかってしまうけれど、エリオットは確かに大人の男性だった。
(格好いいわ。うん、すっごく)
口には出さず、心の中で好き勝手に呟く。
見つめているだけで、胸の内を満たすものがある。
(こんな格好いい人が、私の恋人なのよ)
いいでしょう、と、具体的な語り相手もいないのに、一人で胸を張ってみる。
この一人遊びは、かなり楽しい。癖になりそうだ。
カリカリと、羽ペンを走らせる音が部屋に響く。
時折、その音は止まりがちではあるが。
そうやってデスクワークをしているエリオットを見られるのは、アリスにとって新鮮なことだった。
「……っはー、やっと終わった……」
エリオットは羽ペンを放り出すと、大きくその体を伸ばした。
すかさず、アリスは彼に声をかける。
「お疲れさま」
エリオットは椅子から立ち上がると、アリスの隣に腰掛けた。
「ごめんな。せっかくあんたが来てくれてるのに、あんまり構ってやれなくて」
「いいのよ、そんなこと」
聞き分けのよい答えを返しながら、アリスは心中で意見を一転させた。
(やっぱり、可愛い〜……)
アリスの気持ちは蕩けそうだ。
ふと思いついたことがあったので、アリスは質問を投げかけてみた。
「ねえ、エリオット。エリオットは、兎の姿にはなれないの?」
途端に、エリオットはぎょっとした。
いきなり何を言い出すんだ、と訴えかける目で、アリスを見る。
「は!? なれるわけねーだろ!? 第一、俺は兎じゃねえし」
「そうね……そっか」
答えながらも、何となくアリスは腑に落ちなかった。
(ペーターがなれるんだから、エリオットだって兎姿になれるんじゃないかな)
けれど、エリオットがなりたがらないのならば、強制はできない。想像だけで楽しむことにする。
(たぶん、毛がクルクルしてると思うの。目は紫で、ちょっと切れ長で)
そんな風体で、アリスの名を呼ばれたら。
(あ〜〜〜……駄目、これは駄目)
想像だけでも、身悶えるほど可愛いではないか。
現物をとてもとても見たいところだが、たぶん難しいだろう。
「突然、どうしたんだよ? んなこと言って」
エリオットは訝しんでいるようだ。
アリスは軽く首を振りながら、エリオットの目をまっすぐに見上げる。
「ううん。兎姿のペーターがとても可愛かったから、あなたなら、どんなにか可愛いことだろうと思ったの」
理由がわかれば、安心するだろう。そうアリスは思っていた。
ところが、エリオットは更に目を吊り上げた。
「可愛い!? あの陰険野郎のことが!?」
「……」
アリスは額に手をあてた。
どうも誤解があるようだ。
アリスは懸命に、訂正を試みた。エリオットの誤解を解くのは、骨が折れる。
「いや、ペーターのことは可愛くないわよ。兎姿が可愛かっただけで」
ペーター本人は、全くもって可愛くない。
エリオットのほうが、数百倍は可愛い。
エリオットは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「わかんねえ……いや、わかりたくねえなあ」
そうよねーと適当に相槌を打ちながら、アリスはエリオットに合わせた。
わかられても、ちょっと困る。
「……」
エリオットは渋面のまま、なにやら考えこんでいるようだ。
アリスの言葉を受けて、彼は一体、何を思っているのだろう。
それが困っているようにも見えたので、アリスはすこし心配になった。
「エリオット?」
「いや……」
エリオットの反応は、いまいち響かない。
困らせてしまったのだろうか。
(悪いこと言っちゃったかも……)
エリオットは、可愛い、と言われて怒るタイプだ。
アリスはそんな彼に、可愛い姿になってくれ、と言っているも同然。
(誤解……してたら、どうしよう)
もしも、可愛くないエリオットのことは嫌いだー、とか、そんな曲解をしていたらどうしよう。
彼はとても真っ直ぐだが、真っ直ぐに誤解しやすい。
ややあって、ためらいがちにエリオットの口が開く。
「……なって欲しいのか? 俺に、その」
口ごもったエリオットを見て、アリスはホッと胸を撫で下ろした。
「ううん、言ってみただけよ」
アリスは、笑いながら嘘をついた。
本当はなって欲しいけれど、無理強いはしたくない。
今のままでも、エリオットは――本人に言うと烈火のごとく怒るから、言わないように気をつけているけれど――十分に可愛いのだ。
それに、エリオットが自身を兎と認めているならともかく、否定しているのでは駄目だ。
そういう理性は、まだ働いている。
この時、アリスは不運としか言いようがなかった。
偶然とはいえ、ペーターの話題が重なったこと。
少し前にエリオットがペーターと対峙し、彼に言われたことと――それが、非常に悪かった。
エリオットの中で、それらは勝手に繋がってしまったのだ。
「……あんたは、さ」
「なぁに?」
警戒なく見上げてくるアリスのことを、とても愛しいと思う。
その反面、ズタズタにしてやりたくなる時がある。
この奇妙な破壊衝動は、一体何なのだろうか。
おそらくは、役持ちの皆も同じ気持ちを抱えている筈だ。
たまっていた鬱憤を、よりにもよってアリスにぶつけてしまいそうになり、エリオットは拳を握り締めた。
(落ちつけ……落ちつけっ! ぶつける相手が違うだろうが!)
アリスにとって幸運だったのは、エリオットの自制心が、奇跡的に強く働いたことだ。
続く言葉がなかなか出てこないので、アリスは不思議そうな顔のまま、エリオットを見つめている。
「ん?」
「あんたって……」
何と言って誤魔化せばいいのか。
まさか、そのまま――『ペーター=ホワイトが好きなのか』と詰問するわけにはいかない。
エリオットは考えた。
不自然ではない流し先を。ものすごく、本当にものすごく頭を使った。
言葉が勝手に流れ出ないよう、口をぎゅっと引き結ぶ。
アリスはきっと、エリオットが相当ふてくされていると思っている筈だ。
確かに、気分が良いとはいえない。言いたいことや聞きたいことは、ある。
どう言えば、アリスを怖がらせずに、エリオットの想いを伝えられるだろうか。
しばらくして、エリオットはやっと口を開いた。
「誰にでもいい顔、するなよ」
アリスは意外な言葉を聞いたかのように、その目をわずかに見開いた。
青い瞳をパチパチと瞬かせた後、しばしの間、思考に沈む。
おそらく、ここ最近の自分の行動を思い返しているのだろう。
エリオットはアリスを観察しながら、彼女の口が開くのを待った。
「別に、そんな……してないわ」
「いーや、してる」
エリオットが憮然と断言すると、アリスは小さく首をかしげた。
エリオットがそう思うのならば、そうかもしれない――と、もう一度、記憶を掘り起こしにかかる。
だが、引っかかることは特になかったようだ。
「……そう? でも、私はいい子じゃないし、不器用だから、そんな……いい顔なんて、できないわよ」
アリスは体の力を抜くと、くたりとエリオットにもたれかかった。
「エリオットが思ってるほど、私、いい子じゃないの」
エリオットに顔を近づけ、アリスはクスリと笑う。
その笑顔は魅惑的で、エリオットの征服欲を刺激する。
「アリス……」
たまらなくなり、エリオットはアリスに口づけた。
アリスは避けずに受け入れてくれる。それが嬉しい。
だが。
アリスは真面目に答えてくれたが、それが本心というのならば、なおさら問題である。
(ってーことは……アリスは、他の奴らなんて何とも思ってねえってこと、だよな? それはいいとして……いや、よくはねえけど)
エリオットにしてみれば、あれが『いい顔』でなくて何だというのだ、と言い張りたいところだ。
傍で見ていて、表面上は平静を装ってはいるが、エリオットは内心ハラハラしているのだ。
そんなに笑いかけるもんじゃないぞ、とアリスに説きたくなる。
そして、自分のアリスを見るんじゃねえ、と相手を怒鳴りたくなる。
だが、そこはグッと我慢した。
今日の自分は、すばらしく我慢強い。
これも、アリスのもたらした変化なのかもしれない。
アリスはまた、考えに沈んでいるようだ。
賢いアリスのことだ。
おそらく、放っておいても真実にたどり着くだろう。
そう思ってはいるものの、エリオットは口を開かずにいられなかった。
「いいや、そうじゃねえ。あんたはうちの」
言いかけて、エリオットは言葉を切った。これは、正しくない。
「俺の」
「それにしては、親しくし過ぎてる、ってこと? 他の人たちと」
エリオットが言い直そうとしたのと同時に、アリスの言葉と重なった。
「そ、そう! そういうことだ」
エリオットは慌てて話の流れに乗っかった。
「でも、友達だもの……仲良くしちゃ、いけない? まずかった?」
「いいや……別に、構わねえんだけど、なんつーか」
エリオットにも、矜持はある。
アリスに格好悪いところは見られたくないし、見せたくない。
だからエリオットは、口に出すことをためらった。
(俺が嫌なんだって、言うか?)
少しだけ迷った後、エリオットは息を吐いた。
自分はなんと束縛が強いのだろう。
だが、どう考えても、この場面で言うしかない。
一度そうと決めたら、エリオットは素早かった。
「俺が嫌なんだ、アリス。あんたが他の奴らと親しくしてるのが、嫌だ」
エリオットはアリスに向け、訴えかけた。
格好悪いことを言っている自覚は、ある。狭量だなとも思う。
けれど、言わずにはいられなかった。アリスは無防備すぎる。
「あんたが優しいから、いつも心配してるんだぜ。絶対、いつかつけこまれる」
他の役持ちは、一癖も二癖もある輩ばかりだ。
不用意に近づいていって、傷つけられる様は見たくない。
「つけこまれるぜ、あんた」
エリオットは言い含めるように、言葉を繰り返す。
ゆっくり、細いアリスの体を押し倒した。シーツの上に流れてゆく髪は、生き物のように美しい。
「え?」
アリスはぴんときていない様子だが、それも当然だろう。奴らは上手く隠しているのだ。
その中には、自分も含まれている。
アリスの青い目が、いよいよ丸くなった。
「つけこまれる……って、騙されるって? 彼らが、私を騙すの?」
「ああ」
アリスが冗談めかして返すと、エリオットは真面目な顔で頷いた。
エリオットの真剣さに、アリスの方が面食らってしまう。
(騙すってことはないと思うんだけどな……たとえば、ペーターとか)
論外。
大きな二文字が、アリスの頭を巡る。
彼はアリスに嘘はつかないけれど、アリスの為だと思えば、躊躇いなく騙しにかかるだろう。
アリスは顔を引きつらせた。気を取り直して、再び思考は最初から。
(いやいやいや、今のは相手が悪かったのよ。そうね、エースとかなら)
論外だ。
にこにこと爽やかな笑顔のまま、アリスを突き落としてくるだろう。
(〜〜〜! ボリス! ピアスとか!)
彼らは一見、自由気ままに見えるが、すこぶる人(?)が良い。
グレイやナイトメアも然り。
彼らはアリスを助けてくれこそすれ、陥れるような真似はしないだろう。
――よかった、望むところにたどり着けた。
アリスはホッと息を吐いた。
(そんな風には思えないけど……でも、エリオットは、すごく心配してくれてるのね)
そして、心配させているのは、アリスだ。
ならば、答えるべきことはひとつしかない。
「……ん、わかった。すぐにはゼロに出来ないけど、できるだけ減らす」
「アリス」
曇っていたエリオットの表情が、ほっと緩む。
「ありがとうな……俺も、こんな心の狭いこと、言いたくねえんだけどさ」
苦笑いを浮かべながら、エリオットは申し訳なさそうに頭を掻いた。
エリオットの頭が、くたっとアリスの肩にもたれかかった。
「あんたが可愛いから、心配なんだ」
アリスの笑顔を見ると、殺してしまいたくなる。
呟いたその声は小さすぎて、アリスの耳には届かなかった。
「好きだ」
真摯に訴えかけてくるエリオットの目に、吸い込まれそうになる。
「エリオット……」
気づけば、二人ともの衣服が乱れていた。
いつのまにか脱がされかかっていることに、アリスは驚いた。
エリオットが自然な手つきだからか、いつもいつも、気づくのが遅れる。
きっとまた、情けなく翻弄されてしまう。
アリスは顔を赤くしながら、エリオットの首にかじりついた。
存在を確かめるように、唇を交わしあう。
口内を好きに荒らして、探り合い、からめとる。伏せられる睫毛の、何と魅惑的なことか。
アリスの吐息が乱れていることに、エリオットは気づいた。
唇をわずかに離すと、エリオットはニヤリと笑みを刻んだ。
「キスだけ、だぜ? まだ」
「そんな」
意地悪だと真っ赤になりながら、アリスは零す。
可愛らしい反応をみせるアリスを見、エリオットは目を細めた。
愛しいアリス。自分だけの。
気を良くしたエリオットは、さらにアリスへと身を乗り出した。すばやく自身の胸元をはだけさせる。
アリスは本当に感じやすい。エリオットはぺろりと舌を舐めると、アリスのスカートをたくし上げた。
「やっ、やだ……ちょっと、待って、エリオット」
「待てない」
慌てて跳ね起きようとするアリスを、やんわりと制する。
享楽と羞恥の狭間で迷うアリスに、エリオットは正面から宣告した。
「抱きたい」
「……」
アリスはいよいよ赤くなって、エリオットから目を逸らした。
嫌ではない、とエリオットはアリスから感情を汲み取る。その胸に手を沿わせると、早鐘のごとく伝わってくるものがあった。
(心臓)
思わず、エリオットは体を震わせた。
エリオットの胸には、歓喜と恐怖とが入り混じっている。
唯一無二のアリスが、ただ一人、自分とだけ、交わることを許しているという安堵。
そして、壊れてしまう恐怖を。
アリスの胸には、何が詰まっているのだろう。
大切なアリスを壊さないよう、エリオットは慎重に慎重を重ね、アリスの肌に触れる。
腕も首も白く細く、エリオットが力を込めれば簡単に折れてしまいそうだ。
「アリス……俺」
迷いながら発せられたエリオットの言葉は、続かなかった。
アリスに何を訴えかけたいのか、それとも問いつめたいのか、自分でもよくわからなかったのだ。
ただ今は、激しい劣情にこの身を燃やそう。
アリスの細い首元に軽く歯を立てると、アリスの体がビクリと震えた。
これから迫り来るであろう波に、彼女がどれだけ抗えるというのか。
「甘いな」
「エリオット……」
ミルクのような甘い味がする肌を、ねっとりと吸い上げる。
アリスも負けじとエリオットに喰らいついてくるが、まだまだエリオットには適わない。
衣類を完全に脱ぎ去ると、エリオットはアリスの股に手を這わせた。
アリスの弱いところを、集中的に責めたてる。アリスの鳴く声は、エリオットの耳に心地よい。
快楽に身を委ねたアリスは、とても淫靡だった。
上気した桜色の肌も甘い嬌声も、体から香り立つ女の香も、アリスのすべてが、エリオットを刺激してやまない。
一気に喰らいついて捕食してやりたくなるが、エリオットは我慢した。アリスを壊してはいけない。
アリスの抵抗が止んだ。
さあどうぞ、と言わんばかりに、無抵抗の肢体を投げ出される。エリオットは凶悪な情を覚え、乾いた唇を舐めた。
「そろそろ、いいか?」
これ以上は、とても我慢できそうにない。
返事を待たずに、エリオットは、力をなくしたアリスの両の足を開かせた。その間に割って入る。
思いきり突き立てると、湿った音を立てながら、アリスはエリオットを飲み込んでいった。
アリスは小さく悲鳴をあげ、エリオットの体にしがみついてくる。
「うあっ……」
「ん……いいな、あんた。すげえあったかい」
体重をかけてすべてを押し込むと、アリスの体が、ひときわ大きく跳ねた。
わざと音を立てながら、エリオットはアリスを揺さぶり始めた。
「やっ、やだ、ああっ……エリオット……ッ」
アリスの呼ぶ声が、エリオットを煽りたてる。
緩急をつけて大きく動かすと、応えるように吸いついてくる。アリスもエリオットを望んでいる。
「アリス……なあ、気持ちいいだろ?」
耳元で囁くと、思考が鈍っているのか、アリスはこくりと頷いた。
エリオットは満足そうに、唇の端を持ち上げた。
アリスの全てを開いてやりたくなる。
もっと、快楽に溺れてしまえばいいのに。
エリオットなしでは居られないようになればいい。
「次の時間帯は、俺、休みなんだ。だから、な?」
ぼんやりしているアリスに向かって、エリオットは悪魔のように囁く。アリスはただ頷き返すのみだ。
悪い男に捕まったな、と労わるように、そっと頭を撫でてやる。
哀れにすら思うけれど、もうエリオットはアリスを逃がしてやれない。
自分が与える熱に翻弄されるアリスを見て、心を落ち着けている自分がいる。
そうして今日も、獣のように交じり合うのだ。
深く眠るアリスの横で、エリオットは静かに目を開いた。
アリスの横顔は白く安らかで、とても美しい。
エリオットはそろっと手を伸ばし、アリスの頬に触れてみた。
指先で触れる柔らかく滑らかな感触がたまらなく愛しくて、エリオットは眩しそうに目を細めた。
そうして、ちらりとぬいぐるみに視線を向けた。
(ああいう、ちっこいのが好きなのか……なら……でもなあ)
アリスの願いだ。
だが、男のプライドが、エリオットを躊躇わせる。
(俺は図体もでかいし、可愛くねえし)
アリスは可愛いと言うけれど、自分はちっとも可愛くない。可愛いところなんて無い。
だが、アリスは可愛いものが好きだという。
(悩むぜ……)
だが、アリスに愛される為ならば。
(あー……最近、考えることが多くなった気がする)
今まで、エリオットは悩むことがなかった。悩む必要がなかったからだ。
滅多に使わない頭脳を総動員させながら、エリオットはむっつり考え込んだ。
「アリス、アリス」
「ん?」
アリスは本から顔を上げ、周囲を見回した。
(……呼ばれたような気がしたんだけど、気のせい?)
読書に夢中で、まったく気がつかなかった。
更には就寝前とあって、思考も鈍りがちだったが……呼ばれた気がしたのは、空耳なのかもしれない。
「アリス」
ドアの向こうで小さくアリスを呼ぶ声と共に、軽いノック音がしている。
アリスは慌ててベッドから飛び起きると、ドアへと向かった。
だが、誰だろう。
使用人の内でアリスを呼び捨てにする者はいないし、ブラッドや双子、ましてやエリオットの声でもない。
「はーい?」
ドアを開けて周囲を見回すが、誰の姿もない。アリスは首を捻った。
「……あれ、誰もいな」
「アリス、こっちだ」
「え」
声は、アリスの視界の下からした。
くいくい、とスカートの裾を引っ張られる。
アリスが視線を向けると、そこには。
「……え、ええ?!」
オレンジ色の毛並みをした、二本足で立つ兎がいた。
見覚えのあるデザインの、紫色のマフラーとロングコート。そして、アーモンド型の紫の瞳。
まさしく、これは。
でも、まさか。
「エリオット!?」
アリスが声をあげると、その兎はコクリと頷いた。
「ああ」
「ど、どうしたの、その姿っ!」
アリスが焦りながら返すと、エリオットはパチパチと目を瞬かせた。
「どうって、あんた……あんたが、なって欲しいーって言ってただろ?」
常よりも、やや高い声で、エリオットはむすっと呟いた。
ぷりぷりと毛を膨らませながら怒っていても、その姿は、ただ愛らしい。
「エリオット……」
アリスは、呆然とエリオットを見つめることしかできなかった。
何ということだろう。
アリスの想像通り、いや、それ以上。
エリオットは、アリスの反応が返ってこないので不安になったらしく、そわそわし始めた。
長い耳が、ピコピコとせわしなく動く。
「な、なんだよ。喜んでくれねーんなら、戻る」
「エリオット! 私っ……」
「うわっ!?」
アリスは思いきりエリオットに抱きついた。
満面の笑顔で、エリオットに頬をすり寄せる。
「愛してるわ、エリオット!」
「っ、アリス……! よ、喜んでくれるのか?」
不安そうに首を傾げる仕草も、とてつもなく愛らしい。
「当たり前じゃない! もう、エリオットったら、いきなり驚かせるなんて」
「そっか……俺、安心した」
ピコピコッと得意げに耳が動く
。アリスの理性は今にもぶち切れそうだ。
「エリオット、抱いていい? だめ?」
「抱っ……い、いいぜ」
エリオットは、そろっとアリスに手を伸ばした。
アリスは慎重にエリオットを持ち上げると、優しく胸にかき抱いた。
期待通り、ペーターよりも少し重たい。もこもこの兎さんは、太陽の香りがする。
アリスはベッドに戻って腰かけると、エリオットの頭をなで始めた。
エリオットは行儀よくアリスの膝の上に座ったまま、気持ちよさそうに目を細めている。
「……なんか、あんたに抱かれるのって、変な気分だな」
「嫌?」
自分でも驚くほど優しい声がでる。確かに、この構図は色々と妙ではある。
問いかけると、エリオットはふるふると首を振った。
「んなことねえよ。嬉しい。けど……ん〜〜」
「あら、不満があるの?」
再び、ふるふるっと首が振られる。
「いいや、ねえって。でもな〜〜」
悩む兎さんは、悩ましいほどに愛らしい。
(どうしよう、可愛い〜〜!)
虜と化しているアリスは、今にも彼を抱き潰してしまいそうになった。
「な、なんか、目が怖いぜ? アリス」
「気のせいよ」
エリオットがじりっと後ずさりしたので、アリスは微笑んで取り繕った。
するとエリオットは警戒をとき、本当かな、とアリスに寄ってくる。
ぴょん、と膝の上に飛び乗ってこられ、アリスの心も一緒に弾んだ。
そんなエリオットの可愛い単純さが、姿が違うだけで、こんなにも胸にくるものだったなんて。
(いや、いつものエリオットだって可愛いわ。でも……種類が違うな)
愛玩動物としての可憐さを備えた今のエリオットは、アリスにとって最強の生き物だった。
「ねえ、エリオット。このまま一緒に寝てくれる?」
「え」
アリスのおねだりに、エリオットは固まった。
「……このままで?」
「うん、そのままで」
言いながら、アリスはエリオットを伴いベッドに横たわった。
エリオットは迷っていたが、アリスの隣にもぐりこんだ。アリスの目が、嬉しそうに細められる。
「ふふ、大好きよ」
細い指先が、エリオットの頭を優しくなでていく。
アリスが本当に嬉しそうに撫でてくれるので――そこは、エリオットにとっても至上の幸福だ。けれど。
「……うー」
この状況は嬉しいけれど、エリオットにとって生殺しである。
「なんだか、成功したのか失敗したのか、わっかんねえ……」
エリオットは小さくぼやいた。何とも複雑な気分だ。
「……」
エリオットは、アリスの顔を見上げた。
伏せられた睫毛は儚げだし、ほんのりと色づく頬も唇も、とても柔らかそうだ。
これを目前にして我慢していろというのは、男として正直きつい。そして自分には、我慢強さは備わっていない。
「なーなー、アリスー」
「どうしたの?」
エリオットを見るアリスの目も、いつもよりも柔らかい気がする。
たまらなくなって、エリオットはアリスに訴えかけた。
「俺はやっぱり、あんたのことは抱きしめたい」
アリスは言葉の意味を汲み取ったらしく、わずかに唇を尖らせた。
「……戻るの?」
エリオットは狼狽した。
「そ、そんなにガッカリした顔すんなよー」
「え、してた?」
しまった、とアリスは口元を抑えた。
エリオットはじとっと見つめてから、こくりと頷く。
「してた」
「あら」
あはは、とアリスは笑って誤魔化した。
エリオットは毛を膨らませると、アリスの腕からぴょんと飛び降りた。ベッドのスプリングが跳ねる。
アリスは自然と目を閉じた。
「おしまい」
ふわっと、穏やかな風が流れた。
アリスは、ゆっくりと目を開ける。
長いロングコートと、紫のマフラー。明るいオレンジ色の髪に紫の瞳。頭の上には長い耳。
そして、いつもの優しいテノールだ。
「ありがとう、エリオット」
「どういたしまして」
照れくさそうに笑うエリオットに、アリスはそっと身を寄せた。
「大好きよ」
「アリス……」
エリオットは、自分を見つめる瞳の柔らかさが、先ほどまでとちっとも変わっていないことに気づいた。
(アリスは、俺のことが好きだ)
アリスの想いを、疑ったことはなかった。
一人で疑心暗鬼に陥っていただけで。
それが今は、確かな手ごたえを感じる。
滞っていた思考に、すっと風が吹き抜けたようだった。
「また、なってくれる?」
「まあ……そうだな。あんたが望むなら、な」
アリスが思いのほか喜んでくれたのはありがたいが、これではエリオットの身が持たない。
身というか、主に理性が。
(けど、なってみてよかったな)
今までは、ペーター=ホワイトへあんな笑顔を見せていたのかと思うと、そこは腹立たしかったけれど。
その笑顔も、もはやエリオットのものだ。エリオットは唇の端を持ち上げた。
「アリス!」
エリオットは弾む足取りで、アリスへと駆け寄ってくる。
アリスは穏やかな気持ちになり、彼を待った。
よかった。
今日は、すこぶる機嫌がいいようだ。
アリスは微笑みながら、エリオットを出迎えた。
「お帰りなさい、エリオット」
「おう、ただいま! あのな、アリス」
エリオットはニコニコしながら、アリスに紙袋を手渡した。
「これ、あんたにやるよ」
アリスは素直に受け取ると、紙袋とエリオットを交互に見つめた。
紙袋には青いリボンが巻かれていて、見るからにプレゼント用品といった様相をしている。
「え、お土産?」
エリオットは大きく頷いた。
「ああ。開けてみてくれ」
「うん」
促されるままに、アリスは紙袋に手をかけた。
いったい何だろう。
大きさと重さからして、彼の大好きなにんじんシリーズではないことはわかる。
カサカサ、と包みをほどくアリスを、エリオットが優しい目で見つめている。
「……ぬいぐるみ?」
一抱えもあるほどの、大きなぬいぐるみだ。
「そう、ぬいぐるみ。しかも犬だ!」
エリオットは、自信たっぷりに「どうだ」という。
微笑ましい、とアリスが笑いかけると、エリオットはいよいよ嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとう、嬉しい。でも、どうしたの?」
「あー……」
エリオットは、視線をさ迷わせた。
途端に、ばつの悪そうな顔になる。
「あんた、ぬいぐるみ持ってるだろ? 白いウサギのやつ」
「うん、あるわね」
ビバルディの所から救出してきたもの。
串刺しの白兎は、ぬいぐるみだけれども、見るに耐えなかった。
そのぬいぐるみのことで、先日、エリオットとひと悶着あったのだが。
結局、問題のぬいぐるみは、まだアリスの部屋に居る。
「あんた、ぬいぐるみ好きなんだろ?」
「うん、可愛いし……もしかして、似合わなかった?」
口に出してから、これは違うなとアリスは思った。
似合わないのならば、わざわざ新しい物を買ってくる必要はないだろう。
エリオットは慌てて首を振った。
「ち、違うっ! 違うけど、あれをあんたが撫でたりしてるって思うと、すげー嫌なんだよ」
「……ぬいぐるみよ?」
アリスは目を瞬かせた。
エリオットは仏頂面で、小さく頷く。
まさかエリオットは、件のぬいぐるみにまで嫉妬の対象になってしまっていたのか。
(あー、そりゃ嫌がるか……エリオットは、ペーターに見えちゃってるのね。あのぬいぐるみが)
一度そう思えると、やっとアリスにも納得ができた。
エリオットが、渋々兎姿になってくれたことにも。
(うわあ……どうしよう、すごく)
どうしよう、嬉しい。
この男は本当に、可愛すぎる。
きっとエリオットは、憎きぬいぐるみの代わりになろうとしていたのだろう。
(馬鹿ね)
アリスにとって、エリオットの代わりになるものは何もないのに。
アリスがクスリと笑ったのを見て、エリオットは頬を赤くした。
「ただのぬいぐるみじゃねえ! 白いウサギのぬいぐるみだ! あいつを思い出す……」
声を大にして、いかにあのぬいぐるみが良くないかを訴える。
エリオットは苛立たしげに、ぎりっと唇を噛みしめた。
「ああ、考えただけでもイライラするぜ……あんなのより、こっちにしてくれ!」
「こっち……」
アリスは、手の中にある物へと視線をうつした。
毛足はやや長めで、丸いビーズの瞳はキラキラと輝いている。
「ふわふわね」
そっと手を滑らせると、期待通りの手触りがあった。
「だろ? よくわかんねえけど、なんか手触り良さそうなの選んできたんだ」
エリオットは、嬉しそうなアリスを見て、嬉しそうに笑う。
「可愛い……でも、ウサギでもいいのに」
「えー!? あんた、ウサギが好きなのかっ!?」
「うん、好きよ」
特に、目の前の兎さんのことが。
「でも、こっちにする」
アリスは、犬のぬいぐるみをきゅっと抱きしめた。
嬉しい気持ちを分けあうように、エリオットの頬に唇を押し当てる。
「ありがとう、エリオット」
エリオットが好き。
口には出さず、視線で語りかける。
アリスの気持ちがエリオットに届いたのか、彼はとても嬉しそうに笑う。
「……本物の方が、ずっといいな」
アリスはぬいぐるみを傍に置くと、エリオットに向けてめいっぱい腕を伸ばした。
どんなに愛らしいぬいぐるみも、エリオットには敵わない。
めいっぱいの幸せに包まれた二人は、まるで陽だまりのようだった。
[白いうさぎの行方 了]
===== あとがき ===
ほのぼの……でしたかね?
ゲーム中のエリオットのセリフから、妄想が膨らんだシロモノでした。
2009年12月29日発行の短編集「白いうさぎの行方」より。
ではでは、読んでくださってありがとうございました!