「なあ、ブラッド。話があるんだ。俺さ」
照れくさそうな声に、ブラッドはようやく顔をあげた。
ブラッドの机の前には、図体のでかい男が立っている。
もじもじと乙女のように恥じらっている姿は――少し、ブラッドを苛立たせた。
「……エリオットか」
大の男が、と、ふと抹殺したい気分に駆られたが、そんな気持ちは微塵も見せず、ただ鷹揚に返す。
「どうした?」
エリオットの表情は突き抜けるように晴れやかで、それがブラッドの癪に障った。
エリオットはそんな些細なことに気づく筈もなく、キラキラとした顔で話を切り出した。
「俺……」
ブラッドの手から、羽ペンがコトリと滑り落ちた。
Tellus
「アリス!」
背後から呼び止められ、アリスは振り返った。
(んん? この声は)
人々の間を縫うように――いや、人波をモーゼのように分かちながら、ペーターが駆けてくる姿が見える。
「ペーター」
久しぶりに顔を合わせたなあ、と呑気なことを考えながら、アリスは足を止めることにした。
本当に久しぶりだったのだ。しかも、こんな街中で会うなんて。ちょっぴり新鮮に思えて、アリスの肩の力は抜けた。
(ここのところ、エリオットとばかり居る気がするなあ)
最近のアリスは、エリオット一色なことに気づく。
今日だって、エリオットの為の買い物だ。
(それが嫌って訳じゃなくて、幸せなのよね……私も大概アレな子だわ)
そんなことを考えているうちに、やっとペーターはアリスのもとに辿りついた。
「こんにちは、ペーター。珍しいのね、こんな」
「アリス、本気なんですかっ!?」
のんびり話しかけたアリスの言葉を綺麗にかき消しながら、ペーターはがしっとアリスの肩を掴んだ。
「え」
剣幕に驚いたアリスは思わずペーターの顔を見て、更に瞠目した。
何故、そんな険しい顔を――いや、焦燥感に駆られているのだろうか。
そういえば、ペーターは珍しく息を切らしている。
彼の必死な形相を見ると、アリスの胸もざわめいた。
「ちょっと、離……ペーター、どうしたのよ!?」
「嫌です、離れませんっ!!」
「離せ!」
「いやですー!」
アリスは振りほどこうとしたが、逆にペーターに抱きしめられてしまった。
まずい。
こんな所を、誰かに見られたら――特に屋敷の関係者に。
(や、やばい……)
エリオットはペーターを敵視している。
敵対関係にある、というだけでなく、ペーター自身を毛嫌いしているのだ。
ペーターの方も然り、だが。
(同じウサギなんだから仲良くしたらいいのに……じゃなくって! 今はそれどころじゃ……!)
うっかり逃避しかけたが、早急に離れて貰わねばまずいのだ。
アリスは懸命に、ペーターの胸を押し返した。
「ちょっと落ち着きなさいよっ! いつもおかしいけど、今日は特におかしいわよ、あんた!」
軽く睨みつけながら声をあげると、ペーターはグッと言葉に詰まった。
「だってっ……! そんな、落ち着いてなんかいられませんっ!」
「何でよ。……何かあったの?」
アリスが声音を優しくすると、いくらか落ちついたのか、掴む手の力が弱まった。
「あなたが三月兎と結婚するって聞いて、僕……」
「え」
アリスは目を瞬かせた。
「……結婚?」
誰と誰が。
固まるアリスとは対照的に、ペーターはパッと顔を輝かせた。
「ああ、よかった! アリス、結婚なんてするつもりないですよね! 僕がいるんですから! アリスは僕と結婚しますよね!?」
「いや、あんたとはしない」
「えー!? 酷いですー!」
妄言は、すっぱり切り捨てさせてもらう。
けれど、ペーターがいつもの調子に戻ってくれたので、内心アリスは安堵している。
芽生えた胸のざわめきが、いつの間にか治まっていた。
ペーターは挫けなかった。
パッとアリスの両手を握ると、ニコリと微笑む。
「アリス、今すぐ、僕と結婚しましょう!」
「嫌」
アリスは冷静に斬って捨てた。
(やっぱりペーターって……ペーターだったわ……)
こんなに綺麗な男性にプロポーズされたというのに、アリスの胸はちっともときめかない。
きっと、彼の残念な中身を知っているせいだろう。
(最近、あんまり惑わされないなー……エリオットのおかげかな)
エリオットとの関係に、不安を感じてはいない。
心はエリオットでいっぱいだ。
それに、同じ兎でも、ペーターとエリオットは全く違う。
もし二人が似ていたら、アリスはきっと動揺していただろう。
「何でですかっ!?」
「だって、嫌だもの」
それ以外に理由などない。
だが、ペーターはこれしきのことで挫けなかった。
「嫌でもなんでも、結婚しましょう!」
「そんな結婚があるかー!!」
周囲に、小気味良い音が響く。
遠慮なく殴り飛ばす羽目になった――が、今日のペーターは粘り強かった。
「だって、あんな愚かな兎に、あなたを守れる筈がないですよ!」
「……え? どういうこと……」
「あんな愚鈍な男、きっとあなたを……アリス?」
ストップ、と、アリスはペーターの唇に指を押しあてた。
「何いってるの、ペーター。私、ずっと守って貰いたいーなんて思わないわよ」
「え?」
ペーターは、きょとんとしてアリスを見つめている。
存分に怒っていた肩からも、力が抜けていた。
アリスが何を言い出すのか、心底わからないとでも言いたそうに。
「そりゃあ、私は弱いし……銃だって撃てないし、守られてる自覚もあるけど」
エリオットは、ずっとアリスを守ってくれている。
その事は、よくわかっているつもりだ。
銃撃戦になろうものなら、アリスは真っ先に死ぬ自信がある。
(うん……そうね、私は守られてばっかりだけど)
昔は、ロリーナに。
今は、エリオットに。
けれど、今度は違う。
守られてばかりで居たくない、とアリスは思う。
「エリオットって、突っ走っちゃうのよね……すぐ。そういうとこは、あんたに似てるのかも」
ふたりの共通部分を見つけ、アリスはふっと微笑んだ。
ふたりとも、呆れるくらいに猪突猛進型なのだ。
そう考えると、ペーターとエリオットは、似ているのかもしれない。
「エリオットはね、私のこと、守ってくれてるわ。つきっきりで居ないと私が死んじゃうって思ってるんじゃないのってくらい、過保護なのよ」
アリスは微笑みながら、ペーターに語りかける。
ペーターは黙ってアリスの言い分を聞いていた。一言一句を逃さぬよう、それはもう熱心に。
「私は、エリオットのことが心配なんだけどね。いつか無理が祟って、体、壊しちゃいそうだし」
だから、アリスは彼を支えてあげたいと思っている。
エリオットのブレーキ代わりになるのなら、アリスはそうなりたい。
「でも……結婚??」
アリスは、首を捻って考え込んだ。どんどん思考が深くなる。
アリスはもう、ペーターの存在をすっかり失念していた。アリスの傍で黙って佇む彼の存在を。
ペーターは真剣な瞳で、ただアリスの横顔を見つめていた。
◆ ◆ ◆
「アーリスッ」
「ぎゃっ!?」
近くでガサリと音がした――かと思うと、突然、二本の腕がアリスの体を拘束した。
(な、なにっ!? 誰がっ)
心臓がばくばくしている。
慌ててアリスが身を捩ると、涼やかなエースの視線とかちあった。
「えー。ぎゃーはないだろ? ぎゃーは」
エースは不服そうにしているが、アリスは答えてあげなかった。
いきなり茂みから現れる方が悪い。絶対に悪い。
短い悲鳴で済んだだけマシだと思って貰いたい。
(こいつ……)
絶対、あの登場の仕方はわざとだ。アリスの反応を楽しんでいる。
(何て悪趣味な男なの)
騎士のくせに、と内心毒づきながら、アリスは強張った体から力が抜けていくのを感じた。
「ところで、どう? 元気してる?」
アリスの黒い心など知らないエースは、明るく微笑みながら話しかけてくる。
そうして、ようやくアリスを解放してくれた。
「……今、元気がなくなった」
「ははっ、つれないこと言うなよー」
アリスが正直に告げると、エースは楽しそうに笑った。
「なあなあ、聞いたよ? 君、今度ウサギさんと結婚するんだって? 君も物好きだね」
「……」
アリスは押し黙った。
ペーターに続いて、エースまでもが。
同じ話題が続いたことと――しかも、彼は完全にからかい口調だったので、アリスはすっかり答える気を失ってしまった。
「……それ」
「ん? どうしたんだ?」
アリスの心のもやもやなど、エースは知らないのだろう。
(……どうしよう)
アリスの表情が曇ったことで、勘づいてくれたらいいのだけれど。
「わかった、実は婚約破棄したいんだけど言い出せなくて悩んでる、とか? 俺でよければ手伝うけど」
にこやかに物騒な笑顔を見ても、アリスは溜息を吐いたに留まった。
そんな事はしなくていい、と今のアリスが突っ込むのも変な気がして、あえて流すことになった。
(相談……したい)
その話題を吹っかけてきたのが二人目、ということもあり、だいぶ衝撃は和らいでいた。
それはそれで、また別の問題を引き寄せてしまったのだけれど。
その話を冷静に考えてしまうと、アリスの心に、めきめきと不安が湧いてきた。
「エース……」
「なんだい?」
「どうしよう、それ」
アリスは、きゅっと拳を握りしめた。
藁にもすがるような気分だった。
この際、エースでもいい。誰かに聞いて欲しい。
アリスの様子を見たエースは、やっとからかいの色を消した。
「……あれ、まさか本気で困ってるの? 何か力になれるかもしれないし、俺に話してくれよ」
心配そうに言われて、アリスは素直に頷いた。
エースになら、不安な胸の内を打ち明けても大丈夫だろう。そんな気になったのだ。
「初耳なの」
「え?」
エースは僅かに首を傾げた。アリスは重ねて言い募る。
「初めて聞いたの、それ」
「それって?」
なんだい、とエースは真面目に受けてくれている。
それを確認して尚更ホッとしたアリスは、一拍おいて、肝心のことを口にした。
「私が、エリオットと結婚するってこと」
エースは瞠目した。
「……まさか」
「本当よ」
フッと、アリスは自嘲気味に笑った。
(聞いてない、そんなの)
口にして認めてしまうと、更にアリスの気分は落ち込んだ。
落ち込むというか、やさぐれるというか。
「……えー。だって、それってさあ」
エースも、やや顔を引きつらせている。あまり見たことのない表情だ。
(ふ……さすがのエースも、変に思うわよねえ。困ってる困ってる)
場の空気が、どんよりしてきた。
けれど、アリスには改善する気が毛頭ない。
エースは少し考え込んだ後、近くにあったベンチを指差した。
「アリス。ちょっとそこに座って」
「え? うん……」
言われるままに、アリスはベンチに腰をおろした。
すると、エースもアリスの隣に座り込んだ。
「エース?」
見上げると、エースは微笑んだ。
その微笑みはやっぱり爽やかではあったけれど、視線はどこか宥めるような――。
「君の愚痴、付き合ってあげる」
アリスは目を瞬かせた。
エースは、痛んだアリスに気を使ってくれている。
「……いいの? しつこいわよ、私」
いいよ、とエースは笑う。
アリスは安堵した。
今は独りで思いつめるよりも、誰かにぶちまけたかったのだ。
アリスは、足元に視線を落とした。
靴先に転がっていた小石を、軽く蹴ってみる。
「大事なことなのに、私に言う前に周りに言っちゃうなんて」
面と向かって訴えるのはちょっと気恥かしいので、ひとり言のようにアリスは呟く。
隣では、エースが黙ってアリスを見守ってくれているのがわかる。
「! まさか、エリオットの結婚相手って……私じゃないのかも」
その可能性は考えていなかった。
今度は、アリスは青ざめた。
赤くなったり青くなったり、ころころと顔色が変わる。
「……」
ピリッと肌に痛みを感じて、アリスは視線をあげた。
不穏な空気は、アリスの隣から――。
「? エース?」
「……アリス」
はあ、とエースは大きな溜息を零した。
「あのさ、すごく酷い男だよね。親切そうな兎さんなのになー。見かけによらないっていうか、がっかりだよ」
「エース……」
不穏な気配こそ消したものの、呆れたような声で、エースはエリオットを貶す。
今のアリスには、言い返すだけの気力が残されていなかった。
「エースは、どう思う?」
「んー……断言はできないけど、君がさっき言った可能性も、なくはないよね」
「そ、そうよね……」
アリスは落胆した。
見たくはない現実だが、エリオットの結婚相手が自分ではないという可能性は、ゼロではない。
エースが遠慮せずにズバリと言ってくれるおかげで、目を逸らさずにすむ。
「でも、エリオットは私のことが好きだもの」
私以外はあり得ない。
そんな恥ずかしい思考も、堂々と口にしてしまえるほど、エリオットの好意はストレートにアリスへと注がれている。
エースは、そんなアリスを見つめて――徐に、言葉を切り出した。
「どうする?」
「何が?」
「もしも……兎さんがさ、君以外と結婚するんだったら。君はどうするんだ? 許す?」
アリスは瞠目した。
一瞬、言葉に詰まってしまったが、きっぱりと断言できる。
「嫌よ、そんなの」
アリスがしっかりと言い返したのが意外だったのか、エースは笑みを零した。何処か引っかかる笑顔だ。
「……なあ、アリス。もしそんなことになったら、俺に言ってね」
「エースに?」
うん、とエースは大きく頷いた。
エースはゆっくり立ち上がると、満面の笑顔をアリスに向ける。
「落ち込んで泣いてる君を、俺がなぐさめてあげる」
任せてくれ、とエースは胸を張るが――嬉しくない。アリスは頬を引きつらせた。
「……悪趣味」
「えー? 親切だろ?」
何処がだ、とか、エースに色々言いたいことは、ある。
けれど、それは置いといて、一番言わなくてはならないことをアリスは口にした。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
言いながら、アリスもベンチから立ち上がった。
口に出せたことで、重かった心が軽くなっていた。
(そう、大丈夫よ。私、まだ何も知らないんだから)
想像だけで勝手に落ち込んでいても、仕方ない。
「まずは、エリオットに聞いてみないといけないわよね……。じゃあね、エース。愚痴につきあってくれてありがとう」
「どういたしまして」
アリスはエースと別れると、しっかりした足取りで屋敷へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
そんなことがあって、数時間帯後のこと。
アリスは、エリオットの部屋で彼と過ごしていた。
エリオットはいつになくそわそわしていたので、「ああ、今日言われるのかな」という甘い予感は、アリスの胸で膨らんだ。
ペーターやエースから話を聞いた後、アリスはエリオットに問い詰めることをしなかった。
ペーター達の情報が早いだけ、という事も考えられるし、それならば、アリスから問い詰めてはエリオットに悪いと思ったのだ。
だからアリスは、素知らぬ態度を貫くことに決めたのだ。
いつエリオット本人から申し込まれるだろう、と内心ドキドキしながら。
(やっと言ってくれる?)
何と言って申し込んでくれるのか、どう答えようか――。
だが。
待てども待てども一向に語られる気配がないので、焦れたアリスは口を開いた。
「エリオット……あの」
「なっ、なんだ? アリス」
頬が熱い。何だか今日は、エリオットの顔が見られない。
(うう、緊張する……っ)
言いにくい。
けれど、はやく言わなければもっと言えなくなる。アリスは思いきって話を切り出した。
「……あのね、何か、噂が流れてるみたいなんだけど」
「噂?」
「そう、噂よ。心当たりはある?」
「……んー」
何だろう、とエリオットは首を傾げてみてはいるが――否定しなかった。
煮え切らない。
アリスはようやく、エリオットの顔を真正面から見ることができた。
「私に言いたいこと、ない?」
「言いたい、こと?」
「うん」
アリスが頷くと、エリオットは黙り込んだ。
「……」
エリオットは視線を彷徨わせた。
何だか、嫌な予感しか芽生えない。浮かれていた自分は、嘘のように消えてしまった。
(うっ……わ、別れ話だったらどうしよう)
エリオットが言ってくれないせいで、アリスの思考は嫌な方向に走る。
けれど、アリスは我慢した。我慢して、エリオットの言葉を根気強く待つ。
ややあって、エリオットは静かに告げた。
「あんたに言いたいことは、ある。けど……まだ、待ってくれ」
「え」
「すまねえ」
エリオットは、心底申し訳なさそうに目を伏せる。
アリスは言葉を失った。
何か言わなくちゃと思いながらも、どうしても、うまく言葉を見つけることができなかった。
その後、何を話し、どうやってエリオットと別れたのかは分からない。
気づけば、アリスは一人だった。
独りで廊下を歩いている――ということは、エリオットは仕事に出かけたのだろう。多分。
そして自分は、自室へ戻るところだ。多分。
その途中、アリスは館の主と出くわした。
◆ ◆ ◆
ブラッドはアリスの姿を見つけると、のんびりと歩み寄った。
アリスがあまりにも険しい顔つきで歩いているから悪いのだ。
「おや、幸福なはずの花嫁が憂鬱な顔をしているとは……どうしたのかな?」
つい、いつもの調子でからかってしまったが、アリスの表情は晴れない。
「……ねえ、ブラッド。私って」
言いかけて、アリスは口をつぐんだ。続く言葉は、小さな溜息に変わる。
「なんでもない」
「待ちたまえ」
そのまま去りかけたアリスを、ブラッドは思わず呼び止めていた。
気になるところで言葉を切るんじゃない。それに――。
「……なんでもない顔ではないぞ、それは」
「そう? 気のせいじゃないの」
どうでもいい、とばかりに、アリスは適当なことを言う。これは怪しい。
ブラッドはアリスの顔をじっくりと眺めた後、小さく首を振った。
「いいや、気のせいではないな。話してみなさい」
だが、アリスは固い表情のまま、力なく首を振った。
「生憎、そんな気分じゃないの。放っておいてくれる」
そんな事を言われても、放っておいていい状態だとは思えない。
アリスが何かを抱え込んでいるのは、火を見るより明らかだ。
「……ふむ」
ブラッドは少し考え込んだ。
アリスは何か落ち込んで――もしくは、気に病んで――いるらしい。
彼女は先ほどまでエリオットと一緒に居た筈だから、奴がらみだろう。
エリオット絡みといえば、ブラッドには一つしか思い当たらない。
「君は……実はエリオットと別れようとしていて、結婚話がでて困っている?」
それならば、悩んでもおかしくはない。
推測を口にすると、アリスはぽかんとしてブラッドを見た。
「……どうしてそんな話になってんの」
「君が言ってくれないのなら、私が勝手に推測するしかないだろう?」
「いや、推測しなくてもいいから」
呆れ声で言われたが、沈んでいるよりはその方が良い。
「君が落ち込む理由がわからない。ああ、もう少し自由の身でいたいとか」
「違うわ」
アリスは短く否定した。そうして、視線を床に落とす。
「私だって、わからないのよ」
おかしい、とブラッドは首を捻った。
アリスは馬鹿ではない。それどころか、賢い少女だ。そのアリスが、原因の分からぬことで訳もなく悩むとは思えないが。
「マリッジブルーか?」
理由なく不安になるというならば。
だが。
「……それも違うと思う」
アリスは力なく首を振った。
マリッジブルーならば、どんなにいいだろうか。
まさか、エリオットから、まだ結婚を申し込まれていないなどと――アリスが言える筈がない。口が裂けても言えない。
◆ ◆ ◆
しばらくして立ち直ったアリスは、リベンジする事にした。
ブラッドには無駄に心配をかけてしまったが。
気まぐれな彼に『困った時は、いつでも話しにきなさい』とまで言わせてしまった。
ブラッドだけではない。
エースにも。きっと、ペーターにも。
(まだ、困ってないわよ)
まだまだ、アリスは頑張るつもりだ。エリオットの事となると、諦めが悪い。
アリスはベッドに倒れ込んだ。枕を引っ掴むと、胸にかき抱く。
(まだよ)
諦めの悪さなら、折り紙つきだから。
柔らかな枕の感触が、アリスの心を幾分か和らげた。
カチャリ、とドアが開く。
アリスは反射的に上体を起こした。
「おかえりなさい」
アリスが声をかけると、エリオットはニコリと微笑んだ。
「おう、ただいま」
エリオットはベッドに大股に近寄ると、アリスの頬に軽くキスをした。
「……エリオット、あのね」
ドキドキする。エリオットにだけ。
アリスは気持ちを静める為に、目を閉じた。
「あの……」
「ど、どうした?! アリス!」
「え」
焦る声がしたので、思わずアリスは目を開いた。
エリオットは、心配そうにアリスの顔を覗きこんでいた。
「まさか、誰かに苛められたのか!?」
「……うーん」
否定もできない。
「私が苛められるとしたら、エリオットにだけど」
「へ?」
アリスの心を乱すのは、エリオットしか居ない。
エリオットの一挙一動が、アリスには大切で――。
(恋してる)
そんな温かな実感がある。
感じるのが喜びだろうが悲しみだろうが、そのどちらでも、結局はそこに辿りつく。エリオットが好きなのだ、と。
エリオットは瞠目した。
「って、俺!? 俺、あんたのこと苛めたりしねえぜ!?」
「そう?」
そうでもないけどなあ、とアリスは思ったが、慌てるエリオットが何だか可愛かったので、口には出さないでおいた。
◆ ◆ ◆
それは、突然の来訪だった。
仕事帰りに、偶然――いや、偶然ということはないだろう――ペーター=ホワイトが、エリオットを待ち構えていたのだ。
いつもとは違う彼の雰囲気に、エリオットは身構える。まだ、撃ち合う順番では無かった筈だが。
「エリオット=マーチ」
「何だ」
厳かに名を呼ばれて、エリオットは噛みつくように返した。
ペーターの瞳は赤く鋭い。常の鋭さとは、また異なっていた。
「アリスを愛していますか」
何を言われたのか、とエリオットはぽかんと口を開けた。次いで、すぐさま答え返す。
「当たり前だろ」
「では、あなたは彼女を幸せにできますか?」
「それは」
言いかけたエリオットを無視して、ペーターは淡々と告げる。
「できないのなら、あなたにアリスを得る資格はない。とっとと降りてください」
「なんだと!?」
感情を露わに怒鳴り返すが、ペーターの鉄面皮は崩れない。それどころか、更に雰囲気は鋭利さを増した。
「しばらくの猶予はあげます。けれど、その哀れなぐらいに悪い頭で真剣に考えてください」
思いがけない言葉に、エリオットは目を瞠った。
「お前は、なんで」
「勘違いしないでくださいね。あなたを殺したいと思う気持ちは変わっていない」
赤の剣呑さは揺るがない。
吐き捨てるように言い放つと、ペーターはエリオットを鼻で嗤った。
「アリスは僕の全て。アリスの幸せだけが僕の願いなんです。だから、彼女が誰を選ぼうが、そんなことはどうでもいい。彼女が幸せになれるのならば、の話ですが」
感情を完全に押し殺したその無機質さが、何処か不気味だった。
「アリスが不幸になるのならば、僕が撃ち殺します。どんなにアリスが愛している相手でも」
そして、どんなにアリスに憎まれようとも。
ペーターには、その覚悟がある。
「……」
つまりは、エリオットを殺しに来たということだ。
高らかに宣言され、どうという事はないけれど、面白いものではない。
ペーターとエリオットは、しばし睨みあった。
「っは〜……厄介なのが後ろに居やがるな……」
「厄介ですって? 当然のことでしょう」
ペーターは気迫を崩さない。
如何に愚かな三月兎とて、わかっていないわけではないだろう。
アリスの後ろには自分だけでなく、他の全ての役持ちがいるということを。
「つまり、だ。お前のお眼鏡に適わなきゃ、アリスと一緒にいることもできねえって言ってんだろ?」
ペーターは鷹揚に頷いた。
「ええ。僕はアリスだけの案内人です。アリスにとってあなたがマイナスになるのならば、切り捨てなければなりません」
それだけが自分の全てだ、とペーターの意思は揺るがない。
エリオットの顔からは、スッと感情が引いた。真剣な顔つきで、真っ向からペーターと向き合う。
「てめえがアリスの案内人なら、俺はアリスの盾だ」
「盾?」
「ああ」
「アリスを守って死ねる、と? でも、そんなことは当たり前です」
ふん、とペーターは冷笑で返す。
「いまいち信用できないんですよね、あなた」
じろり、と蔑むような目つきが気に入らない。けれど、エリオットはキレなかった。
「では、三月兎。帽子屋とアリスと……あなたは、どちらを守って死にます?」
「そりゃ、アリスだろ」
エリオットは迷わず即答した。そんな単純な問いに、迷う筈がない。
「何故?」
「アリスは弱い。俺が守ってやらなきゃ、死んじまう。ブラッドは強いだろ」
エリオットは問われるままに答えた。
ブラッドを見捨てる訳ではないが、ブラッドは気だるそうに見えて、一大勢力を誇っているだけあって、実力は確かだ。エリオットが守らずとも、負けはない。
だが、ペーターは大きく溜息を吐いた。
「あなた……ほんっと、頭の悪い兎ですね」
「んだと!?」
エリオットは眉を吊り上げた。
「確かに、アリスは弱いです。僕たちが守らなければならないほどに」
その為に、この世界へ招いたのだ。
「でも、それだけだと思っているのなら、愚かにも程がある」
「は? 愚かってんなら、お前も大概にキてるぜ」
エリオットは乱暴な言い方で、ペーターを挑発する。けれど、ペーターは眉ひとつ動かさなかった。
「アリスがあなたを守ると言っている」
「なに?」
意外な言葉を聞かされて、エリオットは思わず聞き返していた。
「だから僕は、早々にあなたを撃ち殺しに来たんです。あなたはまだ、アリスを理解していない」
用は終わった、とばかりにペーターは踵を返すと、人ごみへと消えて行った。
エリオットはただ、その背を呆然と眺めていた。
◆ ◆ ◆
「ブラッドー」
ブラッドは溜息を零した。
ただでさえ、アリスの様子が気がかりだと言うのに。
自分の目の前でうだうだしている暇があるなら、とっととアリスのもとへ行けと言いたい。
「……なんだ、鬱陶しい」
答える口調は、機嫌の悪さを隠そうともしない。
エリオットは力なく項垂れている。
常は豪快な男が、何を女々しい振りをしている、と柄にもなく叱責したくなる。面倒くさいのでやらないが。
気を落ち着かせようと、ブラッドはティーカップに手を伸ばした。
紅茶は良い。リラックス効果もあるし、何より美味い。
「俺、アリスのことわかってねえのかな?」
「は?」
ブラッドは素っ頓狂な声をあげた。危うく茶器を粉々にするところだった。
馬鹿なことを聞くな、と返そうとして――ブラッドは思い留まった。エリオットは本気らしい。
「誰よりもお前が一番、お嬢さんを知っている筈だろう?」
最もアリスと近しいのは、他でもないエリオットだ。
エリオットは、アリスの恋人という、誰もが欲しがった地位を得ている。
エリオットの表情が、一瞬だけ晴れた。けれど、すぐ曇ってしまう。
「だろ? そうだよな? でも、あいつが」
「あいつ、とは?」
誰の事だ、と視線で促す。
「いけ好かねえ城の宰相。こないだ、いきなり来てよー。アリスを幸せにできんのかって詰め寄ってきてな」
エリオットはぶつくさ言っているが、なかなか興味深い話だ。
ペーター=ホワイトが何を企んでいるのか分からないが、あの潔癖を絵に描いたような男が、撃ち合いでもなく、エリオットと接触を持ったのはとても珍しい。
よほど、奴にとって重要なことだったのだろう。ブラッドは少しだけ興味を覚えた。
「……ほう。面白い。それでお前は、悩んでいるのか」
考えることが苦手なエリオットが、こうも悩む姿も珍しい。
そう考えを変えると、鬱陶しいけれど退屈しのぎにはなるな、と思った。
思う存分、勝手に悩めばいいのだ。
そうすれば、少しは――ほんのちょっぴりくらいは――彼の短気がマシになるかもしれない。
「ああ。ったく、わけわかんねえ……」
渋面のエリオットを眺めて、ブラッドは再び、深い溜息を吐いた。
◆ ◆ ◆
エリオットがブラッドの部屋で悩んでいる頃、アリスは双子に捕まっていた。
「僕らと遊ぼうよ、お姉さん」
「遊ぼう遊ぼうー」
じゃれつかれて、甘えられる。無邪気な二人が可愛らしくて、アリスは微笑を浮かべた。
「何をして遊ぶの?」
いつもは頑なに遠慮するところだが、今日のアリスは乗り気だった。
ディーやダムと遊んでいれば、たとえ一時でも、忘れられる。
(困ってたな……エリオット)
あの時のエリオットの表情が、頭から離れない。ずっと。
ずっと――寝ても覚めても、だ。
(そんなに困るようなこと、聞いたっけ)
腑に落ちないけれど、アリスが困らせたのは事実だ。だからアリスが聞いたのは、困るようなこと、だ。
「うーんと、そうだねー。何がいいかな」
「何をして遊ぼうかな……お姉さん?」
あれからエリオットは、ブラッドの部屋へ入り浸っているようだ。
アリスがエリオットの所在をたずねると『ボスの部屋にいらっしゃいますよ〜』と返されることが多くなった。
(前よりも頻度が高いよね……前は、八割くらい自室だったのに)
エリオットは『不在のとき、部屋に勝手に入ったら駄目』とアリスが訴えると、素直に聞き入れてくれた。そして律儀に守ってくれる。
だから、エリオットがアリスの部屋で待っている――という事は、あまりない。
よほど会いたい時に待ちきれなくて、と居たことはあったが。
「お姉さんってば」
「あ……ごめん。何?」
腕を引かれて、アリスは我に返った。見あげてくる双子の視線をかち合う。
(ああ、そっか。この子達と遊ぼうとしてたんだっけ)
うっかり気の無い返事をしてしまった。
アリスは微笑んで取り繕ったが、双子はじいっとアリスを見つめてくる。
「ひよこウサギのことで悩んでるの?」
「え」
ディーにずばりと指摘されて、アリスは面食らった。
「な……何で」
自分は感情が顔に出ない方だと思っていたのに、あっさり双子が見切れる程、いかにも「悩んでます」な顔をしていたのだろうか。
(うわあ……は、恥ずかしい)
そんな顔でずっと――ああ。
アリスは頭を抱えたくなった。
「……」
ふう、と双子は揃って息を吐いた。
ディーとダムの溜息に顔をあげると、やはり二人は真っ直ぐな眼差しでアリスを見ていた。
「お姉さん、餌になってみる?」
◆ ◆ ◆
「ちょっと、ダム……ッ」
アリスは今、ダムに手を引かれている。
餌になるか、との唐突な問いにアリスが答える前に、双子は動いていた。
気づけばアリスは、ダムに連行されている現状にある。
彼の引っ張る力は強く、アリスは抗えない。
声で諌めても、ダムの意思は固く、一向にアリスの訴えを聞き入れてはくれない。
「んー、ここにしようかな」
のんびり呟きながら、だが、動きだけは素早い。
ダムは乱暴にドアを開けると、アリスを部屋の中へ放りこんだ。
「きゃっ……!? ねえ、ダム!?」
よろめいて、床に膝をつく。
アリスが慌てて振り向くと、ドアのところに立つダムがニッコリと笑っていた。
「ちょっとここで大人しくしていてね、お姉さん。僕ら、あの馬鹿に喧嘩吹っかけにいってくるから」
「喧嘩!?」
「そう、喧嘩喧嘩―。買うのは本意じゃないから、こっちから売ってあげるんだよ」
ダムの冷えた笑顔が、アリスの不安を掻き立てる。口調と表情とが、全くそぐわない。
そのままダムは外に出て行き――ドアを閉めようとしたので、アリスは焦って声を張り上げた。
「待って、ダム! そんな危ないことは止めなさい!」
強く引き留めると、ダムは手を止めてアリスを見た。どうして止めるの、とでも言いたそうに。
「危ない? 危ないって思う?」
「そうよ! エリオットもそうだけど、貴方たちだって怪我して欲しくない!」
とんでもない子供たちだけれど、この子たちは確かにアリスの友人で、大切な存在だ。
ダムはフッと表情を和らげた。
「……ありがと、お姉さん。大好きだよ」
先ほどよりはゆっくりした動作で、ドアが閉じていく。
「でも、心配しないで」
ダムの声は明るい。アリスが立ち上がりかけた時にはもう、ドアはほとんど閉じられていた。
残された隙間からは、ダムの朗らかな笑顔が見える。
「僕らが勝つから」
ぱたり、とドアは閉じられた。
「そこを心配してるんじゃな〜〜〜いっ!!!」
アリスの心からの叫びが、部屋中に木霊した。
◆ ◆ ◆
ブラッドの部屋を出て、エリオットは大股に廊下を歩く。
(宰相の野郎、何だっつーの)
エリオットには、難しいことはよく分からなかった。
だが、ペーターが何の裏もなしに接触してくるとは思えない。裏も表も真っ黒な奴だ。
何を企んでいるのか、と警戒しているのだが――ブラッドに相談もしたけれど、おそらく今回は無いだろう、と言う。
(ブラッドが言うんだから、そこは間違いねえだろうし……。だったら、何なんだ?)
エリオットは小さく舌打ちした。全く、考えることは苦手だというのに。
(アリスが絡んでることには、違いねえ)
何はなくとも、アリスだけは守らなくては。
(アリス)
無性に今、アリスに会いたいと思った。
彼女に名を呼ばれたい。抱きしめて貰いたい。
(仕事、終わってる筈だよな。行くか)
エリオットの足は、自然とアリスの部屋へ向かっていた。
だが――。
「……?」
ドアを開けようとして、エリオットは首を傾げた。
部屋には、アリスの気配がない。
代わりに居る気配は、エリオットのよく知るものだ。けれど、何故――。
「やあ、ひよこウサギ。何してるの? お姉さんを探してる?」
背後から声をかけられ、エリオットの思考は中断された。
エリオットが振り向くと、双子の片割れがすぐ傍に立っている。
「ああ、探してる。何処かで見たか?」
キィ、とドアが開いた。アリスの部屋から出てきたのは、残った双子の片割れだ。
ディーとダムはくすくすと笑みを零した。
「いないよ、お姉さんは。僕らが隠しちゃったからね」
「そうそう。お姉さんはいないよ。見つからない」
ギラリとした目つきで、双子は挑発的に嗤う。
何時、彼らが飛びかかってきても可笑しくない雰囲気だ。
エリオットはすかさず、銃に手をかけた。
「てめえら……まさか、アリスに何かしたのか」
低い声で問い詰めると、ディーとダムは静かに笑みを消した。
「さあ?」
「どうだろうね? 何かしたら、どうするのさ」
乗ってこいよ、と誘っているのは明らかだった。
罠を張って待ち構えている顔だ。
けれど、エリオットは気にせずに乗っかった。
いつだってアリスの事となると、冷静な判断ができない。
「そんなの決まってるだろ。てめえらをぶっ殺す」
エリオットは銃を突きつけた。
ディーとダムはまだ、斧を構えない。
「ハッ!」
エリオットの威嚇も、双子は鼻で嗤う。
すらりと斧を構えながら、冷ややかな口調のまま、二人はエリオットを睨みつけた。
「君さあ、いっつもお姉さんを悩ませてるだろ。こっちも、そろそろ我慢の限界なんだよね」
「馬鹿ウサギを殺っちゃえば、お姉さんは僕らのものにできるしね」
「そうそう。それに、お姉さんを悲しませる奴は許さないんだ、僕ら」
だから。
ゆらり、と双子は臨戦体勢に入った。二人の全身からは、殺気が迸っている。
(こいつは……)
いつになく、彼らは本気だ。
本気の殺し合いは本意ではないが、アリスの事だ。エリオットにも引いてやれない。
(まあまあ使えるガキだったけど、仕方ねえよな)
エリオットが殺す気満々で引き金を引こうとした、その時だった。
「〜〜〜あんた達、待ちなさいッ!!!」
響くような怒声に、場の空気がサッと霧散する。
三人は同時に声のした方へ振り返り、絶句した。
廊下の向こうから、アリスが大股気味に、のしのしと歩いてくる。
その全身は、明らかに怒っていた。
「わっ!?」
「お姉さんっ!?」
アリスはつかつかと歩み寄ると、ディーとダムの頭をバシリと叩いた。
「アリス! ……って、いてっ!?」
ついでに、とエリオットの腕も力任せに叩く。
彼の頭までは、アリスの手が届かなかった。悔しい。
アリスは唇を引き結んだまま、三人を睨みつけた。
「な、なにを……そうだっ、アリス! 無事か!?」
「無事じゃないわよ! 見てわかんないの!?」
感情が止められない。
怒鳴り返すと、エリオットは一瞬、たじろいだ。
「そ、それもそうだよな……そうだ、怪我は?!」
「あるわよ!」
ドアに体当たりしたせいで、体の節々は痛い。指先だって、すり傷だらけだ。
満身創痍だし、髪は振り乱しているわ、リボンはよれよれだわ――我ながら酷い状態だ。
アリスが言い返すと、エリオットは何故か感心した。
「……た、たくましいな、アリス」
「人間、必死になれば何とかなるものね。……あんた達が撃ちあうんじゃないかって、ずっと心配だったのよ」
はあ、と溜息を吐く。
アリスの懸念通り、彼らはまさに、一触即発な状態だった。アリスが間に入れたのは、奇跡と言っていい。
「お願いだから、喧嘩なんてしないで」
「喧嘩じゃねえよ、殺し合いだ」
「もっと悪いわ!」
もう一度、思いっきり引っぱたく。
そんな悲しい事を、当たり前だろう、とばかりに言わないで欲しい。
アリスはエリオットのマフラーを引っ張った。自然、エリオットの頭が下がる。
戸惑いの色がみえる紫の瞳を、正面から覗きこむ。
「いい? エリオット」
「お、おう」
「よく聞いて。それとも、私の言うことなんて聞けない?」
エリオットは首を振った。
「んなことねえよ、あんたの言うことなら、何だって」
「じゃあ、聞いて。私はブラッドじゃないから、私があなたに命令することはできないとは思うの。だから、ただのお願い」
アリスは『お願い』に過ぎない。けれど――。
(私のことが好きなら、聞いてよ)
言葉に含んだ本音を、エリオットは汲み取ってくれたのだろうか。エリオットの瞳が、落ち着きを取り戻した。
「わかった」
真摯な声で、エリオットは頷く。
「……聞いてくれるの?」
安堵したアリスは、マフラーを掴んでいた手を離した。
「ああ。俺、あんたのこと、好きだからな」
「……エリオット」
アリスは俯いた。優しく笑う、その笑顔を信じたい。
そんな二人の背後では、ディーとダムが顔を見合わせていた。
「……なんだ、心配しなくてもよかったみたいだね。今のうちだよ、兄弟」
「そうだね、兄弟。逃げちゃおう」
雰囲気を崩した双子が、二人の横をすり抜けていく。
「じゃあね、お姉さん。また遊ぼうね」
「まったねー。あ、でも、ひよこウサギは死んでいいからねー」
エリオットの目が吊りあがった。
(見事に遊ばれてるわね)
いや、双子の『遊び方』が上手いのかもしれないけれど。
「あのクソガキ共っ! ……って、どうした? アリス?」
「ん? あ……」
駆けて行く双子を咄嗟に追いかけようとしたエリオットの袖を、無意識に掴んでいた。
(あれ?)
不思議なものを見るような気分で、アリスは自分の指先を見つめた。
自分の手なのに、自分のものではないような気がした。
強い拘束ではないのに、エリオットは動かない。アリスは手を離した。
「ごめんごめん。追いかけていいわよ」
アリスがそう言ったのに、エリオットは押し黙っている。
ややあって、エリオットは頭を振った。
「……いや、いい」
ふ、と短く息を吐いてから、エリオットは微笑んだ。
「あんたと居る。ガキ共なんて、どうでもいいさ」
視界が陰った――と思った時にはもう、アリスはエリオットに抱きしめられていた。
(ここ、廊下……って、まあいいか……エリオットが優しいから)
人目が気になるんだけど、とアリスの胸の内が訴えるが、アリスは無視することに決めた。エリオットと居ると、節度を忘れそうで困る。
アリスの理性を溶かしてくれるのもまた、エリオットだ。
「そうだ」
耳元で、エリオットは囁く。
「あんたに、渡したいものがあるんだ」
エリオットはアリスから体を離すと、ポケットをごそごそ探り始めた。
「落としてねえかな……お、あった」
探り当てた物を、アリスの手に握らせる。
「あのさ……これ、あんたに」
「これ……って」
アリスは手の内にある物を見た。四角い小さな箱だ。綺麗なオレンジ色のリボンがかけられている。
「開けてみろよ」
促されるままに、アリスはリボンに手をかけた。包みを解き、蓋を開ける。
「……わ。綺麗」
精巧にカットされた宝石は、鮮やかなオレンジ色をしていた。
赤みがかったオレンジは透き通って、誇らしげに煌めいている。今までに見た事がない石だった。
けれど――。
見事だ、としか言いようがない。
「すごい……」
アリスが思わず感嘆の声をあげると、エリオットの目が嬉しそうに煌めいた。
よかった、喜んでくれた、と子供のように喜んでいる様が何とも微笑ましい。
「だろ? 気に入ったか?」
「うん。でも、どうして……うわっ!?」
呆けたように頷いた直後、エリオットに力強く抱きしめられる。
「これを用意するのに、ちょっと手間取ってたんだ。……待たせて悪かった」
感情が弾けそうなのを抑えた声だった。耳元がくすぐったい。
「エリオット」
エリオットはアリスの体を離すと、照れたように笑った。
「貸せよ、ほら。俺がはめてやる」
アリスはエリオットに指輪を渡した。
エリオットは恭しくアリスの手を取ると、その指先に――。
鼓動が跳ねる。
(え、なんでドキドキするんだろう)
恋人から指輪を贈られて、更にはつけてもらっている――と、とんでもなく恥ずかしい事態になっている事に、やっとアリスは気がついた。
けれど、すぐに羞恥心は消え失せてしまった。
エリオットの緊張した様子を見てとったアリスは、ドキドキしているのは自分だけではないことを知る。
(わ、重たい……っていうか、私がつけるには不釣り合いだな……この豪華さ)
アリスは自分の指先を見つめて、短く息を吐いた。
何処となく指輪に負けている気がするのは、気のせいではないだろう。
「きれーい……でも、すっごく高そう。私がつけててもいいの、って感じだわね」
精いっぱい背伸びしてるみたい、と感じるのは、まだつけ慣れていないせいだろうか。
エリオットは深く嘆息した。
「あんたって謙虚だな……それ、そんなに高くはないぜ?」
「え」
声をかけられて、アリスは視線をあげた。
はて、どうしてエリオットが苦笑しているのだろう。
「何か言ってた? 私」
「ああ。高そうーとか何とか」
あら、とアリスは思わず口元を抑えた。
エリオットの耳が、へたりと垂れていく。
「嫌い、だったか? こういうの」
「まさか! すごく素敵だと思うわ」
アリスは即座に否定した。
素敵だと、心から思うのだ。ただ、問題は指輪にではなくアリスにあるだけで。
(ビバルディなら、似合いそうだけど)
この指輪には負けない華やかさが、彼女にはある。自分には残念ながら、縁遠いものだけれど。
「そっか……」
エリオットは安堵の息を零すと、急に改まった調子でアリスの手をとった。
指先が熱い。エリオットの頬に、朱がさしていく。
「アリス、俺と……その」
エリオットはぎこちなく切りだした。
「……あ〜〜〜、緊張する……。何でだ?」
小声でぶつくさ呟いた後、しばらくエリオットは煩悶していた。あー、とか、うー、とか呻いている。
(え……あの、まさか、ここで?)
ちょっと待って、とアリスの思考は混乱する。
まだ心の準備ができていないのに。
(ここ、廊下よ……じゃなくって、な、なんて答えたらいいの)
アリスの頬もきっと、桜色をしているだろう。やけに熱い。
動揺しまくりながら、アリスは懸命にも黙っていた。
恥ずかしくて、辺り構わず喚き散らしたいけれど――そんなことは決してしないけれど――黙って、エリオットの言葉を待った。
エリオットは大きく息を吸い込むと、視線をあげてアリスを見た。
「俺とっ、一緒になってくれ……じゃなくって、ください」
ぎゅう、っとエリオットの指先に力がこもる。痛いから離して、などと言える雰囲気ではなかった。
「……あ、の」
頭が真っ白になる。
何て答えようか、どんな風に答えたら可愛らしく見えるか、アリスはずっと考えていたのに、そんな思惑は綺麗に吹き飛んでしまった。
人生、そう上手くいかないものだ。
せめて笑おうとしても、顔が引きつりそうになる。
(……私って、こんなもんよね)
妙な笑いがこみ上げてきそうになり、アリスは深呼吸で誤魔化した。
うまくは、言えない。けれど――。
「アリス?」
不安そうに揺れる彼の目を見ていると、スッと気持ちが落ち着いた。
元来あるべきところへ、すっぽりとはまった感覚がする。
アリスは何とか唇の端を持ち上げると、エリオットの背に腕を回した。
さまざまな感情が混ざり合っては、アリスの胸を打つ。
強い波に流されそうになりながら、アリスはエリオットにしがみついた。
ああ、なんて温かな――。
「待ってたの。ずっと」
アリスの口から、言葉が零れ落ちる。
「ありがとう、エリオット」
ありがとう、愛してくれて。
幸福感に酔いながら、アリスはずっと、エリオットを抱きしめ続けていた。
【Tellus/了】
===== あとがき ===
2010年12月発行『三月兎の名の下に1&2再録本』より。
再録の時に読み返してたら、まとまるかな〜と思って、ゴールインさせてみました。たまには。
ちょっと互いにすれ違ったけど。ペーターとエースがスパイシーな感じで。
読んでくださってありがとうございました。