にんじんと私
アリスはもう、帰らない。
アリスが元の世界へ帰ろうとしていることを知ったエリオットは、しきりに不安がっていた。
常ならばきっちり仕事をこなす男が、仕事もそっちのけで、アリスにくっついて離れないほどに。
そんな彼を見たアリスは、やっと覚悟を決めたのだ。
『もう帰らない。エリオットの傍にいる』
そう口に出したこと、更にその意思は固まった。
あんたがいなきゃ死んでしまうとまで言われて、どうして置き去りにできるだろうか。
エリオットのその告白は、アリスにとって最強だった。
エリオットのいる世界に残ることを決めた。
二度と戻れなくなっても構わない、と心から思える。
流れはとても順調だったのに、最後の最後で、アリスは些細なミスをした。
ついうっかり、だったのだが、エリオットは聞き逃してはくれなかった。
「俺、もうにんじんなんか一切食わねえっ! ウサギっぽくなくなってやる! それで、あんたの愛を証明してもらうからなっ!」
そう一方的に誓われて、数時間帯が経過した。
それで今、ちょっとした困ったことが起きている。
◆ ◆ ◆
「痛ッ!」
アリスが小さく悲鳴をあげると、エリオットは慌てて身を離した。
アリスは目尻に薄っすら涙を滲ませて、エリオットをじろりと睨む。
「……エリオット……」
「わ、悪かった! すまん、アリス」
アリスが残った理由を気にしたエリオットは、にんじんを絶つことを宣言した。そして目下、その誓いを実行中だ。
「にんじん、食べていいのに。食べなさいよ」
にんじん断ちをした兎さんはカロチン不足でイライラしているらしく、その代わりに、アリスをよく噛むようになった。
語弊ではなく、噛まれる。
色気のある意味でなく。
兎の歯は、存外鋭いのだ。
こんなに頻繁にがじがじと噛まれては、アリスの身がもたない。
アリスが溜息混じりに呟くと、エリオットはむっと表情を引き締めた。
「駄―目―だ。絶対、ウサギっぽくなくなってやる」
ふいっと拗ねたように顔を逸らすエリオットを見て、アリスは大きく息を吐いた。
「噛まれる方の身にもなってよ……」
加害者よりも被害者の意見を優先すべきだ。
「う。それは、悪い……と思ってる……本当だぜ!? けど、俺は食わないっ!」
「私が食われるわ!」
それも、色気のある意味でなく、だ。スプラッタは御免こうむりたい。
アリスは、何度目かになる説得を試みようとした。
「いい? エリオット。あなたが兎じゃなくたって」
「俺は兎じゃねえ!」
素早く反論され、アリスは一瞬、気圧されてしまった。
(……兎じゃないの、こいつ)
エリオットは、己が兎ではないと頑なに信じている。ここはひとつ、合わせてあげることにする。
「あー、はいはい。そうだったわよね。エリオットは兎じゃないわ」
「……何か、言い方が雑じゃね?」
「気のせいでしょう」
エリオットの指摘も、アリスはしれっと受け流した。
「エリオットが兎っぽくなくったって、私はエリオットが好きなのよ?」
「……」
エリオットは不貞腐れたように、じとーっとアリスを見つめている。疑り深い兎さんだ。
「嘘だっ! ぜってー嘘!」
「あら、私の愛を疑うの?」
何を口にしているんだ私は、と僅かに残る理性が叫んでいたが、無視しておいた。
自覚してしまったら、それこそ恥ずかしさで死にたくなるだろう。ある意味、賢い防衛策ともいえる。
じいっとアリスが見つめると、エリオットは「うっ」と言葉に詰まった。その頬が僅かに染まっている。
「それは、信じる。けど」
だが、エリオットは頑固だった。
「にんじん断ちは、する」
「……」
強情な兎だ。アリスは心の中で舌打ちした。
アリスは溜息をひとつ吐くと、エリオットの首もとに手を回した。噛みつくようにキスをしてから、唇の端を持ち上げる。
「口さみしくなったら、こうしてよ。噛まれるよりよっぽどいい」
「アリス」
ぽやーっと頬を染めながら、エリオットはアリスを見つめる。
「それは……俺はいいけど、あんたが窒息するぜ」
アリスはぽかんとして、エリオットを見上げた。
「……そこまで?」
「そこまで」
当然だ、とエリオットは断言する。アリスは肩を落とした。
「やっぱり、にんじん食べようよ……」
「い・や・だ!」
エリオットは意思が固く、こうと決めたら頑なにそれを守り通すのだ。
そういう方向修正が全くきかないところなんかは、少し不器用だと思う。
(うーん……)
アリスの失態から発生した事態とはいえ、そろそろ打開せねばならない。
(ブラッドは、この状態をとても喜んでるけどね!)
ブラッドのいきいきとした笑顔を(うっかり)見てしまったアリスとしては――事故に遭遇したような気持ちになってしまったわけだが――この事態を少しでも引き伸ばしてあげればいいのかもしれない。
それが優しさというものかもしれないが、このままでは本当に、いつかアリスはエリオットに食べられてしまう。
「じゃあ、もし私がにんじん料理を作っても、エリオットは食べてくれないの?」
「……!」
エリオットの耳がピン、と直立した。揺れ動いている。
「食べてくれないのね……」
わざとらしく拗ねてみせると、エリオットの瞳に焦りの色が浮かび上がった。
(あ、ちょっと面白いかも)
気分がいい。
こっちは振り回されっぱなしなのだ。少しくらいの反撃は許して貰いたい。
「いいわ。そうなったら、誰か別の人に食べてもらうから」
意地悪く言うと、エリオットは目に見えて焦り始めた。
「だっ……!」
「だ?」
「駄目だ、それは駄目だっ!」
あまりの可愛さに、うっかり噴出しそうになる。
アリスは表情に気をつけながら、努めて冷静に演技を続けた。
「だって、作ったとしてもエリオットは食べてくれないって言うのに。そんなの、もったいないじゃない」
オレンジ色の食事を好む者はこの屋敷にはいないが――むしろ見せた途端に逃げ出すだろうが、ペーター辺りならば、アリスが頼み込めば食べて貰えそうだ。
エリオットは長く葛藤していたが、急にがくりと項垂れた。
「あんたは、もー……」
「何よ?」
アリスはすっとぼけて返した。我ながらいい性格をしていると思う。
エリオットの前では、自然体で居られる。変に気取らなくてもよく、甘えられる。
エリオットは艶めいた表情で、アリスの髪をすくい、指に絡めてきた。
「俺のことも、齧っていいぜ?」
「……」
そんな事を言われると、耳に齧りついてやりたくなるではないか。
アリスは、エリオットに馬乗りになった。
「っ、アリス!? あんた、何を」
「食べられる前に、食べてやるわ」
エリオットは目を瞠った。
アリスがそこまで乗ってくるとは思わなかったのか、その頬には朱が差している。
「アリス、ここ庭だぜ!?」
「何処だっていい」
ただし、人目が無いところ限定の話だが。
人目のあるところで公然といちゃつける程の度胸は、まだない。
(ああいうのってどうなんだろう……あなたしか見えない、とか?)
鳥肌が立つ。恐らく、これからも芽生えないだろう。アリスは安心した。
エリオットも悪乗りしたのか、表情が変わった。ニヤリと口元を緩めた。
「それなら、俺も。にんじん料理が食べたくなったら、あんたのこと、食うことにする」
くるりと上手く誘導され、体勢が逆転する。
「……ずっとじゃないの、それって」
「かもな。でも、あんたのせいだ。つきあってくれよ」
ゆっくりと髪を梳かれながら、耳元で囁かれる。
エリオットは一見、大雑把そうだが、アリスのことだけは乱雑に扱ったことがない。
肌に触れるエリオットの指先は、まるで大切な宝物を包み込むかのように、いつも慎重だ。
だからアリスは安心して、無条件に体を預けられる。
どんな風に扱ってくれても構わないのに、とこの身をまるごと投げ出したくなる。
(でも、可愛い方がいいなあ)
時折見せるマフィアっぽさよりも、包んでくれる優しさを、アリスは愛しいと思っている。
(けど、慣れなくちゃいけないか)
自分は、マフィアの恋人なのだから。
途中、肩口をがぶりとやられたが、アリスは愛の力で耐え抜いた。
◆ ◆ ◆
「お嬢さん、どうした。浮かない顔だな」
「……ブラッド」
ブラッドは、アリスの首筋や指に巻かれた絆創膏に目を留めると、少し驚いたような表情をしてみせた。
「その傷は、どうした? どこで怪我をしたんだ」
わざとに聞いているのか、本心なのか判らない。
声音に少し心配そうな色が含まれていたから、これは恐らく後者だろう。
ブラッドが素直に心配してくれるなんて珍しいこともあるものだ、と思いながら、アリスは軽く溜息を吐いた。
「エリオットよ、エリオット」
「?」
「エリオットに噛まれたの。齧られたの」
むすっとして答えると、ブラッドは何度か目を瞬かせた。
「……そうか。あいつも、加減を知らない奴だな……女性はもう少し優しく扱わねば」
その笑みがニヤニヤと形容するものになってきたので、アリスは眉間に皺を寄せた。
「……にんじん断ちの、禁断症状が出てるのよ。今に私、噛み殺されるわ」
アリスが憮然として呟くと、ブラッドはさも可笑しそうにクスクスと笑った。
「本望だろう? 私の平穏の為に頑張ってくれ」
本望だと?
(兎に噛み殺されるのが?)
それは嫌だ。
だが、ブラッドは助けてはくれないだろう。
この状態を歓迎こそすれ、終わらせようという気はない筈だ。
ブラッドが頼れない今、アリスは何とかして打開策を考えなければならなかった。
◆ ◆ ◆
「はい、エリオット」
アリスは無造作に箱を手渡した。
大きな箱は可愛くラッピングされていて、明らかにプレゼントといった様相をしていた。
「アリス、これ」
エリオットは、まじまじと手渡された箱を見つめている。
アリスが視線で開けるよう促すと、エリオットはそろそろと、リボンをほどいていく。
箱の中身を見て、エリオットは目を瞠った。
「この間の休みにね、エリオットの為に作ったの。食べてくれる?」
できるだけ可愛く聞こえるように言うと、エリオットの表情はパッと明るくなった。
「あんたが、俺のために……い、いや、俺は我慢するっ!」
開けた瞬間は確かに、エリオットはきらきらと目を輝かせたのだ。
だが、エリオットは強引に箱から目を逸らしてしまった。
アリスは甘い言葉で、その頑固さを崩しにかかる。
「我慢しなくていいのよ。そりゃ、あんまり美味しくないかもしれないけど」
レシピ通りには作ったけれど、プロとは違う。
多種多様なにんじんケーキを食べ慣れているエリオットには、アリス作では若干物足りないかもしれない。
「そんなことはねえっ!」
「なら、食べてよ」
アリスは固まるエリオットから箱を奪い取り、中身を取り出した。オレンジ色の物体を机に乗せ、綺麗に切り分ける。
エリオットが好きな、にんじんのケーキ。
以前、エリオットが一番だと言っていた店に赴き、わざわざ作り方を教えて貰って作ってきたのだ。
我ながら上手く出来たと思うのに、食べて貰わねば困る。
ケーキを皿に移して差し出すと、エリオットは目に見えて狼狽した。
(揺らいでる揺らいでる……)
かなり葛藤しているらしいが、ぜひとも負けて貰わねば。
アリスはちょっぴり悲しそうな表情を作って、小さく呟いた。
「嫌だった?」
エリオットは勢いよく首を横に振った。
「い、いや、違うっ! 食べたい、けど」
「よかった。はい」
アリスはすかさず、笑顔を作ると、エリオットにケーキを突きつけた。
すると、ようやくエリオットは諦めたようだった。
エリオットは渋々受け取ると、アリスとケーキを交互に見比べる。
「……あんたやっぱり、ウサギっぽいのが好きなんだろ」
エリオットはぶすっと呟く。アリスは即座に否定した。
「違うわよ。美味しそうに食べるエリオットが好きなの」
「ウサギっぽいからだろ!?」
「ううん、エリオットが好きなの」
頑固な兎に聞き入れてもらうには、何度でも繰り返して言わなければならなかった。
自分の分を薄く切り、皿に取る。
エリオットの隣に座ると、彼のためにお茶を淹れながら、アリスはエリオットに話しかけた。
「一緒に食べましょう」
エリオットはまだ、ケーキを凝視したまま迷っている。
(案外、粘るわねー)
なんて意思の固い。
アリスは呆れたように息を吐いた。
アリスが先に一口食べたのを見て観念したのか、エリオットはようやくフォークを手に取った。
「美味しい、かな? エリオットが前に連れていってくれたお店でね、教えて貰ったの」
「……美味い……」
一口めを皮切りに、止まらなくなったのか、エリオットはそのままぺろりと平らげた。
長いこと禁じていた分、その反動は大きかったらしい。
「美味かったぜ。すっげえ美味かった」
にかーっと笑う彼は、とても生気に満ち溢れていた。
アリスもにこにこっと笑い返しながら、幸福感に浸る。
(可愛いなあ)
曇りの無いエリオットの笑顔を、久しぶりに見ることができた。
可愛いと言うのは心の中だけに留めておくことにしよう、とアリスは改めて心に誓う。
(可愛いって言われるの、微妙らしいから)
こんなに可愛い人なのに。
けれど、まあ――兎耳を抜きにしてみれば、確かに――いや、それでもアリスにとっては可愛い。
(これで、にんじん断ちもおしまい)
よかった、とアリスは微笑む。
ブラッドが再びオレンジ色の食卓に悩まされることになるだろうが、そんなことは些細なことだ。
(こんなに可愛いんだもの。ちょっとくらい我慢したらいいのよ)
いつも、好き放題しているのだから。
自力で事態を打破しただけだ。アリスは悪くない。
「エリオットは美味しいって言って食べてくれるから、私も嬉しいわ」
念押ししておこう、とアリスはもう一度繰り返した。
「だから私、エリオットには我慢して欲しくないの」
と、言ったところで――アリスの視界が唐突に変わった。
「……って、え?」
ふわり、とエリオットの巻き毛が頬に当たり、アリスは目を瞬かせた。
押し倒されている、と気づくのに、少し時間がかかった。
「我慢、しなくていいんだろ?」
「え、ええ?」
「だから、我慢しない。あんたのことも」
ニヤリ、と微笑むエリオットは、確かに悪党のそれだった。
【にんじんと私/了】
===== あとがき ===
2008年12月発行『三月兎の名の下に2』より。
我慢するエリオット(ちょっとだけ)。
読んでくださってありがとうございました。