白の祈り・青の願い









エリオットは自室に戻っていた。
仕事は順調すぎるぐらい順調ではあったが、疲労は溜まる。今は、実に何十時間帯ぶりかの休暇だった。

実際、それほど疲れやすいわけではない。
体力が無尽蔵であるかに見えるエリオットにも、じわじわと疲労はのしかかってくる。

自室についた途端、溜まった疲労は激しい睡魔となり、エリオットを襲った。
凝り固まった肩をほぐすように、何度か腕を回す。
首の骨をごきごきと鳴らしつつ、エリオットは欠伸を噛み殺した。

眠くてたまらない。
このまま着替えずに眠ってしまいたいが、熟睡したい今は、この格好では色々と邪魔だ。

コートを脱いでかけようとすると、ポケットからパサリと何かが落ちた。
エリオットは緩慢な動作で屈むと、落ちた物を拾い上げた。


「ん」


眠気で鈍くなった頭のまま、ぼうっと手の中にあるそれを見つめる。認識するのに、しばらく時間がかかった。


「……ああ、これか」


アリスがくれたハンカチだ。
最初にアリスにと出会った時、ブラッドに小突かれ、吐血した時にアリスが差し出してくれた、白いハンカチ。

あの後、エリオットはちゃんと新しいものを買って返した。
血の染みは難なく取れたものの、きっとアリスの気分はよくないだろうから。
そうして、汚れてしまった方は、エリオットが所持したままになっていた。


「……アリス」


口元が緩むのが、自分でもわかった。

そうだ、一眠りしたら、アリスのもとへ行こう。

エリオットはハンカチにそっと口を寄せた。
綺麗にアイロンがかけられたハンカチは、乾いた糊のいい匂いがした。張り詰めていた気が、みるみる霧散していく。

ベッドに倒れこみ、ハンカチを広げてみる。
透き通るような白が、エリオットの胸に小さな波紋を起こす。

あの日のことを、昨日のことのように鮮明に思い出せる。刻まれた記憶は、どこか甘さを伴っていた。


「アリス」


優しい子だ。とても。

軽傷だというのに、アリスは本気で自分のことを心配してくれた。自分みたいな者を。

アリスは素直――とは言い難い。
けれど、ねじ曲がってもいない。
少し捻くれていて、それでいて、変な風に真っ直ぐなのだ。

そんなアリスが可愛くてたまらなくなったのは、いつからだったのだろうか。

冷静でいられる間もなく、エリオットは一直線にアリスに落ちた。

白いハンカチはエリオットの宝物になった。アリスもしかり。
半ば強引に誘導した今、アリスとエリオットは恋人同士である。

大事なものを、再びこの手に掴めたことが、何よりも嬉しかった。

しかもそれがアリスだったことが、なおさら嬉しかった。

エリオットには、もう何もなかったのだ。
ブラッドとの約束以外には、もう何も。

大事なものができること。
それは必ずしも良いことではない。
特に、エリオットのような職種の者にとっては。大事なものは、弱点にも繋がる。

けれど、それが何だというのだろう。

エリオットは口元を歪めた。

手に入れたいと思ったから、手に入れた。ただそれだけだ。
大事なものが増えたなら、自分が守ればいい。誇張ではなく、自分には守る力がある。

そして、たとえアリスが原因で己が死ぬことになったとしても、きっと後悔はしない。そう断言できる。


(いや、するかな……後悔は)


アリスを置いて逝ってしまうことだけが、心残りとなるだろう。

エリオットの時計は壊される。二度と巡りあうことはできない。

エリオットに、穏やかな死など訪れない。
それだけのことをしてきたし、これからもする。
エリオットは自分のやってきた事を後悔したことはないし、これからもしない。

けれど、彼女を泣かせる。

それだけが、ただ悔しい。
エリオットが死ねば、泣き暮らすと彼女は言ってくれた。嘘ではないだろう。

だったら、いっそのこと。


(帰す、か?)


エリオットは、ふと考えて、すぐさま打ち消した。

渇望して、やっと手に入れたばかりのアリスは、元の世界へ帰ると言い張っている。
エリオットの焦燥感は募るばかりだ。まったく、ちっとも安心できやしない。

泣かせるくらいなら、帰してやってもいい。
そう思ったことがない――とは言わないが、その選択は否だ。

夢に出てきたナイトメアに、詳細を聞いた。
元の世界では、アリスは幸せになれないと彼は断言していた。

だから、エリオットの意思はより固くなった。
迷うアリスを見て焦れったいと思いながらも、ギリギリのところまでは待ってあげている。


(まだ、待てる……待てると思う)


アリスが顔を背けて、自分から逃げ出したりしないから、優しくできるのだ。
アリスの想像よりも、エリオットはもっと切羽詰っている。

優しくできる余裕が、実はない。
本当は無理にでも――暴力的な手段を使ってでも、アリスを繋ぎとめたいと思っている。
そう言うと、アリスはどんな顔をするだろう。

傷つけたいわけではないから、言いはしないけれど。

もっと迷い、悩んでもいい。
けれど、出す答えは自分を、とエリオットは願う。

けれど、アリスが迷った挙句エリオットを選んだとして、その自分が居なくなれば、アリスはどうなるのだろう。


(とりあえず……絶対、泣かせちまうよな……)


それも嬉し、と考える自分がいるから、恋心とは厄介だ。

自分は、アリスに酷いことを強いているのかもしれない。
けれど、泣かれてもいいから、アリスにはこの世界に居て欲しい。
他の誰か……ブラッドもいるし、彼女はきっと幸せになるだろう。

寂しいけれど、とエリオットは思う。

ハンカチは、エリオットの抑止力になった。
さすがに危険な現場へアリスを連れていくわけにはいかないから、身代わりのようなものだ。


(何か……あったかいんだ。これ、持ってると。不思議だけど)


アリスのことを、片時も忘れないように。
面倒ごとなど放り出して、いつもしているように力ずくで解決したいと思う。

今までは、ただ撃てばよかったのだ。
今は、エリオットが万が一怪我をしたら、アリスが怒る――落ち込むだろうと思い、少しは我慢できる。
実際、エリオットは撃つのだけれど。

アリスの為に。
アリスが泣かないように、自分は驚くほど慎重になった。


「俺、すごくね?」


アリスと居ると、エリオットは変わることさえもできるのだ。それは、自分でも驚いた。

この世界の住人は、己を変える事が出来ない。
可能かもしれないけれど、万に一の可能性、といったレベルで、だ。

それが、アリス一人のおかげで、易くなる。

変わる事ができるというのは、何て――。


(変な気分だな)


心地よいのか悪いのか、エリオットにはよく分からない。

ただ、自分の為に、アリスを好きになったわけではなくて――。

エリオットはハンカチに視線を落とした。

アリス。
余所者でなくても、きっとエリオットは好きになっていた。

というか、アリスが余所者だとかは、エリオットにはどうでもよかった。


(アリス)


白のハンカチは、少女を連想させる。
エリオットはいつも、白のハンカチを持ち歩いている。
知り合ったばかりの過去も、恋人となった今も、これからもずっと。


「俺が守る」


誰にいうともなしに、エリオットは呟く。

元の世界がアリスを傷つけるのならば、帰さない。
結果、たとえアリスに憎まれることになっても、絶対に。

汚れ役はもう慣れているし、その役目を他に譲るつもりはない。

ただ、少し寂しいだけだ。

アリスが笑ってくれなくなるのは、きっと、寂しい。

けれど、耐えられる。
この世界に居てくれるなら、きっと。


(あいつのこと、とやかく言えねえなー……)


今なら、あの忌々しい白兎のことが、少しだけ理解できる。
ペーター=ホワイト。アリスを連れてきた張本人。アリスの幸せだけを望む、愚かな兎。
大嫌いなのは変わらないけれど、アリスに関しては、感謝してやってもいいとさえ思えるようになった。
ペーター=ホワイトが強硬手段を取らなければ、エリオットはアリスと出会えなかったのだから。


「……」


考えれば考えるほど、奇妙な縁だ。
アリスと出会う前、自分がどんな風に時を過ごしていたのか、もう思い出せない。わからない。
こんな強い乾きにも気づかず過ごせていたことが、俄かには信じられない心地だ。


「アリス」


アリスが笑っていられるように、エリオットは柄にもなく祈る。
たとえ、その笑顔を奪うのは自分かもしれなくても。


(俺が繋いでやる)


ペーター=ホワイトの望みは、エリオットの望みでもある。
そして、それは自分の適任だと思った。

遠慮がちなノックの音が、エリオットの思考を中断した。ドアが開かれる。


「エリオット」
「アリス」


エリオットは上半身を起こした。
けれど、眠たさには勝てない。声に眠気が混じっているのをみて、アリスは微笑んだ。


「お帰りなさい。眠いの?」
「ああ……ちょっと、眠い。でも、せっかくあんたが来てるんだから、起きる」


言いながらベッドからおりようとしたが、アリスにやんわりと止められた。


「そんなの、気にしないで。寝ていいわ」


砂糖菓子みたいな甘い言葉が、エリオットの胸にしみこんでいく。


「でも、せっかくあんたが」
「そう言ってくれるのも嬉しいけど、エリオットが元気な方が嬉しいのよ? 私」


エリオットは少し迷った後、アリスの言葉に甘えることに決めた。


「ん……じゃあ、ちょっとだけ……次の時間帯がきたら、起こしてくれ」
「うん」


アリスは頷くと、ベッドの淵に腰を下ろした。

細い指先が本の表紙をめくる。
本を開くアリスと共に居て、エリオットは色々と考えることが多くなった。

特に、ブラッドとの約束のことを。
そして、残されるアリスのことも。

代わりが現れて、彼女を幸せにできるなら、とも考えたことがある。

けれど、それは絶対に嫌だと思った。
自分だけが彼女を幸せにできるのだ、と自惚れていたい。

他の役持ちに譲るなんて、それも絶対に嫌だ。
それがたとえブラッドでも嫌だと思うのだから、重症だろう。

自分はアリスに狂っている。

煮詰まったエリオットは、ブラッドにも相談したことがある。


『ああ、わかっている。お嬢さんに死ぬほど憎まれることになろうが、お前との約束は守ってやる』


ブラッドがそう言ってくれたので、エリオットの気は多少、落ち着いた。

きっと、ブラッドへの憎しみを糧に、アリスは生きてくれるだろう。

でも、それでは幸せになれない。

幸せになって欲しい。

でも、忘れて欲しくはない。

矛盾した想いが、エリオットを混乱させる。
今まで感じたことのない感情に、エリオットは戸惑うばかりだ。

エリオットは閉じていた目をわすかに開いた。
アリスは安心しきった顔で本の世界に没頭している。

こんなに近くに居ても警戒心の全くないアリスを見て、エリオットは口元をわずかに緩めた。

こんな男からは逃げて欲しいのだけれど、もう逃がしたくはない。

眠気まじりの思考は、色々と好き勝手に飛び交う。
ああでも、アリスは共に死んでくれるだろうか?


(一緒に逝くか?)


それは――悲しいことに違いないが、たぶん、不謹慎な自分は嬉しいと思ってしまうのだろう。
眠っている内に撃ってしまえば、恐怖を感じないまま、殺す事は易い。

相手を引きずり落とすような愛ではないことを願っているが、実際問題、そうなってみないと、どうなるかわからない。

時計が壊れる前に、アリスを撃てるだろうか。


(撃つのか、俺が)


アリスを、一緒に連れて逝ってやりたいと思っているのか。
そうすれば、アリスは悲しまなくて済む。だが――。


(俺の手で)


殺せるのか。
誰かの手にかかるなら、いっそのこと自分に殺されて欲しい、が。


(わかんねーなー……)


どうするのかが、自分でもわからない。

少しの期待と不安を胸に、エリオットはアリスを守り続ける。
今はまだ、それだけを考えていればいい。汚れた面などアリスは知らなくていい。


(アリスだけは、守ってやる。そうだ、最期まで……時計になって壊れても、ずっと)


真っ白なハンカチはもう、汚さないように。
そう最後に考えて、エリオットは今度こそ、眠りの淵へと落ちていった。



+ + + + + +



エリオットが静かに寝息をたてるのを聞き、アリスは本を閉じた。


(やっと眠ったわね)


ついさっきまで、背後から彼の視線を感じていた。
何を考えていたのか、あんまり知りたくないなと感じさせる類の視線を。

体勢を変え、エリオットの寝姿を見つめる。


(ふふ、可愛い)


ずっと、自分は現実主義者なのだと思っていた。

フリルのついた服も、より幼く見える青いリボンも、自分の好みではない。似合うとも思ったことはない。
ただ、周りの――姉や父の目にあわせていただけ。

そんな自分が、まさかウサギに恋するなんて、夢にも思わなかった。

しかも、その相手はマフィアだ。
そんな危険な職業の人とは、お近づきになろうと思ったことなど皆無だったのに。

本当に、人生は何があるかわからない。

アリスは眠りこける男に目を向けた。
こうして無防備な寝姿を晒していると、より一層可愛く見える。
いかついと評していい外見のくせに、何故こうも可愛いのか。

夢の中で恋した相手が、よりによってウサギ。
人のようでもあるが、それでもウサギはウサギだ。

しかも夢の中で、アリスはこのウサギに本気で恋している。


(なんて不毛なの……)


目を覚ませば、全てが沫と消えてしまう。
残るのは胸の痛みだけ。それも、すぐに忘れていくのだろう。

これは夢だ。
ただの、アリスの妄想。
好きになったからといって、何だというのだ。馬鹿馬鹿しい。

けれど、恋せずにはいられなかった。

エリオットに、むきだしの好意をぶつけられ戸惑った日々。
あれこれと世話をしてくれる彼に、アリスは遠慮なく甘えた。

取り繕わなくていいと思っていたから、甘えても楽だった。
甘えすぎて、恋人にまでなってしまった。

二度目の恋の相手は、一度目の人とは似ても似つかない人だった。
対極と言っても過言ではないかもしれない。

けれど、今の方が幸せだと感じるのは、エリオットがちゃんと『アリス』を好きでいてくれるからだろう。
一方的な恋ではないことが、アリスを満たしてくれる。
余所者という意味ではなく、エリオット自身がアリスを特別だと想ってくれる。

余所者でなくても好きだ、とエリオットは言ってくれた。

その言葉が、どんなにアリスの心に響いたか、彼は知らないだろう。あの心地よさは忘れられない。


(ずるいなあ)


エリオットは、アリスの欲しい言葉をくれる。
だから尚更、彼から離れられなくなる。

エリオットはいつだってアリスを守ってくれた。
いや、過去形にしてはいけない。これからもずっと、守ってくれるだろう。

アリスは、思いきってエリオットの頭上に手を伸ばした。
オレンジがかった金色の巻き毛に触れる。ふわふわした髪の感触を楽しんだ後、彼の耳へと更に指を伸ばした。

温かい、とアリスの口元は緩む。
ゆっくりと手を滑らせていると、エリオットはくすぐったそうに身をよじった。


(起きちゃうかな?)


アリスは手を引っ込めると、今度はエリオットの顔をまじまじと見つめることにした。
手触りはやけにリアルで、こんな時、アリスは願わずにはいられない。


(これが、夢じゃなければいいのに)


そう思う一方で、なんて馬鹿げた考えだと苦笑する。
現実世界にこんな人っぽいウサギなど、居やしない。いるとすれば、妄想の中でだけ。


(そう……いないわ、こんな人)


アリスを好きだ好きだと連呼する、ちょっと短気だが強引で、頑固でまっすぐで、子供のようで大人な人。

そして、アリスにとって、とても可愛い人だ。
何度も体を重ねたが、エリオットは変わらない。変わらずに、アリスに笑いかける。

そんな人には、もう一生かかっても巡り合えないだろう。

エリオットにはもう、会えなくなる。
そう考えただけで、胸が苦しくなる。


(エリオットも、苦しい?)


キリッと痛む胸をおさえながら、アリスは目を伏せた。

選ぶことは罪なのだろうか。
選んでもいいのだろうか。

そんな資格が、まだ自分にはあるとでも?


(姉さん)


ロリーナとエリオットを天秤にかけることすら、アリスはためらう。

誰よりも幸せになって欲しかった人と、誰よりも幸せにしたい人。

うだうだと迷っているうちに、両方を失ってしまうかもしれない。
それは嫌だと思えるのだけれど、かといって選択できずにいる。


(夢じゃないのなら)


エリオット。

夢の中の人。
アリスの愛した人。


「エリオット?」


眠るエリオットに、控えめに声をかける。


(夢じゃないのなら、返事をして)


薄暗かった部屋が、オレンジ色に染まっていく。
ちょうどいいタイミングで、時間帯が変わってくれた。

もぞもぞと身動きしながら、エリオットは薄く目を開けた。


「ん……アリス? どうした」


だから、アリスは誤魔化すことができる。


「時間帯が変わったの。起きられる?」
「ああ……もう、変わったのか」


眠そうな声のまま、エリオットはむっくりと起き上がった。

つかの間の休息だった。
疲れがとれているといいのだけれど、と思いながら、アリスは本を置いた。

不安そうな素振りを隠し、アリスはエリオットを見上げた。
その頭にしっかり寝癖がついているのを見て、口元が自然に緩む。


「エリオットは、これからまた仕事が?」
「ああ……悪い。でも、すぐ終わらせてくる。ここで待っていてくれるか?」


すまなさそうに言うエリオットの頭を撫でてやりながら、アリスは視線を和らげた。


「うん、待ってる」


エリオットはホッとしたように微笑む。
慌しく出て行く彼の後姿を見送ってやりながら、アリスは静かに息を吐いた。


「待ってるわ、エリオット」


ずっと待っている。
ああ、届けばいいのに。この胸に咲く、密やかな青の祈りを。





【白の祈り・青の願い/了】







===== あとがき ===

2008年12月発行『三月兎の名の下に2』より。

時期的には、『三月兎の名の下に』の続きくらい。
『2』は、これだけでも読めるように短編形式にしました。読んでくださってありがとうございました。