生命の糸はぷっつりと断たれた。しかも、強制的に。
体が、糸が切れたようにぐらりと傾いて、うつ伏せに倒れこむ。
体中から溢れ出る血液が髪や衣服をべっとりと濡らしていったが、男はもう微動だにしなかった。
エリオットは冷めた目つきで、それを眺めていた。
絶命したことを確認すると、近くに佇む顔なしを睨みつける。
視線を向けられた男性は、びくりと体を震わせたが、逃げ出すことはできなかった。
逃げ出そうにも、体が硬直しきって動けないのだ。声すら満足に出すことができない。
それは、先刻、アリスのことを好奇の目で見ていた男だった。
エリオットは憎々しそうに、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
『帽子屋のところの情婦か?』
『それにしては、平凡な』
『マフィアの女にしちゃ、不釣合いだよな』
ひょっとしたら、その下卑た笑い声は、アリスにも聞こえていたかもしれない。
アリスの表情は、確かに暗くなったのだ。
僅かなことではあったが、エリオットはその変化を見落とさなかった。
『じゃあ、あの子を人質にしたら、帽子屋に対抗できるんじゃないか?』
この世には、冗談で言っていいことと悪いことがある。
彼らが口にしたことは後者だ。更に、エリオットが近くに居たことが、彼らの不幸だった。
そう考えると、案外、彼らは図太かったのかもしれない。
いくらアリスを連れているからといって、エリオットが見逃すとでも思ったのか。
もっとも、何処で陰口を叩こうが、エリオットのもとへ情報が上がってくるのだが。
だから、遅かれ早かれ、彼らは死んでいた。
少しだけ時期が早まっただけだ。だから、何も問題はない。
アリスを脅かす可能性のあるものは、全て許さない。貶めるものとて、同じことだ。
「おら、さっさと死ねよ」
エリオットは手荒く、相手の頭に銃口を押し付ける。ゴリッと力を込めると、男は情けない声で小さく呻いた。
今しがたエリオットが撃ち殺した男とは別に、すでに広場には、数体の遺体が無造作に転がっていた。
そのどれもが、ひとつの弾丸では死ぬことが許されなかった。
最初に撃たれた男などは、今やただの細かい肉片と化している。
ブラッドのマシンガンを喰らえば大抵はこうなるのだが、エリオットがこれ程までに執拗に撃つのは珍しいことだった。
そうして人々は、彼の逆鱗に触れたことを思い知る。
時計だけが、無傷で血だまりの中に残っている。その光景は、一種異様だった。
エリオットは威嚇も兼ねて、近くに転がる頭部にもう一発撃ちこんだ。骨が砕け、弾けるように中身が散らばる。
エリオットは汚らしいものを見下す目つきで、不幸にも場に居合わせた顔なしどもを一瞥すると、口元を歪めた。
広場は、重苦しいほどの恐怖に支配されていた。支配者はエリオットだ。誰も逆らうことが出来ない。
「撃つぜ」
わざと宣告して、恐怖を煽る。
エリオットは徐に銃口を傾けると、まずは右足を撃ち抜いた。
痛みに顔を歪めて縮こまる男性の様子を、エリオットは無表情で眺める。
怒りに任せて頭部を撃っても良かったのだが、それだけでは気が治まりそうにない。
アリスを。
よくも、アリスを貶めるような真似を。
お前らとは全く違う、触れることすら憚られる、手の届かない存在なのに、よくもそんな下衆なことが言える。
ああ、ブラッドの言った通りだった。
無知は罪だ、と、いつか彼は言った。確かにこれは、罪になるに値する。
一度激昂したエリオットは、手がつけられない。
エリオットは、苛立ちを隠そうともせず、男の腹を無遠慮に蹴り上げた。エリオットの衣服にも、相手の返り血がべったりと付着する。
エリオットはそれを見て、忌々しそうに眉をひそめた。
屋敷に戻った後、まずは風呂に入らなければならない。こう見えて、エリオットは綺麗好きなのだ。
「身の程をわきまえろよ。なあ?」
氷の嘲笑と、刃物のように鋭利な声。
男性は確かな死の恐怖に、その身を竦ませた。
「エリオット!」
悲鳴のような叫び声が、瞬時にエリオットを正気に引きずり戻した。いや、更なる狂気に引きずり込んだのかもしれない。
その場に吹き溜まっていた空気が、やっと流れ始めた。
「え。ア、アリス!?」
予想外の出来事に戸惑いながら、エリオットは声のした方へ振り向いた。アリスの必死の形相に気圧される。
アリスは目の前に広がる惨状を見て、怯えた表情を見せた。
怯んだのか、踏み出すことに躊躇している。
けれど、それも僅かな時間のことで、アリスは意を決したようにエリオットへ向かってくる。
しっかりとした足取りで、真っ直ぐに。
咄嗟に、来るなと制すこともできなかった。
今のエリオットには、周囲のことなど、もう目に入っていなかった。
世界には、アリスと自分の二人だけ。
そんな静かな錯覚を起こす。
ただ馬鹿みたいに、その場に突っ立っていることしかできなかった。
「大丈夫なの!?」
アリスの必死な声に、エリオットは我に返った。エリオットの視野が、再び元に戻る。
アリスの背後には、付き添いに行かせたはずの部下達の姿があった。
彼らは申し訳なさそうにエリオットに頭を垂れると、さっと辺りに散開した。
「あ、ああ……じゃなくて、なんで戻って来たんだ!」
「だって、銃声が聞こえたから」
だから危険も顧みず、戻ってきたというのか。
信じられない思いで、エリオットはアリスを見た。
アリスはこんなに細くて脆くて、しかも丸腰なのに、自分の身を案じてくれた。第一に考えてくれた。
そう理解するのに、少し手間取った。
エリオットの気持ちが、ゆるやかに和らぎそうになる。
その時、エリオットの視界の隅に、一人の顔なしの姿がうつった。
アリスがこの場に乱入した隙をついて、これ幸いとコソコソ逃げ出そうとしている。
それを見逃してやれる程、エリオットは寛大ではない。
エリオットは舌打ちすると、ぐいっとアリスを引き寄せた。そのまま覆い隠すようにして、腕の中にがっちり閉じ込める。
「アリス、目を閉じろ。耳も塞げ」
「え」
アリスは反射的に耳に手をやると、ぎゅっと目を瞑った。
エリオットは小さく頷く。
「よし。ちょっとだけ、我慢しててくれな」
小さくはない衝撃が、アリスの体にも伝わってくる。
目を閉じているせいで、何が起こっているのか、アリスには見えない。けれど、想像は容易につく。
エリオットが誰かを撃っているのだ。
そう理解するのに、時間はかからなかった。
しっかりと塞いでいるというのに、銃撃音は容赦なく頭に響く。
止めて欲しい――と思った。
撃たないで、誰も殺さないで、と切に願った。
けれど、怖くて、耳を押さえている手を離すことができない。
アリスは悲鳴をあげないようにするだけで精一杯だった。
「お前ら、行け! そっちに二人だ!」
エリオットの怒声が飛ぶ。
エリオットはアリスを守るように抱きしめているので、自身は動きづらいのだ。
声に応えるように、部下の一人が颯爽と暗い路地へ追いかけていく。
部下達へ素早く指示を出しながら、エリオットも、銃を撃つ手は休めない。
この場に居た生ける者全てを消し去った後で、ようやくエリオットは一息ついた。
死屍累々。
そんな言葉がしっくりくる程、酷い有様だった。
らしくなかった、とエリオットは思う。
これでは、普段の部下たちの行いをどうこう言えない。
肉片や臓物は、周囲の地面や建物の壁へと盛大に飛び散り、へばりついている。足元は何処も黒々しい血でたっぷりと濡れている。
地獄がもしあるとすれば、こんな所かもしれない。
視覚や聴覚は庇えても、嗅覚だけは隠せない。
むせかえるような血の匂いに、アリスの顔色はいよいよ青くなっていた。青というよりも白に近い。
エリオットは、そっとアリスの髪を撫でた。アリスの耳元へ口を寄せる。
「アリス、そのままだ。もう耳はいいけど、目は開けるなよ」
アリスが小さく頷いたのを確認すると、エリオットはアリスの肩を抱き寄せた。
そのまま路地へとゆっくり誘導する。
流石に、この凄惨な場景を、アリスに見せるわけにはいかなかった。
気丈に振舞っているが、アリスはもう限界に近い。
とどめにこの惨状を目の当たりにすれば、きっと倒れてしまうだろう。
失敗した、とエリオットは唇を噛んだ。
極度に緊張しているせいなのか、アリスの体はひどく強張っていた。
その小さな背中をそろそろと撫でてやりながら、エリオットは部下達へ視線を送った。
物分りのいい彼らは頷くと、素早く場を片付けにかかった。
屋敷に戻るには、ここを通らなければならない。
アリスが見ても、ショックが幾分マシになるよう、見苦しくない程度に片付けておかなければ。
こんな時、ネズミが居ればな、としみじみ思う。
彼のいる地と別たれて久しいが、彼は確かに便利だった。
べったりと懐かれていたので、そういう意味では少し苦手な相手だったが、けして嫌いではなかった。
性格の一部に問題があっただけで、素直で有能ではあったのだ。
完全に見えなくなる位置まで来ると、エリオットは足を止めた。優しくアリスの手に触れる。
「アリス。もう、目を開けていいぜ」
アリスは恐る恐る目を開いた。顔色はまだ悪い。
おずおずと視線を上げて、エリオットを見上げる。
心配そうにアリスを覗き込む紫色の双眸が、そこにはあった。
体中の力が抜けてへたりこむ前に、アリスはエリオットにしがみついた。
体も言葉も震える。
我ながら情けないなと思うが、虚勢をはることすら、今は不可能だった。
「エ、リオット」
ぎゅっと抱きしめてやりながら、エリオットは沈痛な面持ちで呟いた。
「大丈夫か? ごめんな、あんたに怖い思いさせた」
エリオットの変わらぬ優しさに、目眩がした。
優しい優しい兎さん。
どちらの顔が真実なのか、わからなくなる。
アリスは、怖々とエリオットの頬に触れた。
いつのまにか、指先が冷え切っていた。
「エリオット、怪我は? 怪我してない?」
「ああ、大丈夫だ。怪我なんてしてねえよ。けど、少しここで休もうぜ。あんたの顔色が悪い」
アリスはこくりと頷いた。
エリオットは、すっかり冷たくなったアリスの白い手を取ると、さすって温め始めた。
エリオットの胸の時計は、規則正しく音を刻んでいく。カチリ、カチリと。
アリスのそれとは違う、ただの時計の音だ。
どんな激情に焼かれようが、刻む速度は変わらない。
ああ、時計の針が。
「なあ、アリス」
狂ってしまう。
聞いては駄目だ。
これ以上、彼女に踏み込むと、戻れなくなる。
(違うな)
アリスと出会ったあの日から、戻ることなどできなかったのだ。
きっと、初めから決まっていた。
アリスという砂糖菓子の甘さを知ってしまった以上、もう望まないでいることなどできはしない。
絡め取られたのは、自分の方だったのだ。
エリオットがそうなることを望んだ。自ら身を投げ打った。
「俺が怖いか? 嫌い?」
アリスはぎくりと体を強張らせた。
咄嗟に返すことが出来なかったことを、アリスは悔やむ。
「エリオットは」
慌てて言い繕おうとしたのだが、上手く言葉にならない。
エリオットは、じっとアリスの言葉を待っている。
アリスはようやく気持ちを落ち着けると、ゆっくりと口を開いた。
「嫌いになんて、ならない。好きよ、エリオット」
「ああ。俺も、大好きだ」
確認するかのように、互いに言い合う。
アリスは背伸びをすると、エリオットの首にかじりついた。
アリスの方から軽く口づけると、エリオットは応えるかのように返してきた。軽いものから始まり、だんだんと深くなっていく。
何度も交わすうちに、いつしかアリスの震えは止まっていた。
「もう、大丈夫」
「そうか?」
エリオットはまだ心配そうにしている。
アリスは時々、気遣うあまりに無理をするからだ。
けれど、いつまでもこうしているわけにもいかない。
早く安全なところで休ませてやりたかった。
「なら、そろそろ戻ろうぜ。けど、もう一度さっきのとこを通らなきゃならねえ。あんたは目を閉じていてくれ」
「うん」
言われるまま素直に目を閉じると、エリオットはアリスの手をとった。
そっと自分のほうへ引き寄せて、ゆっくりと誘導する。
アリスの指先は、温かさを取り戻していた。
一人の部下が、エリオットのもとへ駆け寄ってきた。
アリスには聞こえないよう、小さな声でエリオットに囁く。
エリオットはその報告を聞きながら、アリスに気取られないよう、歩くスピードは緩めない。
聞き終えると、エリオットは眉間に皺を寄せた。その瞳がみるみる剣呑になる。
(絶やすか)
そのうち手を下すつもりではあった。
もう少し泳がせておいてもよかったが、アリスが絡むとなると話は別だ。早急に対処しなければならない。
事もあろうに、アリスを狙うと言っていたという。
それだけで、鉄槌を下すには十分な理由になる。
激しい怒りが、エリオットの胸に芽生えた。
戻ったらブラッドに報告して、それからすぐにでも動こう。エリオットはあれこれ算段し始めた。
アリスが気づいていないことをそっと確認すると、エリオットは小声で指示を出した。部下は頷くと、さっと場へ舞い戻る。
「アリス。足元が危ねえから、抱えていくぜ。ちょっとだけ、我慢してくれ」
「え」
アリスが承諾する前に、エリオットはアリスを抱え上げていた。
そのまま駆け出したので、アリスは抗議の声をあげることができなかった。
けれど、エリオットがそうしてくれて助かったかもしれない――とアリスは思う。情けないことに、まだ足が覚束なかったのだ。
エリオットの広い胸にさりげなく頭を寄せながら、アリスはぎゅっと唇を噛んだ。
+ + + + + +
屋敷まで辿り着いたというのに、エリオットはアリスを下ろしてはくれなかった。
「エリオット、もういいんじゃないの?」
エリオットは答えない。
その真剣な横顔からは離す意思を全く感じられないので、アリスは諦めた。
多くの使用人たちにも、こんな姿を見られてしまった。
ディーとダムから向けられた好奇の視線を思い出し、アリスは顔を赤らめた。
顔から火が出るほど恥ずかしい。
だが、ブラッドに見られなかっただけマシだと思うことにする。
もしもブラッドに見られていたら、どれ程からかわれることになっていたのか。
(……ああ、やだやだ。あの子たち、大人しくしてるとは思えないし)
ブラッドに伝わる日も近い。さあ、どうしたものやら。
エリオットはアリスの部屋を通り過ぎると、まっすぐに自室へ向かった。
「……エリオット?」
様子がおかしい。
訝しんでエリオットを見上げたが、彼は答えてはくれなかった。エリオットはただ黙々と、アリスを運ぶ。
エリオットの自室へと到着すると、アリスはやっと自分で立つことができた。
どういうことか、と口を開こうとしたのだが、それより早くエリオットの唇で塞がれてしまった。
甘さも何もない、ただ噛みつくように。
「悪いが、ここで待っていてくれ。すぐ戻る」
エリオットは唇を離すと、淡々と告げた。
アリスが制止する間もなく、エリオットは踵を返した。
そして、一度もアリスの方を振り返ることなく、エリオットは部屋を後にした。
後ろ手で、扉を乱暴に閉める。
鍵をする音が聞こえた後、エリオットの足音は遠ざかっていった。
部屋に独り残されたアリスは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
頭の処理能力は既に容量を軽く超え、めまぐるしく変わる事態に全くついていけない。
「……どうして?」
ただそれだけしか言葉が出てこない。
一体、どこで間違えてしまったのだろう。
+ + + + + +
エリオットが一仕事を終えて戻ってきた頃、ようやく時間帯が変わった。みるみる部屋が赤く染まっていく。
アリスは、エリオットのベッドで眠っていた。
かけ布にくるまった彼女は小動物のようで、やや、その髪が乱れている。
エリオットは、すやすやと寝息をたてるアリスの傍に近づくと、そっと腰を下ろした。
起こしてしまわぬよう、慎重にベッドに体重を乗せる。
「アリス」
何かを確かめるように、ぽつりと小さく呟く。
返る言葉はなく、アリスの口から漏れるのは規則的な寝息だけだ。
(生きてる、な。……大丈夫、俺はアリスを守ってやれる)
急いで始末はつけてきたけれど、エリオットの気は未だ治まっていなかった。
殺し足りない、と――こんな事は、とても久しぶりに思った。
燻ぶり続ける胸の内とは裏腹に、時計はエリオットを馬鹿にするかのように、規則的に響いている。
暴力的な衝動が、エリオットの胸を容赦なくつつく。
「アリス」
エリオットは、すっかり乾いた唇をなめた。
怯えさせてしまったかもしれない。
迂闊だった。
どうも後先を考えずに暴走するきらいがある。
そっと手を伸ばして、さらさらした髪を撫でる。
この艶やかな髪の毛一本でも、自分のものであってくれたなら。
(何で、こんな)
卑怯なことを考えてしまう。
力で抑えつけてでも、自分の傍に留めたいと願ってしまう。
エリオットは無意識に拳を握り締めた。
好きな女を、力で言うことを聞かせようだなんて最低だ。そんなこと、頭では理解している。
傷つけたくなどないのに、傷つけようとしている。
消えない傷をつけてしまえば、あるいは。
エリオットは考えることを止めた。
自分らしくない、と浮かんだ考えを振り払う。
けれど、一度芽生えてしまった暗い感情は、エリオットの心の奥底で静かに燻り続ける。
「……ん? エリオット?」
眠たそうに目を擦りながら、アリスはむくりと起き上がる。
エリオットは表情からサッと陰りを消すと、慌ててアリスに頭を下げた。
アリスが、ものすごーく怒っていたらどうしよう。
(ま、まずい、よな。もしかしなくても)
己の所業を思い出すと、すうっと肝が冷えた。
もしかすると、もうアリスに嫌われたかもしれない。
ついさっき物騒なことを考えた同じ頭で、本気でおろおろする。
「その、手荒なことして悪かった」
うなだれるエリオットに毒気を抜かれたのか、アリスはわずかに微笑んだ。
「ううん……でも、どうして突然」
アリスの言葉を最後まで待つことができず、エリオットは動いていた。
「俺はあんたを守る」
ぎゅうっと力いっぱいに抱きすくめられ、アリスの息は一瞬止まった。
「エリオット?」
「守るから」
喉の奥から絞るような声。
エリオットは、今にも泣き出しそうに見えた。
アリスは、そうっとエリオットの背中に手を回す。
(エリオットが苦しむのは、見たくない)
エリオットにこんな顔をさせているくらいなら――と思う。
こんなにアリスを愛してくれる人を置いてまで、もう元の世界には戻りたくない。
そう思うのに、その度に姉の悲しそうな顔が邪魔をする。
(どうして?)
何故、こうも強制的に――そう、おかしなほど強制的に、アリスは迷っている。
何を失い、何を得るのか。
アリスにはまだ、理解できていないというのだろうか。
「アリス……何処にも行かないでくれ」
切羽詰った、切実な嘆願の声。
アリスの心は震える。
応えてあげたくて、アリスは瞳を潤ませた。
「エリオット……」
エリオットが好きだ。彼が苦しむ姿は見たくはない。
何が彼を苦しめているのか、アリスは気づいてしまった。
元の世界になど戻らない。
そう言えたなら、きっとエリオットの不安も解消されるだろう。
そこまで解かっているのに、アリスはまだ、深い迷いの中にいる。
ああ、一体どうしたら抜け出せるのだろう。誰か――。
「好きよ、エリオット」
今、返せる言葉はこれが精一杯だ。けれど、このままではいけない。
(どちらかを)
ロリーナか、エリオットか。
(捨てなくちゃいけないの)
アリスには分かっている。
二人のうち、どちらかしか選べないことを。
まだもう少し、猶予はあるけれど――。
(姉さん……)
「愛してる」
切に囁く声は、どちらのものであったのか。アリスは瞳を閉じた。
いつかは、選ばなければならない。
その時は、すぐそこにまで迫っていた。
【三月兎の名の下に/了】
===== あとがき ===
2008年10月発行『三月兎の名の下に』より。
読んでくださってありがとうございました。