今回は、エースに軍配があがった。
エースは慣れた手つきで剣を収めると、アリスに向かってにこやかに手を振った。
「じゃあな、アリス! 付き合ってくれてありがとうなー」
駆けていくエースを複雑な思いで見送りながら、アリスはエリオットの傍に寄った。
エリオットは、頬や肩口にいくつもの傷を負っていた。
比べて、エースに目立った外傷はなかった。それが少し腹立たしい。
エリオットは、エースが去った今も、険しい表情を崩さない。
その肩に触れようと、アリスは手を伸ばした。
「だ、大丈夫、エリオット」
「触るな!」
一喝され、アリスは反射的に手を引っ込めた。息が止まる。
アリスの表情を見たエリオットの目が、見開かれる。
そんなに傷ついた顔をしていたのだろうか。
「あ、その、違う、違うんだ! 今、俺に触ったら、あんたが汚れる」
やっと自分を見てくれたことに安堵しながら、アリスは大きく息を吐いた。
エリオットは優しい。
けれど、微妙に方向が間違っているときがある。
「汚れないわ。それに、そんなこと気にすると思ってるの?」
「だって、あんたは」
「いいから」
アリスは言葉を遮ると、ポケットからハンカチを取り出した。
エリオットの頬から滴る血を、ぐいぐいと拭う。
薄く斬られただけで、傷口自体は深くなく、既に血もほとんど止まっている。アリスはホッとした。
エリオットは、そんなアリスを不思議そうに眺めていた。
「あんたって変わってるよな、本当」
「そう? 普通だと思うけど」
むしろ平凡すぎて泣きたくなる。
さっきのような一戦をアリスは止めることもできず、ただ見ていることしかできないのだ。
目を逸らさなくなっただけマシと思いたいけれど。
エリオットは表情を緩めながら、痛いとも言わずに大人しく拭われていた。
エースと居た時の緊張は薄れ、気持ちが緩んでいく。
今更ながら、自分が酷く緊張していたことに、アリスは気がついた。
エリオットとなら、安心して息ができる。
「エリオットが来てくれて、よかった」
ぽろり、と本音が口をついて出た。
せっかく緩みかけていたエリオットの目尻が、再び鋭くなる。
「あいつに何かされたのか?」
「ううん、何もなかった。でも、ちょっと雰囲気がまずかった……のかな?」
よくわからない。
けれど、何だか今日のエースは変だった。
エリオットの表情が曇る。
「……流されそうになった、ってことか?」
変な風に誤解されそうになり、アリスは慌てて首を振った。
「ち、違う違うっ! ちょっと脅されたような気分になったのよ。変ね」
「……あの野郎」
殺してやる、とエリオットは低く低く呟く。
アリスはぎょっとした。
「お、落ち着いて、エリオット。私は別に何もされてないし……。ところで、どうしてエリオットがここに?」
焦ったアリスは、話題を変えようと試みた。
「ガキ共に聞いたんだ。あいつが、あんたを連れて行ったって」
「ディーとダムが?」
エリオットは頷く。
「ああ。俺のとこに来てな。だから、急いで走って来たんだ。あんたが無事でよかった」
「そう……ありがとう。心配かけてごめんね」
双子の言い分には、少し語弊がある。
アリスが自ら進んで、エースに付き添うと言ったのだ。
けれど、強く訂正するほどのことでもない。
エリオットは聞き入れないだろうから、話がこじれるだけだ。
「アリス、すまねえ。俺がいれば、あんたを危ない目に遭わせなかったのに」
エリオットは、ぎゅっとアリスをかき抱いた。
体を預けながら、アリスもエリオットを抱きしめ返した。後で、ディーとダムにもお礼をしなければ。
「アリス、何であんなのと一緒に居たんだ?」
「あんなのって……時計塔に行くって言ってたから、道案内をね」
正直に答えると、エリオットの眉が顰められた。
「時計塔、って……あいつに会いに行くのか」
「ユリウス?」
エリオットの視線が、そうだと言っている。
エリオットとユリウスの冷え切った関係を思い出したアリスは、言葉を濁した。
「うん、まぁ……」
「止めとけ」
即座に返されて、アリスはむっとした。
「何でよ」
「会うな」
思いのほか厳しい声音に、アリスは一瞬怯んだ。返答に迷う――けれど。
「そんなの、約束できない」
アリスは、嘘をつくことができなかった。
「エリオットとユリウスの間に何があったのか、私は知らないの。そこまで縛らないでよ」
「アリス」
エリオットはハッと顔を上げた。
アリスの言葉は正論だから、言い返すことができない。けれど、エリオットは苦い顔をした。
「……それもそうだな。けど、俺は、あんたがあいつに会うのが気に入らない」
沸き立つ苛立ちをアリスにはぶつけまいとして、エリオットは強く拳を握った。
「このまま無理に連れ帰ってもいいけど、あんたは怒るだろ?」
「そうね」
エリオットが会うなと言うから、会わない。
アリスにとっては理不尽極まりない理由だろう。
そういう理不尽さをアリスが好まないことも、エリオットは知っている。だから、強制はできない。
けれど、アリスが時計屋と歓談している姿を思うと、想像でも我慢することができない。
煮詰まったエリオットは、頭をわしわしっと掻き毟った。
「……あー、めんどくせえ!」
掃き捨てるようなエリオットの言葉に、アリスの表情が強張った。
(……面倒?)
エリオットに悪気がないことはわかる。
いちいち言葉尻をとらえて気にする方が悪い、と知ってはいるけれど。
エリオットの言葉は、アリスの心の痛いところを的確に突いてきた。
お荷物。意地っ張り。強情。ひねくれ者。
アリスはぎこちなく息を吸った。
「……エリオット」
「ん。……ど、どうした? あんた、何で」
アリスは目を伏せる。
エリオットの狼狽した視線を感じながら、できるだけ淡々と聞こえるように呟く。
「何でもない。ユリウスと会うの、止めたから。今日は帰るわ。けど」
アリスは視線を上げず、一方的に言葉を続けた。
「ちょっと一人にして。寄りたいところがあるの」
「あ、ああ……わかった。気をつけるんだぜ?」
「うん」
力なく答えると、アリスは身を翻した。
下手に追求される前に離れなくては、とアリスの足は早い。
困惑顔のエリオットを、その場に残したまま。
+ + + + + +
アリスはとことん歩き続けた。ある場所を目指して。
目指していた場所に辿り着いた時、アリスは不覚にも泣きそうになった。
エリオットに連れられて来た場所だ。
ついこの間のことだったのに、とアリスは感傷的な気分になる。
風景に何ら変わりはない。
変わらない牧歌的な穏やかさが、アリスの心に痛かった。
(面倒……面倒だって思うわよね、さすがに)
ディーとダムを庇ったつもりになっていたけれど、エリオットにとっての新たな面倒ごととなっていた。
もう二度と、エリオットとここへ来ることはないのだろうか。
エリオットはあんなに微笑んでくれたのに、ぶち壊したのは結局、アリスの方だった。
何で上手く返せなかったのだろう。
自分はとことん可愛げがない。
何も知らない癖に、いっぱしの主張をしてしまう。
エリオットに嫌われるくらいなら、嘘をつけばよかったのだ。
面倒な子だなんて、エリオットにだけは思われたくなかった。好きでいて欲しかった。エリオットが好きだから。
麦畑を背に微笑んでいる、エリオットの姿を思い出す。
ついには溢れ出してしまった涙を、アリスは止めることができなくなった。
指でぬぐったが、後から後から流れ出してくる。
(誰も見てないし、いいよね……ちょっとぐらい……)
アリスはうずくまって、膝を抱えこんだ。
どうせなら本格的に泣いてしまいたかった。その為に、この場所へ来たのだから。
「アリスッ!」
突然名前を呼ばれて、アリスは弾かれたように顔を上げた。
目の前にはエリオットが居て、アリスは二度驚いた。何故かその頭には葉っぱがついている。
「大丈夫かっ!? どっか痛いのか!?」
エリオットは、そろそろとアリスに手を伸ばして、頬に触れてきた。
アリスは混乱から立ち直ると、呆けたように呟いた。
「エリオット……何でここに?」
驚いて、涙も引っ込んでしまった。
アリスが尋ねると、エリオットはあさっての方向に視線を逸らした。
「あー……その、まあ」
どうにも歯切れが悪い返事だ。アリスは片眉をあげた。
「……エリオット?」
じとーっと見つめると、エリオットは視線を彷徨わせた後、渋々白状した。
「……あんたの後、つけた」
「……」
アリスは呆れ顔で額に手をやった。
「黙ってつけたのは、悪かった。でも、あんな顔したあんたを、あのまま放っておけなかったんだ」
「エリオット」
エリオットは袖口で、ぐしぐしとアリスの頬をこする。
焦っているせいか、いつもより力加減ができていなくて、ちょっと痛い。
けれど、アリスは抗議せずに、されるがまま拭われていた。
こすれて赤くなるだろうな、とぼんやり思う。
「なあ、アリス。どうしたんだ? どっか痛いか?」
アリスは「ううん」と首を横に振った。
「なら、何で泣くんだ。誰かに苛められたのか?」
アリスは再び首を振った。
「私のこと、面倒だって思う?」
エリオットは目を瞠った。
「誰があんたにそんなこと言ったんだ! まさか……あの迷子野郎か!? あの野郎、××××して」
「ち、違う違うっ!」
物騒な単語がぽろりと出てきたところで、アリスは慌てて否定した。
「頑固だし、可愛くないし、足引っ張ってばかりで」
自分で言って情けなくなってきた。
気持ちが萎み、じわりと涙が滲んでくる。
(ああ、でも全部ほんとうのこと)
アリスは苦しくなって、視線を伏せた。
+ + + + + +
エリオットは短く息を吸い込んだ。
アリスが泣いている。
焼けるような感情が、エリオットの胸に渦巻いている。
アリスが泣いている原因は何だ。
「……なあ、誰があんたにそんなこと言うんだ?」
アリスに向かってそんな事を言う輩は、すぐにでも撃ち殺すつもりだった。
けれど、そんなエリオットの予想を裏切って、アリスは小さく頭を振った。
「誰も言わないわ。私がそう思っているの」
エリオットはホッと息を吐くと、アリスの頭をくしゃくしゃっと撫でた。
アリスは少し、考えすぎてしまうところがある。
きっと頭が良いからだ、とエリオットは思う。
馬鹿なことを――アリスが可愛くないなんて、誰が思うというのか。
「あんたは考え過ぎだぜ。あんたは可愛いし、絶対に俺はあんたを疎んじたりしない」
「だって、面倒でしょう?」
アリスはぐすぐすと、滅多には見せない幼い顔を覗かせる。
それが尚のこと、エリオットの庇護欲を掻き立てる。
「んなわけねーよ。面倒のうちにも入らねえ」
「好き?」
「ああ、好きだ」
アリスの不安を丸ごと拭い去るように、エリオットは問われるまま答えていく。
やっと感情の波がおさまってきたアリスは、恥じ入るように俯いた。
「……ごめんなさい。子供っぽいわよね、私」
「何で謝るんだ? 別にあんたは」
「私、エリオットに釣りあわないもの」
エリオットは目を丸くした後、苦笑した。口元が自嘲気味に歪む。
「逆だろ? 俺があんたに釣りあわねえよ。俺はマフィアだし、あんたは普通のお嬢さんで……なあ、アリス」
「何?」
アリスの柔らかな両の頬を、そうっと手で包む。
じっとアリスを見つめるエリオットは、どこか悲しそうにも見えた。
「俺、あんたを不安にさせたか? 俺じゃ駄目か?」
アリスは大きく首を振った。
「違うの。エリオットが優しいから、私、どんどんつけあがってる。嫌な子だわ」
そんな事を悩んでいたのか、とエリオットは驚いた。
アリスの我侭など、我侭のうちにも入らない。可愛いものだ。なのに、アリスは自分に気を使う。
アリスはとても優しい。そして、愛しいと思う。
エリオットは心からの笑みを浮かべた。
「なーに言ってんだよ。全然。あんたはいい子だ」
エリオットの身に余る程、彼女はいい子で――優しすぎる。
エリオットの指先が、優しくアリスの頬をなぞった。
「大好きだ」
ふわりとアリスの体を持ち上げると、そのまま顔を寄せる。
アリスは抵抗しなかった。
不意打ちのように口づけられたせいか、頭にはふわふわと雲がかかり、思考能力を失くしているようだ。
正常な思考を取り戻さないうちに、とエリオットは詰め寄る。
エリオットはコートを脱ぐと地面に敷き、その上にアリスの体をそっと横たえる。
「だから」
どうか。
(俺のものになってくれ)
続く言葉を飲み込む代わりに、エリオットはアリスの上に覆いかぶさった。
のしかかる温かい重みを幸せだと感じながら、アリスはゆっくりと瞳を閉じた。
+ + + + + +
エリオットとアリスは、手を繋いで歩く。
すぐに屋敷へ戻るつもりだったのだが、エリオットは見回りをしてから戻らなければならないと言うので、アリスは望んで付き合うことにした。
見回りと言っても、領地内で争いの種が転がっていないかどうか監視する程度らしい。
手を繋いでいるのは恥ずかしかったが、エリオットが離そうとしないのだ。
(それにしても)
周囲の視線がざくざくと痛い。
少なくはない好奇の混じった視線は、主にアリスに注がれていた。
エリオットと歩くアリスを見て、人々はひそひそ好き勝手に噂し合う。
三月兎の隣にいるあの子は、一体何者なんだ――人々の視線が、そう物語っている。
少々居心地が悪く感じながらも、アリスは努めて平気な顔を装った。
エリオットの邪魔をしてはいけない、と自分に言い聞かせる。
『まさかあの子、売られたのか? 可哀相に』
などという、見当違いも甚だしい解釈をしている人も居た。
そういうものに限って、ばっちりとアリスの耳に届いた。
アリスはひそかに落胆した。
エリオットの恋人には見えないのか。
(……釣り合ってない、ってことよね)
エリオットの隣に並ぶには、きっと色々と足りなさ過ぎるのだろう。
(色気とか)
己の平凡さが恨めしい。
勿論、エリオットはそんな事を気にしてなどいないだろう。
ちくり、とアリスの胸は痛んだ。
けれど、それだけだ。
エリオットと仲が良いように見えるのならば、いい。
さすがに情婦だの何だのと言われるのは、ちょっと顔が引きつってしまうが、それはそれで――きっと、仲が良いように見えるのだ。それは嬉しい。
そんな風に、前向きに考えるようにしたのだが。
彼らの好奇に満ちた囁き声を、エリオットは聞き逃さなかった。
アリスの表情が一瞬曇ったのを認めると、エリオットの視線が冷たく細められた。
素早く銃を構えると、ためらう事無く引き金を引く。
空気がざわめき、誰かの悲鳴があがる。
何が起こったのかアリスが認識する間も置かず、エリオットは歩き出した。
手を繋いだままなので、必然的にアリスも歩かざるを得ない。
「エリオット!」
硝煙の匂いで、アリスはやっと我に返った。
血の気が引いていくのを感じながら、声音でエリオットの行動を諌める。
エリオットは何でもない顔をして、銃を懐にしまっている。
「……何で」
「ん? どうかしたか?」
エリオットはけろっとしている。
どうしたもこうしたもない。
アリスは言葉を探したが、喉に詰まって出てこなかった。
「今、撃ったでしょ?」
「ああ、撃った」
何か悪いことでもしたのか、とでも言いたげだ。
「どうして、そんな簡単に」
信じられない、とアリスは呟く。
「簡単? だって、あいつ、あんたを貶めたぜ? 見逃せるはずがねえだろ」
さも当然のことであるかのように、エリオットはあっけらかんと言う。アリスは目を瞠った。
「あんたの事を悪く言う奴は、許さねえ」
「それは」
どう受け取ればいいのだろう。
ありがたい、と思うべきなのか、アリスは迷う。
「許せないだろ? アリス。俺が許さねえ」
エリオットは感情を制する為に、なのか、アリスの手を握る力が強くなる。
「何だったら、ここに居る奴ら、全員、撃ち殺したって構わないと思ってる。後始末が面倒だけど、あんたの為ならその位のことはしたっていいぜ」
アリスはぞわっとした。
自分の為に血の雨を降らせて頂戴、なんて、誰がいつ願ったというのか。
エリオットは本気で、アリスの為にと実行するだろう。
それだけの力が、彼にはある。
エリオットがマフィアだったことを、アリスは今更ながら思い知った。
「し、しなくていい! しなくていいから!」
強く否定しておかなければ、きっとエリオットは実行してしまう。
実際は一言も言っていないのに、アリスがそれを望んでいる、と思い込んだままで。
アリスが本気で制止すると、エリオットは意外そうな顔できょとんとした。
「そっかー? あんたって謙虚だよな! でも、変な遠慮するなよ?」
「してないわよ」
やっぱりあの女は、と誰かが呟く声がした。
再び、エリオットの瞳が物騒に光る。
エリオットが短気な気質であることは知っていたが、これほどとは。
アリスは溜息を吐いた。
沸点が低すぎる。しかもその原因は自分にあるという、最悪なパターンだ。
「……エリオット、あんまり私のことで苛立たないでいいのよ」
そもそも、遠巻きに中傷されたくらいで、深く傷ついてなどいない。
そこまで繊細にはできていないし、心の隅っこがチクッとするが、それだけのことだ。
それだけの理由で、エリオットは銃を持ち出すが、対価がまるで見合っていないではないか。
エリオットは行動を取り止めたが、やはりどこか不満そうだった。
「……わかった。そういや、あんた、血とか苦手だもんな? 後できっちり殺しとく」
「だから、殺さなくていいってば! 何でそんな事くらいで殺そうとするの……そこまでするほど、私は傷ついてないってば」
のしのしと歩きながら、アリスはぶちぶちと不平を零す。
「えー、でもよー……あんたに悪い噂がたつんだぜ?」
それでも尚、エリオットが納得していない様子を見て取ると、アリスは呆れたように息を吐いた。
やや声の大きさを下げて、ぼそりと呟く。
「そもそも、私はエリオットのものなんだから、そう頑なに否定しなくてもいいじゃないの」
アリスの小さな呟きはしっかり聞こえていたらしく、エリオットの表情はパッと明るくなった。
「そ、そっか? でも……それなら、余計殺したくなる」
「何でよ……」
意味がわからない。
アリスはぐったりと肩を落とした。
エリオットはきっぱりと言い切った。
「あんたの事、見てる」
アリスは今度こそ絶句した。
ストレートな嫉妬を隠そうともしないエリオットのことを、可愛いと思ってしまった自分が嫌だ。
アリスが返す言葉を必死になって探している間、エリオットはさりげなく周囲を目を走らせた。
町中に潜伏させている情報員の合図を見、受け取る。異常は今のところない。だが――。
ふいに、エリオットは視線を細めた。
「アリス。悪い、先に戻っててくれるか? ちょっと用事ができた」
「用事?」
「ああ。悪いな。後で、俺の部屋に来てくれ」
アリスは首を捻った。
一体何が、と聞きたい気持ちもあった。
けれど、エリオットがどうやら急いでいるらしいことはわかる。何だか挙動に落ち着きがない。
さっさとアリスを安全なところに追いやってしまいたいのだろう。
こういう時は、素直に従った方が、エリオットにも自分にもいい。
「ええ、わかったわ。また後でね」
素直に頷くと、エリオットは安心したように微笑んだ。
+ + + + + +
アリスを見送ると、エリオットはその表情をガラリと変えた。
強い口調で素早くを令を出す。
「おい、お前ら。アリスをガードしてろ」
建物の影から現れた部下たちに命じながら、エリオットは鋭く周囲に視線を走らせた。手早く銃を抜き取る。
「はい〜」
「わかりました〜」
だるっとした口調とは対照的に、その動きは機敏だ。
みるみるアリスに追いつくと、その背に向かってのんびりと声をかけた。
「お嬢さま〜」
「奇遇ですね〜こんなところで会うなんて〜」
「あら」
アリスは足を止めた。
見知ったメイドに出会えて安堵したのか、ほっと表情を緩める。
「屋敷に戻られるんですか〜」
「私たちも戻るところなんです〜よかったら一緒に帰りませんか〜?」
ちょうど、一人の帰路は寂しいなと思っていたところだった。
断る理由があるはずもなく、アリスは頷く。
「ええ。あなた達は何をしていたの? 買い出し?」
「ええ、そんな感じです〜」
「そんなところです〜」
「? そう」
随分と煮え切らない言い方をするな、と首を傾げたが、追求することもないかとアリスは微笑んで返した。
並んで歩き出そうとした、その時だった。
パン、という銃声音が、アリスの耳に届いた。
「……銃声?」
アリスは音の方向へと首を向ける。
銃声音の聞き分けなんてできないけれど、先ほどの――エリオットが発砲した音と、よく似ていた。
アリスの顔色が変わったことに気づきながら、使用人たちは緊張をほぐそうと、ゆったり声をかけた。
「わぁ、物騒ですね〜」
「いきなり銃声なんて〜危険ですね〜。お嬢さま、早く帰りましょう〜」
危険と言う割にはのんびりと言いながら、彼らはアリスにさりげなく帰りを促す。
けれど、アリスの足は依然として止まったままだった。
今まさに、歩いてきた方角だ。
つまり、エリオットがいる方向でもある。
エリオットと銃声。
二つを一度結びつけてしまったら、平気ではいられない。
その想像は、アリスの胸をざわめかせるには十分すぎた。
視線を外さないまま、アリスは淡々と呟く。
「あのね。さっき向こうで、エリオットと別れたばかりなの……まさか、エリオットが襲撃されたんじゃ」
先ほど見たエリオットの理不尽な所業を思えば、そういう展開になっても全くおかしくはない。
アリスの想像は、どんどん悪い方向へと膨らんでいく。
――もし、エリオットが撃たれていたら?
居ても立ってもいられなくなり、アリスはもと来た方向へと駆け出した。
===== あとがき ===
2008年10月発行『三月兎の名の下に』より。
エリオットは短気なのがいいですよね。もうちょっと続きます。