アリスは視線を落とすと、大きく息を吐いた。


「……ふぅ」


さっき、引き出しを開けて小瓶を見た。

いつの間に溜まっていたのか、もう瓶の中身は半分を超えている。
量に伴い、アリスの悩みは深みを増していく。
アリスは、最近、冷静な判断ができなくなっている自分に気がついた。


(そもそも、私は何を迷っているんだろう)


夢だと思っていた。
けれど、夢でなければいと願っている自分がいる。

もしもこれが夢でないなら、自分は残りたいのか。
姉を捨ててまで、この世界に残るのか。

ぐちゃぐちゃし過ぎて、何を悩むべきかすらも悩む。泥沼だ。
迷う心につられるがまま、アリスは外庭をあてもなく歩いていた。


「どうしたの、お姉さん。ため息なんかついちゃって」
「お姉さんお姉さん、気分転換は大事だよ。僕らと遊んでく?」


可愛らしい声に振り向けば、ディーとダムが立っていた。いつの間にか門まで来ていたらしい。
二人はこれから休暇らしく、珍しいくらいに上機嫌だった。


「ディー、ダム……何でもないわ」


アリスは首を振った。彼らの言う『遊び』は勘弁して貰いたい。
彼らと『遊ぶ』と、まさに文字通り、命がいくつあっても足りないのだ。今の落ち込んだアリスでは付き合えない。

二人は、じいっとアリスを見上げて観察している。
ややあって、ディーが静かに口を開いた。


「何か悩みでもあるの? お姉さん」
「え」


この双子は、驚くほど人の気持ちに聡い。
アリスが驚きを露にしていると、二人の表情が心配そうに曇った。


「悩みがあるなら、僕らに話してよ。力になるよ、タダで」
「……うーんと」


そんなに顔に出ていたのだろうか。
確かに、景色なんて上の空状態で歩いてはいたのだけれど――と、アリスは首を捻る。

そうして、目の前のふたりに目を向ける。
うだうだと悩んでいても仕方がないし、客観的な第三者の意見が欲しいと思っていたところだ。
そこに、タイミング良くディーとダムが現れた。


(……ディーとダム、か)


若干の不安はあるが、聞いてみることにしよう。アリスは気を取り直して、二人に向き直った。


「あのね、もし、私が元の世界に帰ったら」
「帰る!? お姉さん、帰るの!? 駄目だよ、帰っちゃ駄目!」
「そんなの嫌だよ! 酷い、酷いよ! 僕らを置いていかないで、お姉さん!」


言葉の途中で、ディーとダムは騒ぎ始めてしまった。
騒ぐどころか、二人はとうとう泣き出してしまった。しくしくと袖口で目尻をぬぐっている。

アリスはうろたえた。胸が罪悪感でいっぱいになる。
慌てて二人をなだめながら、優しく声をかける。


「お、落ち着いて。続きがあるのよ」
「え、続き?」


双子は同時に、ぴたりと泣き止んだ。嘘泣きだったことが判明した。


(こ、この子達は……)


アリスは頬をひきつらせながら、続けたかった言葉を改めて口にした。


「そう。私が元の世界に帰ったら、エリオットは……どうするかしら」
「……ひよこウサギかー」


ディーとダムは腕を組むと、しばし考え込んだ。
アリスは緊張した面持ちで、二人の答えを待つ。

アリスが元の世界へ帰ったら、エリオットはきっと落ち込むだろう。
そのこと自体を疑っているわけではない。

けれど、立ち直ってくれるのなら。

そうしたら、幾分アリスは救われた気になる。


(酷いこと、考えてる)


自分に都合のいいことばかり。
自己嫌悪を感じながらも、アリスは淡い期待を寄せていた。

ややあって、ダムがぽつりと呟いた。


「あいつ、狂うかもしれないよ」
「え」
「お姉さんに夢中だもの、あいつ。お姉さんがいなくなったら、狂うね」


ダムは断言した。
ディーは頷きながら、ダムの意見に賛同の意を表した。


「もともと狂ったウサギだけど、もっと狂うね。もしかすると、自分の頭を撃ち抜くかも」
「それは見物だねー、兄弟。面白そうだ。見物料を払ってもいいな」
「面白くないわよっ!!」


どうしてこう、ここの人間は、悪い方に捻くれているのだろうか。頭がくらくらする。
くすくす、と、さも可笑しそうに笑っていた二人は、ふと真顔になってアリスの顔を見上げてきた。


「ねえねえ。どうしてお姉さんは、あいつのことなんか気にかけるの?」
「それは……」


アリスは言いよどんだ。
けれど、ディーとダムにはお見通しだったようだ。


「あいつが好きなの? やめときなよ、あんなウサギ」
「そうそう。あんな馬鹿ウサギ、お姉さんには似合わないよね。お姉さん、僕らは? 僕らのほうが、あんなのよりもずっといい男になるよ」


きゃっきゃっと無邪気にじゃれついてくる二人の対処に困っていると、唐突に背後から笑い声がした。


「恋愛は自由だぜー? 無理強いはよくない。けど、恋の相手が兎さんだなんて、特殊な趣味してるんだなーアリスって」


聞きなれた声だった。

この無駄に爽やかな声は。

嫌な予感を胸に、アリスはゆっくりと振り返った。
予想通りの人物が、そこには居た。


「……エース」


ディーとダムは、心底嫌そうに顔を歪めた。


「げ。迷子……」
「うわあ……また来たの、迷子騎士」


ディーとダムを庇うようにして、アリスは一歩前に進み出た。

双子と騎士。
以前も、この構図を体験したことがある。
エースは道に迷い、双子は彼に挑む。結果、双子が打ち負かされて、エースが道を教わる。
その場に残されるのは、酷く不機嫌になった双子だ。

だからアリスは、先手を打つことにした。


「何処に行くつもりだったの? エース」
「うん? 時計塔さ。けど、道がわからなくなっちゃってさー。困っちゃうよな、ははっ!」


笑いながら、エースはすらりと剣を抜く。
案の定、エースは絶賛迷子中だったらしい。
方向音痴、などという生ぬるい単語では不十分なほど、エースはよく迷う。
もしかしてわざとなんじゃないかと勘繰ってしまうほど、迷う。

アリスは小さく溜息を吐いた。
ディーとダムが斧を構えたと同時に、アリスは更に一歩踏み出した。


「私も時計塔に行くから、一緒に行きましょうか」


無茶苦茶やる気のない声で、アリスは誘う。
エースは僅かに目を瞠った後、にっこりと微笑んだ。


「そう? 今日はついてるなー。アリスに道案内してもらえるなんて」
「お姉さん!」


ディーとダムの慌てた声に、アリスは振り向く。


「いいのよ、ディー、ダム。あなた達、これから休暇だったんでしょ? こんなの相手にして疲れることないわよ」


アリスとて、エースの相手は苦手だった。できることなら避けたい。
けれど、このまま対峙して、双子が怪我をする可能性を考えると、そうも言っていられない。

ディーとダムのことも、確かに大切なのだ。
穏便に事が済むのならば、そうした方が良い。

だが、ディーとダムの表情は晴れない。


「お姉さん……僕らを気遣ってくれるのは嬉しいけど、駄目だよ。こいつと二人きりにはさせられない。お姉さんが危ないもの」
「うん、駄目だよ。こいつは駄目。僕らが守るから、お姉さんは下がっていて」


ディーとダムは食い下がってきた。

優しい子供達だ。
アリスは柔らかく微笑んだ。

確かに危険極まりない相手ではあるけれど、ユリウスが絡むのならば、比較的安全だろう。そう思いたい。


「大丈夫よ、多分……多分だけど。だって、騎士だもの。女の子を傷つけたりなんかしないわよね? エース」


牽制を兼ねて尋ねると、エースはにこっと笑って返してきた。その笑顔が胡散臭い。


「あはは、当たり前じゃないかーアリス。俺はいつだって紳士だぜ?」


色々と突っ込みたいところはあるが、アリスはディーとダムに視線を戻した。


「ああ言ってることだし、どれだけ信用していいかわからないけど、私が行くわ」
「でも」
「行ってくる。大丈夫よ」


まだ不安そうな顔つきで見上げてくる二人に向かって、アリスは微笑む。
そうして、やっと双子は渋々頷いた。


「……うん。気をつけてね、お姉さん」
「あ、そうだ。お姉さんに護身用のナイフをあげる。危ないと思ったら、すぐに刺すんだよ」
「う、うん」


小ぶりのナイフを手渡される。
お断りしたかったが、念のため受け取っておいた。

けして警戒を緩めてはいけない。
アリスはしっかりと頷くと、エースに歩み寄った。


「お待たせ」
「よし、出発だ。二人旅っていいね、アリス!」


エースは嬉しそうに笑うが、アリスは苦笑いしか浮かべられなかった。



 + + + + + +



道を離れようとしたエースのコートを、アリスはがっちりと掴んだ。


「エース、そっちじゃなくて、こっち」
「え、本当? こっちの方が近道な気がするよ?」
「そう言って、いつも迷うじゃないのあんた」


彼のペースに乗せられてはいけないことを、アリスは既に学習していた。
できるだけ自分のペースに持ち込みたいところだが。

エースは悪びれもせず、首を捻っている。


「いつも、だっけ? まあ、旅にハプニングはつきものだよな」
「旅にするつもりはないわ。さっさと行くわよ」


そっけなく返すと、エースは不服そうに口を尖らせた。


「えー。寄り道は旅の醍醐味だぜ?」
「ユリウスが待ってるんじゃないの? 寄り道はしない」
「んー、どうかな。いないかもしれないなー」


アリスは溜息を零した。
面倒事はさっさとユリウスに押しつけてしまおう、と自然と早足になる。


「なあ、アリス」
「何? エース」


エースの方を見ず、アリスは声だけで答えた。
アリスは早足になっているというのに、エースはアリスからぴったりと距離を保ったまま、離れない。


「君ってさ、兎さんが好きなの?」


アリスはピタリと足を止めた。
エースも、それを見越していたのだろう。アリスと同時に歩を止める。

視線を向けると、エースはにこやかにアリスを見つめていた。


「……そうね、好きだわ」
「そうなんだー。ペーターさんが聞いたら、泣いて喜ぶだろうなー。ペーターさんを喜ばせるつもりはないから、教えてはあげないけどね」


エースの爽快な笑顔に動揺したアリスは、慌てて捲くし立てた。


「ちょ、ちょっと! ペーターの事じゃないわよっ!」
「えー? でも、ペーターさんも兎さんだぜ? 可愛くはないけどなっ」


あははーと笑うエースは、どこまでも爽やかだ。
爽やかに真っ黒。真っ黒なのに、彼の纏う空気はきらきらしている。性質が悪い。


「ペーターも兎だけど、違うわ。私が好きなのは」
「オレンジ色の兎さん?」


先に言われてしまい、アリスは口ごもった。


「……そうよ。悪い?」
「悪くなんてないさ。ただ、変わってるよなーって。何処が好きなの?」


開き直って憮然と答えるアリスとは対照的に、エースはあくまでも爽やかだ。


(こいつ……)


言葉尻に悪意はない。覗くのは純粋なる興味だ。
アリスは大きく息を吐いた。


「全部よ、全部。全部好きなの」


エースは自分をからかっている。
真面目に相手をするのも馬鹿らしくなって、アリスは適当に返した。


「ははっ、すごいねーアリス! 俺の前で惚気るなんてさー勇気あるよね」
「え……」


突然の斬るような声音に、アリスは身を強張らせた。


「俺が嫉妬しないなんて、思ったんだ?」
「エース」


ひときわ強い風が吹いた。
木々がアリスの不安を膨らませるかのように、音をたててその梢を大きく揺らす。


「いつのまにそんなに仲良くなってたんだ? ずるいぜ」


アリスは小さく息を呑んだ。

エースの笑顔は変わらない。変わらないはずだ。
いつも通り、爽やかで……けれど、何故だろう。その笑顔の裏に、薄ら寒いものを感じる。


「だって、あなたは……お城に行っても、いつも居ないじゃない。仲良くなんて、なれるわけない」


アリスがやっとの思いで言い返すと、エースはしばらく考え込む素振りを見せた。


「ふーん。もっと俺と会っていたら、君は俺を好きになってくれたの?」


言いながら、エースはアリスとの距離を詰めてきた。

不穏な空気を察して、アリスの喉は渇きを感じ始めていた。
彼の雰囲気に呑まれてはならない、と警戒しながら、アリスは慎重に答える。


「……そんなのわからない。どっちにしろ、エリオットを好きになってたわ」
「それはどうかな? でも、俺とも仲良くしようぜ。な?」


とん、と背中に固いものを感じ、アリスは首を捻って振り返る。
大きな木の幹が、アリスの後退を阻んでいた。

いつのまにか自分が後ずさっていたことを、アリスは知った。
己の足が、僅かに震えていることにも。

横に逃げようと体をずらすが、エースの腕に阻まれてしまった。


「離して、エース」
「駄目だよ。ちゃんと約束して? 俺にも会いに来る、って。でなきゃ、離してあげない」


恋人に甘い言葉を捧げるかのように、アリスの耳元でエースは囁く。
目を閉じることすら許されない空気の中、エースは顔だけはにこやかに、アリスをじっと見下ろしている。

アリスは完全に気圧されてしまい、何も答えることができない。
下手なことを言うと殺されてしまう、と何故かそんなことを思った。
エースの瞳が一瞬、冷たく光ったように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。

膠着状態のまま、しばらく時が過ぎた。

エースは何も言わないし、アリスは何も言えない。
まるで、ここだけ時の流れが止まってしまったかのようだった。

何を思ったのか、エースはいきなりアリスの腕を掴むと、さっと体を伏せた。
刹那、耳をつんざく暴力的な銃声音が周囲に鳴り響いた。
ぎょっとして顔を上げたアリスが見たものは、銃を構えて険しい顔をしている、エリオットの姿。


「エリオット!」


思わずアリスが名を呼ぶと、エリオットの表情がわずかに崩れた。
だがそれも一瞬のことで、再びエリオットは憎々しげにエースを睨みつける。

エースは笑顔のまま立ち上がる。
そのついでに、さりげなくアリスも立たせてくれた。


「おっと、危ないなー。アリスに当たったらどうするつもりだったの?」
「うるせえ! アリスを離せ!」


エリオットは、ドスのきいた声で怒鳴り返した。


「短気はよくないよー? こうして」
「!」


一瞬、何が起きたのか、アリスはわからなかった。
エースは素晴らしいスピードでアリスの首もとに腕を回して、前に抱き――言うなれば、アリスを盾にした。
そうアリスが理解するまでに、少し時間がかかった。


「アリス!」
「ほーら、撃てないだろ? まあ、これは騎士らしくないから、俺はやらないけどね」


エースはパッと手を離して、アリスを解放した。
アリスは二、三歩よろめいた後、エースをめいっぱい睨みつけた。


「今、やったじゃないのっ!」
「はは、気のせいだよ。ほら、よそ見してると危ないよっ」


エースは、自然な動作で剣を抜いた。


「止めてよ、エース!」


アリスが半ば叫ぶように言うが、エースは剣をおさめる気がないらしい。


「えー? だって、俺と彼は、とりあえず敵対してるんだしさ。たまには仕事っぽいこともしないとな。それに、向こうは殺る気満々みたいだし? 俺も期待に応えないと、男がすたるぜ」
「……」


エリオットは無言でエースを睨みつけている。その視線は射殺さんばかりに刺々しい。
そんなエリオットの視線を一身に受けているというのに、エースは涼しい顔で、余裕をちらとも崩さない。


「ちょっと離れていてくれるか? 彼、本気みたいだから」


エースは、とん、とアリスの体を押した。素早くエリオットに斬りかかる。
エリオットは銃身でエースの攻撃を受け流しながら、発砲を繰り返した。
エースは軽々と避けながら、隙をみては鋭く反撃する。


「エリオット!」


アリスの呼び声も、エリオットの耳には入っていない様子だ。
アリスの方をちらりとも見ない。アリスの声を無視した。


(無視した……)


そんな余裕がないのかもしれない。
エリオットは妙に焦っているように見えた。

けれど、無視されたことに、アリスは軽くショックを受けた。
逃げ出したい、と足が震える。
エリオットの頬に一筋、赤の線が走った。エースのマントにも、焦げついた穴があく。
常人離れした二人の動きを、アリスはただ呆然と見ていることしかできなかった。







===== あとがき ===

2008年10月発行『三月兎の名の下に』より。

双子とエースと。もうちょっと続きます。