約束の時間帯がやってきた。
空は清々しいまでに晴れている。ピクニック日和だ。
お茶やお菓子をたっぷり詰めたバスケットを下げて、アリスは待ち合わせ場所へ、てくてく歩いていく。


「アリス」


エリオットが、嬉しそうにアリスの名を呼ぶ。
そんな風に呼ばれると、少しだけ自分が好きになれそうだった。
自然と頬を緩ませながら、二人の距離は縮んでいく。


「行きましょうか、エリオット」
「ああ! 行こうぜ!」


エリオットは満面の笑顔でアリスを迎えてくれた。
正直な兎耳のせいで、彼がものすごく楽しみにしていたことは丸わかりだ。

おやつを持ってピクニック。
なんて爽やかなデートだろう。爽やかすぎて眩暈がする。

この清らかすぎるデートは、年齢にはそぐわない気もするが、相手はエリオットだ。不思議と違和感はない。
兎耳が、元気良くぴょこぴょこと動く。


「なあなあ、何処いく?」
「うーん……あんまり人気のなさそうな、お昼寝スポットってある?」


エリオットは忙しい身だ。
せっかくの休暇なのだから、デートといえどゆっくりさせてあげたい。
疲れを取る方向にしたい、とアリスは考えていた。

そう言うと、エリオットは驚いたような顔をした。耳がピンと真っ直ぐに立っている。


「え……人気がないとこが、いいのか? アリス、意外と大胆だな……」
「ん? そりゃ、ない方がいいわよ」


なにせ、彼はマフィアのbQだ。敵も多いだろう。
いつ命を狙われてもおかしくはない。
せっかくの滅多にない――本当に少ない――彼の休暇を台無しにされたくはないし、エリオットが危険な目に遭うのも、巻き込まれるのも嫌だった。

エリオットはしばらく考え込んだ後、にかっと笑った。


「そっか……俺も期待に応えないとな! こっちだ」
「うん」


どうやら、当てがあるらしい。
アリスはバスケットを持ち直すと、エリオットについていくことに決めた。

エリオットは、妙にそわそわしているようにも見えた。


(……期待?)


何となく突っ込めず、アリスはエリオットに従った。



 + + + + + +



エリオットに案内されて、森を抜ける。そこには、一面の麦畑があった。

美しい黄金の風景を背に、エリオットは笑う。
エリオットの姿は、この牧歌的な光景の中にすんなりと溶け込んでいた。

彼がマフィアだということすら、一瞬、忘れてしまう。


「ここ。どうだ? アリス」
「綺麗ね。風もよく通るし、いい場所だわ」


お世辞抜きに、この場所は素晴らしいと思えた。
素直に感想を告げると、エリオットは目を細めた。


「だろ? 俺も、割と気に入ってるんだ」
「そうなの」


アリスはバスケットを足元に置いた。
ハンカチを取り出して敷くと、腰を下ろす。
目を細め、気の済むまでたっぷりと、金色の海を眺めた。

屋敷からかなりの距離を歩いたが、今は不思議と疲労感はない。
この景色のおかげで、全て吹き飛んでしまった。

ふいに、視界が陰った。

顔を上げると、エリオットが至近距離に居る。


(え? え?)


思いがけないエリオットの行動に、思考が混乱する。
呆然としている内にも、更に二人の距離は詰められた。


「アリス……」


耳元で熱っぽく囁かれて、アリスはぎょっとした。カッと頬が熱くなる。
慌てて両手でエリオットの体を押し返すが、びくともしない。体格に差がありすぎる。

本気を出されたら、物理的な回避は不可能だ。
そう判断したアリスは、雰囲気をぶち壊すことに決めた。


「ちょ、ちょっと! 何でそんなに顔、近づけるのよ!」


焦りながら言うと、ようやく接近は止まった。
危うく、距離がゼロになるところだった。心臓がばくばくする。


「え。だって、あんたが誘ったんだろ?」


エリオットはきょとんとしている。
何で止めるのか、とでも言いたげな視線をうけて、アリスの頭は混乱した。

そんなことをした覚えはない。それは誓って言える。


「誘っ……!? 誘ってなんかいないわ!」
「えー。でも、あんた、人気がないところがいいーとか言うしさ」


盛大に誤解されていたことに、アリスはやっと気がついた。


「あれは、人気がないほうが、落ち着いていられるでしょう、って意味よ!」
「何だ、そうなのか。ちぇっ」


エリオットは心底残念そうに、ゆっくりと体を離した。


「……何を残念そうにしてるのよ。全く」


高鳴る胸を抑えこみつつ、アリスは平静を装った。鼓動は静まることなく、頬が熱を帯びていく。


「そりゃー残念だぜ? 押し倒して欲しいのかと思ったのになー」


アリスは羞恥から、耳まで真っ赤になった。

エリオットは時々、ナチュラルにセクハラ発言をかましてくる。
本人に悪気は全くない上に、言い方もカラッとしているのだが、言われる方は困る。

彼の職業のせいかもしれないが、そっち方面の話題を口にすることに、エリオットはさほど抵抗がないらしい。


「……それ以上ごちゃごちゃ言うと、これあげないわよ」


怒りの混じった声で言い放つ。
バスケットを指差しながらじろりと睨むと、エリオットは慌ててアリスに頭を下げた。


「わっ、悪かった! 俺が、すげー悪かった! ごめんな!」
「よろしい」


主導権は、今のところアリスにある。
手でぱたぱたと顔を扇ぎながら、上昇した熱を逃がそうとしていると、エリオットの弾んだ声が聞こえた。


「なあなあ、アリス。何を作ってきたんだ? 開けてもいいか?」
「うん、いいわ。でも、大したものは」


ないわよ、と続けようとしたアリスの言葉を遮るように、エリオットは感嘆の声をあげた。


「すげえ美味そうだ! ありがとうな、アリス!」
「ど、どういたしまして……」


満点の笑顔で言われ、アリスはどぎまぎした。
エリオットの屈託のない笑顔が、アリスに芽生えた卑屈さを吹き飛ばす。

エリオットは、おやつが待ちきれない子供のようにはしゃぐ。


「なあ、食っていいか!?」
「うん、どうぞ。お茶いれるわね」
「ああ! どれにしよっかなー……迷うなー」


エリオットは、至高の宝物を見る目つきで、バスケットを覗き込んでいる。嬉しくて、くすぐったい。
まずはクッキーを選んだようだ。ぽいっと口に放り込むと、エリオット破顔した。


「美味い! あんたの作るものってさ、何でも美味いんだよなー。料理も上手いなんて、やっぱりあんたってすごいな!」


胸がじーんとする。
次々と美味しそうに平らげていくエリオットにお茶を手渡しながら、アリスの視線は優しくなった。


「ありがとう、エリオット」


結局、にんじん一色だ。オレンジ色は太陽の色。ただ温かくて、優しく包まれていく。



 + + + + + +



エリオットが麦畑の一部を倒してくれたので、二人は並んで寝転んだ。
少しだけチクチクしてくすぐったいが、気持ちがいい。

ぽかぽかの陽気と草の清い香りが、徐々に二人を眠りに誘う。
次第に重たくなっていく瞼と戦いながら、エリオットはぽつりと呟いた。


「なあ、アリスー」
「何? エリオット」


答えながら、首だけをエリオットの方へ向ける。
自分でも驚くほど優しい声だった。

エリオットは睡魔と闘いながら、時折、目を細めては空を仰いでいる。
エリオットの声音もとろけそうだ。


「俺さ、最近、ちょっと変なんだ」
「どうしたの?」


エリオットの巻き毛が、ふわりふわりと風に揺れる。
アリスは手を伸ばして、エリオットの髪に触れた。
そのままゆっくりと撫で始めると、エリオットは気持ちよさそうに目を瞑った。
兎というより、何だか大型犬を手懐けた気分だ。


「俺、ブラッドに殺してもらうんだ」


エリオットは目を閉じたまま、とんでもないことを口にした。

アリスの表情が凍りつく。
同時に、動かしていた手も止まってしまった。


「……え?」
「俺、ブラッドに殺してもらう。俺の時計を、完璧に壊してもらうんだ。それが、ブラッドと交わした約束だ」


アリスが聞き取れなかったと勘違いしたのか、エリオットは丁寧に言い直した。

アリスはがばっと上体を起こした。
さらりと聞き流せる類のものではない。

頭を鈍器で殴られたようなショックがアリスを襲った。


「ちょ、ちょっと! 聞いてないわよ、そんなこと!」
「んー、今言ったからなー」


エリオットはのんびりと答える。


「何でそんな」
「でもさ、ちょーっとばかり、変わった」


エリオットは、アリスの困惑に気がつかない。
色々と問い詰めたい気持ちを抑えて、アリスは聞き役に回ることにした。
だが、後できっちり事情を聞かせてもらうことにする。


「どんな風に?」
「だって、あんたがいる」


エリオットの口元が幸せそうに緩んだ。


「あんたがいるなら、俺はまだ……あー、上手く言えねえ」


あんまり考えるのは得意じゃないから、とエリオットは苦笑する。
独白のようなエリオットの言葉を聞きながら、アリスは硬い表情で彼を見つめていることしかできなかった。


「俺が死んだら、どうすっかな。でも、ブラッドとの約束だしなー」


愕然とするアリスとは対照的に、エリオットは未だ温いまどろみの中にいる。

言葉が支離滅裂気味なのは、思考が途切れがちのせいだろう。
できることなら、そのまま浸らせていてあげたかった。

けれど。


「……エリオット」
「ん?」


うっかり情けない声を出してしまった。
アリスは小さく咳払いをすると、表情を引き締めた。


「止めてよ、そんなこと言うの」
「そんな事って?」


エリオットは、ようやっとアリスの顔を見た。

自分が今、どんな顔をしているのかはわからない。どんな顔をしていいのかも、わからない。
むしろ、みっともなく泣き喚いてしまうのが一番正しいような気もしたが、それはアリスの矜持が許さなかった。


「エリオットが死ぬとか……そんなの嫌」
「アリス」


辛そうに呟くアリスを、エリオットは驚いたように見つめている。
エリオットの反応を見て、アリスはむっとした。

何をそんなに驚くことがあるのか。失礼な。

そう思ってから、八つ当たりにも程がある、と己の気を戒める。

エリオットは不思議そうな目で、アリスを注視している。


「俺が死んだら、あんたは悲しいか?」


確かめるかのように再度問われ、アリスはすっかり悲しくなってしまった。そして、すぐに答えを返す。


「ええ、泣くわ。すごく泣く。ずっと泣き暮らすわね」


アリスが強く断言すると、エリオットは慌てて身を起こした。


「だ、駄目だ! あんたが泣くのは、駄目だ」
「何でよ。泣かせてくれたっていいじゃない」


何処か頓珍漢な受け答えをしながら、アリスは俯いた。

エリオットのいない世界。

駄目だ。
想像だけでも泣けそうだ。
今、泣いて実証してみせろと言われても、きっと可能だろう。

エリオットの視線が優しくなる。


「あんたは優しいよな。でも、悲しませたくない。悲しむことはねえよ。俺が消えても、どうせ次の役持ちが現れるさ」


エリオットの言い分を理解することができず、アリスは眉間に皺を寄せた。

エリオットが死――いなくなることを、アリスは悲しいと言っている。

次が現れるから何だというのだ。
それで、本当にアリスが悲しまないとでも思っているのか。

今まで大事に温めてきた感情を含めた何もかもが、帳消しになると思うのなら、それは大間違いだ。
アリスの想いを見くびらないで欲しい。


「何言ってるの。エリオットは一人しかいないわ」
「いや、違うな。役持ちにだって、代わりがいるんだ。だから、俺じゃなくてもいいんだ」


話が噛み合わない。通じていない。
すれ違うもどかしさでイライラしながら、アリスは真剣な眼差しでエリオットに訴えかけた。


「私が、絶対にエリオットじゃないと嫌なの! 次の役がどうとか、そんなのどうだっていい」
「アリス」


エリオットはアリスの剣幕に驚き、目を丸くした。
これは本気で解かっていないのだ。何だか頭痛がしてきた。


「だから、死なないでよ」
「ああ、俺は死なない」


エリオットが真剣な顔で頷く。
エリオットの言葉は、アリスを安心させる為のものだ。アリスの為に誓ってくれる。

エリオットは、一度した約束を違えることはない。
そのことを知っていても、アリスの不安は解消されなかった。


「エリオット、名前を呼んで」
「アリス?」
「もっと」


アリスはエリオットの胸に倒れこんだ。
エリオットは体勢を崩すことなく、アリスの体を難なく受け止める。


「アリス、アリス、アリス……どうした?」
「どうした、じゃないわよ」


アリスは、とうとうエリオットの耳に手をかけた。
愛しい彼の為に、この行為は禁じていたのに。


「あんたが、不安にさせるようなこと、言うからでしょうがっ!」
「わっ、痛っ! 耳は止めろ、アリス! 耳はー!」


エリオットの心からの抗議を、アリスは聞こえない振りをした。
ぎゅーっと思い切り引っ張ってから、手を離す。
少しはすっきりするかと思ったのだが、全くといっていいほど気分は晴れず、まだ胸の奥にもやもやっとしたものが残っている。


「……ごめんな、アリス」


この約束は、きっと守られない。

アリスが願うから、死なない。
ただそれだけで、どうしてアリスがそう願うのかまでは理解していないだろう。
だから、解かってもらえるまで、アリスは言い続けるのだ。


「もしあんたが死んだら、私も死ぬから」


これには、流石のエリオットもかなり衝撃を受けたらしい。紫色の瞳を限界まで見開いている。

それを見て、ちょっとだけ気持ちがすっきりした。
さっき自分が与えた衝撃を、少しでも思い知ればいいのだ。


「げ。マジか!? あんた、何言ってんだよ! それは駄目だろ!」
「駄目じゃないわ。あんたこそ、死ぬのは駄目よ」


だが、ショックが大き過ぎたらしい。
アリスの言葉は、エリオットの耳に届いていないようだ。勢いよく、がばっと腕を掴まれる。

かなり痛かったが、そこは我慢した。
愛の力かもしれないな、と痛いことを考える。


「あんたが、死ん……死んじまうなんて、そんな……俺は嫌だっ! 絶対、駄目だからなっ! アリス頼む、死なないでくれよ!」


エリオットは既に涙目になっている。
人の話を聞いてくれ、と思いながら、アリスはエリオットの勢いに気圧されかけた。


「わ、私も死にたくないってば。エリオットが死なないでいてくれたら、私も生きていけるの」


同じことなのだ。
エリオットがアリスの死を駄目だと言い切るように、それはアリスとて同じことなのだと。

エリオットとアリスは何も変わらない。変わらないはずだ。
エリオットがアリスを無二の存在として大切にしてくれるように、アリスにとってのエリオットもまた、無二の存在なのだ。

どうしたら真意が伝わるのだろうか。
こんな時、互いに別個な存在であることが、すごくもどかしく思う。


「そっかー、駄目かー……」
「うん、駄目。私の隣で生きていて」
「おう!」


晴れやかな笑顔でエリオットは答える。
やっと、アリスは安心することができた。


「ブラッドに、あなたはあげない」


エリオットは壊させない。約束など知ったことか。
ブラッドがそうするつもりでも、全力で阻止させてもらう。

エリオットの時計は私が守るのだ、と、自分がそこまで考えたことに、アリスは驚いた。

風が吹き抜ける。
今の時間帯に変わってから、ずいぶんと長く経ったと思うのだが、時はまだ変わるつもりがないらしい。


(変わらなければいいのに)


そうしたらずっとこのまま、エリオットと居られる。


(きれーい……)


抜けるような空に、金色の麦の穂。
この清い光景は眩しすぎて、アリスは目を細めた。

夕方になれば、ここは一体どんな様相になるのだろう。
きっと、一面オレンジ色になる。その鮮やかな光景を見てみたい、と思った。

ふと、アリスは自分の言動を省みて、我に返った。


(……まずいんじゃないの、これ)


好きだと言ったも同然だ。
考えることが苦手だというエリオットが、核心に気づかないでいてくれるといいのだが。

気づかれないなら、流してしまえる。仕切りなおすこともできる。

こんなことを言うつもりじゃなかったのに、と後悔したが、遅かった。


(ど、どうしよう……)


これは確実にエリオットのせいだ。
エリオットが変なことを言い出すから、焦って口が滑ってしまったのだ。

アリスは、エリオットがさっきから無言のままでいることに気がついた。

何を思っているのだろう。
先ほどのアリスの言葉だろうか――深く考え込まれてはまずい。

そうっと様子を見ると、エリオットの表情は固まっていた。


(……やばい)


もしかしなくても、気づかれてしまったのか。

エリオットは、アリスの方をちらちらと窺っている。
視線がぶつかりそうになり、アリスは慌てて目を逸らした。

やや沈黙が重たくなってきた頃、エリオットがおずおずと切り出した。


「あ……あのさ、アリス」
「う、うん?」


ぎこちなく名前を呼ばれ、アリスは冷静を装いながら視線を向けた。

エリオットは何やらもじもじしている。
大の男が、と思ったが、エリオットなら不気味でもなんでもない。ただ可愛い。


「さっきの、って……その」


照れながら言わないで欲しい。
彼の頬には朱がさしているし、その瞳は期待にきらきらと輝いている。


(か、可愛いじゃないのっ!)


破壊力は抜群だった。

エリオットの照れが、アリスへと伝染する。
アリスは頬を染めながら、そっぽを向いた。


「知らないっ」
「うお、怒るなって。アリスー」


気分を害してしまったと誤解したエリオットは、慌ててアリスの顔を覗き込んだ。


「怒ってないわ」
「じゃあ、拗ねてるのか?」


素直に頷くには自分の矜持が許さず、答えてやらなかった。言葉の代わりに、頬が赤みを増す。


「……抱きしめていいか?」
「……」


エリオットはうずうずと、期待の目をアリスに向ける。
アリスはその可愛さに動揺してしまい、ただ目を瞬かせることしかできなかった。
そして、頷くには、タイミングを逸し過ぎていた。


「だめ」
「えええっ!? な、何でだよ!」


アリスはそっけなく言うと、距離を取ろうとした。
駄目だと言われたにも拘らず、エリオットは反射的にアリスを引き止めていた。

動作はエリオットの方が早かった。
アリスはエリオットの腕に捕らわれる。

アリスは、エリオットの腕をぐいぐいと押し返した。


「あーもう、恥ずかしいからよ! 離れなさいよっ!」


エリオットは抵抗をものともせず、アリスをぎゅっと抱きしめた。
照れも手伝って、アリスは彼の腕の中でじたばたしてみたが、びくともしない。


「可愛いな、あんた」


エリオットが精悍な顔つきになる。
ただの可愛い兎さんではなく、異性を感じさせるような、大人の男の人だった。
エリオットは、愛しそうな眼差しを、惜しみなくアリスへ注ぐ。


「アリス」


耳元で名前を囁かれ、アリスはびくりと体を震わせた。


「俺はあんたが好きだ。すっげー好きだ。あんたは俺のこと、どう思ってる?」
「……」


エリオットは、好意を真正面からぶつけてくる。逃げ道を用意してはくれない。


(言葉にして欲しい、って、ことよね)


否定はできないけれど、肯定もできない。
アリスにはアリスの事情がある。

下手なことは言えない、とアリスは押し黙った。
心臓だけがドキドキとうるさい。アリスと密着状態にあるエリオットにも、この動悸は伝わっているのだろうか。

答えないアリスに焦れたのか、エリオットはやや早口で言葉を加えた。


「なあ、アリス。俺、あんたとずっと」
「な、内緒」


これ以上、この甘ったるい空気には耐えられそうになかった。
視線を外しながら苦し紛れに返すと、エリオットはじーっとアリスの顔を覗き込んだ。


「内緒か……ふーん」


その声音には、不満が滲みでている。視線も随分と物言いたげだ。


「な、なによ」
「いーや? 別にー?」


何でもないと言うが、そんな風には見えない。


「ねえ、エリオット。聞いて」
「何だ?」


こんな時に口にする話題ではない。
場に全くそぐわないことはわかっている。


(ああ、雰囲気ぶち壊しだよね……)


けれど、真剣に話し合うには今がいい、とアリスは思ったのだ。


「私、元の世界に帰るの」


アリスが口にした途端、エリオットは表情を消した。


「何だって?」


酷いことを言っている自覚は、ある。
けれど、言っておかねばならないのも確かだ。


「元の世界に帰る。エリオットとは、ずっと一緒には居られない。お互いに傷つくわ」


今言っておかなければ、この先アリスが言えるとは思えない。
傷は浅いほうが良いに決まっているし、今なら踏みとどまることができる。

この想いも何もかも――捨て去るにはもう、辛すぎるけれど。

エリオットは、アリスの言葉を静かに聞いていた。
やや沈黙した後、口を開く。


「帰らなきゃいいじゃねえか。ずっとここにいれば」


エリオットは甘言を囁く。
その甘い誘いに乗ってしまえたらいいのに、と唇を噛みながら、アリスは首を振った。


「できないの。何か、すごく……帰らなきゃいけない、って、ずっと」
「駄目だ」


冷たい声音に顔をあげると、エリオットが真剣な瞳でアリスを見据えていた。


「エリオット?」


誰だろう、この人は。

そう思ってしまったぐらい、エリオットがまるで別人のように見えた。
初めて見るエリオットの表情に、アリスは漠然とした不安を覚えた。


「帰さない」
「帰るわ」


エリオットの強い意志を感じて、アリスの不安は膨らんでいく。
けれど、頷いてしまうわけにはいかなかった。


「帰さないって言ってるだろ。駄目だぜ」


エリオットの視線は鋭い。
ああ、こんな顔をする人だったのか、とアリスは呑気なことを考えた。


(怖いウサギさんだわ)


もしかすると、近づいてはいけなかったのかもしれない。

そう考えてしまった程に。
けれど、その想いは、浮かんだ直後に消え去った。

こんなに強い視線を、今まで向けられたことなどなかった。
だから、気づくことができずにいた。

エリオットが守っていてくれたから。


「だって」
「だってじゃねえ。帰さないっつったら帰さねーよ」
「聞きなさいよ」


アリスは、エリオットの耳をぐいっと鷲掴んだ。
こうでもしなければ、此方の話など聞いてくれない。

いや、聞いてはくれるのだ。理解してはくれないだけで。


「エリオットは死ぬって言うし、私はエリオットに釣り合わないし、エリオットはにんじんばっかり好きだし、エリオットはブラッドの方が絶対に好きだし、どうしたらいいのよ」


アリスは一気にまくしたてた。
心に閉まっておいた――ずっと閉まっておくつもりだった――気持ちを、盛大にぶちまける。


「え、あ、ちょ、アリス、落ち着けっ!」
「もう! 全部あんたのせいよ!」


ばしばしと力任せに叩くが、さほどダメージはないだろう。


「あー……あんたは俺のこと、好きだよな?」


アリスは開き直ることに決めた。
何故エリオットが疑問系で確認してくるのか、薄い殺意すら覚える。

言動ひとつを取っても、どこからどう見てもアリスがエリオットが好きだとしか思えないではないか。

珍しく、アリスは素直に乗っかることにした。


「そうよ。だから困ってるんじゃないの。どうしてくれるの?」
「ああ、責任は取ってやるよ。俺があんたをずっと守る」


エリオットは強く断言した。
ここで感動するところなのだろうが、アリスは微妙な顔をした。


「……」
「な、何で、ここでそんな顔するんだよー。ここはほら、顔を赤らめるとかさー」


エリオットは抗議するが、自分にそんな乙女な反応を期待する方が間違っている。
エリオットの苦情を無視して、アリスは低い声で呟いた。


「エリオット。ブラッドと私、どっちが好き?」
「め……目が据わってるぜ? アリス」
「どっちよ」


アリスにとっては重要なことだ。
エリオットが悩むことになったとしても、遠慮はしない。


「んー……うー……」


エリオットは唸りながら、深く考え始めてしまった。
意地悪すぎたかな、とアリスはため息をひとつ吐いた。ひとまず、これは保留にしておこう。


「……じゃあ、にんじんと私だったら、どっちが好き?」
「そりゃ、あんたに決まって」
「ずっとにんじんケーキが食べられなくっても、私が好き?」


言葉尻に被せるように付け加えると、エリオットは言葉に詰まった。


「う。うー……あ、あんたが好きだ」


愛は本物だ。アリスは安堵した。
そうしてまた、先ほど保留になっていた質問を繰り返す。

なんて欲張りなのだろう、と自分でも思う。
にんじんに勝っただけでは、まだまだ満足できない。


「ブラッドより?」


追撃すると、エリオットは小さく唸り声をあげた。


「そりゃ、ブラッドはすっげー尊敬してるし、大好きだけど、あんたに対する好きとは違うっていうか……」


その答えで十分だった。
アリスの口元に微笑みが戻る。


「そう。じゃあ」


尚も質問を続けようとしたアリスを、エリオットは慌てて制止した。


「待て、待ってくれアリス。あんたばっかり質問するのはずるいぜ。俺からも、あんたにひとつ質問だ」
「何よ?」
「俺と、あんたの姉さん。どっちが大事だ?」


思いがけない質問に、アリスは目を瞬かせた。
なかなか痛いところを突いてくる、と小さく息を吐く。

ロリーナとエリオット。
アリスにとって、どちらが大事かと言うと――。


「そっか、これは困るわね。エリオットにとって、ブラッドと私のどっちが大事かっていうのと同じくらい、困るわ」
「え、困るかー? あんたの姉さんより、俺が好きだろ?」


ついさっき、返答に困っていたではないか。
そこにはあえて突っ込まず、少し考え込んだ後、アリスは頷いた。


「そう……そうね。エリオットが好きだわ」


ロリーナのことも大切だ。
我侭を承知で言わせてもらえば、どちらも捨てたくはない。捨てられない。


(姉さん……)


姉の儚い笑顔を思い出す。

大切だった。
今までも、これまでも。

愛していたのは確かだけれど、同時に劣等感も感じていた。その差分で、エリオットの勝ちだ。

アリスが答えると、エリオットの耳が嬉しそうにはねた。


「なら、あんたは元の世界には帰らない」


アリスは口を噤んだ。
帰らないとするりと言えたら、どんなに楽になれることだろう。


「って、何でそこで悩むんだよ」
「だって、悩むんだもの。エリオットに嘘はつきたくないわ」


嘘をつけば一時しのぎにはなるだろう。
けれど、エリオットに対してだけは、誠実でありたい。

たとえ、誠実でありたいが故に、彼を傷つけてしまうことになったとしても。


「……あんた、俺のこと、そんなに好きじゃないだろ」
「え。どうして?」
「だって、あんたは帰るって言う」


エリオットは、とうとう拗ねてしまった。兎耳が力なく垂れ下がる。


「元の世界と俺と、同等には扱ってくれねーんだろ?」


天秤にかけるまでもないと思われている、とエリオットはぶちぶちと呟いた。


「そんなことは……ないわよ。だから迷ってるんじゃない」
「それもそうか」


秤にかけていないわけがない。
もしそうなら、アリスはもっと、すっぱりと決められる筈だ。

アリスが答えると、エリオットはあっさりと納得してくれた。耳に力が戻る。

エリオットは、アリスを抱く手にそっと力を込めた。


「覚えててくれ、アリス。俺は、あんたが帰っちまうのは嫌だ」
「……うん」


複雑な思いで、アリスは頷いた。
嬉しいと思っていいのか、枷だと取っていいのか、迷う。

エリオットの声は真剣そのもので、耳に優しい。


「大好きだ」


彼の言葉は、すんなりと心に染み入る。







===== あとがき ===

2008年10月発行『三月兎の名の下に』より。

エリオットとデート。もうちょっと続きます。