三月兎の名の下に











命の動力源になっているのは時計。
この世界の誰もかれもが、胸に時計を持っている。

体はすぐに壊れてしまうけれど、時計は修理可能なものだから。
修理されれば、何事もなかったかのように再び動き始める。

だから、死の概念は、ここではものすごく希薄だ。

死んでしまった体。
壊れてしまった体。

体はただの入れ物にしかすぎない。
大事なのは中身の時計だけ。

その中でも本当に大切なものは、一部の時計だけだ。
エリオットのような役持ちのものが、顔なしのそれよりも遥かに大切とされている。
だから必然的に、両者の力関係も決まってしまう。

けれど、実はその理由すら他愛のないことだ。

ゲームには役持ちが必要だから。それだけのこと。

逆を言えば、顔なしと役持ちは、それぐらいの差しかない。
エリオットとて駒のひとつに過ぎないのだ。

機会は滅多にないが、死はエリオットにも訪れる。

役持ちが顔なしにやられることは、まず無い。
だから、他の役持ちとの本気の戦闘になった時に、いくらか死の可能性がでてくるのだろう。

けれど、そう簡単にはこの仮初の生を手放すことができない。
自殺願望などないから、進んで死に飛び込むような真似はしないけれど、しがみつく程には執着がない。

一度死ぬからには、まるっきり別の存在になるのは避けられない。
それがルールだが、それを嫌う者は確かに存在する。

三月兎というカードは、ゲームに必要だ。

エリオットがいなくなっても、また別の三月兎が現れるだろう。
中身の時計はそのままで、器は別のものに。役持ちに欠けることは許されない。

そう、何度だって繰り返す。
まるで呪いのごとくつきまとう、この世界のルール。

その時計が修復不可能なほど壊れさえしなければ、延々と世界は繰り返されていく。
時計が完全に破壊された時、やっとこのゲームから外れることが許されるのだ。






かつて、この狂った世界からの永遠の離脱を望んだ男がいた。

その男はエリオットの友達だった。
親友と呼んでもいい間柄の。

時計を壊すことは大罪だ。
重大なルール違反になる。

男はそれがエリオットの罪になることも承知の上で、エリオットに時計を壊してくれるよう懇願した。

エリオットは友の願いを受け入れた。
大切な友達の頼みだから、自分の罪になろうがどうなろうが、きちんと壊してやろうと思った。
あの時の友の顔を、エリオットはきっと忘れないだろう。

こうして、銃を手にした兎は、友の時計を破壊した。
間もなく時計屋の一派から追手がかかり、エリオットは投獄されることになる。

脱獄した三月兎。願いはひとつ。

ブラッドに、いつか自分の時計を壊してもらうこと。
いつか『死』に、時計屋に修理されてしまう、その前に。そうして、きっとこの世界から抜け出すのだ。

ブラッドはエリオットを超える、世紀の大罪人となるだろう。
エリオットの時は、エリオットが役持ちであったから死罪にならずに済んだ。

けれど、ブラッドは?

役持ちが役持ちを完全に壊す。世界はどう補完してくるつもりだろうか。
エリオットに、その結末を知ることはできないけれど。
だからエリオットは今、ブラッドに献身的に尽くす。エリオットにとって、ブラッドだけが一筋の光明なのだ。

けれど、一体誰がブラッドを殺してくれるのだろう。

終わることのない狂った世界に、誰もが飽き飽きしている。
変化は、あってないようなもの。価値あるものも、皆無といっていい。

時間すらも狂った、ゲームで成り立っている世界。

そんな中でも、エリオットは狂っていると評されることが多い。

時計を破壊するなんて。
まして、役持ちであるのに、己の時計を破壊しようとしているなんて。

けれど、誰がエリオットを責められるというのだろう。

ここには、正常なものは何ひとつとしてない。
そんな世界で、まともで居られるというならば、もう既に狂っている。

皆が皆、そんなものしか抱えられない。
結果、達観するしかない。
皆が『生まれた』時から世界はこういうルールだったし、これからも変わらない。

変えることもできない。
ならば、受け入れるしかない。

尤も、そこへたどり着く過程には、多少の迷いや悩みはつきものだけれど。
単に、面白いか、面白くないかが行動指針になる者も多く居る。
傍目からは享楽的な考え方にうつるだろうが、それはそれで、前向きな判断であることには違いない。

エリオットの願いは未だ叶えられることなく、彼は今日もこの世界で生きている。






ある日突然、『すごく珍しいこと』が、帽子屋屋敷に舞い込んだ。

その珍事を、エリオットはうっかり撃ち殺してしまうところだった。実際、エリオットは撃った。
ブラッドが間に入ってくれなかったら、その女の子は確実に死んでいた。

長い栗色の髪に、丸くて大きな青い目。
ブラッドの嫌いな朝の色のような、鮮やかな空色の服。

普通にか弱い、普通の女の子だった。

その女の子が余所者だ、ということ以外には、何一つとして特別なことはなかった。
ブラッドから、この子が余所者である、と言われた時には、我が目を疑った。

そして、一目で見抜けるブラッドはやっぱりすごい、と思ったのだ。
自分には全然わからなかった。
双子の門番達にもわかってなかったから、やはりブラッドが凄いのだ。

それでも、エリオットは俄かには信じがたい思いだった。
余所者は、愛されるべき存在であるという。
それは御伽噺のようなもので、実際に目で見たことはなかったから、尚の事。

エリオットは、ブラッドから話を聞いている間、余所者――アリスを半分興味、半分警戒の目で見ていた。

すると、アリスは少し慌てた様子で、ここへ来た経緯を話し始めた。
ブラッドとエリオットの探るような視線は、彼女にとって少々居心地が悪かったのだろう。

アリスはちゃんとした家で育った、品のよさそうなお嬢さんに見えた。
エリオットとはまるで違う世界に住んでいるような。
自分達のような者と接触したことなどなさそうだったから、怯えるのも無理はないなと思ったものだ。

アリスの口から、時計屋に会ったという件を聞いた時点で、エリオットの警戒は同情へと変わったのだった。

同時に、撃ち殺さなくてよかったと思った。
せっかく舞い振ってきた珍しいことを、みすみす潰したくはない。

それはきっと、ブラッドも同じだったのだろう。
でなければ、わざわざ滞在を勧めるようなことはしなかったはずだ。
結果、割とごり押し気味ではあったが、アリスは帽子屋屋敷に滞在してくれることになった。

アリスはとても優しくて、いい子だった。
小さなかすり傷でも、アリスは本気で心配してくれる。エリオットを見て微笑んでくれる。

自分のような者にも。

それからだ。この狂った歯車が、妙な動きを見せ始めたのは。
正常な方向へ向かっているのか、更なる底へと加速しているのか、どちらなのかは分からない。

余所者の特性が理由なのかどうかは判らないが、アリスの存在は確実に周囲に影響を及ぼしている。
気まぐれな屋敷の主は度々アリスに構おうとしているし、凶悪な双子でさえアリスにまとわりつくようになった。

そして、エリオットもまた、すっかりアリスに懐いてしまった。

もともと少ない余暇すらも、できるだけ一緒に過ごしたい、と願ってしまうほどには。



+ + + + + + +



「アリスー!」


箒を動かす手を休めて、アリスが振り返る。

アリスは今、メイドの仕事をこなしている真っ最中だった。
アリスの方から、ただ客として滞在するのでは気が引けるから仕事を与えて欲しい、とブラッドに願い出たというからたいしたものだ。――双子に聞かせてやりたい。

いつもの青い服も似合っているが、このメイド服姿もなかなかに愛らしい。
顔なしと同じ衣装だという点には少し引っかかりを覚えるが、アリスにはよく似合っている。
同じ服装であるにもかかわらず、顔なしのメイド達に対しては、ついぞ思ったことのない感情だ。

アリスには、リボンもレースもよく似合う。
それに、愛らしい装いでもちゃんと中身が伴っている。それが最も重要なことだ。


(あいつら最低だもんなー、中身)


あいつら――有能であるには違いない部下たちを思い浮かべて、エリオットは渋い顔になった。

どんなに外見が美しかろうが、中身がアレでは駄目だろう。
むしろ、アレを寛容できるなら、それはそれで狂っていると断言していい。

彼らが先日も色々と面倒なことをしでかしてくれたことを思い出し、エリオットはため息を吐いた。あの修繕費用は高くついた。
比べて――と、エリオットはアリスへ視線を戻す。

アリスの何と可愛らしいことか。

アリスは本当に、可愛くて優しくて賢い。
この帽子屋ファミリーのオアシスのようだ。
いや、実際にオアシスだ。天使といっても過言ではないかもしれない。

たとえ本人が全力で否定してこようとも。特に、エリオットにとっては。


「エリオット、どうしたの?」
「なぁ、俺、あと二、三時間帯後には休暇なんだっ! あんたさえよければ、一緒に出かけないか?」


駆け寄った勢いで一気に言ってしまうと、アリスは目を瞬かせた。
あまりにアリスが目を丸くするので、目が零れ落ちてしまいそうだな、とエリオットはいつもハラハラする。

少し間をおいて、アリスは微笑んだ。


「ええ、そうしましょうか。エリオット」


たちまちエリオットの頬に朱がさしていく。

アリスに名前を呼ばれるのが好きだ。
彼女は、とても柔らかい声で名前を呼んでくれる。

そして、確かに自分がここに『居る』ことを、実感するのだ。



+ + + + + + +



「で、何処いく? どっか行きたいとこあるか?」


エリオットは、近くの壁にもたれかかった。
喜びを隠さない彼を見ていると、何故か、申し出を受けたアリスの方が照れくさくなってしまう。


「うーん、そうねぇ……長いお休みなの?」
「ああ!」


太陽のようなエリオットの笑顔を前に、アリスは目を細めた。

エリオットの耳が、嬉しそうにぴょこんとはねている。
アリスは迫り来る衝動を必死に抑えながら、無理矢理に笑顔を作った。

手がぷるぷるする。
引っ張りたい。思いきり引っ張りたい。


「エリオットは、行きたいとこある?」


話を振ると、エリオットはしばし考え込んだ。


「俺? んー……そうだ! こないだ、すっげぇ美味いにんじん料理の店を見つけたんだ! にんじ」
「わ、私はお茶の方がいいな!」


アリスは、慌ててエリオットの言葉を遮った。
エリオットには悪いが、にんじん一色のデートはできるだけ避けたい。


(嫌いじゃないけど……でも、さあ)


結果、エリオットはにんじん料理に夢中になってしまい――それはそれで、見ていて微笑ましいのだが――ムードもへったくれもない。
エリオットは気分を害することもなく、にっこりと笑う。つくづく、懐の深い男だ。


「そっか! あー、にんじんケーキが美味い店、前に行ったことがあったんだけどな……場所が思い出せねえ」
「エ、エリオット……あの」
「うん? どうした? アリス」


エリオットの曇りない笑顔を見て、アリスは言葉を詰まらせた。

この笑顔を前に、できればにんじん以外がいいです、なんて言えない。言えばしょげかえるのは目に見えている。
アリスは笑顔をひきつらせながら、視線をさ迷わせた。


「あのー、えっとー……私がお菓子を焼くから。だから、ちょっと遠くにピクニックに行かない?」
「マジでっ!? あんたが、俺のために!?」
「え、ええ」


苦し紛れの提案だったのだが、エリオットはいよいよ嬉しそうな顔になった。
瞳がきらっきらしている。覗けば星が見えそうだ。

エリオットはアリスよりもずっと年上なのに、全くそうは見えない。
図体だけ大きな子供のようだ。子供でも、こんな純粋さは、今時めったにお目にかかれないだろう。


「そっか……アリス! 俺、幸せだっ!」


不思議に思うと同時に、偏屈な自分と付き合おうなんて奇特なことができるのは、このぐらいでないと駄目なのかもしれない、とも思う。


「あんたと居られるだけでも嬉しいのに、その上、あんたの料理まで食べられるなんて……」


エリオットに強く抱きしめられたが、アリスの胸は罪悪感で痛んだ。

そんなに大層なものは作れないし、所詮、アリスは素人だ。
店で食べる方が、よほど美味しいものが食べられるのに、と卑屈な思いが胸に芽生える。


(でも、エリオットは喜んでくれるから)


けれど、エリオットは心から喜んでくれる。
嘘をつくのが下手な兎さんだ。そうして救われて、アリスはつい甘えてしまう。

ここのところ、彼に甘えすぎている。

その事を、アリスは今更ながら痛感していた。
手にした箒のことを思い出し、アリスは思考を切り替えた。

そう、今は仕事中だった。
まだ自分の仕事は残っている。
エリオットと外出するまでに終わらせられるかどうかを、ささっと頭の中で算段する。


「あ、私の仕事……間に合うかな? でも大丈夫、頑張るからね」
「仕事〜? そんなもん、他のやつらに」
「押しつけたりはしません。ところで、エリオット、今の時間帯は仕事なんじゃないの?」


アリスが意味ありげな視線を投げかけると、エリオットはぎくりと固まった。
本当に、態度に出やすい男だ。動きがそわそわと落ち着かなくなっている。


(わっかりやすー……)


けれど、エリオットが物凄くわかり易いから、アリスは安心する。

そして、エリオットが仕事を中断するのは珍しいな、とアリスは思った。
彼はこの帽子屋屋敷の中で、一番熱意を持って働いている。
そんな彼が、どうして仕事を途中にしてまで来たのだろう、とアリスは首を傾げた。

自分との休暇の約束を取り付けたかったから――だろうか。
けれど、仕事を後回しにする程の理由になりうるのだろうか?

休暇をアリスと過ごせることが大事だったのか――と考えて、アリスは考えを打ち消した。


(そんな馬鹿な)


そんな事が重要なことだとは思えない。
思考が乙女すぎるかな、とアリスは軽く自己嫌悪に陥った。


「あー……も、もうちょっとだけ」
「駄目よー。はいそこ、邪魔よー」


言いながら、アリスはさっさと箒を動かし始めた。

無駄にだだっ広いこの屋敷は、掃除をするだけでも一苦労だ。
エリオットとの外出までにはきちんと終わらせたいが、おそらく――ギリギリだろう。
お菓子を焼く時間が必要だから、もう少しスピードをあげなくては。


(……ん? 空気が重い?)


どんよりした空気を感じ取り、アリスは顔を上げた。そして、ぎょっとした。
エリオットの耳が、へにょっと力なく垂れている。


「アリス……俺のこと嫌いか?」
「嫌いなら、一緒に出かける約束なんかしないわよ」


悲しそうな顔になったエリオットにそう返すと、たちまちその耳が元気を取り戻す。
エリオットは感情がすぐ顔に出るが、彼の耳も同じくらいに正直だ。


「なら、好きか!?」
「うん、好きよ」


するりと言葉が出てきて、アリスは驚いた。
前だったらきっと、適当にはぐらかしていた筈なのに。

恥ずかしいと――思ったのだが、エリオットがあんまり嬉しそうに笑うものだから、芽生えた気恥ずかしさは、綺麗さっぱり消え去ってしまった。胸には温かいものしか残らない。


「そっか。俺も、あんたのこと大好きだぜ!」
「あ、ありがとう、エリオット」


真っ直ぐに向けられる好意に、アリスはたじろいだ。
せめて、とぎこちなく笑みを浮かべて返す。


「じゃ、行くか。さっさと終わらせてくる」
「ん。気をつけてね、エリオット」
「ああ!」


爽やかに答えると、エリオットは駆け出した。



走りながら、エリオットの頭は仕事の算段を始めていた。


(さっさと片付けなきゃな)


休暇を予定通り貰う為には、少しペースをあげなくてはならない。
本当は、アリスともう少し喋っていたいけれど――エリオットは、後ろ髪を引かれる想いだった。
アリスと居る時間は、とても優しい。


(俺がいない間、アリスは他の奴に会いに行ってることもある……気が抜けねえなあ)


大事なアリスを、変な輩に掻っ攫われてはたまらない。
できるなら、四六時中一緒に居たっていいくらいだ。


(いや、そうするべきなんじゃねえか??)


アリスは――警戒心が薄い。
いや、慎重な性格だとは思うけれど、それでもこの世界の基準と照らし合わせると、エリオットには甘く映る。

思わず心配になって途中で振り向くと、アリスが小さく手を振ってくれ、エリオットは嬉しくなった。
アリスに見送られる幸せを噛み締める。

あの時、殺してしまわないでよかった。

そうエリオットはつくづく思う。
アリスの話では、彼女の世界では、誰もが心臓をもっているという。

心臓。
それがアリスの動力源。

修理できない、代わりのきかないもの。

アリスは代わりがきかない。
だから、大事にしなければいけない。いや、大事にされるべきだ。


(大事にしてやるからなっ!)


アリスを大事にしない輩など、見つけ次第、片っ端から撃ち殺してやる。
エリオットの視線が細く、鋭くなる。

アリスはか弱い普通のお嬢さんだ。
だから、汚さないようにしなければならない。

そうして全ての危険から、ずっと自分が守ってやるのだ。



+ + + + + + +



「……はぁ」


エリオットの姿が完全に見えなくなると、アリスは溜息をついた。
緊張していたのか、箒を握っていた手がじっとりと汗ばんでいる。

エリオットは可愛い。可愛すぎる。
それに比べて、自分はなんと捻くれていることか。

彼の素直さには、全く歯が立たない。
自分よりも遥かに図体のでかい青年に、あろうことか可愛さで負けるとは、何たることだろう。エリオットは乙女の敵だ。


(あーもう。何でこんなことに)


エリオットが好きだ。アリスにも自覚はある。

恋愛沙汰には逃げ腰であることには、変わりない。
今も、そんなものは御免だと言い切れるし、なるべく押さえつけようともしている。
それでも、物陰に隠れながら、そろりそろりと近づいていっているように思う。完全に自制ができていない。


(エリオットのせいだわ)


自棄になったアリスは、エリオットに責任転嫁することにした。

エリオットは優しい。
初対面では速攻で殺されそうになったが、それを差し引いても優しい。

帽子屋ファミリーのbQで、権力のある人だ。
なのに、そういった部分はアリスには見せようとはしない。
いや、見せないよう気を使って隠してくれる。怖いことから守ってくれる。
それがアリスには嬉しかった。

兎耳を除けば、とても魅力的な男性だと言っていいと思う。
事実、エリオットは見目も十二分の良い。
オレンジ色のくるくるっとした彼の巻き毛はとても綺麗だし、大柄だが、筋肉のしっかりついた体はたくましい。
彼が疲れている時や愚痴を言いたい時なんかは、物騒な言葉がぽろぽろっと出てくるが、それぐらいは許容範囲だ。


(だけど、bQだもんねー……あんなに可愛いのに)


兎でマフィアで、にんじんとブラッドが一番の男だ。
短気で人の話を聞かなくて――と、好きになってはいけない理由をつけようとしたら、きっといくらでもつけられる。

今までアリスの周囲にはいなかったタイプだから、興味を惹かれているだけだ。エリオットもそう。

そう理由づけしようとしたこともある。
その努力は徒労に終わったようだけれど。

アリスの心は、確実に恋愛の方向に傾きつつある。
並大抵のことではもう、自分を誤魔化せない。


「……」


もっとしっかりしなくては駄目だ。
ガードしなくてはならない。もうこれ以上、心に入ってこられないように。

今はまだ、エリオットはアリスに対して親愛の情しかないだろう。
何でも頼っていい、と笑ってくれるから、遠慮なくアリスは甘えさせて貰っている。

今、アリスがエリオットを一番頼りにしていることは事実だった。

頼りない世界での、頼れるお兄さんだ。
下手に突っ走って関係を壊してしまっては、今後にも色々と支障が出る。

頭では、そう冷静に考えることができるのに。アリスは本日何度目かの溜息を吐いた。

どうも恋愛となると暴走しがちなので、できるだけアリスは動かないようにしている。
もう少し理詰めで自分を律しないと、ぼろが出るかもしれない。

エリオットは面倒見がいいから、その延長でアリスに構ってくれているのだ。
それだけだ――と自分に言い聞かせてみたが、あまり効果はなかった。

エリオットの情が、何かの拍子に恋愛の方向へ転がらないことを、切に願う。

もし、そうなってしまったら。

エリオットを傷つけることになるかもしれない。
いつか元の世界へ戻った時、エリオットの心にどんな形の傷跡を残してしまうのだろう。

ぞっとする。

アリスは、力任せに雑巾を絞り上げた。
そんな事をつらつらと考えている時間はない。今は、掃除をしなくては。
エリオットとの休暇の為に。

無意識に、アリスの口元は綻んでいた。

我ながら素晴らしいスピードで仕事を終わらせると、アリスはいそいそと調理場へ向かった。


(何がいいかなー)


調理台の上に材料を並べて、しばし睨めっこする。
小麦粉に卵に、砂糖にバター。それらが、台の上に山積みになっていた。

エリオットはその体格に見合って、よく食べる。
作りすぎたかな、と思う量がちょうど良かったりするのだ。

クッキーがいいか、マフィンがいいか、ガレットがいいか。アリスは考える。

焼き菓子のほうが、持ち運びはしやすいだろう。
時間はかかるが、パイはどうだろう。そうだ、またブレッドを焼いてもいい。

エリオットは、何でも美味しいと言って食べてくれるから、アリスは迷う。作り手冥利に尽きる。
あの光輝く笑顔を見られるならば、と、とびっきり美味しいものを作ってあげたい気になるのだ。

台の端には、にんじんがちょこんと鎮座していた。







===== あとがき ===

2008年10月発行『三月兎の名の下に』より。

ハートの国+帽子屋屋敷滞在設定です。