Tellus after - 新しい日々-
「行ってらっしゃい、エリオット」
アリスはいつもと変わらずに、笑顔でエリオットを送り出す。
アリスと一緒に暮らし始めて、この瞬間だけが寂しい。
エリオットは、仕事に行きたくないサボり常習犯の気持ちが、ちょっぴり理解できるようになっていた。
「おー、行ってくる」
暗い顔で出ていくのは駄目だ。
エリオットは明るく答えながら、それでもゆっくりとドアを開いた。
ドアを閉めて、アリスと離れる。この時が一番、辛い。
効率よく仕事を終わらせて、早く戻って来なければ。
仕事の算段をし始めたエリオットの背後には、アリスが立っていた。
「ねえ、エリオット」
「おわっ!? な、なんだ!?」
背後から抱きつかれて、エリオットは驚いた。
アリスの方から積極的なのは珍しい。
アリスはしばらくエリオットに抱きついていたが、す、と身を離した。
温かなアリスの感触が名残惜しい。
エリオットが振り返ると、アリスはじっとエリオットを見つめていた。
何かを訴えるような、青の瞳だ。
「……ううん、何でもない」
「そ、そうか……?」
「うん」
アリスは、言いたい事があっても遠慮をするようなところがある。
だから、エリオットは少し心配になった。
けれどアリスが頷いたので、それ以上エリオットは追及することが出来なくなった。
仕事前に話すのを躊躇っているのなら、帰ってきた時に話を聞いてやろう。
そう誓いながら、エリオットは部屋を後にした。
今日は特に、後ろ髪を引かれる想いだった。
仕事を半ば押しつけるような形で終わらせて、エリオットは早々に部屋へ戻ってきた。
押しつけられた部下は不平を口にしていたが、無視しておいた。
アリスは食事の用意を済ませて、エリオットの帰りを待ってくれていた。
「おいしい? エリオット」
「ああ! すっげー美味い!」
「そう」
アリスは微笑を浮かべながら、エリオットの食事風景を見守っている。
「あれ……アリス、食べねえのか?」
アリスはただ見ているだけで、目の前の料理に手をつけていない。
その事に気づいたエリオットは、ようやく食事の手を止めた。アリスは微笑んだままだ。
「ちょっと話があるのよ」
「話?」
ええ、とアリスは頷いた。
「あのね、エリオット……こうやってにんじん料理ばっかり作るの、まずいと思わない?」
「え、どこが? つーか、あんたの料理をまずいなんて思ったことないぜ!?」
慌てたエリオットが宣言すると、アリスは弱々しく首を振った。
「いや、バランスが悪いっていうか……ごめんね、言い直す。私が作るの飽きたのよ」
「なっ!?」
飽きた。
アリスは確かに、そう言った。
胸に衝撃が走る。エリオットは青くなった。
「そ、それ……つまり……」
「そう」
「おおお、俺と、別れたいってことか!?」
「ええ」
アリスは事もなげに言うと、スッと席を立った。
アリスの決意の表れのように、表情は硬い。
「じゃあね、エリオット。私、もっと偏食せずに料理を食べてくれる人を探すわ」
「ま、待てよ、アリスッ!」
「さよなら」
冷えた声音が、エリオットの胸に突き刺さる。
アリスは振り返りもせずに、エリオットの部屋を出て行く。
追い縋ろうとエリオットは立ち上がるが、立ち上がった途端にぐらぐらと目眩を感じて、しばらくその場から動く事ができなかった。
× × × × ×
「〜〜〜〜っ!!」
エリオットはベッドから跳ね起きた。
嫌な汗が額を伝っている。呼気を荒くしながら、エリオットは周囲を見回した。
「ゆ、夢……? アリス、アリスはっ!?」
もぞり、と隣で動く気配がした。
「ん……」
安らかなアリスの寝顔を見て、エリオットは一気に安心した。
「な、なんだ……そうだよな、夢だし、居るよな……」
しかし焦った、とエリオットは深呼吸を繰り返した。
気が整った所で、改めて思う。
(何だってこんな夢……)
不吉な。
というか、最も見たくない類の夢だった。
アリスがエリオットを見限り、出て行ってしまう夢なんて。
エリオットとアリスが結婚して、まだ間もないというのに。
思いもよらぬ所から撃たれたような衝撃だった。
そして、ふと思い当たった。
(……ナイトメアの野郎か?)
ナイトメアなら、意図的に悪夢を見せることが可能だ。
あの野郎、味な真似をしやがる。エリオットは拳を硬く握りしめた。
× × × × ×
「で、どーなんだよ。お前の仕業か!?」
エリオットは、早速クローバーの塔に乗り込んでいた。
思い立ったら即、行動が基本だ。
さっさと釘を刺しておかないと、またあんな夢を見せられてはたまらない。
疑いを向けられたナイトメアは、心外だと言わんばかりに首を振った。
「……失敬だな、エリオット。私はそんな悪趣味な夢はみせないよ」
「ふーん……」
どうだかな、と軽く睨みつつ、エリオットは不機嫌そうに相槌を打った。
そんな答えで納得できる訳がない。
そんなエリオットを見て、ナイトメアは苦笑いを浮かべた。
心を読まずとも、表情だけで解かる。
「第一、アリスに幸せになって欲しいんだ。君らが喧嘩することを望むわけがない」
「じゃあ、俺とアリスが別れたらいいって思ってねえんだな?」
「もちろん、思っているさ」
「どっちだよ!?」
やはり、油断できない男だ。
「そんな夢を見るということは、何か心当たりがあるんじゃないか?」
「心当たり?」
エリオットは眉を潜めた。
ナイトメアは惑わせるように神妙な顔をして囁く。
「そう。夢は現をあらわすもの。願望であったり、憂いごとであったり。それに、単純な君のことだ。無から生まれたりはしないだろう」
「単純は余計だ。けど、別に俺は」
「アリスに嫌われると思っている」
ふと、ナイトメアの眼光が鋭くなる。時々見せる、夢魔の顔だ。
普段のナイトメアは割と好きだが、この顔はいけ好かない。
「それはねえな」
エリオットは鼻で笑った。
そんな事ぐらいで、エリオットが動じる筈が無い。
ナイトメアは親切そうな笑みを作った。
「解決法を教えてやろうか」
「あるのかよ……。で、なんだ?」
「お前が、にんじん料理以外でも進んで食べるようにするといいのさ」
ナイトメアは、エリオットをわざと怒らせる為に言ったのだ。
けれど意に反して、エリオットは押し黙った。
指摘された心当たりが、あったのだ。
× × × × ×
そんな小さな騒動があって、数時間帯ほど後のこと。
「んじゃ、そろそろ行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
アリスは屈託のない笑顔で、いつものようにエリオットを送り出す。
耳を力なく垂らして部屋を後にするエリオットを見送った後は、掃除をして――と、この後の行動を考えていた時だった。
「なあ、アリス。今日の晩メシだけどさ」
エリオットは立ち止まると、アリスを振り返った。珍しいな、とアリスは思った。
「うん、何かリクエストしてくれる?」
「ああ。いいか?」
「もちろんよ」
アリスは俄然、張り切った。
エリオットは喜んで食べてくれるから、作り甲斐があるのだ。
(何かな……にんじんキッシュはこの間食べたばかりだから、パイとかグラッセとか? 新しい料理なら、教えて貰いに行かなきゃ)
エリオットは腕組みをすると『うーん』と考え込んだ。
「うちの料理長が、良いサーモンが入ったーっつってたから、それメインがいいな」
「サーモンね、わかっ……え?」
「あと、何って言ってたっけなー……アスパラか? なんか大量に仕入れたらしくて、できればそれも消化してやってくれよ」
「え、ええ……わ、わかった。でも」
「ん?」
普通の会話だ。
ごく普通の、ありふれた。その筈だ。
けれど、エリオットに限っては違和感がありまくりだった。
アリスは動揺しながら、念のために聞いてみた。
「メイン、にんじん料理じゃなくていいの?」
アリスが言うと、エリオットは複雑そうな表情になった。
そして、はあ、と肩を落とす。
「……アリスー……俺だって、たまには、にんじん料理以外も食べるぜ?」
「あ、ああ、そうよね、ごめんなさい。わかったわ、料理つくって待ってるから」
アリスは慌てて言い繕うと、今度こそエリオットを送り出した。
× × × × ×
重苦しい雰囲気を全身に纏いつつ、アリスは屋敷の廊下を歩いていた。
気持ちを示すように、その足取りに快活さは無い。
「……どうしよう」
悩みは日に日に強くなる。
持て余したアリスは、ブラッドの部屋を訪ねることにした。
「ねえ、ブラッド……」
「どうした? アリス。心配事かな?」
「ええ。聞いてくれる?」
紅茶の缶を賄賂に渡しながら、アリスは溜息を零した。
ブラッドは缶を受け取ると、機嫌良く紅茶の準備を始めた。
いつもながら、見事な手つきだ。
無駄なく流れるような動作で、たちまち部屋は紅茶の香りで満たされる。
アリスはソファを陣取りながら、ぼーっとその様子を眺めていた。
用意が整った所で、ぽつりと。
「エリオットが、何か無理してるのよ……」
ブラッドは紅茶を楽しみつつ、アリスの話に耳を傾けてくれる。
「無理? ああ、仕事に支障がでるかもしれないと悩んでいるのか? それならば心配ない。あいつは体力だけはある男だ。そんな素振りは」
「ない? 本当に?」
アリスは、真正面からブラッドを見据えた。
ブラッドは隠し事が上手いから、アリスに探り当てられるとは思えないけれど、それでも。
アリスの真っ直ぐな視線を受けて、ブラッドはからかうような表情を改めた。
「……ああ、ないな。どうしたんだ、真剣だな」
「真剣に悩んでるのよ」
そうして、やっとアリスはティーカップに口をつけた。
「あいつは、それほど君に無茶をさせているのか?」
「私はいいんだけど、ね。エリオットが無理してるの」
「……ほう」
何故か、ブラッドは視線を彷徨わせた。
小さな咳払いをして、口を開く。
「仲睦まじいことは結構だ。けれど、君には話しにくい事だろうが、きちんと話し合いなさい」
「……そうね、ブラッド。そうする」
たまには良いことを言う。
話し合わずして解決は望めない。一方が悩むなら、まずは話をするべきだ。
(簡単なことなのに、気づかなかったなあ……)
いや、気づかない振りをしていたのかもしれない。
エリオットは頑なに、にんじん料理を避け続けている。
彼が、意図的に避けている事は明らかだった。
何かしらの意思があるのなら、その理由を問い詰めるのは悪い気がしたし、しつこく聞いてエリオットの機嫌を損ねるのが怖かったのだ。
(話、しなくちゃね)
アリスは覚悟を決めると、立ち上がった。
ブラッドに礼を告げると、部屋を後にする。
全く会話が噛みあっていなかった事に、二人は最後まで気づかなかった。
× × × × ×
朝から夜へ、時間帯が切り替わる。
経過した時間帯を指を折って数えながら、アリスは立ち上がる。
そろそろ、エリオットが帰ってくる頃合いだ。
湯を沸かそう、とポットを火にかけた時だった。
「あ〜〜……疲れた……」
ドアの開く音がして、アリスは振り返る。
点けたばかりの火を消して、足早に彼のもとへ。
「おかえりなさい、エリオット」
「ただいま、アリス」
エリオットは柔和に笑うと、アリスを抱きしめた。
怪我をしていないようで、アリスもホッとした。
ここのところ、仕事が忙しいようだ。
アリスに戻ると約束した頃には必ず帰ってくるけれど、徐々に疲労の色は濃くなっていく。
いつか倒れてしまわないか、アリスは心配していた。
「ねえ、エリオット。今日は、にんじん料理にしましょうか」
「え」
休息も、満足に取れていない。
なら、せめて食事ぐらいは好きな物を食べて、元気を出して欲しかった。
「しばらく食べてないでしょ? 料理長さんが、エリオットが食べる分を見越して仕入れたのに減らないーって嘆いてたわよ」
それは本当だ。
エリオットが一切にんじんを口にしなくなってから、屋敷のにんじん消費量はゼロになってしまった。
(理由があれば、食べてくれるかも)
アリスは淡い期待を抱く。
けれど、エリオットの反応は芳しくない。
「あー……別のにしねえ?」
「……」
強情だ。
心が揺れ動いたのは明らかなのに、何故そこまで意地を張る必要があるのだろう。
アリスは、大きく溜息を零した。
「ねえ、エリオット。急に、にんじん料理を食べなくなったのはどうして?」
「え……そうか?」
「そうよ」
往生際が悪い。
エリオットはとぼけるつもりらしいが、アリスは誤魔化されない。
「まさか、余所で食べてきてるの? それとも、今まで美味しいって言ってくれたけど、実は不味かった?」
エリオットはアリスに気を使って食べていた説も、実は考えた。すぐに無いな、とは思ったが。
エリオットは幸せそうに食事をするから、彼が本当に喜んでいるのは態度でも丸分かりだし、何よりも――彼には、彼以上に正直な長い耳がある。
けれど、今まで様々なにんじん料理を食べて来たであろうエリオットは舌が肥えているから、と考えてみると、あながち可能性ゼロとは言いきれなかった。
(もしそうなら、ごめんとしか言いようがない……)
口に出すと、悲しくなってきた。じわりと視界が霞む。
エリオットは目に見えて狼狽した。
「な、なんでだよ!?」
「だって、そうとしか……兎っぽいって言ったの、まだ根に持ってるとか?」
「ちげーよ!」
そういえばそんな事もあったな、とエリオットは思い出した。
あんな些細な事で喧嘩をしたのは――ついこの間のような気がするのに。
違うと強く否定されて、ちょっぴり気が晴れてきた。
アリスは目を擦ると、エリオットの手を取った。
「ねえ、私の旦那さまは、奥さんに隠しごとをするつもりなの?」
「だっ……旦那、って」
「あなたの事よ」
頬を染めるエリオットを見つめながら、できるだけ可愛く聞こえるように言う。
アリスは、今すぐ耳を塞いで逃げ出したくなる衝動と戦った。
恥ずかしい。心底恥ずかしい。
言われるエリオットよりも、言っているアリスの方がよっぽど。
雰囲気を和らげたエリオットの手を引くと、ソファへ腰かける。
エリオットは、大人しくアリスに連行されてくれた。
「私、ちゃんと聞くわよ? 話し合いしてこその夫婦だと思うのよね」
念を押すように、エリオットの目を見る。
「……夫婦」
「うん。本当に、食べなくなったのは偶然なの? 意図的に避けてるでしょう?」
「……あ〜……」
エリオットはバツが悪そうに、そわそわしている。彼の答えは明白だった。
エリオットは諦めて息を吐くと、徐にアリスを抱き寄せた。
アリスの肩にぼすっと頭を乗せると、観念したのか、力なく白状する。
「……格好悪ぃ事だから、あんたには言いだせなかったんだ」
「エリオットは、そのままで十分に格好いいわよ」
「格好つけたいんだよ、あんたには」
不貞腐れるエリオットが可愛い。
落ちつかせるように頭を撫でてやりながら、アリスはエリオットが話し始めるのを待った。
「……夢を見たんだよ。あんたが、にんじん料理ばっかり作るの飽きたーっつって、出て行く夢」
「へ?」
打ち明けられて、アリスは面食らった。
夢?
エリオットはブツブツと続ける。
「最初は、ナイトメアが仕掛けてきたのかと思ったんだけどよ。本人に聞いたら違うって言うし」
「それで、遠慮してたの?」
エリオットは顔をあげた。
至近距離で顔を突き合わせている構図になる。
「ああ、そうだ。あいつが、そうした方がいいぞーとか言うから」
「……」
アリスは言葉を失った。
大きな体躯なのに、まるで子供のように見える。
(まさか、夢が原因だとは思わなかったな……)
予想外にも程がある。
アリスに思い当たらなくても当然だった。
本当に、些細な問題だったのだ。
話し合えば解決するような、そんなささやかな。
悩んでいる当人にとっては、大きく見えてしまうものだけれど。
(しょうがないなあ……)
思いこんで突っ走るのは、アリスとて同じだ。
案外、エリオットとアリスは似た者同士なのかもしれなかった。
「エリオット」
アリスはエリオットを抱きしめた。今、もっと彼とくっついて居たかった。
「私ね、エリオットが作った料理を美味しそうに食べてくれるのが嬉しいのよ」
言い含めるように、声をかける。清々しい気持ちを、満たしていく。
「だから、作らせてよ。もっと」
「……アリス……俺」
ごめん、とエリオットは項垂れた。
「最初から、あんたに言えば良かったんだよな」
一人ではなく、今は二人なのだから。
そんな事すら、まだまだ手探りだ。
アリスが微笑んで返すと、エリオットの口元は緩んだ。
顔を寄せられ、アリスは自然と目を閉じた。
唇を重ね合い、互いの体温が混じり合う。
緩慢な思考で、アリスはふと思った。
(……ナイトメアにも、きつく言っておかないとね……)
面白がってエリオットを煽るんじゃない、と。
まだ築いていく最初の段階なのに、横やりを入れられてはたまらない。
アリスとエリオットは、全てが、これから新しく始まるのだから。
【新しい日々/了】
===== あとがき ===
2011年12月発行「ラビット・ライフ」より。
エリオットとの、おだやかな暮らしを。
ではでは、読んでくださってありがとうございました!