make-believe play -2nd-









「わかった。すぐ向かう」


ぱたり、と扉が閉じられる。
ブラッドの部屋を出たエリオットの表情は、やや曇っていた。


「ん〜……」


手にした指示書を半ば睨みつけながら、エリオットは無意識に溜息を零していた。
次の仕事の指示を、もう一度読み直す。


「……」


何度読み返してみても、書かれている内容は変わってはくれない。
これは、少しばかり困ったことになった。


(どうすっかなー……)


アリスに何と言えばいいだろう。

取る選択に迷いはないものの、話の切り出し方にエリオットは迷った。

言葉が上手くないと、こんな時は不便だ。
考えながら、エリオットはアリスを求めて屋敷内をさ迷う。
無意識のうちに、右手が指示書をくしゃりと握りつぶしていた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「アリスー」
「エリオット?」


手を休めて振り返れば、エリオットの姿がある。
上司の登場だというのに、全く緊張しないのは如何なものか。


「なあなあ、アリス。俺……」


言いかけて、エリオットは途中で言葉を切った。
気まずそうな雰囲気を漂わせて、言葉を探しているようだ。


「……あー、その、な」


言いにくそうにしているエリオットを見て、アリスは首を傾げた。
エリオットは何を言いたいのだろう。これは、よくわからない反応だ。


「ちょっと待って、もうすぐ仕事が終わるから。終わったら、すぐにあなたの部屋に行くわ」


と、アリスは提案してみた。
もう少し時間があれば、きっとエリオットは話をまとめてくれるだろう。


「あ、ああ……わかった。待ってる」


延期されて、エリオットは安心したのか、ふっと表情を和らげた。
異を唱えることなく、くるりと踵を返すと、素直に退散する。

その広い背中を見送りながら――アリスの頭には、疑問符がいっぱい浮かんでいた。


(変なの……何だろう??)


アリスが意味なく目を背けたくなる程に、いつも直球ストレートなエリオットが、ああいった態度を見せるのは珍しい。
よく分からないが、彼が今、困っていることだけは分かる。


(はやく行かなきゃ)


急いで仕事を終わらせると、やはり駆け足でエリオットの部屋へと向かう。


「エリオット、入るわよ」


内からの返事を待たず、入室する。


「お。来たか、アリス」


エリオットは、自身のベッドに身を投げ出していた。
アリスが部屋に来たことに気づくと体を起こしたが、なんとなく芯が定まらない様子だ。


「あ〜……」


口を開きかけ、視線をアリスに向けたかと思えば、視線を逸らしてそわそわし出す。
今日のエリオットには、落ち着きがない。常も落ちついてる方ではないけれど。


(おかしいなあ……今日は特におかしい)


エリオットは、わかりやすく挙動不審だ。


「どうしたの? エリオット。さっきから、ため息ばっかりついちゃって」
「う……」


最初は黙って待っていたアリスだが、早くも焦れた。
エリオットよりアリスは我慢強いけれど、これ以上、空気が妙になるのを耐えられなかった。

エリオットは小さく唸った後、決心したようで、ようやく重い口を開いた。


「あ……あのな、アリス」
「なに? エリオット」


エリオットが語りやすいよう、アリスはわざと小ざっぱりと返す。


「ちょっとさ……話、あるんだ」
「……話って?」


アリスはどきりとした。
いつものエリオットにはない、歯切れの悪さがある。
改まった様子で言われ、緊張しないはずがない。


(あんまり嬉しそうじゃない、よね……悪い話?)


正直に打ち明けてもいいのだろうか。
それとも、このまま黙っていた方がいいのだろうか。

エリオットの目を見ていると、そんな揺れ動き方をしている。
あまり良い内容ではないだろう、とアリスは緊張を膨らませた。


「俺、でかい案件があって、しばらく屋敷に戻ってこれねーんだ」
「え」


アリスは面食らった。


(……仕事? 仕事の話なのか……良かった)


ひょっとしたら『もう別れたい』レベルの告白なのかもと身構えていただけに、いささか拍子抜けしてしまう。
もっとも、勝手に身構えていたアリスが悪いのだが。


「しばらくって……どのくらい?」


尋ねると、エリオットは申し訳なさそうに、小さく首を振った。


「わかんねえ……上手くいけば、五十時間帯くらいか?」
「五十!?」


アリスは思わず声をあげた。
エリオットはすまなそうに頷く。長い耳が、力なくしょげかえっている。


「んー、多分、そのくらいはかかる。それより短いかもしれねえけど、もっとかもしれねえ」
「五十時間……」


アリスは呆然と繰り返した。
そんな長い時間帯、エリオットと離れたことがない。


(……無理)


無理だ、とアリスは思う。
長い時間を、どう時間を過ごしていいのかわからない。

これまでも、ある程度まとまった時間帯、エリオットと離れていたことはあった。その時は、まだ平気だった。
けれど、それは『あと数時間帯でエリオットが帰ってくるんだ』と思えたからであって――今回のこれは、我慢できるかどうか自信がない。

だからといって、エリオットを責められない。
そもそも仕事なのだから、アリスが口を出せることではないのだ。

ただ、苦しいだけだ。
エリオットが居ない事が、アリスには苦しい。

鬱屈した想いは、はけ口がない。
アリスが独りで消化するしかない想いだ。
苦しむであろうことが容易に予測できてしまい、今、もう落ち込みそうになっている。


「……でさ、こっからが本題なんだけどよ」
「うん……」


落ち込んでくる気分と戦いながら、アリスはエリオットの言葉を待つ。
アリスがのろのろと顔をあげると、エリオットの緊張した表情が目に飛び込んできた。その視線は力強い。


(あれ? そういえば、本題って言った?)


まだ何かあるのか、とアリスは目を瞬かせた。
エリオットは、気を落ちつかせるようにひとつ深呼吸すると、徐にアリスの手を取った。


「アリス、俺と一緒に来ないか?」


彼からの思わぬ誘いに、アリスは目を丸くした。
予期せぬことが起こると、人は頭がうまく働かなくなるらしい。


(いっしょに)


エリオットと一緒に。


「……一緒に? 私が?」
「ああ。俺、あんたを連れて行きたい。駄目か?」


懇願するような、どこか窺うような目。
重ねられた手から伝わる温もりは、熱いほどに。


「そんなの、勿論」


アリスの口は自然と開いていた。答えはひとつに決まっている。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「戻ったぞー」
「おかえりなさい、エリオット」


アリスが声をかけると、エリオットはみるみる視線を緩ませた。表情が、凛々しくも優しいものとなる。


「おう、ただいま。何か変わったことはないか? 不自由してることは?」


アリスは首を振った。
自分の顔が、だらしなく緩んでいるのがわかる。


「ううん、特にないわ。飲み物をいれるから、その間にコート脱いじゃったら?」
「ああ!」


エリオットは言われるまま、いそいそとマフラーやコートを脱ぐ。
もちろん、一式をクロゼットに片付けることも忘れない。

ついた汚れは時間が経てば勝手に落ちるものだし、くしゃくしゃにしても型崩れすることはない。
だから、そうきちんとしまっておかなくても、本当は問題はないのだ。

けれど、エリオットは毎回きっちり片付ける。
普段は割と大雑把なくせに、その辺り、エリオットは几帳面だった。


「は〜〜〜……出先でも、休む場所であんたが待っててくれるっていうのは、なんていうか、幸せだよな〜〜」


アリスに絡みつきながら、エリオットは幸せそうに息を吐いた。


「幸せって……大げさね」
「いーや、ちっとも大げさじゃないぜ? あんたを連れてきて、良かった」


眩しいほどに、エリオットは晴れ晴れと笑う。夜だというのに、目が眩む。


(思いきって、ついてきて良かった)


嬉しそうなエリオットを見ていると、心の底からそう思う。
とった選択が間違っていないことに安堵する。

来ないか、と問われた時は、すぐに承諾の返事をしたものの、いざ行くという時になってアリスの心には迷いが生じていた。

エリオットの足手まといになるのではないか。

その事は勿論、もしかしたら怖い目に遭うんじゃないだろうか、という恐れも大きかった。

怖いことは、嫌いだ。
できるなら、できるだけ回避したいと思っている。

アリスがそう身構えたのも、無理もない。マフィアの抗争なのだ。
エリオットが守ってくれると信じてはいるけれど、怖いものは怖いままだった。
慣れなくちゃと思う反面、慣れてはいけない、と感じる部分。


(でも、ついて来ちゃったのよね。……今も、ちょっと怖がってはいるんだけど)


独り残されるアリスは、いつも気が気でない。
エリオットが仕事に行っている間、アリスは独りだ。
護衛として、使用人たちを何人かつけてくれているけれど。

待っている間、アリスはずっと、心のどこかで心配している。
その大部分はエリオットの心配だが、一部は己の心配をしている。


「でも、珍しいこともあるのね。一緒に連れていってくれるなんて」


珍しい、なんてものではない。今回が初めてだ。


「だってよ〜、あんたと離れたくなかったんだ、俺……迷惑だったのか?」
「やだ、そんな訳ないじゃない。嬉しいのよ、私」


子供みたいな言い方だ、とアリスはクスリと笑った。
アリスは、足手まといには違いない。
それでも尚、エリオットは、アリスを傍にと望んでくれたのだ。嬉しくないわけがない。

アリスが笑うのを見て安心したのか、エリオットは顔を輝かせた。


「そっか! よかった〜〜……。あんたは仕事が好きなのに、悪いなとは思ったんだぜ? 休ませるような形になっちまって」


けどなー、と、エリオットは弁明を続ける。
ぎゅうぎゅうと、アリスを抱きしめながら。ぬいぐるみにでもなった気分だ。


「あんたを屋敷に残したまま長期間の仕事、だなんて、気が気じゃねえからな」
「え、何が心配だったの? 私が浮気するとか?」


冗談交じりに尋ねると、エリオットは強かに衝撃を受けた。耳が興奮気味にピンと直立する。


「ちっ、違うっ! って、アリス、俺がいない間に浮気する気だったのか!?」


エリオットの勢いに気圧されて、アリスは慌てて首を振った。


「ないない! ないって! エリオット一筋にきまってるじゃない!」


強く否定すると、エリオットは、ホッと胸をなで下ろした。
エリオットに冗談は通じないことを、覚えておこう。


「そ、そうか……俺も、あんた一筋だっ!」


がばーっと抱きしめられて、アリスは赤面した。
ドキドキと高鳴る胸をどうにかしたくて、エリオットの背中を軽く叩いて誤魔化そうとしてみたが、それは徒労に終わった。


「はいはい……で、何を心配してたの?」


エリオットは、ゆっくりと体を離した。
それでも――すぐにでも抱きつけるようにだろうか、エリオットの両手はアリスの腕を軽く掴んだままだ。これでは動けない。


「んー……色々あるだろ? ガキ共とか、俺の不在に調子に乗って、あんたに手ぇ出したりするかも」
「えー……それは、ないんじゃないの」


エリオットが大真面目に言うので、アリスは想像してみた。


(ディーとダム……)


愛らしい双子は、確かに、残ったアリスが寂しくないように、頻繁に構いに来てくれることだろう。
ディーとダムのことも、アリスは好きだけれど――それは弟として、だ。
姉と弟。それ以上の関係にはなり得ないし、第一、彼らの方が『その気』が起こらないだろう。


「ディーとダムが、ねえ……私としては、ブラッドの方が危険な気がするけどね。でも、そんな展開にはならないわよ」
「なっ……」


すらすらとアリスが答えると、エリオットの驚いた声がする。

どうしたのか、とアリスはエリオットを見上げた。
エリオットは絶句していた。心なしか、その紫の目が潤んでいる。


「……あんたは、ブラッドとはそうなってもいいのか?」
「いいわけあるか!」
「いっ!?」


むっとしたアリスはエリオットの耳を掴むと、思いきり引っ張った。
どこをどう曲解すれば、そういう結論になるのか。


「私と彼らが、どうにかなる筈がないでしょうに、って話よ。心配性なんだから」
「なんでそんな風に言い切れるんだよ!?」
「え? だって、私だもの」


アリスはけろりと言いきった。
どうひいき目に見て頑張って想像してみても、その状況にはなり得ない。
可能性が極わずか有る、と仮定しても――加えて、アリスはエリオットを愛している。

だから、可能性は零なのだ。エリオットが心配する必要はない。

エリオットはアリスを抱きしめると、ガクリと頭を垂れた。
彼の呆れるような溜息が、間近で聞こえた。アリスの耳にくすぐったい。


「……あんたは、もう……ほんと、連れてきてよかったぜ……」
「?」


呟く声が耳に届いたが、アリスは首を捻るばかりだった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



エリオットは今、ひとつのドアの前に居る。
長期の仕事の合間に、休息を取る為に借り上げた一室だ。

部屋の中には、アリスがいる。
アリスが、エリオットの帰りを待ち詫びている。


「……」


すぐにでも、ドアを開けてアリスに飛びつきたい。
いつもならば、エリオットは迷わずそうしていた。

それならば何故、こんな場所で突っ立ったままなのかというと――。

中から漏れ聞こえる話し声が、エリオットの動きを止めていた。


「それでね、それでねっ。えりーちゃんって、すっごく働き者なんだよ。この間の取引だって、えりーちゃんが纏めたんだ。すっごいよね! えりーちゃんって仕事できるんだよ。俺とは大違い」
「へえ……それで?」


彼らが声量を抑えていないせいか、エリオットの耳が良いせいか、会話内容まできっちりと聞こえていた。
楽しそうな雰囲気が、外に立つエリオットにも伝わってくる。扉越しに聞こえるアリスの声は明るい。


「……」


いつまでも突っ立っているわけにはいかないので、エリオットはドアノブに手をかけた。





「あ、エリオット。おかえりなさい」
「おかえり、えりーちゃん!」


二人は声を揃えて、エリオットを出迎えた。
だが、それっきりだ。エリオットからの返答がない。


「どうしたの、エリオット??」


帰って来たエリオットは、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
唇を引き結んだまま、不機嫌そうな態度を崩さない。


「……あのなあ!」


純粋な怒りを含んだ声に、アリスは驚いた。

胸がざわめいたけれど、一瞬のこと。
怒りの矛先はアリスではない。エリオットは、ピアスを睨みつけていた。


「なんでお前が入り浸ってんだよ!?」
「ぴっ!?」


怒鳴られて、ピアスは飛び上がった。


「だだだ、だってっ! 俺」


かちゃり、と乱暴な金属音がする。
見れば、鬼の形相をしたエリオットが、早くも銃を構えていた。その銃口はピアスに向けられている。


「おい、ピアス。お前、間男の自覚はあるか?」


まるで死刑を宣告するような凍てついた視線で、エリオットは低く呟く。ピアスは目を見開いた。


「まっ!? 間男っ!? 俺がっ!? 俺、そんなことしないよっ!!」
「言い訳無用だっ!!」
「わああっ!!」


ピアスに狙いを定めたまま、エリオットは発砲した。立て続けに二、三発撃つ。
ピアスは素早く避け、運よく全弾をかわしきった。それが尚更、エリオットの苛立ちを募らせる。


「う〜〜〜……酷いよ、えりーちゃん!」
「うるっせえ!!」


雷のごとく一喝されて、ピアスはぶるぶると竦みあがった。けれど、己の言い分を懸命に言い募る。


「だだだ、だってえ! アリスがせっかく屋敷外にいるんだよ!? 屋敷にいると、門のところの意地悪な双子のせいで、会いにいけないんだよ! それが今、会いたい時にすぐ会えるんだよ!? 会わなくてどうするの!?」
「お前が会う必要はねえだろうが!!」


エリオットの怒りは爆発した。






二人してドタバタと暴れまわるものだから、アリスはなすすべも無く騒動を眺めていた。


(あら、デジャヴ)


どこかで見た気がする――思い出した。
ボリスとピアスの追いかけっこのようだ。

エリオットはナイフではなくて銃を手にしている。
だから耳に煩いし、可愛らしい光景にはなり得ないのに――何故かコミカルなやり取りをしているように映る。

組み合わせがウサギとネズミ、と考えると、尚のこと微笑ましい。


「わわわっ! 危ないよ、えりーちゃん!!」
「うるっせえ! 一発ぐらい喰らっとけ!!」
「い、いやだよっ! 痛いのやだっ!!」


ピアスはちょこまかと逃げ回る。
逃げているだけなのだが、ボリスを相手にした時の必死感はない。
さすが鼠だと感心しかけて、アリスは頭を振った。違う、そうじゃない。


「ちょっと、エリオット! その辺で許してあげて」


アリスが声を張り上げると、エリオットはくるりと振り返った。


「アリス、こいつを庇うのか!?」
「庇うっていうか」


勢いよく返されて、アリスは言葉に詰まった。
庇うというか、完全に冤罪である。
それを知っていて尚、黙って見ていられる程、アリスは薄情ではない。


「別に、ピアスに何かされたわけでもないし……話をしていただけなのよ」


エリオットに責められるようなことは、何も起きていないのだ。
そんなに怒鳴りつけなくてもいいじゃないか、とアリスは思う。

ピアスは、サササッとアリスの後ろへ隠れた。
アリスが思っていたよりもずっと、動きが素早い。


「そうだよ、そうだよ。俺、何も悪いことしないよ! だって、アリスはえりーちゃんの恋人なんでしょう? だから俺、我慢してるんだよ?」
「我慢?」
「うんうん、我慢だよ、我慢! 俺が我慢してるの! すごいでしょう」


誇らしげなピアスの顔を見上げて、アリスは更に問いかけた。


「何を我慢してるの、ピアス?」
「あのねあのね、君って可愛いから、俺、君にちゅうしたいなって思ってるんだけど、君は俺のものじゃなくてえりーちゃんのものだ。だから、持ち主のえりーちゃんの許可なくちゅうしたら……って、うわあああっ!?」
「……死ね。とりあえず死ね」


恐ろしく低い声で罵りながら、エリオットは銃を乱射させた。


「……」


どたばたと、二人は駆けまわる。
片方はあわあわと悲鳴をあげ、片方は銃を手に目を吊り上げて。


「ああ、騒がしい……」


しばらく騒ぎは収まりそうにもない。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



窓の下の世界を見つめ、アリスは短く息を吐いた。眼下には、道を行き交う人々で賑わっている。

だが、賑わうのも一時のことだ。
元来この道は、あまり人通りがない。アリスはその風景を、ただぼんやりと眺めているだけ。


「……」


まるで、世界から取り残されてしまったかのようだ。
一人での外出はするなと言われたから、その言いつけをアリスは守っている。


(でも、ちょっと……暇だな)


エリオットのいない時間、アリスはぼうっとしてやり過ごすしかない。
家事をやるにも限界があるし、それならば読書は、と思っても、どうも身に入らない。

どうしても外出しなきゃいけなくなったら、最低限、部下を三人は伴うこと。
それがエリオットからの言いつけだった。

でも、ただ『暇だから外に行きたいです』などというふざけた理由で、彼らをつき合わせるわけにはいかないだろう。上司の恋人とはいえ、我侭にも限度がある。


(ううん、退屈くらいは覚悟してついてきたんだから、我慢しなきゃ)


シーツも洗って、毛布もしっかり干しておいた。
これで今日も、エリオットは気持ちよく眠れるだろう。


「エリオット」


仕事はうまくいっているのだろうか。怪我はしていないだろうか。
そんなことばかりが、アリスの頭に思い浮かんでは、消える。


「早く帰ってこないかなあ……」


はやく、私のもとへ帰ってきて。

そんな超乙女な思考も、今ならば恥ずかしくない。
放っておいたらマイナス寄りになる自分の思考は、このくらい馬鹿みたいなことを考えていた方がいい。
エリオットを案じて、底なしに落ち込んでしまう。

かと思えば。


(っと、いけないわ、こんなの。相手に依存しすぎてる)


そんな風に、冷静に諌める自分がいる。


(あー……エリオットなしでは居られない、みたいな)


赤面してしまう。
何故こんなに、相手に寄りかかってしまっているのだろう。
けれど、その気持ちは強く持ってはいけない。エリオットにだけは、うっとうしい子だと思われたくない。


「エリオット……」


表向き二人きりの生活。
改めて冷静に考えると、まるで新婚のようではないか。

可愛いウサギさんと、二人きりの生活。


(メルヘンにも程があるなあ)


けれど、アリスはわくわくしてきた。
そう、せっかくのエリオットとの生活なのだ。二人きりで、誰にも邪魔されない生活。
ブラッド達の目がない分、好き勝手なことが――。


(いやいやいや、抑えようね、私……)


恋人であるけれど、その前に、エリオットはマフィアなウサギさんだから。
しかも、アリスは仕事でついてきているのだ。彼の仕事の邪魔をしてはいけない。

そうは思っても――今の状況を楽しまないのは、もったいないような気がするのだ。


(……エリオットの仕事に支障が出ない範囲なら、いいかな?)


そんなことも、ちらっと考えてみたりした。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「おかえりなさい!」
「わっ!? アリス!?」


ドアが開かれた瞬間を狙って、アリスはエリオットの胸に飛び込んだ。


(まずは抱擁よね)


そのままきゅーっと抱きしめると、エリオットはぎこちなくアリスの背に手を回してきた。


「た、ただいま……」


帰ってきたからと言って、アリスから飛びついたりすることはなかった。
エリオットは、積極的なアリスに戸惑いを隠せない様だ。


「エリオット、怪我はない?」
「な、ない。ないけど」
「そう……よかった」


アリスは微笑んで、エリオットから身を離す。マフラーを外して、埃を払う。
その最中も、エリオットはぽうっとした表情で、アリスを眺め見ていた。


「……?」


陶然としていたが、次第に、訝しげな顔へと変化していく。
エリオットはアリスの表情から理由を読み取ろうとしているのか――見られて気持ちの良い視線ではない。


「なに? 何かおかしなことでも?」
「いや、あんた……明らかにテンションがおかしくね?」
「そう?」


おかしいのは自分でもわかっている。
そんな風に改めて指摘されると、急に意識が現実的になるではないか。


「……嫌?」


エリオットは目を瞠ると、大慌てで首を横に振った。


「嫌なわけないだろっ!? ちょっとビックリしただけっつーか、なんつーか……」


否定は早かったが、語尾がもやもやしている。「うーん」と小さく唸る。


「何か、変わったことがあったのか?」
「ううん、何も。ただ、これって有りだなあって思ったから、図に乗ってるの」


アリスが告げると、エリオットは目を瞬かせた。


「これ?? って、なにが??」
「この状況よ、この状況」
「状況……」


よく意味が呑み込めない、とエリオットは首を捻っている。
突っ立ったままのエリオットを放置して、アリスはクロゼットの扉を開けた。
エリオットに背を向けたまま、アリスは一人で喋る。


「そうそう。単身赴任先についてった奥さんの気分っていうか、新婚さんっぽいっていうか」
「!?」


エリオットの耳は跳ね上がった。
エリオットの動揺が、背中ごしでも感じ取れる。


「エリオットと二人っきりの生活だって思ったら、なんかすごく新鮮な気分がして……つい」
「……!!」


アリスはマフラーを片付けてしまうと、エリオットのもとへ歩み寄る。
未だ固まっているエリオットを目の当たりにし、アリスの気持ちは急速に萎んでいった。

せっかく、馬鹿なことをしてやろうと思ったのに。


「ごめんね、浮かれちゃって。悪ノリ……」
「そっか……それもそうだな」
「え?」
「言われてみたら、二人きり……だよな。あんたと二人っきりの暮らし、って思うと、俺」


言いながら、エリオットの頬がポッと染まる。声の端々から、彼が照れていることがわかる。

エリオットも照れている、と思うと、アリスの胸はドキリとした。
照れは、面白いほど相手に伝染するのだ。鼓動は高鳴るし、勝手に顔が赤くなるし、散々だ。


「……ちょっと、いまさら意識しないでよっ!」


意識されると、こちらまで照れるではないか。
照れ隠しにエリオットの背中を軽く叩くと、小気味のいい音がした。


「いっ……意識、するに決まってるだろ!? あ、あんたがそんなこと言うからっ!」
「私が悪いの!?」
「ああ、そうだ! あんたが悪いっ!」
「悪くないっ!!」


互いに譲らず、軽く睨みあう。だが、二人の顔は赤いままだ。誰が見ても痴話喧嘩だと思うだろう。


「……でも」


エリオットは落ち着きを取り戻すと、照れくさそうに呟いた。


「こうしてあんたと住むの、俺、好きだな」
「……」


アリスはショックを受けていた。


(この男……)


心に雷が落ちたのかと思った。
エリオットはアリスよりも、よっぽど可愛い生き物だ。なんて愛くるしい。


「私も、好きかも」


アリスも便乗させて貰うと、エリオットは不満そうな声をあげた。


「かも!? かもって何だ、かもって!? ここは断定しとけよ!」
「だって、そんなの」


自分でもがっかりするほど、素直とは縁遠い。
好きだなあ、と心では思っているのだけれど、口にすることはできなかった。


(だって、照れくさいじゃない)


可愛らしい事を言うのが恥ずかしくて、いつも、うまく言葉にできない。


「……」


エリオットの顔が見れなくてアリスが俯いていると、不意に、強く引き寄せられた。


「ちょ、ちょっと、何!?」
「アリス」


覆い被さるように、強く抱きしめられる。
アリスが尚も声をあげようとしたが、唇で塞がれ、言葉にすることはできなかった。
もがいて腕から逃れようとするが、エリオットの拘束は堅い。


「あんた……可愛い」


うっとりと見つめられて、アリスの頬は耳まで赤くなった。
エリオットの手が、躊躇うことなく腰に回る。アリスはぎょっとした。まさか。


「〜〜〜っ! ま、待って!」
「駄目。待たない」


耳元で艶やかに囁かれると、体中の力が抜ける。
どうにでもしてくれ、と身を投げ出したくなる魔力があるのだ。

へたり込みそうになったが、アリスは気持ちを奮い起した。


「ご飯っ! ご飯たべてからっ!」
「え〜〜〜〜……俺は、今すぐしたい」


エリオットは不平を口にする。けれど、アリスも負けてはいられない。
こんな所で折れてしまったら、えらいことになる。


(いや、嫌ではないんだけど、今すぐはちょっと……)


心の準備期間が欲しい。
初めて体を重ねるわけではないけれど、それでも、挑むには気構えが必要だ。
どうにか抑えて貰おうと、アリスの頭はフル回転した。エリオットが引いてくれそうな言葉を、必死になって探す。


「ニンジンスープ、冷めたら美味しくないかもしれないの! 美味しい状態で、エリオットに食べて欲し」
「!! ニンジンスープ!?」


エリオットの態度は一転した。
目を輝かせて見つめられ、アリスは一瞬、息を呑んだ。


「食うに決まってるだろ! 飯にしようぜ!」
「……そうね」


アリスは少し間を置いた後、のそのそと食事の準備にかかる。
アリスの目論み通り、なのだけれど。


(なんていうか……)


複雑だ。
いや、そのまま情事になだれ込まれても困るのだが、エリオットの転身っぷりに、何だか釈然としないものが――アリスは、ニンジンスープに負けた。


(いやでも、そのスープは私が作ったから……勝ったのかな?)


だが、敗北感の方が強い。何故だろう。
エリオットはアリスの背後から、そうっと耳元へ顔を寄せる。


「……あんたも、後で美味しく食べるけどな」
「!」


危ない。危うく皿を投げつけるところだった。


「美味い! すっげー美味いぜ、これ!」
「あ、ありがと……」


笑顔の眩しさに、何故か後ろめたさを感じる。
彼の真っ直ぐさはアリスが持っていない部分であるが故に、アリスは面食らうことが多い。

エリオットの食べっぷりは、見ていて気持ちが良い。作り手冥利に尽きる。


(ああ、可愛い……!)


アリスもスプーンを手に、食事を始めた。
冷えた体が温まる。心まで豊かになった気さえした。


「ねえ、エリオット。ピアスは? 怪我はなかった?」
「ピアス?」


エリオットは食事の手を止めると、アリスを見た。
うーん、と唸りながら、今日の様子を思い出している。


「ああ、たしか何発か撃たれてたけど、本人はけろっとしてるぜ。どうかしたか?」


どうかしたか、じゃない。問題ありまくりだ。

エリオットは平然としているが、それがアリスには信じられない。
普通、銃で撃たれているのを見た上で、そんなことを簡単に言える方がおかしい。アリスは脱力した。


「……大丈夫なの、それって」
「あー……まあ、大丈夫だろ。ネズミは意外としぶといからなあ」


銃で撃たれても平気だなんて、驚異的な生命力ではないか。
それを、しぶとい、の一言で片付けられるピアスが可哀想になってきた。


(……ピアスって、何でこんな風に)


ピアスは特に、他からの扱いが酷い気がする。
敵対しているから憎い、というのではなくて、ピアス自身を見下されているような――軽んじられているような、そんな風にアリスは感じる。

可愛い子なのになあ、とアリスは肩を落とした。

ピアスは可愛いらしい。
エリオットが一番可愛いし、ちょっと可愛さの種類は違うのだけれど、あの子だって十分可愛い存在だ。幼い無邪気さがある。

たまには誰かに親切にされたっていいのに、とアリスは思う。
エリオットはピアスを嫌ってはいないから、そこが救いだろうか。
ピアスはエリオットのことを好きみたいだし、と考えて、アリスはふと思いついた。


「仕事がひと段落したら、なんだけどね。今度、チーズフォンデュをしない? ピアスも呼んで」


いま浮かんだばかりの考えを、エリオットに伝える。
アリスが提案すると、エリオットは目を瞠った。


「ええっ!? な、なんでピアスを」
「え? あの子、チーズが好きだーって言ってたから……。チーズフォンデュって、何人もでやる方が楽しいじゃない?」
「……」


たまには、ピアスのことも労ってあげて欲しい。
アリスから頼めば、それが如何に勝手なお願いにも、エリオットは耳を傾けてくれる。


「ニンジンを見て思いついたの。ゆでたニンジンって、チーズフォンデュの具材にいいわよね」
「……! それ、美味そうだな! けど……」


一瞬、エリオットは顔を輝かせたが、みるみる歯切れが悪くなる。


「あんた、あいつのことを気にかけてるのか?」
「え……うん。まあ……あの子、森暮らしだし、ちゃんとご飯食べてるのかは気になるけど……じゃなかった」


アリスは言葉を軌道修正した。
エリオットに伝えたいのは、そこではない。


「ピアスも仲間でしょう。それに、エリオットの部下じゃない。だから、たまにご飯に誘って労ってあげるのも……エリオット?」
「……」


エリオットは、不機嫌そうな顔をして押し黙っている。


「嫌だ」
「え……な、なんで」


強く拒絶されてしまい、アリスは戸惑いを隠せない。
エリオットは、分かり易くむくれている。拗ねたような声で、アリスを軽く詰る。


「あんた、さっきは、俺と二人の生活が……って嬉しそうに言ってたのに……なんでピアスを混ぜようとするんだよ?」
「混ぜようっていうか……」


ほのぼのとした風景になるのでは、とアリスの好奇心が疼いたというか。


「俺は、あんたと二人がいいのに」
「……」


何を子供みたいな事を言ってるのか、と言いかけて、アリスは口をつぐんだ。
どう考えても、エリオットの気持ちを考えなかったアリスが悪い。


「あいつ、まだ来るのか。ここ」
「ん? ……うーん」


アリスは言葉を濁そうかどうしようか迷いながらも、正直に答えた。


「たまに、顔見せには……長居はしてないわよ。仕事前に途中で立ち寄る、ぐらいの」
「あの野郎……」


修羅のような低い声が聞こえたが、アリスは聞こえない振りを決め込んだ。


「ピアスって、エリオットのことがすごく好きみたいだからね。だから、誘ったら喜ぶだろうなって思ったんだけど……エリオットが嫌なら、やめておく」


ピアスのことを蔑ろにするつもりはないけれど、優先順位はエリオットの方が遥かに高い。
そのエリオットが嫌だと言うのなら、アリスは意見を曲げられる。


「……」


しゅんとしたアリスを見て、エリオットは躊躇いがちに口を開いた。


「一回だけなら……いいけど」
「! 本当!?」


声が勝手に弾む。
エリオットは憮然としたまま、小さく頷いて返してきた。


「ああ。けど、調子乗ってあんまり居つかれても困る……んー、どうするかな……」
「居つくって……」


大げさな、とアリスは苦笑したが、エリオットは生真面目な顔を崩さなかった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



もったりとした、濃い闇だ。一寸先が見えない。
世界はエリオットの瞳に映ってはいるが、心は特に何も感じていない。

無関心であるのは、少し違う。
何だか世界の全てが灰色に見えて、なんとも味気ないのだ。エリオットの興味を引くものがない。

――アリスが傍らにいない限り、きっと灰色のままなのだろう、きっと。

その事を、もうエリオットは知っている。

人が生きていく上で必要なもの――なくてはならないものは、そう多くはない。
エリオットにとって、そのひとつが、アリスだった。

アリスと居る時、エリオットは心穏やかで居られる。
苛立ちも焦りも消えて、スッキリとした頭で居られる。

アリスは不思議な少女だった。

闇夜を独りきりで歩いていて、そっと小さな明かりを灯してもらったような安心感がある。
これが恋というものか、とエリオットは初めて、その良さに気づいた。


「おい、ピアス」
「なに? えりーちゃんっ!」


ピアスは手を止めて、振り返る。
顔まで飛び散った血を拭こうと泥だらけの手で頬をこすった為、顔にも泥がついてしまった。

見るからに頭悪そうだよなあ、とエリオットは内心、溜息を零した。
ネズミなのだから、頭の良さを求める方が無茶というものか。


「えりーちゃんは止めろ。お前、この仕事が終わったら飯食いに来い」


ピアスは、キラキラと顔を輝かせた。
その顔を見ただけで、やっぱり誘うのは止めておいた方がよかったかもしれないな、と後悔の念を覚える。


「え、ご飯っ!? ご飯、行く行くっ! 何処に行けばいいの?」
「俺が泊ってる宿だ。ちゃんと汚れ落として、血の匂いも落としてから来いよ」


綺麗好きのエリオットとしては、そこが重要だ。血まみれのネズミは、アリスを怖がらせてしまう。
エリオットが念を押すと、ピアスはこくこくと頷いた。


「わかったっ! わーい、えりーちゃんとご飯っ! 嬉しいな、嬉しいな! 仕事、さっさと片付けちゃおっ!」


俄然やる気になったのか、ピアスはザクザクと穴を掘り始めた。


「……そいつで最後だ。とっとと片付けちまえ」
「うん、わかった。こいつで最後だね。さっさと片付けちゃおっと」


エリオットは、まこと複雑な心境であった。

気持ちの優しいアリスのことだから、ピアスのことも知り合いとして気にかけているだけ――とは思うのだけれど――事実、アリスはそうに違いないだろう。他に意図はない。

だからこれは、自分に問題があるのだ。エリオットはため息を吐いた。
どうしても、その意思に裏はないのかと勘ぐってしまう。これはもう、一種の職業病なのかもしれない。

そうこうしている間に、ピアスの『掃除』は終わったようだ。いつもよりも、段違いに速い。


「今日の分は、これで終わりだねっ。ね、ね、えりーちゃん、俺、一度部屋に戻ってくるよ」


お呼ばれしてるんだから綺麗にしないとね、と誇らしげにピアスは笑う。エリオットは溜息を吐いた。


「ん、早くしろよ」
「うんうん、わかってる」


言い終わらない内に、ピアスはパタパタと駆けて行った。
エリオットはゆっくりと帰路につきながら、ピアスが追いつくのを待った。けれど、振り返ったりはしない。素早いネズミだ。そのうち勝手に追いつくだろう。


(アリス、待ってるだろうなー)


恐らく、エリオットがピアスを連れてくることを期待して。
アリスの期待は裏切りたくないし、応えたいと思うのは確かだけれど、今回ばかりは気が進まなかった。
背後にピアスの気配を感じながら、エリオットは部屋の扉を開いた。


「おかえりなさい」
「おう」
「アリス、こんばんはっ!」


続いて、意気揚々とピアスが入ってくる。


「いらっしゃい、ピアス」


アリスはピアスに笑いかけていた。
エリオットがピアスをちゃんと誘ってくれて良かった、と安心したような笑顔だ。


「いい匂いがする。わあ、チーズフォンデュだ! 俺、チーズって好き! アリス、誘ってくれてありがとっ!」


ピアスの声は飛びぬけて明るい。
アリスが席を勧めると、ピアスは椅子に座った。エリオットとアリスも同じテーブルにつく。


「どういたしまして。遠慮せず、たくさん食べてね」


わあい、と歓声をあげると、ピアスはうきうきと串を手に取った。


「美味しい、アリス。すっごく美味しいね!」


褒められて、アリスは嬉しそうだ。エリオットも串を手に取ると、にんじんを突き刺す。


「エリオット、どう?」
「ん、美味い」
「よかった」


アリスはいつになく上機嫌だ。
楽しそうなアリスを見るとエリオットも嬉しいと思うし、その感情は嘘ではない。

アリスの料理は美味しい。
いつだって文句なしに美味い。

エリオットとて、好きなにんじんを前にして気持ちが弾まない訳ではないのだが――どうにも気が乗らない。

その理由はわかっている。ピアスだ。

無邪気にはしゃぐピアスを前にして、何となく黙ってはいるものの、エリオットは非常に面白くなかった。
アリスの笑顔は、子供を見守る母のように優しく、柔らかい。それが――。

気に喰わない。

全くもって気に入らない。

エリオットは心の狭い男だ。我慢しているだけ、我ながらすごいと思うのだが。


(あ〜〜〜〜〜……複雑だ……隠してえな。どっか隠しちまうか?)


そんな物騒なことを考える。
優しいことは彼女の魅力のひとつであるが、無防備なのはいただけない。警戒心が薄すぎる。

確かに、ピアスは一見、無害そうだ。
無害そうに見えても、腹は何か企んでいるかもしれないではないか。

ピアスは危険なのだ。
アリスが思うよりも、ずっと。

自分が言うのも何だが、かなり感覚がずれているところがある。
アリスがいつ、危害を加えられてもおかしくはない。
それは、ピアスだけに限ったことではないけれど。

だから、アリスの姿を見る度、エリオットはひとり、煩悶する羽目になるのだ。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆




ピアスが機嫌よく帰っていった後、アリスは道具を片付けた。
ウサギとネズミの食事は、思っていた通り、とても楽しかった。

ただ、エリオットの表情が複雑そうだったのが引っかかる。
ちゃんと食べてはいたのだが、いつもより言葉少なだったし、とアリスはエリオットをちらりと見やった。

疲れたのか、エリオットはベッドに横たわっている。


(……悪いことしちゃったかな)


疲れて帰ってきたエリオットに、無理をさせたのかもしれない。
アリスはエリオットの隣に腰かけた。


「ねえ、エリオット。……疲れてる?」
「ん? いーや、平気だけど……何?」


エリオットがすっかり元通りだったので、アリスは安堵した。


「ごっこ遊びってやったことある?」
「ん? ごっこ遊び……」
「ここにいる間だけ、新婚さんごっこしない?」
「え……ええっ!?」


驚きを露わにするエリオットを宥めるように、アリスは重ねて頼み込んだ。


「ここにいる間だけでいいから。エリオットが仕事で疲れてるのは分かってるんだけど……っていうと、すごく我侭かな」


かな、ではない。
我侭そのものだ。

そんな冷静な自分を無視して、アリスは続ける。


「私もエリオットと遊びたいの」


もっと、自分と遊んで欲しい。
そして、それが仕事の合間の息抜きになればいいと思うのだ。


「……あんた……あんたって、本当に」


エリオットはアリスを抱き寄せながら、楽しそうに笑った。


「それ、どうすんだ?」
「ん? どうって?」
「その、新、婚……ごっこ、ってやつ。あんたの気が済むまで、俺、付き合うぜ」


照れながら言う様は、アリスにとって予想以上に破壊力がある。アリスの声は自然と弾んでいた。


「本当!?」
「ああ」


毒気の無い笑顔で、エリオットは笑う。
笑いかけてくれるのが嬉しくて、アリスも微笑む。微笑みの連鎖だ。
優しい空気に包まれながら、アリスはエリオットの胸に身を寄せた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



仕事の支度を終えると、エリオットは立ち上がった。そろそろ仕事も大詰めだ。


「行くの?」


言いながら、手はエリオットのマフラーに麦を刺す。

改めて約束をしたせいか、アリスの顔は晴れ晴れとしていた。
エリオットは頷くと、アリスは「そう」とだけ呟いた。


「行ってらっしゃい、エリオット」
「おう、行って……って、おわっ!?」


いきなりマフラーを引っ張られて、エリオットは体勢を崩した。
驚く間もなく、唇が塞がれる。やわらかい感触をエリオットが認識した途端、それはすぐに離された。


「気をつけてね」


アリスはにこりと微笑む。
頬を染めて笑う彼女は美しくて、目に毒だ。


「……アリス」


抱きしめて無茶苦茶にしてやりたい。
葛藤しながら、エリオットは深呼吸した。

落ちつけ。
我慢のきかない男と理解はあるだろうが、さすがに――。


「また、ご飯つくって待ってるから」
「……」


仕事なんて放り投げて、このままアリスとベッドになだれ込みたい。

アリスも案外、酷なことをする。
この凶暴な情を、エリオットに抑えろと言うのか。

エリオットは大きく息を吸い込んだ。


「…………ああ」


微かに残された理性から絞り出すように、ただそれだけを返した。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



エリオットは帰路を急いでいた。

案件がやっと片付いた。
思っていたより手間取ってしまったが、望ましい形で収束したので良しとしよう。


(アリス、寝てるかもしれねえな……)


明かりはついているものの、今は夜だ。もうアリスは寝ているかもしれない。
音を立てないように扉を開けると、机に突っ伏しているアリスの姿があった。


(あれ、こんなとこで寝て……)


妙な場所で眠ると、関節を痛めてしまう。
エリオットはすやすやと寝ているアリスをそっと抱き上げると、ベッドへと運んだ。


「ん……」


慎重に体をベッドに横たえた時、アリスは薄っすらと目を開けた。


「悪い、起こしちまったか」


眠そうなアリスに声をかける。アリスはゆっくりと首を振った。


「ううん……ごめん、うとうとしてた」


アリスは体を起こすと、エリオットの首にかじりついてきた。


「おかえりなさい、エリオット」
「ただいま。遅くなった……悪い」


優しい温もりを分け合うように、互いに抱きしめあう。
欠伸を噛み殺しながら、アリスは立ち上がった。
帰って来たエリオットの為に、冷めてしまった夕飯を温めなおし始める。


「アリス……」
「? なぁに?」


エリオットは手を伸ばすと、背後からアリスを抱きしめた。柔らかい抱き心地に、ホッとする。


「仕事、終わったぜ」
「本当っ!? よかった!」


アリスは声を弾ませ、嬉しそうに笑う。眠気は綺麗に吹き飛んだようだ。


「よかったわ、エリオットが怪我なく済んで。次の時間帯はしっかり休むとして……そうだ。ここも、引き払わなくちゃ。……一緒に暮らすのも、これが最後ね」
「最後……」


エリオットは呟いた。アリスはこくりと頷く。


「ちょっと残念だけど……新婚ごっこも終わり。ありがとう、エリオット」


そっと、アリスに回したエリオットの腕に、小さな手が添えられる。穏やかな表情が、乙女らしくて清い。


「アリス……」


夜着からのぞく肌は白い。
その柔らかさも、エリオットは知っている。エリオットを煽る白だ。

これはもう、据え膳としか思えない。
喰らいつかねばと、エリオットは反射的に動いていた。


「きゃっ!? な、なに……んっ!」


アリスの細い顎に手をかけると、深く口づける。アリスの怯える声も、エリオットの耳に心地良い。


「やっ……エリオット!」


もう、アリスは呼気が乱れている。
諌めるように名を呼ばれるけれど、エリオットは聞こえない振りをした。


「アリス」


抱きたい。
サラサラしている髪を手で避け、無造作に首筋に舌を這わすと、アリスはビクリと身を震わせた。わざと音を立てて吸いつくと、白い肌に、ほの赤い痕がつく。
口を使って頼りない肩ひもをずらし、開いた胸元へ手を突っ込む。
アリスは羞恥で身を捩ったが、エリオットから逃れられる筈がない。


「い、やだっ、まって……っ」


爪を立てて縋りつかれても、止めてやれない。

アリスを、誰の目にも触れさせたくない。
沸き上がる感情を、めちゃくちゃになる前に、もっと強い色で塗り潰す。

アリスとエリオットは対等ではない。

アリスは、あまりにも細くてか弱い生き物だ。エリオットが力を込めれば、簡単に壊れてしまう。
力任せに組みしいて、好き勝手に犯し、それでやっと。

アリスは俺のもの。

僅かの間、そんなちっぽけな優越感に浸るのだ。

アリスから見えないのを良いことに、エリオットは薄い笑みを浮かべた。
好き勝手に揉みしだき、弄ぶ。
アリスの体を触わる手は、あくまで優しく。拘束する力は、強く。
力が抜けたアリスの体を片腕で支えながら、エリオットは感触を楽しんだ。
触っていることを強調するように、アリスからも見えるよう衣服をずらす。


「やわらかいな」
「……っ」


エリオットの手がアリスの胸を蹂躙している様は、思っていたよりも背徳的であったのだろう。アリスは顔を逸らした。

声を押し殺しているアリスが愛しい。
同時に、エリオットを乱暴な情に掻き立てる。また無駄な抵抗を、と。

エリオットは手を引き抜くと、アリスを抱いたまま床に腰を下ろした。片膝を立てて、アリスの足を開かせる。
ネグリジェの裾をたくしあげると、露わになった太ももに手を這わせていく。じわりじわりと、エリオットの指が内側へと進む。


「〜〜〜〜っ!」


慌ててアリスは足を閉じようとしたが、既にエリオットに阻まれていて、叶わない。
足の付け根までたどり着くと、下着越しにゆっくりと指でなぞった。まるで触れられるのを待っていたかのように、そこは素直な反応を見せた。
エリオットは拘束していた手を話すと、アリスの足を更にこじ開けた。


「うあっ……」


指で下着ごと強く擦ると、堪え切れなくなったのか、アリスの唇から嬌声が漏れた。
隙間から直接触れると、既に十分に潤っていた。あっさりとエリオットの指を呑みこむ。内壁を指でまさぐると、待ち構えていたように指に吸いついてくる。


「気持ちいい、か?」


アリスは力なく、コクリと頷く。
エリオットの拘束からやっと離れたというのに、もう快楽に抗う気力がないのだろう。
もうどうにでもしてくれ、とばかりに、くたりとエリオットに身を預けている。

それならば、好き勝手に犯してやろう。
アリスの下着をずり下げると、エリオットはベルトを緩めた。
ぴたりと密着しているので、エリオットが何をしているのか、アリスにも分かっただろう。
中心にずぶりと突き立てると、アリスはくぐもった叫び声をあげた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「……すまん。俺が悪かった」


エリオットは今、床に正座させられて、アリスから説教を受けている。

アリスは仁王立ちで、肩を怒らせ、エリオットを正面から見下ろしている。
れっきとしたマフィアのナンバー2が、まさか少女に説教を喰らっているとは誰も想像ができないだろう。何とも奇妙な構図だった。

エリオットが一方的に仕掛けた情事の後、しばらく経って意識を取り戻したアリスは、己が事態を呑みこむと、真っ赤になって怒りを露わにした。

彼女が発した第一声は、『そこに正座なさい』だ。

思わずエリオットは従ってしまった。
声音から、アリスの怒りの量が推し量れてしまう。


「エリオットのばか」
「わ、悪かった……悪かったって」


ぷりぷりと怒るアリスは涙目で、事を終えたばかりだというのに、むくむくと邪な感情が芽生えてくる。
けれど、そそられるなんて言おうものなら、即座に張り手が飛んできそうだ。
懸命なエリオットは口をつぐんだ。


「知らないっ」
「何でも言うこと聞くし、欲しいもんがあったら買ってやるから。な? 機嫌、なおしてくれよ」


あの手この手で宥めるが、アリスの気はなかなか治まらない。
感情の落とし所を迷っているようでもあった。

嫌われるのが怖くて、エリオットは正面からアリスを抱きしめた。


「離してよっ!!」


アリスは、エリオットの手を振りほどこうと足掻く。チリ、とエリオットの胸は痛んだ。


「あんたが許してくれるまで、離せない」


いま手離したら、アリスに二度と触れられなくなるような気がした。
縋るように包み込むと、アリスは暴れるのを止め、肩を落とした。


「……駄目よ。いきなりあんな事して、私、すっごくビックリしたんだから」


アリスは俯くと、エリオットの胸に顔を埋めた。
高ぶった気を落ちつかせるように、そろそろとアリスの髪を撫でる。


「ああ。いきなりは、まずかったよな……怖かったか?」


優しい声で語りかけると、アリスは小さく首を振った。


「……ううん、驚いたの。もう、あんな風にしない?」


アリスは恐る恐る顔を上げた。
エリオットを見つめる目は、今にも泣き出しそうだった。


(……!?)


エリオットは動揺を隠して、アリスの視線を受け止めたが――胸には、罪悪感がふつふつと湧き起こる。

しまった、とエリオットは思った。
今更しでかした事を悔やんでも仕方ないが、堪えられなかったのはエリオットが悪い。


「あんたは、ああいうのは好きじゃない?」


うん、とアリスは頷く。


「好きじゃないわ」
「そっか……わかった。なるべく控える」


ごめんな、と心からの謝辞を述べて、エリオットはアリスを抱きしめた。
このか細い体でエリオットの激情を受けていたのかと思うと、急に健気に思えてくる。
エリオットは、溜め込んだ鬱屈をアリスにぶつけてしまったことを、心の中で恥じた。


「なるべく、じゃ困るわ。もう止めてよ」


とん、と軽く胸を小突かれる。


「努力は、する」


保証はできないけれど。

エリオットが真剣に答えると、アリスは仕方ないなあ、と苦笑いを浮かべた。
アリスはだいぶ落ち着きを取り戻したようで、切迫した雰囲気を消した。
強張っていた体の力が、ゆっくりと抜けて行く。

エリオットは安堵した。安心して、気が緩んだのだ。


「けど、これであんたも忘れられないだろ?」
「〜〜〜っ!? なっ」


アリスの頬が、パッと赤くなる。


「新婚ごっこの締めくくりとしては、良かったと思うんだけどなー」
「あ、ああ、そういうこと……って、良くないっ!」


アリスがあまりにも可愛かったので、エリオットはちょっかいをかけたくなった。ニヤリと笑いかける。


「アリス、顔が赤いぜ? 何を考えたんだ? やらしーなー……いっっ!? ちょ、待て、痛い、痛いって! 耳は止めろ、耳はー!」


ついうっかり調子に乗ったエリオットには、とびきりの制裁が待ちうけていた。
エリオットの悲痛な叫びが、いつまでも部屋に木霊していた。




【 make-believe play -2nd- / 了】







===== あとがき ===

2010年8月発行『make-believe play』より。

2ndは新婚さんごっこ。

1stを最初に書き始めた……のでは、ありませんでした。
最初に書き始めたのは、この2ndの新婚さんごっこの方です。

発端は、エリオットと一緒に暮らせたら楽しいだろうな〜パラダイスだ!と思ったこと。
けど、エリオットとアリスだけの暮らしは期間限定だろうなあ、とも思いました。
エリオットは、屋敷から離れることができないような気がして。
なんていうか、エリオットの「ブラッド優先!」思考は変えられないんじゃないかなあ、と……そこもエリオットの魅力です。
けど、今回、ブラッドの存在をできるだけ薄くしてみたつもりです。ちょくちょく出てくるけど。
ということで、せっかくだから、とエリオットとアリス、いろいろ遊んでみました。

読んでくださってありがとうございました。