歯車を探して










「エリオット、いる?」


使用人の一人に確認したところ、エリオットは屋敷に戻っている、と聞いた。
おそらく部屋だろう、と言っていたが、疲れて寝ているのかもしれない。


(……うーん、鍵は開いてるけど)


さすがに、無断で男性の部屋に入るような度胸は、アリスにはない。
けしてお嬢様などではないが、それでも、はしたないと思われたくはなかった。

しばらく立ち往生していると、カチャリと音がした。


「あー……アリスか?」


案の定エリオットは寝ぼけ眼で、アリスは「しまった」と思った。


「ね、寝てた? ごめんなさい」


確認せずとも寝ていたのだろう。
頭や服装がやや乱れているし、何より、本人がとても眠たそうだ。

エリオットは首を振ると、やわらかく微笑んだ。


「別に、あんたなら構わねえよ。俺に用があるんだろ?」
「うん」


おいでおいで、と手招きしながら、大きくドアを開く。
だが、それでもアリスは動こうとしない。エリオットは首を傾げた。


「どうした? 入ってこいよ」
「いや、急ぎじゃないし……邪魔したくないから、また改めて来るわ」


エリオットは口元を緩めた。アリスはなんて優しいのだろう。


「今でいいって。俺、あと三時間帯は休暇なんだ。いつでも眠れるし、そんなの気にすんなよ」
「でも」
「遠慮すんなって。ほら」


かけた声は、驚くほど優しかった。

アリスは小さく頷くと、エリオットの部屋に足を踏み入れた。
あいかわらず、彼の部屋は整然としている。乱れているのはベッドだけだ。

エリオットはベッドの端っこに腰掛けると、アリスに隣に座れと手で促した。
アリスは素直に従う。


「んで、どうしたんだ?」


話しやすいよう、先にエリオットが口を開いた。


「えーと……エリオットと話がしたくて」
「話……? よくわかんねえけど、いいぜ」


エリオットに見られている、と思うと、心が色とりどりにざわめき立つ。
アリスは一呼吸おいて、気持ちを落ち着けた。

エリオットは、アリスの言葉を辛抱強く待ってくれた。


(さあ、言わなくちゃ)


自分で自分の背中を押す。
アリスは、思いきって口を開いた。


「エリオット、ごめんなさい」
「ん? 何が」
「この前のこと」
「この前? 何かあったか?」


エリオットは、不思議そうに首を傾げた。
そんな仕草にも、アリスの罪悪感はチクチクと募る。


「せっかく廊下で声をかけてくれたのに、逃げるようなことしちゃって……ごめんなさい」
「……あー」


アリスが説明すると、やっとエリオットも合点がいったようだった。
長い兎耳が、へにょりと垂れる。


「俺、とうとうあんたに嫌われたかと思った」
「そんなこと」
「無いか?」
「ええ、無いわ」


アリスは即座に否定した。
エリオットのことを嫌いになんて、なる筈がない。

アリスの答えに安心したのか、エリオットの雰囲気がいくらか和らぐ。


「なら、何で逃げたんだ?」
「逃げては……」


あの時の、己の行動を振り返る。


「逃げたかもしれないわね……」


というか、言い逃れできない程に、アリスは逃げた。
声が尻すぼみになりながら、アリスは項垂れた。


「ああ。俺のこと、怖いか?」


弾かれたように、アリスは顔を上げた。

エリオットの真剣な顔にドキリとする。
真剣になってくれている。自分に。
アリスの不純な胸は高鳴る一方だ。


「怖くない」
「マフィアなのに?」
「マフィアでも、エリオットのことは」
「俺」


同時に言いかけて、互いに口を閉じる。
たっぷり見つめ合った後、二人は同時に笑みを零した。

気が急いているのは、エリオットも同じなのか。
アリスの心が、落ち着きを取り戻した。


「悪い。あんたの話を聞くんだったな。話してくれ」
「ええと」


仕切りなおされて、アリスは考え込んだ。


(何から話したらいいんだろう)


あれとこれを話して、と予めきちんと算段してきた筈なのに、迷う。
緊張しているせいだろうか。エリオットと二人――と余計なことに気づいては、そわそわしてしまう。


「私が最近、ブラッドの部屋に居たのはね」


まず、そこの誤解から解かねばなるまい。


「あなたの事を聞きたかったから、ブラッドに聞いてみたの」


正直に白状すると、エリオットは首を捻った。


「俺のこと? それなら、何で俺じゃなくてブラッドに聞くんだ?」


尤もだ。
今なら、アリスもその意見に同意できる。
ただの弁解にしか聞こえないだろうな、と、アリスはばつが悪そうな顔をした。


「だって、失礼だと思ったのよ。あんまりエリオットに踏み込むなって言われたし」


驚いたのか、エリオットの目が丸くなる。


「ブラッドに?」
「うん」
「えー? 何でだ? 俺、あんたが何してたって好きだぜ?」


アリスはドキリとした。


(好き……)


そんな言葉を、簡単に使わないで欲しい。
その一言が一番言いたいことなのに、アリスはまだ、口に出せないでいる。


(いいわね、エリオットは)


素直に感情を口に出せる彼が、今とても羨ましい。


「……でも、撃ち殺せるって言ってたわ。ブラッドは」
「は?」


エリオットは素っ頓狂な声をあげた。

言っても良かったのだろうか、これは。
だが、もう言葉は飛び出してしまった。
アリスは遠慮がちに続ける。


「ブラッドがあなたに……私を殺せって命令したら、エリオットは私を殺せるだろう、って言ってたの」
「ええ!? ブラッドが、そんな事を!? あんたを殺せって!?」
「じ、実際に命令したわけじゃないのよっ!」


アリスは慌てて声を張り上げた。
エリオットが、ためらいながらも、銃に手をかけようとしたからだ。


「なんだー……すっげー焦ったぜ……驚かすなよ、アリス」
「はは……」


驚いたのはアリスの方だ。
乾いた笑いしか出てこない。


(今、私のことを撃つつもりだった?)


早まったことをしたのかもしれない、と多少の後悔が襲ってくる。
アリスの表情から心情を察したのか、エリオットは慌てふためいた。


「! 俺、あんたの事を撃とうとしたんじゃないぜ!?」
「え」


今度は、アリスが驚く番だった。
だったら何故、エリオットは銃に手を伸ばしたのだろう。


「てっきりそうだと……違うの?」


エリオットは思いきり首を振り、否定した。


「違うっ! ……そんな命令、絶対聞けねえ。だから」


ブラッドと銃を交える覚悟で、問いただしに行こうとした。


「そんなこと言うなら、ブラッドと話し合わなきゃならねえ、と思っただけだ」


エリオットは大真面目だった。
何か言わなくてはと思ったが、適切な言葉が見つからず、アリスは黙り込んだ。


(……銃で?)


『話し合い』は、穏やかなものではないだろう。
けれど、アリスを撃つつもりなど無かった、と聞いて、アリスは心の底から安堵した。

まだ時期ではないから、とブラッドは止めた。

ならば、今は?

エリオットは、アリスを害さない、と決めているような言い方をした。
ほのかに芽生えた期待に、胸が膨らむ。


(私は、踏み込めるの?)


不安と期待が入り混じった視線で、アリスはエリオットを見つめた。
エリオットはまっすぐに受け止めてくれる。


「ねえ、エリオット」
「なんだ?」


言おうか、言うまいか。

悩みがちなアリスは、事実、ここでも迷ったのだ。
けれど、言いかけた言葉は、止まらなかった。


「私は、あなたに踏み込んじゃいけない?」


エリオットは瞠目した。


「……それは、どういう」


エリオットは逸る気持ちを抑えながら、アリスに聞き返した。

期待してしまう。夢を見てしまう。
アリスが自分を選んでくれるという、甘いクリームのような夢を。

アリスは目を逸らさない。
エリオットの紫色の瞳を見つめていると、深く落ち着いてくるから不思議だ。


「あなたのこと、まだまだ知らないんだもの。複雑な事情も全部、知りたいの。単なる好奇心からじゃなくて、エリオットのことが」


アリスは手で口を抑えた。
これはちょっと、吐露しすぎている。
無論、ちゃんと伝えるつもりはあるが、急がなくてもいい、とアリスは言葉を切った。

大事なことはきちんと考えて、心を整えて、しっかり伝えたい。


「そういうの、迷惑?」


瞠目しているエリオットの顔を見上げながら、反応を窺う。
ドキドキし過ぎて、わずかに手足が震えていた。

エリオットは顔を赤くしながら、首を横に振った。
皆まで言われなくとも、アリスの気持ちは十分に伝わってきた。

エリオットは正確に理解した。
あんな風に言われたら――あんな風に、熱く見つめられたら――いくら鈍い男でも、その意味に気がつくだろう。

気のせいだろうか。
部屋の空気すら、今、とても甘く感じる。


「ぜっ、全然! 迷惑じゃねえ! 嬉しい……けど」


少しの間、エリオットは目を伏せた。瞳の紫が、その色味を深くする。
何かを迷っているようだった。

エリオットは意を決したように顔を上げ――アリスはギクリとした。
エリオットの目は真剣そのものだった。
つい先ほどまで部屋に充満していた、甘ったるい空気の欠片もない。


「あんた、戻れなくなるぜ」
「え?」
「踏み込んだら、戻れない。俺が戻さないからだ。そのことは判ってんのか?」


戻れない。帰れない。
アリスの心臓が、嫌な音をたてた。


「わかってる……つもりだけれど」


泥沼に踏み込んでしまったかのように、徐々に思考が鈍っていく。
元の世界へ帰るか帰らないかを、心で直面した時は、いつもこうだ。

とっくに、アリスはこの世界に留まることを決めたというのに。
ハートの国だった頃、アリスは自分の意思で残る事を決めた。

そして今、アリスは、エリオットという理由をも見つけてしまった。

姉のことは、今も頭の片隅に引っかかっている。
これからもずっと、姉を想うだろう。

だから、エリオットに強く繋いで欲しい。
迷うことがないように。

けれど、エリオット一人に責任を押しつけたいわけじゃなくて――。


(……頭がこんがらがってきたな)


アリスは、ゆっくりと息を吐いた。
めちゃくちゃな思考を鎮めようと努力はしてみたものの、案外むずかしい。


「困ったわね」
「ん、何がだ?」


うーん、と小さく唸る。

エリオットの負担になりたくはないのだけれど、結果的にそうなってしまうのだろうか。
何か、回避できる良い方法はないのだろうか。アリスは悩んだ。

考えることに気をとられ、言葉が、至極あっさりと口をついて出た。


「エリオットのことが好きなのは確かなんだけど、私、どうしていいのか分からなくて。不器用で駄目ね」
「アリス」


エリオットの呼び声で、アリスは我に返った。


「俺のことが……好き?」


ぼうっと熱っぽい目で、アリスを見つめている。

大事に温めてきた言葉なのに。
こんな風に軽く言うつもりじゃなかった、とアリスは内心、慌てふためいた。

慌てながらも、アリスは小さく頷いた。
エリオットの熱が移ったのか、頬が熱い。

ふいに強く抱きしめられ、呼吸が一瞬とまった。


「俺、あんたに嫌われたって思った時……あんたが逃げずに居てくれるなら、それでもいいと思ったんだ」


それは、絞り出すような声だった。
エリオットの表情はアリスからは見えない。


「エリオット?」
「もし逃げようとするなら、きっと、俺はあんたに酷いことしちまう」


アリスは、とんでもない事を聞いている気分になった。


「もし、あんたが俺から逃げたいなら、今が最後だ。言ってくれ」
「どうして」


エリオットは辛そうに目を伏せた。


「今ならまだ、逃がしてやれる。すげー辛いけど」
「いや、何でそこまで……」


アリスはエリオットがいいのだ。だから、望むところなのだが。
エリオットが何を云わんとしているか、アリスはじっくりと考えた。

エリオットと居ることで生まれるデメリットとは?


(……噂とか?)


正真正銘、マフィアの恋人だ。
それはもう、好き勝手に言われることだろう。


(でも、それくらい……いやいや、ちょっとは気になるけど)


気にならない、といえば嘘になる。
だが、エリオットと居られるのなら、そのぐらい、何でもないことのように思えた。


「言っとくけど、私は気にしないわよ。周りから何を言われようが」


エリオットは面食らった後、不機嫌そうに目を細めた。


「……それは、俺がちゃんと殺しとく」


時折、エリオットはマフィアっぽさを垣間見せる。いや、マフィアなのだが。
アリスは焦って首を振った。


「い、いいっ! 殺さなくていい!」


だが、エリオットは不満そうに口をとがらせた。


「えー、だってよ……あんたを傷つけるんなら、誰だって容赦しねえ」


言うだけに留まらず、エリオットは実行する。
物騒なこと、と思うけれど、本当は嬉しい。


「そこまでしなくてもいい……傷つかないから」


エリオットの心配は、恐らく杞憂に終わるだろう。
自分は、周りが見えなくなるタイプだから。


「本当かー? あんた、遠慮するからなぁ……ちゃんと言えよ?」
「うん。……でも、何で逃げたいなら逃げてもいい、って言うの」


アリスは話を元に戻してみた。

エリオットは迷いの無い目で断言した。


「俺が、あんたのことが好きだから、だ」
「……」


ストレートに言われて、アリスは頬を染めた。


「本当はもう、あんたを手放したくない。他の奴のモノになるかも、なんて、想像だけでも耐えられねえ」


エリオットの率直な言葉は、いちいちアリスの胸に強く響く。自分の心音に酔いそうだ。


(……うわぁ、ときめく)


この反応は、乙女として正常だろう。
けれど、何故か――自分がこんな反応をしているなんてと思うと、とたんに気恥ずかしくなってくるのだ。


「だから、あんたを傷つけることになっても、俺の近くに居てもらう」


苦しそうに言いながら、エリオットはアリスに手を伸ばした。さりげなく引き寄せて、抱きしめる。


(私を傷つける?)


エリオットならば、構わないと思った。
だから、ずっと傍に置いて欲しい。


「エリオット」


エリオットの腕の中で、アリスは目を閉じた。

エリオットの胸からは、時計の音がする。
規則正しい針の音だ。機械的で乱れたりはしない。
聞いていると、心が澄んでいくような気さえした。

ああ、違うのだ。
アリスとエリオットは違う。

けれど、不思議と怖いとも思わなかったし、違和感もなかった。
自分が、すっかりこの事実を受け入れていることに、アリスは驚いた。


「アリス」
「ん」


呼ばれて、アリスは目を開けた。
エリオットの指先が、アリスの髪をそっと梳いていく。くすぐったい、とアリスは照れたように笑った。

冷たい紫色の双眸が、今はこんなに優しい。
愛しい者を見る眼差しに、アリスの鼓動は高鳴る。

二人の間に流れる空気は、金色の蜂蜜のようだった。頭がふわふわする。

エリオットの手が、アリスの頬に触れた。
そっと上向かされ、アリスは緊張に固まった。


(こ、これは……まさか)


外れないであろう、予感がする。


「エリオット……ま、待って。心の準備というか」


焦ったアリスは、エリオットの胸を押し返した。
往生際が悪いなあ、と自分でも思う。

止められたエリオットは、きょとんと目を瞬かせた。
まさか止められると思っていなかった、という顔だ。


「準備なんていらねえだろ?」
「……いる」


アリスの心臓は、落ち着くことを知らない。
俯きながら答えると、エリオットは言葉を詰まらせた。

エリオットは沸き起こった感情を散らせるように、己の髪をくしゃくしゃっと乱雑にかき乱した。
その頬は赤みが差している。


「……あんたって、本当……あーもう、可愛いな!」
「あ」


今度は、エリオットは止まらなかった。勢いに任せて唇が重ねられる。

二度三度と繰り返されるうちに、アリスの頭は思考能力を失った。
力の抜けた体を、エリオットに預ける。


「好きだ。大好きだ」


囁く言葉は熱く、耳に心地よい。
熱に飲み込まれそうになる。
アリスはただ、エリオットにしがみつくことしかできない。


「エリオット……あの」
「ん?」


見つめる瞳の優しさに、アリスは当惑した。
一番大切な宝物を見るように、エリオットはアリスを見る。


「言えよ。あんたの言うことなら、何だって聞いてやるから」


甘ったるい台詞に、アリスは赤面した。


「……あの」


アリスは、もごもごと口ごもった。


(そんなに見られると、言いにくい)


些細なことなのだ。
けれど、エリオットときちんと向き合って言いたいことが、ひとつだけあった。


「好き」
「……」


ちゃんと言えた、とアリスは胸を撫で下ろした。
どうも自分は逃げに走りがちだったから、ひとつの壁を乗り越えたような気さえした。

エリオットは激しい衝撃を受け、しばし黙り込んだ。
この突き動かされるような感覚は、言葉にできない。

エリオットはアリスの体を持ち上げ、そっとベッドに横たえた。
その上に遠慮なく覆いかぶさる。慌てたのはアリスだ。


「ま、待って!」


アリスの嘆願を、エリオットは却下した。


「駄目だ。あんたが悪いんだぜ? あんな可愛いこと言うから」


アリスの耳元で、意地悪くエリオットは囁く。
色を含ませた声に、背筋がぞくりとした。


「せっ……せめて、時間帯を選ばせて!」
「えー? 俺はこのままでもいいけど」


いいわけあるか。

アリスは、エリオットの体をぐいぐいと押しやった。


「私が嫌なの。恥ずかしくて死にそう」


正直に白状すると、エリオットは淡く笑った。名残惜しそうに、その体を離す。


「はは、わかったわかった。砂時計は? あるか?」
「多分」


無かったらどうしよう。
無かったら止めるのか――もしくは、夜まで待つのか――そんな雰囲気ではない。
この時ほど、砂時計があって欲しいと切に思ったことはない。


「あった」


ホッと一息つけた。
無かったら、とんでもない事になるところだった。

アリスは、夜に変えようと砂時計をかざしかけ――一時は持ち上げた腕を、そのまま下げた。


「……」
「アリス?」
「……なんか」


言われるままに時間帯を変えるのは、ものすごく恥ずかしいことのような気がする。


(私がすっごく乗り気、みたいな)


勿論、嫌ではない。
けれど、自ら進んで雰囲気作りに協力するのも如何なものか。
アリスの羞恥心が、行動の邪魔をした。

アリスのためらいを知ってか、エリオットは耳元に口を寄せた。


「変えないと、このままでするぜ?」
「え」


ぎょっとして見上げると、ニヤリと笑うエリオットの視線とかち合った。


「よく見えるし、イイと思うんだけどなー」


それも楽しいと思うけど、とか何とか言いながら、アリスの太股に無造作に手を置く。
そのまま撫でられて、アリスは動転した。


「か、変えるっ!」


アリスはすっかり青ざめた。
エリオットは、やると言ったらやる。


(夜、夜にっ! はやく!)


慎みとか何だとか、そんな事は言っていられない。気が焦る。

砂時計の砂が、サラサラと零れていく。
次第に暗くなっていく空を窓越しに見ながら、アリスは呼吸を整えた。


「……変えたわ」
「ああ、変わったな。これで、あんたも恥ずかしくないだろ?」
「そんなわけ……」


恥ずかしいことに変わりは無い。
ただ、夜の暗さに緩和されるだけだ。


「アリス」
「あ」


アリスが応える前に、唇が重なった。髪を優しく撫でられる。
薄暗い闇に、もはや目が慣れてきてしまっていた。闇に薄っすらと浮かび上がる肌は、目にまぶしい。


「エリオット……」


熱っぽい呟きに背中を押されたのか、エリオットはアリスの服に手をかけた。
自身の服も徐々に乱しながら、アリスの衣類をするりと剥ぎ取っていく。
けして力任せではない。流れるような手つきに、アリスは感心した。


(……何か、手馴れてる?)


エリオットの年齢や職業、その地位を考えると、おかしくはないのだけれど。


(手を出すのも早いわね、そういえば)


ついさっき愛の告白を終えたばかりだというのに、展開が早い。
エリオットの行動には、ためらいがない。

今は――今回の恋は、アリスだけが一方的に、想いを押しつけているわけではない。
エリオットもアリスを欲している。そのことを実感できて、幸せ……なのだが。


(慣れてるってことは……慣れっこ……)


それとこれとは別だった。
頭ではわかっていても、腑に落ちない。我ながら理不尽だと思う。

アリスの不機嫌を察したのか、エリオットは手を止めた。


「……どうした?」
「何でも」


アリスは、自分でも驚く程ぶっきらぼうに答えた。


「何でもないって顔じゃねえだろ。どうしたんだ?」
「……」


エリオットは、アリスの言葉を待っている。すっかりいつものエリオットだった。
ひどく狼狽している様子だったので、アリスは仕方なく口を開いた。


「……エリオットが慣れてるから、ずるいと思って」
「なっ!?」


エリオットは目を瞠った。


「俺、慣れてなんかねえよっ!」
「そう? でも……慣れてる」


声を大にして訴えられても、手つきからして、疑いの余地は無い。
焦ったエリオットは、うっかり口を滑らせた。


「こんなに緊張するのは、あんたが初めてだ」
「……」


やめようかな。
本気で一瞬、考えた。


(うー……)


けれど、好きなのだ。
惚れた方が負けとはよく言ったものだな、と痛感する。


「私……」


失言に気づいていないのか、エリオットは率直に言い切った。


「あんたは初めて、だろ?」
「!」


何というデリカシーのないことを。
アリスは枕を引っつかむと、エリオットに向かって思いきり投げつけた。


「悪かったわね!」
「ち、違う、違うって!」


エリオットは直撃を避けながら、起き上がろうとするアリスを慌てて引き止めた。
自棄になったアリスは振り払おうとしたが、できなかった。エリオットに力で敵うはずがない。


「俺が初めて、あんたに触れられるんだ。それが、すげー嬉しくて」


思いがけない言葉に、アリスの怒りは沈静化した。


「嬉しい?」
「ああ、当たり前だろ。嬉しくないわけがない」


アリスから怒気が抜けたことで、エリオットは安堵の笑みを零した。
アリスを怒らせていたくなかったし、ここで止めろというのは――生殺し状態は、辛すぎる。


「だから……痛いかもしれねえけど。努力は、する」


途中で止めてやることはできない、とエリオットは暗に言う。アリスは腹をくくった。


「……ん」


頷くと同時に、エリオットの背に手を回す。
噛みつくようにキスをして、後は、エリオットのリードに。


「アリス」


なぞるようにゆっくりと、エリオットの指がアリスの素肌に触れていく。
ぞくぞくするけれど、嫌ではない。
時に噛みつかれ、時に口づけられ、アリスの白い肌に、いくつもの赤い火が灯っていった。


「アリス」


エリオットの指が、内股を這った。
アリスは反射的に、身を強張らせた。


「あ……」


恥ずかしい、とアリスは視線を伏せる。

そんなアリスを優しく見つめながら、エリオットは執拗に攻め立てた。
いちいち素直に反応するアリスが、可愛くてたまらない。
アリスの肌が上気し、ほんのりと色づいていく。
貪欲に睦んでいると、互いに溶けてしまいそうだった。


「だめ」


堪えるように、長い睫毛が震えた。こぼれる吐息すら甘い。
羞恥に染まる桜色の頬は、エリオットの欲を凶暴なまでに掻きたてた。
白雪を踏み荒らすような感覚を覚え、エリオットは唇をなめた。
しなるように、アリスの体が大きく震えた。
荒い息遣いも、早鐘のような心音も、何もかもが愛しい。同時に、壊してしまいたい衝動に駆られた。


「前の男とは、しなかったんだな」
「前の人……はっ」


意識が白濁していく。
エリオットが何を言っているのかを理解するまで、時間が必要だった。


「アリス」


エリオットは体勢を変えた。
逃げ出さないようにアリスの腰を抑える。体を開くときも、アリスは無抵抗だった。

アリスが畏怖を覚える間もなく、急に強い痛みが襲ってきた。
歯を食いしばり、エリオットにしがみつく。


「ああ。あんたの姉さんを好きになって、あんたのことを捨てた最低な奴のことだ」
「そんな風に」


言わないで。

痛みに抗うのが精一杯で、それ以上は声にならない。
エリオットは構わずに言葉を続ける。


「あんたはこんなに魅力的なのに、な。そいつ、どっかおかしいんじゃねえの?」


アリスが目で咎めると、エリオットは嫌そうに顔を歪めた。


「庇うなよ、そんな男のこと」


エリオットは嫉妬を隠そうともしない。
過去に嫉妬したって意味がない。頭では理解しているが。


「そいつを殺したい」


物騒な言葉だが、それは『愛している』と聞こえた。


「私、だってっ……殺したい」


過去にエリオットと交わったであろう、女達のことを。


「アリス……」


呟く声は、喜色を滲ませていた。

互いの過去を葬りたいと望みながら交わる自分達は、どこか狂っているのだろうか。

エリオットの焦りは軽減された。
やや乱暴になりかけていた手が、優しさを取り戻す。


「アリス、もう少し」
「いっ……」


まだなのか。

ぐいぐいとねじこまれ、アリスは大きく仰け反った。

エリオットは全てを中に押し込めてしまうと、アリスの様子を見た。
彼女の白い喉笛を見ると、どうにも噛みつきたくなる。


「い、痛かったか?」


大きく肩で息をするアリスに向かって、気遣うように声をかけた。


「痛かった……というより、痛い」


現在進行形で痛い。
ポロポロと涙が伝い落ちていく。

エリオットの指がそっと涙をぬぐっていく。
だが、エリオットは手を緩めてはくれなかった。
呼気が落ち着くのを待って、アリスに優しく声をかける。


「我慢、できるか?」
「ん」


アリスは小さく頷いた。

はたり、と力なく落ちたアリスの腕を持ち上げ、自分の背に回す。
しがみついていいからと諭すと、アリスの手に力が入った。
探るようにゆっくり、エリオットが動いた。ベッドのスプリングが軋む音をたてる。


「すげ……あんたに、食いちぎられそう」
「何、を」


馬鹿なことを。喰らわれているのは、こちらなのに。
アリスは目を閉じると、ぎゅっと唇を引き結んだ。

苦しくて、息をするタイミングが分からない。
自分がどんな顔をしているのかも、よくわからない。

エリオットの息も乱れている。アリスの息も。


「っ……アリス」


手繰り寄せるように、名を呼ばれた。
だが、余裕のないアリスには返すことができない。

中で、ビクリと震えたような気がした。圧迫感が薄れていく。

やっと終わったのか、とぼんやり思った。
毎回こんなに苦しいのでは、参ってしまうだろうな、とも。

朦朧としながら、額に浮かぶ汗をぬぐう。体中が痛みに悲鳴をあげていた。

ゆっくり目を開ける。
改めてエリオットの肢体を目の当たりにして、アリスは顔を赤らめた。

エリオットは丁寧にアリスの髪を撫でた。


「あんたのこと、ずっと大事にする。絶対、俺が守ってやる」


エリオットの目は優しくて、アリスは嬉しくなった。
心に温かいものが満ち溢れて、たまらなくなってくる。


「エリオット」


声が甘ったるい、と自分でもわかった。
アリスは愛しそうに、エリオットの頭を優しくかき抱いた。


「ア、アリス?」


エリオットはどぎまぎした。
ためらったが、ここは甘えることに決め、アリスの細い体に抱きついた。

アリスの心音が体に響いてきた。
優しい音だ。


「アリス」


ふいに、幸せで泣きたくなった。
どんな顔をしていいのかわからなくなり、誤魔化すように顔を埋める。

時計の歯車が軋む音を立てた。
変わるな、と忠告するかのような鈍い痛み。

軋みをよく感じるようになったのは、アリスのおかげなのかもしれない。

自分はきっと、変わることができる。


「あんたの為なら、俺は変わる」


たとえ、それがどんな困難な道だとしても。

あのペーター=ホワイトですら、変われたのだ。
エリオットに出来ない道理はない。

エリオットの言葉を、アリスは真剣に聞いてくれた。


「ん……。でも、変わらなくても、私はエリオットのことが好きよ」


アリスは優しい瞳で、甘く笑う。

カチリ、と忌々しい胸の歯車が鳴った。
けれど、エリオットは、もう気に留めなかった。






人ごみを縫うように抜けながら、待ち合わせ場所へと足早に歩く。
その表情は、吹っ切れたように清々しく明るい。

うだうだと悩んでいたのが嘘のように、エリオットはいつもの調子を取り戻していた。

エリオットの向かう先には、アリスが居る。
ちょこんと立っている姿を見て、エリオットは更に足を速めた。


「アリスー!」


アリスは時間をきちんと守る子だ。
いつも予定の時間の前には、約束の場所に居た。

外で待ち合わせてのデートだった。
前回は邪魔が入ったが――前々回も、その前も邪魔が入ったが、今日こそは完璧なデートがしたい。
互いの要望は一致した。

エリオットに気づいたのか、アリスは小さく手を振っている。
それだけで、エリオットの気分は高揚した。

待っていてくれるのは、勿論わかっている。
けれど、一刻も早くアリスの傍へ、と気持ちが急ぐ。

花のように笑うアリスを見て、エリオットは幸せそうに表情を緩めた。

今の自分は、だらしない顔をしているんだろうな、と思う。
けれど、止められない。

アリスの喜びそうなことなら、何だってしてあげたくなる。
さしあたっては、良さそうなにんじん料理の店を見つけてきたばかりだ。アリスは喜んでくれるだろうか。

さて、どんな風に誘おう。
喜んでくれるといいな、と期待に気持ちが高まる。


「待ったか?」
「ううん、全然」


和やかに言葉を交わし合う。
二人の居る空間だけが、切り取られたように明るく優しい。

時間はたっぷりとあるのだ。
思いつくままに、全てを実行したって有り余るだろう。


「ねえ、エリオット。何処に行く?」
「そうだなー」


ねだられるように見つめられ、エリオットは微笑んで返した。
差し込む日差しが、やけに暖かく感じられた。





【歯車を探して 了】







===== あとがき ===

2009年8月発行『歯車を探して』より。

読んでくださってありがとうございました。