歯車を探して
森から帰還したアリスは、その足でブラッドの部屋へ向かった。
「ブラッド」
幸い、ブラッドは仕事中ではなかった。
彼は優雅に本を開きながら、ソファでくつろいでいる。
だからアリスも、遠慮なく声がかけられる。
「どうしたんだ? お嬢さん」
「エリオットの歯車を探したいわ」
一瞬、二人は睨みあった。
まだ諦めてなかったのか、とブラッドは息を零す。
「……君は諦めが悪いな。やめておけ」
「嫌よ」
遠回しの気遣いを、アリスはバッサリと切って捨てた。
やや不機嫌そうな面持ちになると、ブラッドは目を細めてアリスを見た。
「何故、君がそこまでしてやる必要がある? 理由が知りたい。君が口に出してちゃんと言えるのなら、考えてやらないこともないが」
アリスの瞳が険しくなった。
(ぶっ飛ばしたいわ、こいつ)
現実的には不可能だから、想像だけに留めておいたが。
ややあって、アリスは口を開いた。
「エリオットが好きだから、見つけたいの。私が」
理不尽だ、と苦く思いつつも、アリスはまっすぐに宣言した。
まだ本人にも言えていないのに、何で先にブラッドに言わねばならないのだろう。
宣言された側のブラッドは、ゆっくりとティーカップをテーブルの上に戻した。
「あれは、壊れたがっているんだぞ」
「このまえ聞いたわ。でも、あなたにもあげない」
アリスは、真っ直ぐにブラッドの目を見据えた。
もう、心は揺らがなかった。
「エリオットは私のものよ。手を出さないで」
「ふむ」
ようやく踏み切ったか。
ブラッドは考え込む振りをしながら、ソファから腰を上げた。
ゆっくりとアリスとの距離を詰める。アリスはたじろがない。
面白みに欠けるな、とブラッドはひとつ溜息を零した。
「だが、私の楽しみの一つでもあるんだぞ。君は、代わりに何を支払うつもりかな?」
ブラッドは、含みを持たせた視線で、逃げないアリスをじっと見下ろす。
アリスの表情が、嫌そうに歪んだ。
(貴方ごと守る、って言ってるのに)
エリオットが死ぬことは、もちろん嫌だ。
けれど、更にブラッドまでどうにかなると思うと、それも嫌なのだ。
ならば、エリオットの時計を壊さなければいい。
(私、そこまで薄情じゃないわ)
帽子屋ファミリーの面々も、敵対勢力の人たちのことだって、アリスは大事に思っている。
アリスの沈黙をどう捉えたのか、ブラッドはアリスの耳元に口を寄せた。
「それとも、代わりに君が楽しませてくれるのか?」
肌がざわつく。
けれど、頭の中は妙に冷静だった。
心のどこかでは、こうなる予感がして、腹をくくっていたのかもしれない。
アリスはブラッドの顔を見上げた。
かつての恋人と、そっくりな人。
出会った当初は、この顔を見ただけでも動揺が大きく、まして、こんな間近で真剣に顔を付き合わせるなんてとんでもない、と思っていたのに。
今はもう、エリオットほど、彼に対して心が騒がないのが不思議だ。
自分の心はエリオットに向いている。
「そんなつもりは全くないわ。それより、私で楽しめるっていうの? 貴方が?」
ブラッドは、綺麗に――とても意地悪く、微笑んだ。
「ああ。君はとても面白そうだ」
「残念な人ね」
ブラッドはアリスを引き寄せると、頬に手を当てた。
彼は、わざと『そういう風』に触れてくる。
ぞわり、と寒気がした。それでも、アリスは引き下がらなかった。
(あー、ちょっと泣きそうかも)
泣いてしまえば――とも思ったが、真正面から啖呵をきった手前、なかなか踏ん切りがつかない。
ブラッドは、自分で言うほど、生粋の悪人ではない。
もしもここでアリスが泣けば、興がそがれた等と理由をつけて、手を止めてはくれるだろう。
(別に、何てことないわ。こんなこと)
何の代償も無しに、手に入れることは叶わない。
エリオットと秤にかければ、何でもないことだ。傷なんてつかない。
アリスは諦めて、目を閉じかけた。
「……ブラッドッ!」
「え」
突然の諌める声に、アリスは驚いた。
苦虫を噛み潰したような顔のエリオットが、居た。
制止するように、ブラッドの肩を強く掴んでいる。
「エリオット……な、何でここに」
ブラッドは、エリオットがそこに居ることを知っていたのだろう。
落ち着いた様子を崩さぬまま、首だけを動かしてエリオットを見やる。
「邪魔をするな、エリオット」
「悪いな。聞けない」
迷うことなく、エリオットは堂々と返した。
珍しく――本当に珍しく、エリオットは逆らった。
真っ向からブラッドと対峙する。
険悪な雰囲気に、アリスは戸惑うばかりだ。
沈黙したまま視線だけを交わす二人の間には、どうにも割って入りにくい。
「離れろ、アリス」
言われるまま、アリスはブラッドから距離を置いた。
ブラッドは、意外とすんなりアリスを解放してくれた。
アリスの顔色は悪化する一方だ。事態は悪い。非常に悪い。
二人には、喧嘩なんかしないで欲しかった。
常日頃から親しい二人の仲が、一挙に険悪になるなどという――しかも自分が原因で。
そんなことは、言語道断だった。
「エリオット、私は」
「あんたが傷つくのが分かってて、俺に目を潰れっていうのか」
エリオットはアリスの意思を、素早く正確に汲み取った。
ピシャリと返されて、アリスは口をつぐんだ。
そんな風に言われると、アリスは何も言えない。
(エリオット……怒ってる?)
彼が、何処から話を聞いていたのかは分からない。
エリオットの怒りの矛先は、どこに向いているのか。
無茶をするアリスに対してなのか。
ブラッドは気だるそうに溜息を零した。
「そうだな……お嬢さんは、お前の為に傷つこうとしている。お前の所為だぞ、エリオット」
とんでもない事を言い出したので、アリスはぎょっとした。
これがエリオットの所為である筈がない。
だから、当然ながら、エリオットが責任を感じる必要などない。
それなのに、エリオットは言葉に詰まっていた。
「エリオットの所為じゃなくって、あんたの所為でしょうが」
切り返してエリオットを援護すると、ブラッドは一笑した。
「いいや、違う。あいつがお嬢さんを守らない所為だ」
どんな理屈だ、と、アリスは呆れ顔になる。
エリオットが守らない所為などではなく、これはアリスがいけないのだ。そもそも。
「いっつも守っていて欲しいわけじゃないわ」
守られている方が楽だし、安全だ。それは十分、理解している。
だが、エリオットの負担にはなりたくない。
「守ってくれるのは嬉しいんだけど、私だって」
エリオットを守りたい、と思うのだ。
守れるものが、きっと自分にも。
(ある、と思うんだけどな)
それは、けして多くはないだろうけれど。
我侭な願いだが、出来るだけ対等な立場で居たい。
そうでないと、エリオットの隣には立てない気がするからだ。
ブラッドとアリスのやり取りを、エリオットは神妙な顔つきで聞いていた。
「女に守って欲しいなんて、思ったことはねえ」
声に、苛立ちを抑えられない。
アリスは弾かれたようにその顔を上げた。
エリオットはアリスの手を引くと、自分の後ろに隠す形を取った。
やや強引だったが、アリスの表情は見ないようにした。
「エリオット」
「あんたも、そういうのは止めるんだ」
「……」
エリオットは硬い表情のまま、牽制するかのようにブラッドを見据えている。
その横顔を見上げながら、アリスは表情を曇らせた。
(迷惑そうな顔)
こんな時でも、大切な人相手にでも、エリオットは守ってくれる。
申し訳なさに、胸が一杯になる。
アリスは、きゅっと唇を噛みしめた。
アリスの沈んでいく様は、ブラッドの方からしか見えなかった。
「……ごめんなさい」
震える声でそれだけを告げると、アリスは俯いて駆け出していった。
「アリス!?」
当惑顔のエリオットと、走り去るアリス。
両者を客観的に見ていたブラッドは、長い溜息を漏らした。
まるで見ていられない。
「今のは、お前が悪い」
「な、何でだよっ!?」
「さあな」
アリスはさておき、エリオットの方を助けてやる義理はない。
若干意地悪な気分になり、ブラッドは話をはぐらかした。
「お嬢さんは罰を受けたがっていたんだ」
「……何だって?」
エリオットの片眉が、怪訝そうに持ち上がった。
「何の為かは分からないが、私に傷つけて貰いたがっている。邪魔をするんじゃない」
「アリスが、ブラッドに?」
うーん、とエリオットは考え込みかけて、ハッと顔を上げた。
今、悩んでいる場合ではない。
「……っと、いけねえ。ブラッド、悪い。アリスを追う」
「ああ、行ってくるといい」
すまん、と言い残して、エリオットは素早く部屋を出て行った。
慌ただしくドアが閉まる。
騒がしい男だな、とブラッドは葉巻に火をつけた。
白い煙を吐き出しながら、ブラッドは何の気なしに窓を見やった。
空は苛立たしいほどに晴れ渡っている。
変わらない風景。
自分達も変われない。
けれど、心情は少しだけ変わったのかもしれない。
エリオットも自分も。
「……つい最近も、こんな事があったか」
前回は、アリスが追いかける側だった。
一人きりの部屋で、ブラッドは一人ごちた。
善人にも程があるな、と深い溜息が自然と口から零れ落ちる。
あの時のエリオットの表情を、アリスは見逃している筈だ。
今のエリオットが、アリスの表情を見落としたのと同じく。
ブラッドは考えをめぐらせながら、葉巻を灰皿に押しつけた。
エリオットは、僅かにだが――二人を見て、悲しそうな顔をしたのだ。
本当に、それは無意識だったのかもしれない。
変化は、ほんの僅かの間だった。
だが、付き合いの長いブラッドが見落とす筈がない。
新しく取った葉巻に、火をつける。
果たしてエリオットは、アリスを守れるのだろうか。それだけが、少し気がかりだった。
「アリス!」
アリスは振り返らない。
アリスの全身をまとう頑なな雰囲気に焦ったエリオットは、一層、声を大にした。
「アリス、聞こえてんだろ!? 待てよ!」
怒声を浴びて、アリスは肩を震わせた。足が止まる。
その間に、エリオットは距離を一気に詰めてきた。
「っと、悪い! 俺、怒鳴るつもりは」
アリスの沈んだ表情を目の当たりにして、自分が怒鳴ったからかと勘違いしたのか、エリオットはあたふたしている。
アリスは口を引き結んだ。
エリオットの顔が、まともに見られない。
アリスは視線を逸らすと、黙って俯いた。
(恥ずかしい)
勢い任せに行動したことが、だ。浅慮にも程がある。
守ってあげる、とか恩着せがましいことを言っているつもりはなかった。
けれど、ゼロかと問われると、そうではない。
(何で私は……)
いつもいつも、大事なところで間違ってしまうのだろう。
(馬鹿みたい)
みたい、ではなくて、きっと馬鹿なのだ。
また、一人相撲になっている。エリオットの迷惑を考えず。
エリオットの眼差しが、心配そうに曇る。
「……アリス」
「な、なに?」
アリスは、自身を取り繕うことができなかった。
狼狽を露に、ただエリオットの言葉を待つことしかできない。
今は、見つめられるだけでこんなにも戸惑う。
それはきっと、アリスに後ろめたい思いがあるせいだろう。
「俺、あんたがよく分からねえ」
エリオットの視線が、迷うように揺れる。
彼もまた、戸惑っているのか。
「……あんたは、俺が守ってやる。だから、傷つこうとするな」
「進んで傷つきたくなんか無いわ」
自虐趣味はない。断じてない。
「けど、あの時、あんたは自分の首をしめてたぜ」
指摘されて、アリスは力なく笑った。
「そうかもしれない。私、考え無しだから」
こと恋愛に関しては特に、だ。
相手の気持ちも汲まずに突き進んでしまう。
しおれているアリスを見て、エリオットは慌てて頭を振った。
「そんなことはねえ! あんたは賢い」
「私のこと、軽蔑した?」
「するわけがねえだろ!」
反射的に手が伸びていた。
次の瞬間には、エリオットはアリスをかき抱いていた。
そうでもしないと、アリスが消えてなくなってしまいそうな気がした。
細い体は頼りなく、エリオットの腕にすっぽりと包み込めてしまう。
アリスはここに居るはずなのに、自分から遠いところに居るような錯覚が起きる。
手の届かない、遠いところに。
このまま閉じ込めておきたい衝動に駆られ、エリオットはアリスの肩に顔をうずめた。
「もし、傷つきたいなら、俺にしてくれ」
喉から絞りだすような声で、エリオットは囁く。
驚いたアリスは、パッとエリオットから体を離した。
エリオットが、燃えるような目でアリスのことを見つめていた。
真正面から捉えてしまい、アリスの心は良くない予感にざわめいた。
「俺が、あんたを傷つけてやる」
「……エリオット」
初めて見るエリオットの顔だった。
今まで向けられたことのない表情に、思わず息を呑む。
アリスは、エリオットから視線が剥がせなくなった。
しばらくの間、二人は互いに見つめあっていた。
空気を断ち切ったのはエリオットだった。
「それだけだ。じゃ、仕事があるから、またな。アリス」
エリオットはいつもの雰囲気を取り戻すと、固まるアリスの頭を、ぽんぽんと軽く手でおさえた。
去っていくエリオットの後姿を、ただ呆然と見送る。
彼の姿が完全に見えなくなってからも、アリスは動くことができなかった。
(傷つけたいの? 私を)
今まで大事にしてくれたのに。
守っていてくれたのに。
そのエリオットが、ついに自分に牙を剥く。
きっと、とても恐ろしいのだろう。
他人事のように、そう思った。
目は活字を追っているのに、内容は全く頭に入ってこない。
諦めて本を閉じると、アリスは息を吐いた。
本を閉じたと同時に、左右から顔を覗き込まれる。
「お姉さん、浮かない顔をしているね」
「どうしたの、お姉さん。何か悩みごと?」
アリスは、二度三度と瞬きをした。
誤魔化したくて、無理矢理に笑顔を作る。
「ディー、ダム……何でもないの」
「……」
そんな答えでは、ディーとダムは納得してくれなかった。
「なんでもない顔じゃないよね、兄弟」
「同感だね、兄弟。何があったの、お姉さん」
「何も」
アリスは小さく首を振った。
本当に何もないのだ。
原因となる出来事など、何も起きてはいない。
ただ、ブラッドに喧嘩を吹っかけただけだ。
エリオットが欲しくて、アリスは退かなかった。それだけだ。
だが、ディーとダムは鋭かった。
「うーん。何もないから、悩んでるの?」
言い得て妙だ。
不思議な言い回しだが、アリスにはしっくりくるものがあった。
「……そうかもしれない」
力なく微笑むと、ディーとダムは「うーん」と唸った。
「そっかー。それは困るね、お姉さん」
「そうそう、困る。何かあれば、悩みの元を徹底的に潰せるんだけど」
「はは……」
何と返していいのかわからず、アリスは苦笑いで返すことにした。
少々物騒だが、彼らなりに心配してくれていることは分かる。とてもいい子たちだ。
何の前触れもなく、エリオットがぬっと現れた。
「お前ら、仕事サボってんじゃねーぞ!」
「わっ!?」
本当に、神出鬼没な兎さんだ。心臓に悪い。
ドキドキする胸を片手で押さえながら、アリスはエリオットを仰ぎ見た。
「ひよこウサギ……」
「いきなり現れないでよ、全く」
二人は声を潜めもせずに、ぶつぶつと悪態を吐いた。
エリオットの目がつりあがる。
「お前らがサボってるから悪いんだろうが!」
勤務時間帯だったのか、とアリスはびっくりした。
自分のことで足止めしてしまったのか。彼らに悪いことをした、と申し訳なくなる。
双子はアリスと出会う前からサボりを決め込んでいたので、アリスが呵責を感じる必要は、実はない。
ディーとダムは、負けじと言い返した。
「サボりじゃないよ! お姉さんのことが心配で、相談に乗ってあげようとしてただけだよ!」
「そうだそうだ。仕事なんかより、そっちの方が大事だろ!?」
「アリスが?」
エリオットは瞠目すると、隣に立つアリスへと視線を移した。
エリオットの目には、心配以外の何の含みもない。
無い筈なのに、アリスの胸は変にギクリとした。
「あんた、悩みがあるのか?」
「う……うん」
しばし迷ったが、アリスは頷いた。
エリオットの柔和な態度に、こちらばかりが戸惑ってしまう。
エリオットは「うーん」と小さく唸った。
「そっか……けどな、こいつらに相談することだけは止めとけ。相談ならブラッドにするといいぜ」
ディーとダムは、心外だと言わんばかりに、エリオットに食って掛かった。
「何でだよ、馬鹿ウサギ! 何で僕らじゃ駄目なのさ!」
「お前らは、面白がって引っ掻き回すだけだろうが!」
突っかかってくる二人を、エリオットは真正面から切り捨てた。
返す言葉が、あながち間違っていないところが怖い。
(……それはある、かも)
アリスは口に出さず、密かに同意した。
もしもこれがエリオットだったなら、ディーとダムは喜び勇んで事態を引っ掻き回すだろう。
アリスには、そんなことはしない――たぶん、しないだろう。
ダムは、真っ向からエリオットに噛みついている。
「酷いな! 僕らが、お姉さんに対してそんな事するわけないだろ!?」
「どうだかな! 大体お前らは、いっつも口ではそう言うんだ!」
エリオットとダムの激しい罵り合いを、アリスはげんなりと眺めていた。
そんな様を、ディーが注意深く観察していた。
「……ふーん」
ディーは、アリスの横顔をちらりと見上げた。
(わかっちゃった)
アリスが何を悩んでいるのか。
ディーの心に、小さくはない嫉妬心が芽生える。
そんな事は初めてで、ディーは心の中で戸惑った。
けれど、表情には出さない。出さないで居られる。
それでも、いつもよりも少しだけ、沈める時間が必要だった。
燻ぶる思いを消し潰した後、ディーはアリスの腕を絡めとった。
「お姉さん、お姉さん」
「ん、なあに? ディー」
打ち明け話をするかのように、ディーはアリスの耳元にそっと口を寄せた。
「お姉さんの悩みごとって、ひよこウサギに関係してるでしょう」
「!」
囁かれて、アリスは動揺した。しまくった。
そんなアリスの様子を、ディーは面白そうに見つめる。
「な、なんで?」
「ふふふ。だって、お姉さんの視線、ずーっとひよこウサギを追ってるよ」
「……あー」
心当たりのあるアリスは、ディーの言葉を否定できなかった。
二人だけで、当人に聞こえぬように小声でやりとりをする。
(しまったー……)
この子達は、何て聡いのだろうか。失敗した。
「……口止め料は、何を支払えばいいのかしら?」
「わあ。お姉さんに払ってもらう、か。……うん、悪くないね。何にしようかな」
ニヤリ、とディーの笑みが深くなる。
どこか邪悪そうな顔に見えるのは、アリスの見間違いではないだろう。
(む、無茶なことじゃなければいいけど)
アリスは審判を待つ心持ちで、ハラハラしながらディーの判決を待った。
「今度、僕らとデートしようよ。そうしたら、ひよこウサギには黙っておいてあげる」
「……いいわ。お願いね」
ディーは甘く囁く。
アリスは頷いた。もとより、立場の弱いアリスは要求を呑むしかないのだけれど。
「うん。僕ら、いい子だもん。お姉さんとの約束は、ちゃーんと守るよ」
「信じるわよ、その言葉」
念を押すと、ディーはニッコリと笑って頷いた。
この笑顔を信じるしかない。
「ちょっと、兄弟」
アリスとディーの雰囲気を感じ取ったダムが、一人むくれていた。
「何、お姉さんと楽しそうにしてるのさ。一人だけずるいよ」
不機嫌そうな声にも、ディーがにこやかに応対する。
「ごめんごめん、兄弟。でも、兄弟を仲間はずれにしたりはしないから、安心してよ」
「そう? よくわからないけど、わかった」
いまいち納得はしていないようだが、ダムの機嫌は幾分よくなったようだ。
そんな中、エリオットだけが面白くなさそうだった。
「アリス……あんまり、こいつらとは付き合うなよ。酷い目に遭うぜ」
「……」
エリオットは、いつもと変わらない。
あんな風に言ったくせに、まるで何もなかったかのように振舞う。
(あ、そうか)
かつて双子が言った言葉を、アリスは再び思い出した。
ディーとダムは、『あいつは自分の感情を隠すのが上手いよ』とも言っていた。
もしかしたら。今この時、エリオットは自分を隠しているのだとしたら?
(これは……分からないわね)
ただの推測かもしれないし、当たっているのかもしれない。
ただひとつ言えることは、アリスには、どちらなのかを見抜くことは不可能だということ。
エリオットは、嘘をついているわけではないのだ。
「酷い目、ねぇ」
アリスは呟いたが、彼らに聞こえてはいない。
双子とエリオットは、口論は激しさを増していた。
双方の論点はずれにずれ、『兎って最低』な話になっている。
銃撃戦が始まる前に、止めなければ。
アリスは、つかつかとエリオットへ歩み寄った。
「エリオット」
彼のロングコートの端をつかみ、ぐいぐいと引っ張る。
「アリス?」
エリオットは、今まさに銃を引き抜こうとしていたところだった。
銃から手を離し、アリスと視線を交わらせる。
「エリオットには、相談しちゃいけない?」
紫色の目が、何度か瞬いた。
「俺か? それはいいけど、解決策は考えてやれねーかもしれないぜ? 俺、頭悪いし、ブラッドの方が」
「エリオットがいい」
じっと見つめながら、アリスは静かに訴える。
他ならぬエリオットに、自分の心の内を明かしたい。
エリオットは照れくさそうに微笑んだ。
「そうか? なら、空いてる時間なら、いつ来てくれても構わねえよ」
「うん」
ひとまず了解が貰えた。
アリスの瞳から、ようやく切迫感が消える。
エリオットに何を言おう。何を話そう。
これは大きな課題だった。早速、心をまとめなくてはならない。
「じゃあね、ディー、ダム」
一つ笑顔を残し、アリスは去っていった。
心なしか、その足取りは軽い。
「……ふぅん」
様子を見ていたダムは、ディーを見た。
ディーが笑って頷く。
「兄弟、僕もわかっちゃった。お姉さんの悩みごと」
「ふふ。お姉さん可愛いよねー。でも、ひよこウサギが本格的にムカついてきたな」
声音が次第に低くなる。
深く考えれば考えるほどに、エリオットのことが憎らしくなってくる。
アリスはエリオットを選んだ。
悔しいけれど、アリスはエリオットを見ていた。
アリスはきっと、世界に留まってくれるだろう。
それは嬉しいけれど――欲を言えば、エリオットより、自分達を選んで欲しかった。
お気に入りの玩具を横取りされた気分だ。面白くない。
この八つ当たりめいた苛立ちを、一体どこにぶつければいいのか。
自分たちは子供だから、八つ当たりをしても仕方がない筈だ。
仕事で発散するのは確定だが、それだけではとても足りない。
そうだ、と二人は同時に思いついた。
怒りの矛先は、まだ気づいていない愚かな兎に向ければいい。
「僕もムカつくよ。ほんっと、鈍いウサギ……今度、あいつに何か仕掛けようか」
「いいねー、兄弟。大怪我するような罠がいいな」
「そうだね、兄弟。大怪我どころか、死んでも構わないけど」
誇張でなく、死んでも構わないと思っている。
けれど。
ディーとダムは、少し声を落とした。
「お姉さんが悲しむから、殺すのは止めておいてあげようか」
アリスの為に。
アリスの心を守る為に。
うっとうしい兎が死んで、その後釜に納まる――そんなことも、ちらっと考えた。
「うん、お姉さんが悲しむのは嫌だな。でも、ひよこウサギが死ねば、お姉さんはフリーになるよ」
「あ、そうか。悩むねー」
「うん、悩む」
やっぱり、それもいい案のように思えてきた。
ディーとダムは、真剣に検討し始めた。
「……あのなぁ……丸聞こえなんだよっ! てめえら! 俺のどこが鈍いって!?」
ディーとダムは顔を上げた。
羅刹のような顔のエリオットが居た。
耳はピンと直立していて、怒りに肩を震わせている。
まだ居たのか、と、ダムはわざと大きな溜息を吐いた。
「全部だよ、ぜーんーぶ!」
「うっわー、まだ気づいてないんだ。サイテー」
「はぁ!?」
双子は、ここぞとばかりにエリオットを煽る。
何て愚かな兎なんだろう。アリスに好かれているくせに。
「でも、僕らは教えてなんかやらないよ! 自分の頭で考えたら? 馬鹿ウサギ!」
「っと、待てこら!」
「やだよ、バーカ!」
逃げ足の速い双子は、悪態をつきながら駆け出していった。
「ったく……何なんだよ」
エリオットは無意識に、屋敷の方角へ視線を向けた。
屋敷へと戻るアリスの後姿を、エリオットは微動だにせず、じっと見つめていた。
見慣れている空間が広がっている。
所々おかしいところはあるが、概ね正しくて――ああ、これは夢だ。エリオットは自覚した。
別の気配を察知し、エリオットは辺りを見回した。
「居るのか? ナイトメア」
「ああ、居るよ。エリオット」
拡散していた気配が、実体になる。
目の前に現れた顔色の悪い男を見て、エリオットは口元を引き結んだ。
夢の中でこうしてナイトメアを会うのは、久方ぶりのことだった。
「機嫌が良くないようだね」
くすぶる情を感じ取ったのか、ナイトメアは薄く笑っている。
エリオットは憮然と呟いた。
「……良くは、ねえよ」
「それは、アリスのせいか?」
「違う」
エリオットは、すぐさま否定した。
アリスが機嫌の悪さの原因になる、なんてことは万に一つも無い。
「アリスのことは、好きだ。けど」
悩むまでもなく、アリスのことは大好きだ。
大切に守っていきたい、とても大事な少女。
エリオットの漠然とした苛立ちは、愚かな自分へと向けられていた。
「アリスが、俺のことで悩んでるんだって、ガキ共が言ってたんだ」
ちょうどエリオットの方にも、彼に聞きたいことがあった。
他者の心を読める彼ならば、アリスの本音も知っているだろう。
「なあ、ナイトメア。俺は、アリスに嫌われたのか?」
アリスが自分のことで、何かしら心を痛めている。
そんなこと、考えただけでも苦しくなる。
守りたいのに、悩ませてどうするのだ。
悩むだけなら、まだいい方だ。アリスを助けてやれる。
けれど、その原因が自分だなんて。
更に最悪なのは、未だ、自分はその理由に気づけずにいることだ。
愚鈍にも程がある、と、エリオットは眉間に皺を寄せた。
エリオットの苛立ちは、ナイトメアには手に取るようにわかる。
不思議な微笑を崩さぬまま、ナイトメアは静かに諭した。
「いいや、エリオット。アリスは、君を嫌いになったわけじゃないよ」
「けどよ」
納得がいかない、とばかりに、エリオットは拳を強く握りしめた。
(知ってはいたが、頑固な男だな)
素直ゆえに、こうと思い込んだら、そう簡単には修正できない。
そこが彼の長所でもあり、短所でもある。ナイトメアは苦笑した。
「いいか? エリオット」
「何だ?」
ふわり、とナイトメアは宙に浮かび上がった。
すばらしく長身の彼を見下ろせるのは、存外気持ちがいい。
灰色の微笑を消してしまうと、ナイトメアは表情を切り替えた。
彼には珍しい挑発するような目で、エリオットを冷たく見据える。
「君には可能性がある。アリスを世界へ繋ぎ止める楔の役目だ。君にできるかな?」
思わぬ宣告に、エリオットは目を丸くした。
「俺が? アリスを?」
「ああ」
ナイトメアは慇懃に頷いた。
口元に、覇気のない微笑が戻る。
「ひょっとして……帰る、ってことか? アリスが」
「君次第だ」
嘘ではない。
まだ、アリスは帰ってしまう可能性を秘めている。
完全にこちら側に居てもらう為には、エリオットに役割を買って出て貰うしかない。
ナイトメアは、彼が断らないことを知っていた。
もう既に、エリオットの心はアリスへと向けられている。
アリスが居なくなるかも、と囁いてやれば、彼は躍起になって止めにかかるだろう。
(すまないな、アリス)
一種の賭けでもあった。これで、万が一――。
「俺が」
エリオットが言葉を零したので、ナイトメアは意識を彼へと戻した。
「そう、君が。ペーター=ホワイトの……皆の願いでもある。やってくれるね?」
「……」
エリオットは視線を落とし、黙り込んだ。
その沈黙は、迷っているわけではない。ナイトメアにはわかる。
「元の世界への想いは、更に強いもので断ち切らなくてはならない」
まるで託宣を授けるかのように、ナイトメアは荘厳な口調で言葉を紡ぐ。
エリオットは吹っ切れたように視線をあげた。その力強い瞳に、もう迷いはない。
「何だってやる。それでアリスは幸せになれるなら、な」
「それも、君次第だろうな」
エリオットが間違わなければ。
ナイトメアは笑う。
つられて、エリオットも笑みを零すと、長く息を吐いた。
「最近だけど……薄々、気づいてた。元の世界へ戻ったところで、アリスは幸せにはなれねえ。そうだろ?」
ナイトメアは答えずに黙っている。
それだけで答えは十分だ、とエリオットは言葉を続けた。
「俺だって、アリスが元の世界に戻るなんて嫌だ。気が狂いそうになる」
言いながら、ナイトメアを仰ぎ見る。
エリオットは、自分の心を取り繕ったりはしない。
「だったら留めろ、ってことだな?」
「そうとも」
ナイトメアは大きく頷いた。
エリオットの瞳が、堅固な意思を持つ。
「わかった。アリスは、俺が繋ぐ」
アリスがそれで幸せなら、ためらうことなく繋いでやれる。
例え、それで自分が本当に嫌われたとしても、だ。
さあ、どうすべきか。
エリオットの思考を辿るように、ナイトメアは口を開いた。
「ああ……でも、間違うなよ? エリオット。彼女は君のことが好きだぞ」
エリオットは、難しい顔をして考え込んでいる。
ナイトメアの助言が、彼の耳に届いているのかは不明だ。
ナイトメアは溜息をひとつ吐くと、事態が妙な方向に転ばないことを、静かに祈った。
「それにしても……なあ、エリオット」
先刻とはうってかわって、ナイトメアの雰囲気は砕けたものになった。
「ん? どうした?」
エリオットからも、深刻さが消える。
「君の夢はいつも一色だったが、最近は少し違うみたいじゃないか。喜ばしいことだ」
周囲を見渡しながら、ナイトメアはニヤリと笑う。
エリオットは「そうかー?」と零しながら、同じように、周囲へ視線を向けた。
「って、変わったか? あんま自覚はねえけど」
「いーや、変わった」
ナイトメアは断言した。
エリオットの夢は、いつも見ても、周囲がにんじん一色だった。
テーブルにこれでもかと置かれているのは、ケーキやクッキーなどのオレンジ色の料理の数々。
テーブルの前に、女物の白いハンカチが置かれるようになったのが、最初。
「……羨ましいよ、君がね」
小さな呟きが静かに背後から投げかけられ、エリオットはサッと振り返った。
ナイトメアの言葉には、羨望が見え隠れしていた。
「ナイトメア」
呼びかけに答える声はなかった。
彼の姿は、もう見えない。
漂っていた気配も霧散してしまったから、彼は目覚めたのか――あるいは、夢から出て行ったのか。
「……悪いな。でも、譲ってやらねえ」
誰もいない空間で、エリオットはしっかりと口にした。
他ならぬアリスのことだけは、譲れなかった。
===== あとがき ===
2009年8月発行『歯車を探して』より。