彼らの第一印象は、悪い。底なしに悪い。
けれどその分、印象は深かったのだ。悔しいほどに。
First Impression
アリスが帽子屋屋敷を滞在先に選んでから、しばらくの時が過ぎた。
実際に時間が経過したのかどうかは判らないが。
この世界では、時間の流れがよくわからない。今だって、進んでいるのか遡っているのか、さっぱりだ。
昼は夜になり、夜は夕になり、夕は朝になる。
最初は、ランダムに変わる空の模様に戸惑ってばかりだった。
そんなアリスも、この世界の様式にやっと慣れてきたところだ。それでも、まだほんの一部分に過ぎない。
だだっ広いこの屋敷内を、何とか迷わずに動ける。その程度の慣れだ。
「あ」
アリスは足を止めると、窓辺に身を寄せた。
時間帯が変わる。
サアッと波がひくように、空がその色を変えていく。
太陽は月となり、青は闇に。
星が、何事もなかったかのように静かに輝きはじめる。
窓ガラス越しに、アリスはその様子をじっと観察していた。
(次は、夜になるのね)
何度見ても不思議だ。
まだ完全に慣れてはいないけれど、この神秘的な光景は少し好きかもしれない。
(……うーん、何をしようかな)
アリスは、ちらりと視線を右手に向けた。手には一冊の本。
天気が良いから外で読書でもしようと思って、ブラッドの所から持ち出してきたものだ。
外では読めそうもないから、部屋に戻るべきだろうか。何だか気が抜けてしまった。
とりあえず、と再びアリスは歩き出す。
どうしようか考えあぐねていると、アリスを呼び止める声がした。
「やあ、お嬢さん」
「ブラッド」
だるそうな声に振り向けば、屋敷の主が居る。
時間帯が夜になったからだろうか、彼の機嫌は良さそうだ。
先ほど本を借りに行った時とは、比べ物にならない程。
それでも、不健康そうな気だるさは残しているが。
もっとも、気だるそうでないブラッドなど、ブラッドではない。
「どうしたの?」
ブラッドはニコリとアリスに笑いかける。
けして爽やかな笑顔などではなく、やはりどこか無駄に艶めいた笑みだ。
この笑顔が、アリスはまだ好きになることができないでいる。
ブラッドは、アリスのかつての恋人に似ている。似ているというレベルではない。瓜二つだ。
あの人はこんな風に笑わなかったのに、と違和感しか感じない。
誰かと比べるのは、ブラッドに対して失礼だとは思う。
さすがにその程度の良識はあるので、芽生える苦い想いは心の中だけに留めている。
アリスの複雑な心情を知ってか知らずか、ブラッドはアリスに近寄った。
「お嬢さんが私の部屋を出て、すぐ時間帯が変わったからな。
お嬢さんが暇を持て余していると思って、代替案を用意してきたのだよ」
それは親切なことだと思うのだが、ブラッドが言うと何処となく胡散臭い。
不信感を包み隠して、アリスは律儀に微笑み返した。
「それは親切にどうも。代替案って?」
「一緒にお茶会でもどうかな?」
「そうねー……」
作法は物凄くうるさいが、ブラッドの用意する茶は文句なしに美味しい。悪くはない案だ。
どうせ、することも特にない。受けてもいいかな、とアリスは考えた。
アリスが頷こうとした時、ばたばたと乱暴な足音がした。
と同時に、ブラッドの背後に長い耳がひょっこり見え、アリスは思わず咽そうになった。
エリオットはブラッドの姿を見つけると、耳をピンと立てた。なんてわかりやすいのだろう。
ブラッドはアリスの視線を追って、背後を振り向いた。
エリオットが自分めがけて一直線に駆けてくるのを見て、げんなりと溜息を吐く。
ブラッドとは対照的に、エリオットの笑顔は太陽のように眩しい。
「ブラッドー! ……っと、アリスもいるのか。よう、アリス!」
「こんばんは、エリオット」
エリオットはアリスにも人懐っこい笑顔を向ける。
いいなあ、可愛いなあ、と彼の耳を凝視しながら、アリスの口元は綻んだ。
エリオットは短気なお兄さんだが、一旦打ち解けてみれば、とても気さくで親切だった。
滞在を決めてからも、アリスが快適に過ごせるようにと、あれこれと世話を焼いてくれた。
その懐かれ方は尋常ではない。
だが、他に頼るべき人が思い浮かばないアリスにとっては、エリオットのような存在はありがたい。
なので、ここぞとばかりに好意に甘え、乗っからせてもらっている。
好きな人が二人も同時に居て嬉しい、とばかりに、エリオットは目をキラキラさせている。
(……うわあ)
アリスはエリオットの放つ光線に耐えかねて、僅かに視線を逸らした。
どうも、エリオットのような直球すぎる好意は苦手だ。
ちらりと見れば、ブラッドも視線を明後日の方向に逸らしている。思いは同じか。
二人の間に流れた微妙な空気には気づかず、エリオットはブラッドに向き直った。
「なあ、ブラッド。次の仕事のことだけどさ」
「……お前は、全く」
「ん、どうした?」
「いや、何でもない」
無粋な事をするな、とでも言いたげに、ブラッドは途中で言葉を切った。
言葉の続きは重い溜息に変わる。
エリオットはきょとんとして首を傾げた。
「急ぎでなければ、後にしてくれないか。お嬢さんを誘っているところなんだ」
「悪い、ブラッド。急ぎだ」
「そうか……」
言いながら、ちらりとアリスに視線を向ける。
アリスはブラッドの視線の意味を察して、首を軽く横に振った。
ちゃんと口元に笑みを刻むことも忘れない。
「忙しいみたいだし、私のことは気にしなくていいわよ。適当に過ごすから」
「すまないな、お嬢さん。埋め合わせは必ず」
「いいって。じゃあね」
仕事ならば仕方がない。
優先させるべきはどちらなのかは、火を見るより明らかだ。
エリオットも、悪い、とアリスに手を合わせた。
気にしなくていいのに、とアリスは笑みを向ける。
ブラッドはゆっくり体の向きを変え、歩き出した。
アリスの前で仕事の話をするのは、流石にまずいと判断したのだろう。
アリスに首を突っ込む気は更々ないのだが、聞こえてしまえばやはり気になるのも事実。
なので、さりげない彼の配慮はありがたかった。
エリオットはブラッドの後を追う。
歩きながら、二人で何事かをひそひそと話し合っている。その横顔は真剣そのものだ。
帽子屋屋敷は――ブラッドやエリオットは、マフィアなのだという。
とんと縁が無かった世界が、今、アリスのすぐ傍にある。
興味がないわけではないが、できれば揉め事は避けたい。
あまり具体的に知りたくはなかった。危機回避は大切だ。
ブラッド達を見送ると、アリスは再び考え込んだ。
やはり、大人しく部屋に戻ることにしよう。そして、本を読むのだ。
そうして再び歩を進め始めた、その時。
廊下の向こうからやってくる人物を見て、アリスは目を瞠った。
「……!」
自然と足が止まった。
向こうからやってくる人物、その顔は忘れもしない――笑いながらアリスに斧をつきつけてきた、あの双子だ。
大振りの斧に、揃いの服。違いは色だけだ。
髪や背格好もそっくりで、もしも彼らが同じ服を着て目を瞑ってしまえば、全く見分けがつかなくなるだろう。
アリスの足は竦んで、石のように動かなくなってしまった。
それ程、彼らとの出会いは強烈すぎたのだ。忘れようにも忘れられない。
トラウマと言ってもいいかもしれない。
本がアリスの手から滑り落ち、ぱさりと軽い音をたてた。
その音で、二人はアリスの存在に気がついたらしい。談笑するのを止めると、ぴたりと足を止めた。
双子は立ち止まったまま、じっとアリスを見つめている。
見られているアリスは、心中穏やかではない。アリスの背筋を、冷や汗が流れ落ちた。
しばし、双方とアリスはそのまま見つめあった。
アリスの方は、そうしたくてしているわけではなく、視線が彼らから剥がせないのだ。
視線を逸らせば即座に刺されてしまうような、そんな不安がある。
(ど、どうしよう)
双子は微動だにしない。
食い入るように――喰らいつくように、アリスを見ている。
彼らがアリスを見て何を思っているのか、全く読めない。
澄んだ瞳に底知れない不気味さを感じて、アリスは身震いした。
不思議なものを見る目でアリスを見ていた双子だが、彼らの方が先に動いた。
青い服の子供が、赤い服の子供へ何か耳打ちをする。赤い服の子供が、小さく頷いて返した。
(何……何を言ってるの?)
その内容が気になって仕方がない。
ハラハラしながらどうするべきか考えていると、突然、双子が動いた。
つかつかと歩み寄られ、アリスはぎょっとした。
にっこりと微笑むその姿は可愛らしいが、アリスの鳥肌はおさまらない。
「こんばんは、お姉さん」
「こんな所で何をしてるの? お姉さん」
和やかに声をかけられ、アリスは息を呑んだ。
数歩下がって、彼らから距離を取る。
彼らの武器のリーチは長いので、この数歩は意味がないかもしれない。
それを理解してはいるが、下がらずには居られなかった。
(騙されないわよ)
二人同じ笑顔で微笑まれても、アリスは警戒を解かない。
出会ったあの時と、口調がまるで同じだ。
人懐っこそうに見せかけて、笑顔のまま、表情を変える事なく、斧を向けることのできる子。
アリスは押し黙っていたが、彼らの気は長そうには見えない。
アリスは仕方なく、ゆっくりと慎重に口を開いた。
「……こんばんは。特に何もしてないわ」
「そう」
一歩、赤い瞳の子供が動く。アリスは一歩下がった。
「この間、門で会ったお姉さんだよね?」
「ええ、会ったわね」
そして、殺されそうになった。
一歩、青い瞳の子供が動く。アリスは二歩下がった。
「ねえ、お姉さん。何でこの屋敷に居るの?」
「何でって」
思いがけない質問に、アリスは面食らった。
ここに滞在することにしたから、だ。
まだ二人には知らされていないのだろうか。そんな下っ端のようには見えないけれど。
アリスが答えに詰まったのをどう取ったのか、二人の少年は、担ぐように持っていた斧の柄を握りなおした。
アリスの心臓が、ドクン、と嫌な音をたてる。
「お姉さんが無断に侵入してるのなら、殺さなきゃいけないんだ」
「侵入者を見過ごしたなんてバレたら、ボスに怒られるからね」
「うん、減給ものだね。だから、お姉さんが侵入者じゃなければいいんだけど。面倒だし」
殺さなきゃいけない、と物騒なことをサラッと軽く言う。
生命がかかったことを、窓が開いてたから閉めないと、みたいな口調で言わないで欲しい。
「ボスって、ブラッドでしょう?」
「うん、そうだよ。僕らの雇用主さ。で、お姉さん」
彼らは笑顔なのに、更に威圧感が増した。
アリスは震える足で、また一歩下がる。少年達は同時に一歩詰め寄る。
駄目押しとばかりに、二人はニッコリと微笑んだ。これが最後通牒だよ、と暗に物語っている。
「何でこの屋敷に居るの?」
その声音は氷のようだ。
周囲の温度がひやりと下がり、アリスは息を呑んだ。
すうっと、喉元に斧の切っ先を突きつけられる。
その動作は緩慢だったのに、アリスは動くことができなかった。
アリスはきゅっと唇を結ぶと、負けじと二人を睨み返した。
向き合うのは正直怖いけれど、ここで弁解しておかないと、本当に殺される。
ブラッドは自室だ。彼の助けが二度入ることを、期待してはいけない。
「……ブラッドが、ここに滞在していいって言ったのよ」
「ボスが?」
「へー、珍しいね」
ブラッドの名前を口にした途端、少年達の殺気は目に見えて薄まった。
アリスへの視線が、じろじろと興味深そうなものへと変わる。
だが、斧は突きつけられたままだ。
こんな物騒な物、とっとと引っ込めて欲しいのだが。
何が引き金になるかわからない。
アリスは口を固く結んだ。
夢は夢でも、痛い思いはできるだけ避けたい。そんな特殊な嗜好はない。
抗議したい気持ちを抑えて、アリスはしばらくの間、彼らの探るような視線に耐えた。
「ボスがいいって言ったのなら、お客さんだね。殺さなくてもいい」
「うん、お客さんだ。お客さんは歓迎してあげなきゃね」
呑気な声と共に、やっと切っ先が下がる。
アリスが安堵の息を吐いたのもつかの間、少年達はアリスの至近距離まで寄ってきた。
手を伸ばせば十分、届く距離だ。
アリスは身構えたが、少年達の雰囲気はすっかり元通りになっている。
「僕はトゥィードル=ディー。よろしく、お姉さん」
「僕はトゥィードル=ダム。よろしくね、お姉さん」
にっこり笑って、手を差し伸べられる。
今度の笑顔は本物なのだろうか。それとも、まだ?
その手を見つめながら、どうすべきかアリスは真剣に考えた。
自分よりも年下であろう子を相手に、こんなに怯えるなんて、とちょっぴり情けない気分になる。
けれど、多分警戒しておくにこしたことはない。
エリオットよりも、恐らくこの子達の方が警戒すべき相手だ。
(何て子達なんだろう)
本当に。
アリスは密かに溜息を吐いた。
けれど、せっかく穏便に事が進みそうなのだから、そこに乗らない手はない。罠かもしれないが。
鉄仮面を被るような心持ちで、アリスは何とか笑ってみせることに成功した。
「アリスよ。アリス=リデル。よろしく」
やっとのことでそれだけを言うと、アリスはさっさとその場から離れようとした。
かろうじて平静さを保てているうちに、とっとと退散するに限る。
彼らとはあまり関わらないでおこう、と思った直後、背後から明るい声が飛んできた。
「お姉さん、僕らこれから仕事なんだ。だから今は遊べないけど、今度一緒に遊ぼうね」
「僕らに会いに来てね、お姉さん。一緒に遊ぼう」
驚きのあまりアリスは立ち止まると、恐る恐る振り向いた。
こっちを見ている二人と目が合い、ぎこちなく曖昧な笑みで返す。
それを了解と取ったのか、『絶対だよー』と念を押して、少年達も歩き始める。
彼らの背中を呆然と見つめながら、アリスの胸に芽生えた思いはひとつ。
冗談じゃない。
彼らと関わるとろくなことはないだろう。その位、アリスにもわかる。
でも、きっと巻き込まれずには居られないんだろうな、という漠然とした予感もあった。
この奇妙な胸騒ぎは、やがて現実のものとなる。
===== あとがき ===
アリスにとって、ディーとダムの第一印象はあんまり良くないでしょう。たぶん。
あー、でも帽子屋勢は皆そうかな…(’’
ディーとダムが大好きです。エリオットも大好きです。
の割に、ディーとダムの方が話を書くの、とっつきやすかったりします。
最初は怖々、次第に良い方向に傾いてく……のが好きなんですが、そのうち書けたらいいなっと。ありがとうございました。
(2008.8.20 山藤)