約束の指輪
アリスはディーとダムの恋人になった。
彼らと共に過ごす時間は、慌しくもとても幸せで、何も不満などない。
目立った喧嘩もなく、三人の仲は順調といっていい。
けれど、アリスには不満があった。
それはそれは大きな不満が。
二人が、アリスのことを名前で呼んでくれない。
アリスの愛するディーとダムは、いつまで経ってもアリスのことを「お姉さん」としか呼んでくれないのだ。
傍から見ればごく些細なことだし、こちらから催促するのも気が引けるのでずっと黙っていたが――そろそろ限界だ。
それでも口にすることができず、アリスは悶々と悩んでいた。
その日も、アリスはいつものように、ディーとダムの部屋に居た。
傍らに寝転がるダムを、指先でつつく。
「ダム」
「うん? どうしたの、お姉さん?」
ダムはくるりと向きを変えると、アリスの顔を見上げてきた。
赤い瞳に吸い込まれそうなほど長く見つめた後、アリスは頭を振った。
「ううん、何でもない」
「? そう」
ダムはきょとんとしながら、再び視線をナイフへと戻した。
新しく手に入れたらしいそのナイフは、鈍い鉛色の光沢を放っていた。
性能を詳しく説明されたが、話半分に聞き流す。
つかの間の休憩も、いつしか終わりを迎える。
「お姉さん、そろそろ行ってくるね」
伸びをしながら立ち上がると、床に転がっていた斧を掴む。
そろそろ仕事の時間だ。名残惜しいけれど、行かなければならない。
「ディー」
名を呼ぶと、ディーはすぐさま振り返った。
アリスの言葉にだけは、驚くほど反応が素早い。
「はいはーい。何? お姉さん」
アリスは数回瞬きをした後、ふっと息を吐いた。
(お姉さん、か)
アリスは小さく息を吐いた。
「何でもないわ。二人とも、気をつけてね。いってらっしゃい」
アリスの不可思議な言動に疑問を覚えながらも、二人は身支度を整えた。
「……うん」
「行ってきまーす、お姉さん」
形だけは明るく言い、二人は部屋を後にした。
廊下へ足を踏み出したと同時に、互いに視線を見合わせる。
「……」
お互い、同じことを考えているようだった。
「ねえ、兄弟」
できるだけ勤務時間を減らそう、と廊下をのろのろ歩きながら、ダムが話を切り出した。
「お姉さん、何かおかしかったよね?」
ダムの意見に、ディーも同意した。
「兄弟もそう思った? お姉さん、ちょっと様子が変だったよ。どうしたのかな」
「何か言いたそうにして、それから止めるんだ。二、三回は繰り返してたよ」
うんうん、と頷きあう。
これは大事な話題だから、と歩むスピードを更に緩める。
「ここのところ、ずっとあんな感じだよね。どうしたんだろう」
「僕らに言いにくいことがあるのかな?」
「なんだろうね。お金の問題は切り出しにくい、っていうけど」
アリスがお金に困っている、なんてことは万に一つもない。
仕事の給金もちゃんと支払われているし、アリスが必要以上に散財するとも思えない。
「女の人が言い出しにくいこと……」
「……言い出しにくいこと」
ディーとダムはとうとう足を止めた。
見つかったら面倒なので、こそこそと物陰に移動し、二人で熟考する。
ややあって、思いついたのか、ダムがポツリと零した。
「もしかして、子供ができたとか?」
ディーは、弾かれたようにパッと顔を上げた。
「そうだ、そうかもしれないね、兄弟!」
妊娠は、女性が恋人に言いにくい筆頭理由だ。
「だよね、兄弟! 扶養手当の額面の交渉をしないと。ボスに言いに行かなきゃ!」
「その前に結婚式だよ、兄弟! これは早く挙げないといけないね」
二人の目はキラキラと輝いている。
すっかり浮かれた気分になりながら、ディーとダムの足取りは軽くなった。
「そうだね、兄弟。早くしないと。お祝い事だもの、休暇もくれるよね?」
「くれるさ、兄弟。でも何でお姉さん、言いにくそうだったのかな? 嬉しいのに」
ダムは首を捻った。
幸せ以外の何ものでもないのに、何故アリスは黙っているのだろう。
「兄弟、それはね。世の中には妊娠発覚と同時に逃げるような馬鹿男がいるからだよ。お姉さんは考え込む性質だから」
「そっかー。最低だよね、そういうのって。僕、そういう奴は大嫌い。男の風上にもおけないね」
そうだね、とダムも頷く。
「僕だって嫌いさ、兄弟。でも、どうしてお姉さんは僕らに言えなかったんだろう? 僕らは誠実な恋人だから、絶対そんなことしないのに」
その程度で逃げ出すほど愛情が薄いのならば、手を出さなければいいのに。
「そうだよね。でもほら、あれだよ。マタニティブルーっていうじゃない。ホルモンバランスが崩れて、気持ちも不安定になるらしいよ」
そういえば聞いたことがある、とダムは納得した。
「そうか、それなら仕方ないか。お姉さんも大変。僕らにできることは、お姉さんを安心させることだね」
「うんうん。じゃあ、さっさと仕事終わらせて、ボスに報告に行こう!」
異論はない。
「うん! ご祝儀くれるかな?」
「くれるんじゃない? ああそうだ、休暇も交渉してみようか。育児はちゃんと手伝わなきゃね」
うんうん、と互いに頷きあう。
アリスと家族になる。
新しい家族もできる。
あまり『家族』というものに縁の薄かった二人にとって、これは喜ぶべきことだった。
「家族ってどんなだっけ?」という若干の不安もあるが、今は嬉しさの方が勝り、心が弾む。
「じゃあ、今日の仕事が終わったら、さっそくボスに報告に行こうよ!」
「うん、そうしよう。今日はちゃっちゃと終わらせようね。遊ぶのは、また今度」
記録的なほど素早く仕事を終わらせると、ディーとダムは駆け足でブラッドの部屋へと駆け込んだ。
「ボス!」
「ん? どうしたんだね、二人とも」
「ああ〜お嬢さま〜いけません〜」
「え?」
アリスは箒を動かす手を止めると、声の方を振り向いた。
見れば、同僚が慌てた様子で近づいてくるのが見えた。
「私がやりますよ〜お嬢さまは休んでいてください〜」
はて、とアリスは目を瞬かせた。
「私、仕事がはいってたと思うんだけど……」
シフトを間違えたりはしていないはずだ。
ちゃんと確認して出てきた。
「いいんですよ〜そんなもの〜私達がやりますから〜」
そんなもの、でも仕事は仕事だ。
「駄目よ。仕事だもの。ちゃんとやらなきゃ」
「でもぉ〜休まれたほうが〜」
「?」
メイドは妙に食い下がってくる。
おかしいな、とアリスは首を傾げながらも、微笑んだ。
「体調は悪くないわ。心配してくれてありがとう」
先ほどの、物思いにふける姿を見られていたのかもしれない。
彼女はそれを疲労と捉えて、仕事を代わってくれようとしているのだろう。
そう思って作業を再開したが、メイドは更に食い下がってきた。
「やっぱり駄目です〜心配ですし〜。それに〜私達も怒られます〜お嬢さまってば〜」
アリスは驚いて手を止めた。
今、彼女はなんと?
「……怒られる? 誰に?」
「それは〜」
メイドが口を開いたと同時に、明るい声が背後から飛んできた。
「よお、アリス! おめでとうな!」
振り向けば、いつのまにか傍にエリオットが立っている。
にこにこっと微笑まれ、アリスは戸惑った。
「え、何が?」
「ってか、仕事なんかすんなよ。あんたの事だから、やっぱ仕事はサボらねえんだろうなーって思って来てみたら……おい、お前ら、さっさと代わってやれ」
「は〜い〜」
パッと箒を奪われる。
強引ではなく、上手くさらわれた感じだ。
「ったく……気が利かなくて悪いな。さ、あんたは部屋に戻れ。体、大事にしとけよー」
ぽん、と背を叩かれる。
「……ねえ、エリオット? 私、よくわからないんだけど。そんなに顔色悪そうに見える?」
自分では気づかないだけで、他者からは倒れそうに見えるのだろうか。
ひょっとして、顔色が土気色だとか。
だが、エリオットはアリスをじろじろと観察した後、首を振った。
「いや? けど、何かあったら大変だろ?」
「そりゃまあ、大変だけど」
困らないといえば嘘になるが、それは誰だって同じ事だろう。
「だろ? 突然気分が悪くなるかもしれねえし、休んどけ休んどけ」
「……? 仕事、ちゃんとするってば」
アリスは雑巾を手にすると、きゅっと絞りあげた。
「ちょ、ちょっと! 待て、アリス!」
慌てるエリオットを無視し、アリスが脚立に足をかけようとした。その時だった。
横から手が伸びてきて、アリスの腕を掴んだ。
あまりにもがっちり掴まれたおかげで、アリスは動作を止めるしかなかった。
アリスは訝しそうな顔で、手の持ち主を見据えた。
「やあ、お嬢さん。あいかわらず仕事熱心なことだ」
「ブラッド」
腕を掴まれるまで、ブラッドの気配は全く感じなかった。
何をするんだ離せ、とアリスは視線で訴えたが、そ知らぬ振りをされた。
「けれど、今は休みなさい。別に、給料を差っ引くなんて真似はしない」
「……はあ」
口ではのんびり言いながらも、力は緩まない。アリスの腕を離すつもりはないようだ。
「適度な運動は必要だが、高いところは危険だ。今は止めなさい」
高いところ、と言われたが――アリスは、ただ窓を拭くために、脚立に上がろうとしているだけだ。
高い内にも入らない。
「仕事をするんだから、離してよ」
「雇い主であるこの私が、しなくていいと言っている」
ずれた答えを返され、アリスは眉間に皺を寄せた。これでは埒が明かない。
「何で?」
ひょっとすると、解雇という意味なのだろうか。
けれど、そのくらいの事はストレートに言ってもよさそうだが。遠慮するような人々ではない。
「あっ! お姉さん、居たっ!」
「お姉さんっ!」
駆けてくる足音に目を向けると、猛然と向かってくる双子の姿があった。
ブラッドは、やっとアリスの腕を離した。
入れ替わりに抱きついてきた双子に、両の腕をとられる。
「ディー、ダム、どうしたの? そんなに慌てて」
火急の事態、というわけではなさそうだ。
そうだとしたら、ブラッドやエリオットがこんな所でいる筈がない。
「どうしたのじゃないよ! 何してるのさ!」
「何って……仕事だけど」
ディーとダムはとんでもない、と声を張り上げた。
「駄目だよ、駄目! 何かしてないと不安なら、僕らが傍にいるから!」
「え?」
駄目だと言われる意味がわからない。
何かしてないと不安――というか気まずいから、ブラッドに頼んで与えてもらった仕事ではあるけれど。
「出歩いちゃ駄目だよ、お姉さんっ! 早く早く、部屋にいこう!」
ぐいぐいとアリスを引っ張りながら、二人は声を張り上げた。
「そうだよ。僕らがついててあげる。いいでしょう? ボス。サボりなんかじゃない、立派な理由があるよ」
視線をブラッドへうつしながら話を振ると、ブラッドは小さく頷いてみせた。
「ああ、それならば構わないよ。お嬢さんが第一だ。特に用事はあるか? エリオット」
「いいや。しばらくはでかい仕事ないしなー。ちゃんとついててやれよ」
エリオットの同意も得ると、二人はアリスに向き直った。
「わかってるよ! さあ、お姉さん。行こう」
「部屋に戻ろう」
彼らの引っ張る力は強いものの、常よりはやや加減がされている。
アリスの頭は、未だ混乱の中にいた。
(な、何で?)
展開についていけない。
考える暇を与えられずに、このまま押し切られそうだった。
「あの……何が起こってるの?」
ブラッドとエリオットは、互いに意味ありげな視線を交わした。
小さく咳払いをした後、ブラッドが口を開く。
「彼らから聞いたよ」
「何をよ」
ブラッドは照れているのか、アリスから視線を外した。
「子供ができたそうだな。めでたいことだ」
「は?」
素っ頓狂な声をあげ、アリスは硬直した。頭が回らない。
「誰の?」
「あんたと、こいつらの」
丁寧にも、エリオットが、双子とアリスを交互に指差す。
「……」
「でも、子供かー。こいつらには、ちょっと早い気もするがな」
「ああ、早い。だが、子供は授かりものだからな。時期はしょうがないさ」
エリオットとブラッドは、呑気な声で和やかに談笑しあう。
(ナニ? 子供? 私の?)
情報が全く頭に入ってこない。
単語はあるのだが、一向に繋がってくれない。
気づけば、アリスは自分の部屋に居た。
茫然自失のアリスを二人が連れてきたらしい、とはわかったが。
「さあ、お姉さん。横になって」
ベッドに入るよう、促される。
「ディー、ダム。話したいことがあるんだけど」
「うん、聞くよ。でも、横になって?」
「……」
アリスは仕方なくベッドに潜り込んだ。
何をどう話せばいいのやら、と頭を悩ませていると、ディーとダムがベッドの脇にすとんと座り込んだ。
にこにこと機嫌よく見上げてきたと思えば、アリスの目の前にカタログを広げる。
「結婚式なんだけどね、お姉さん。僕ら、色々資料集めてきたんだ。見て見てー」
アリスは思わず跳ね起きた。
「寝てなきゃ駄目」とすぐさま戻されてしまう。
ディーとダムはパラパラとページをめくってみせながら、口々に囁いた。
「どれがいい? どれでもすごく似合うと思うけど、どういうのがいい? お姉さん」
「僕はこういうのがいいな、きっと綺麗だと思う。でもこっちもいいね」
「うーん、もう少し派手なのでもいいんじゃない?」
「やっぱり、豪華なのがいいかな」
「うんと豪華なのがいいよね、お姉さん。あ、お金のことなら心配しなくても、ちゃんと貯蓄はしてあるから大丈夫だよ〜」
このままでは、アリスの意思など関係なく、式まで一直線だ。
青ざめたアリスは、下っ腹に気合をいれた。
「ディー、ダム」
強く名を呼ぶと、二人はぴたりと口を閉じ、ようやくアリスを見た。
「何で、結婚式まで話が飛んでるの……第一、プロポーズされた覚えはないんだけど」
指摘すると、二人はしまった、と顔を見合わせた。
「そうだったね。僕らとしたことが、うっかりしてたよ」
ベッドに身を乗り出し、ディーとダムはアリスの手をそっと握った。
「お姉さん、僕らのお嫁さんになって」
「お姉さんのこと、ず――っと大事にするから。愛してるよ」
「……いや、あのね」
そんな、ついでのようにプロポーズされても、嬉しくもなんともない。
と思いきや、アリスの胸は高鳴った。
意思に反して飛び跳ねる心臓が憎々しい。
「えー。お姉さん、僕ら以外のお嫁さんになるの? そんな予定、ないでしょう?」
「あったとしても潰すけどね。ね、お姉さん。僕らと結婚して」
その妙に整えられた笑顔は、脅し以外の何物でもない。
「ディー、ダム。あなたたち、勘違いしてるわ」
「え? 何を?」
双子はきょとんとした。
「こ、子供ができたなんて、何で思ったの?」
口に出すのも恥ずかしい。
頬を染めながらも懸命に尋ねると、双子の方が面食らった顔をした。
「あれ、違うの?」
「ええ」
「でも、お姉さん。最近なんだか、言いにくそうにしてたでしょう?」
「だからてっきり、子供ができたけど言い辛いのかなーって」
どこをどうして、そこに行き着いたのだろう。アリスはがくりと項垂れた。
「あのねえ……でも、どうしてブラッドたちがそれを?」
それはね、とディーが明るく答える。
「僕らが報告に行ったんだよ。扶養手当の申請とー有給の申請とーお姉さんの産休の申請も、ついでにしてきたんだ!」
「……」
アリスは頭を抱えた。
そして、アリスはやっと、ブラッドやエリオットや――メイドの言葉を、理解することができた。
メイドまで知っていた、ということは。
(……広まって、る……よね……)
もう恥ずかしくて、彼らと顔を合わせられない。
アリスが毛布に突っ伏していると、ディーとダムの話し声が聞こえた。
「子供、できてないんだ……ちょっとがっかり」
「僕もー。名前まで考えたのに」
「な、名前も?」
「うん」
ディーとダムが父親。
響きがしっくりこないが、彼らは案外、協力的な夫になるのかもしれない。
すぐ飽きそうな気もするから、冒険してみる勇気はアリスにはまだないが。
「あ、そうだ。兄弟兄弟、できてないなら、作っちゃえばいいんだよ」
「あ、それはいいね。作っちゃおうよ、お姉さん」
「うん、作っちゃおう。そうしたら解決するよ」
二人は、何の解決にもならないことを言う。
ディーとダムはベッドに腰掛けると、逃れられないように手を置き、アリスを見下ろした。
「どっちと作る? どっちでもいいよね?」
「僕らのどっちの子供も欲しいし、一人じゃ足りないよ」
「そうだね。お姉さんが上手く双子を生んでくれればいいんだけどな」
「そっかー、それもいいね。男の子がいい? 女の子がいい? 僕はどっちでもいいよ。ちゃんと育児協力はするから、安心してね」
安心はできない。
ディーとダムのやり取りは続く。
「女の子がいいな。お姉さんに似た子がいい。きっと可愛いと思うよ」
「男の子でもいいんじゃない? そうしたら、一緒に遊んであげられる。父親の威厳にかけて、サバイバル知識もちゃんと教え込んであげる」
「あー、それも捨て難いね。やっぱり両方がいいな」
「うんうん。お姉さん、まずは男の子にしようよ」
「ちょ、ちょっと! 待って! こら!」
二人の会話を聞いていると、妙に力が抜けていく。
黙って聞いていたアリスだったが、双子がまさにアリスの服に手をかけようとしたことで、頭が覚醒した。
幸い、ディーとダムは手を止めてくれた。
「でも、結婚はするでしょう?」
「ね?」
「う」
返答に窮したアリスを見て、ディーとダムは心外だといわんばかりに驚いてみせた。
「え。してくれないの?」
「駄目? 僕らが嫌い?」
そんな子犬のような、傷ついた顔を作ってみせても無駄だ。
だが、その事がわかっている上で、アリスは強く出られないのだ。
「だ、だって……あなた達、まだ子供で」
「大人ならいいの?」
「大人になったら、結婚してくれるの?」
言葉尻をとられ、アリスは今度こそ言葉に詰まった。
「そうなればいいなーって思うけど、でも」
「でも?」
このままでもいい、とアリスは思う。
(大人になったら、私のことなんて飽きるわよ)
飽きられるくらいならば、大きくなんてならなければいい、とも。そんな事は不可能だと知っていても。
「アリス」
「!」
アリスは弾かれたように顔を上げた。今。
「ねえ、アリス。僕らはアリスが好きだよ、ずっと」
「今、名前」
「うん」
アリスの胸が、やさしく高鳴る。
好きな人に名を呼んで貰えるのは、格別に嬉しいものだ。
その幸福感たるや、ついさっきされたプロポーズ――プロポーズのようなものの非ではない。
ディーとダムは、ほうっと息を吐いた。
「よかった……やっと笑ってくれた」
「え?」
「ここの所、何か悩んでたでしょう? ずっと難しい顔してたから」
「そ、そう?」
もしかして、バレバレだったのか。
双子は揃って頷いてみせた。
「うん。悩みごと、解決した? まだなら僕らが手伝うよ」
「うん、タダで手伝う。僕らにもっと頼って欲しいんだ」
悩み自体は知られていなかったらしい。
彼らの頼もしい言葉を信じてみよう、アリスは上体を起こした。
「じゃあ……お願い、しようかな」
そもそも、彼らの協力なしには、叶えられない類のことだ。
アリスがはにかむと、ディーとダムは嬉しそうに力強く頷いた。
「うん! なになに、お姉さん」
「もしかして、ボスからセクハラ受けて困ってるとか?」
「うっわー……それは許せないよね、兄弟」
「うんうん。いくらボスでも、やっていいことと悪いことがあるよ。お姉さんが危ないのなら、僕ら頑張って下克上する」
アリスが口を挟む間もなく、話がどんどん進んでいく。
「そ、それはないわ! だから、安心して」
さっそく斧を掴んで出て行きそうな勢いだったので、アリスは慌てて制止した。
「そうなんだ、よかったー。やっぱりボス相手は骨が折れるから」
「うんうん。ボスを狙うなら、ひよこウサギも相手しなきゃいけなくなるし、ちょっと面倒だよね。でもお姉さん、本当に何もないの? 我慢しちゃ駄目だよ?」
「うん、もしそうなら僕らに言ってね。お姉さんのこと、絶対に守るから」
「あ、ありがとう。本当にないから、大丈夫よ」
この子達は、少し早合点しやすいようだ。
脱力しつつ、二人の気遣いは快く受け取っておく。
「ボスじゃないんだ……なら、ひよこウサギ? にんじんばっかり食べててうざいとか?」
ダムの顔が、心底嫌そうに歪められた。
ディーもしみじみと頷いて同意する。
「あー、あれはウザ過ぎるよね……じゃあ、あいつに奇襲しかけてみる? あの耳をちょん切ったら、少しは大人しくなるんじゃないかな?」
ディーが提案すると、ダムは目を輝かせた。
「そうだね、兄弟。あれをちょん切ってウザさが改善するなら、それは親切ってものだ。僕らっていい子だね」
「うんうん。僕らって、すっごくいい子。じゃあ早速、あいつの次の休みあたりを狙う?」
「あ、仕事中に事故っていう手もあるよ、兄弟。どっちがいいかな?」
「どっちもいいんじゃない? 仕事中に不慮の事故、休暇中にちょっとしたハプニング。ほら、両方でもいける」
「そうだね、兄弟。両方にしよう。あいつ、しぶといもの」
「駄目に決まってるでしょうっ!」
躊躇うことなく、アリスは声を張り上げた。また話があらぬ方向へと転がっている。
駄目だと言われた双子は、不満そうに口を尖らせた。
「えー。だって、お姉さんが悩み抜くぐらい、ウサギがうざいんでしょう? だったら、早く何とかしないと」
「ウサギは皆うざいんだよね。害獣だよ」
「あのね……エリオットが原因じゃないわよ」
癒しになりこそすれ、エリオットがストレスの原因にはなり得ない。
むしろ今、二人の方向修正に、やや疲れてきている。最初から自分の話を聞いて欲しい。
「え、そうなの?」
「なら、お姉さんは何を悩んでいたの? あ、もしかして使用人達が」
「違います」
話が展開する前に、アリスはサッと口を挟んだ。
「うーん、何だろうね、兄弟」
「うん、何だろう。お姉さん、教えて教えて」
だから言おうと思っていたのに、とアリスは溜息を吐いた。
気を取り直して、コホンと小さな咳払いをする。
「な、名前を……」
「え?」
「恋人……になったのに、二人とも、名前で呼んでくれなかったでしょう? だから、その」
恥ずかしいことを言っている。
アリスの頬は、だんだんと朱に染まっていった。
双子は瞠目し、瞬きすら忘れて、そんなアリスを見ていた。
「名前で呼んで欲しいなーって……うわっ!?」
「アリス」
たまらなくなった二人に、アリスは飛びつかれた。ベッドに勢いよく倒される。
これが床でなくてよかった、と心からアリスは思った。
「アリス。可愛い」
「大好き」
「好きだよ」
たっぷりの言葉とキスを、これでもかと振りまかれ、アリスは二人に酔った。
きゅーっと抱きつかれながら、アリスも負けじと二人を抱きしめ返す。
もっと早くに白状していたらよかったな、とアリスは蕩けそうな頭でぼんやりと思った。
それ以降、彼らは、アリスを名前で呼んでくれるようになった。
以前の癖が抜けないのか、時々「お姉さん」になっているが。そんな時は、すかさず一方が修正してくる。
「ねえねえ、アリス」
「手を出して、アリス」
「ん?」
言われるがまま、素直に手を差し出す。すると――。
二人は素早かった。
ダムがその手をガシッと掴むと、ディーがポケットから何やら取り出す。
出てきた代物に、アリスは目を瞠った。
「え」
固定されている左手の指に、はめ込まれる。
一連の動作は流れる水のごとく、アリスは抵抗する隙がなかった。
ディーとダムは、ニッコリと満足そうに微笑む。
「よかった、ピッタリだよ。それ、婚約指輪だからね、アリス! 大事にしてね」
「うんうん。思ったとおり、すっごく似合うね。よかったー」
「え、ちょ、ちょっと。そんな」
仰天したアリスは、思わず指輪に手をかけた。
そんなアリスの行動を見越していたのか、ディーが先手をうってきた。
「あ、そうそう。それね、抜けないから」
「……何ですって?」
訝しげな顔を向けたアリスにむかって、ダムはとんでもないことを口にした。
「呪いの指輪らしいんだ。格好いいよね!」
「の、呪い!?」
双子はニコニコしている。
「そうそう。無理に抜こうとすると肉が削げるから、止めておいた方がいいと思う」
今まさに指輪を引き抜こうとしていたアリスは、ピタリと動作を止めた。
「な、何でそんな、危ないものをっ!」
抗議の声をあげたが、双子は涼しい顔だ。
「だってー。ただ渡しただけじゃ、外しちゃうんじゃないかなーって思って」
「アリスにずっとつけていて欲しいから、そういうのを探したんだ。大変だったんだよ。あと、アリスの好みもちゃんと考えた」
考慮すべきところは別にある。
「そういうデザイン、好きでしょう? 割とシンプルなのが好きだ、って前に言ってたから」
「……そうね、好きだわ」
デザインだけに限っていうならば、だけれど。
「で、でも、呪いってどういう……どうしたら外せるの?」
ディーとダムは目を見開いた。
驚きも露に、アリスにすがりつく。
「え!? 外さないでよ、アリス」
「外しちゃ駄目だよ! アリス」
詰め寄られ、その勢いにアリスはたじろいだ。
「い、いや……外さないから、外す方法だけでも教えて」
「って、本気で外す気!?」
「酷い! 酷いよ、アリス……僕ら、アリスに喜んで貰いたくて」
「あのね……外さないのと外せないのは、まるで違うの。それに、ディーとダムから貰ったんだもの。つけるに決まってるでしょう」
言い含めるように聞かせると、双子は納得いかない顔のまま、アリスに念を押してきた。
「本当? 本当に指輪、してくれる?」
「うん、するから」
「ただの指輪じゃないよ。婚約指輪をするって意味だよ、アリス」
「……」
せっかくサラッと答えられたのに、改めて聞かないで欲しい。
気恥ずかしさに頬を紅潮させながら、アリスは二人から視線を逸らした。
「す、する」
「……」
「……」
この時、ディーとダムは、この上なく満ちたりた表情を浮かべていた。
至上の幸福に包まれている状態、と形容しても遜色はないほどに。
だが、アリスはその様子を見ていなかった。
アリスの意識は、物騒な指輪に集中していた。
「ええー……まさかこれ、一生外れない呪いとかじゃ……ないわよね?」
引っ張ってみようか、としたが、先ほどのディーの言葉を思い出す。
(削げる……)
まったく、この二人は何という危険なシロモノを選ぶのか。
二人に悪意こそないが――ないと信じたいが――これは。
躊躇いながら、怖々と触れてはみたが、特に――何の変哲もない指輪にも見えた。
くいくいっと袖を引かれ、アリスは指輪から意識を引き剥がした。
「アリス」
ダムはアリスの頬に手を寄せ、引き合うように唇が寄せられる。
唇はそのまま重なるかに見えた。
けれど、距離がゼロになる間際で、アリスの掌で遮られてしまった。
「いきなり何するの」
珍しく、アリスの方が素早かった。
流されなかったか、とダムは心の中で舌打ちした。
「何って、キス」
「……」
アリスは呆れながら、ぐいぐいとダムの体を押し戻した。今そんなことをしている場合ではない。
「あのね、私は指輪の呪いを解く方法を聞いてるんだけど」
「だから、解く方法だよ。指輪の呪いを解くには、好きな人にキスしてもらうんだ」
説明を聞いていたアリスの目が、だんだんと据わってくる。そして一言。
「……うさんくさい」
ディーとダムも同意した。
「うん。僕もそう思った。けど、そう聞いたんだもの。他に方法がないんだし、試してみようよ」
「僕も僕も」
抵抗する間もなく、代わる代わるに唇を重ねられる。
流されている自分が嫌だ、と思うのに、結局負けてしまうところがもっと嫌だ。
ディーとダムはずるくて、実は厳しい。
アリスにも容赦なく、逃げを許してくれない。
それでも、彼らが好きなのだ。
振り回されて疲れはするが、密かに楽しんでいる自分がいる。
これから先も、もっと困らせて欲しい。願わくば、自分だけを。
「……あ」
「あ」
双子の声で、アリスは現実に引き戻される。
「……外れたね」
「外れた……」
指輪はアリスの指先から転げ落ち、床へと音を立てて落下した。
アリスは自分達が好き、と証明できた、と手放しで喜ぶ二人を、アリスは柔らかい眼差しで見守る。
(本当に、この子達は)
一緒にいるとドキドキしっぱなしだ。いや、ハラハラもする。
次に何を仕掛けてくるかわからない、可愛らしい子供達。
ふと浮かんだ疑問をぶつけてみた。
「ねえ。何でわざわざ指輪にしたの?」
「うん? えーとね、虫よけ」
「え?」
ダムはあっさりと白状した。
「だって、お姉さんは僕らのものだもの。他の男にちょっかい出されないように、印つけとかなきゃ、って。指輪が一番、わかりやすいでしょ?」
「そうそう。それに、お姉さんはちょっと危機感が薄いから、危ないかなーって」
お菓子をねだるように、二人は甘い声でアリス自身をねだる。
「お姉さんも、もう少し警戒してくれないと。僕ら、心配で倒れそうになるよ」
「馬鹿ね」
他に目を向けることなんてないのに。
アリスは笑いながら、手触りの良い彼らの頬を軽くつまんだ。
双子は破顔すると、三人でそのまましばらくじゃれ合った。
嵐のような双子が去った後、一人残された部屋で、アリスはじっくりと考えていた。
手の上には、さきほどディーとダムが寄こした問題の指輪がある。
青と赤の石が埋め込まれ、控えめに光を反射していた。
せっかくだし、と卓上に飾ってやりながら、アリスは静かに息を吐いた。
呪いの指輪。
一度はめたら外せない。
どうにも胡散臭い話だ。
アリスは思う。
そもそも、そんな呪いなど、最初からなかったのかもしれない。
今となっては、真相を確かめる術は、アリスにはないのだけれど。
【約束の指輪/了】
===== あとがき ===
2008年12月発行『おねえさんあのね。』より。
ほのぼのでした。