去りゆく魏延の姿を見つめながら――の足は、完全に止まっていた。

なぜ、とは首を傾げた。
遠目ではあるが、彼の背格好は見間違いようがないほど特徴的だ。



(何だろう、慌てて……あ、忘れ物をしてしまったとか??)



想像して、気持ちが和む。

わざわざ届けてくれたのだろう。多分。
優しいところもあるなあ、と呑気なことを考えながら、は扉へ手をかけた。

薄暗い部屋は、どこかひんやりと冷たく静まり返っている。
そろそろ自分も帰り支度をしないと――ふと、視界に違和感を覚えた。



「……ん?」



何だろう。何か引っかかる。

はじっくり部屋を眺めまわして、机の上の小さな異変に気がついた。



「これは……」



梅の小枝だ。

は小枝を手にとった。
まだ蕾は固いが、ほんのりと色づき始めている。

手にとって繁々と眺めていると、その下に、書簡が置いてあるのを見つける。

は、ためらうことなく開いてみた。
だが、部屋が薄暗いので内容はよく分からない。

それでも、差出人が誰かはすぐに判った。



「……魏延殿」



その綺麗な文字は、魏延のものだ。

仕事の残りがあったのだろうか。
いや、先ほどの仕事分はきっちり終わっていた筈だ。仕事ではないと思うけれど――。



(さっきの魏延殿は……これを届けに?)



それも、急ぐような。

の好奇心に火が点いた。
兎にも角にも内容が知りたい。

は明かりに火を灯した。
きちんと椅子に座り、書簡を開く。



「……あら」



思いがけない内容に、は目を丸くした。

そこには気遣いへの感謝が、丁寧に綴られていた。
きちんと礼を言えなくてすまない、と。

そして。



(梅を……)



私さえ良かったらで構わないのだけれど、梅を見に行かないか――。

控えめな誘い文句が、最後に認めてあった。



「まあ……」



嬉しい、と表情が緩む。
勝手に頬が染まるのがわかる。



「どうしましょう……」
「どうしました?」
「わっ!? じょ、丞相……いつの間に!?」



思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
諸葛亮は物言いたげな眼差しで、を眺めている。



「先ほど、声をかけても気づかぬようでしたので……申し訳ないですが、勝手に入りました」
「そ、そうですか……あ、御用事ですよね? 何でしょう!」



梅の小枝を背中に隠しつつ、は誤魔化すように笑顔を作った。
その目に含みがあるように見えるのは気のせいか。



「いえ、灯が点いていたので立ち寄っただけですよ。驚かせてしまいましたね」
「そうでしたか……」
「して、殿。何か悩んでいたのですか?」



まずい。
好奇心を隠そうともしない諸葛亮を見て、の額に冷や汗が流れおちた。

いや、知られてまずいような事では決して無いのだが。
諸葛亮と魏延の仲の悪さを鑑みるに、このような文を宛に書いたと知られては――ものすっごく嫌がるであろうことは、容易に想像がつく。

を誘わなければ良かった、と魏延に思われてしまっては嫌だ。

だが、この人を前に嘘を吐く事は出来ない。
小出しにするしかない、とは慎重に言葉を探した。



「な、悩み……そ、そうですね。あの、相談しても構いませんか?」
「ええ、私などで良ければ」
「あのですね……殿方から、その……文を頂いたのですけれど」



大丈夫、きっとばれたりしない。
嘘はついていないのだから。

は俯きがちに続ける。



「恥ずかしながら、このような物を頂くのが初めてで……どう返事したら、慎ましく見えますかね?」



これもまた、嘘ではない。
せっかくなので、できるだけ印象よく返したいのも事実だ。



「文には何と?」
「……その、梅を見に行かないかと……」
「ほほう。貴女も、憎からず思っている方なのですか?」
「……はい」



は口元に笑みを浮かべた。
誘われたのは嬉しいけれど、すぐに「はい行きます是非お願いします!」と返事をしても良いものだろうか。
はしたないと思われないだろうか。

こういった事に、てんで不慣れな為――正直、どうしたらいいのかわからない。

諸葛亮は楽しげに目を細めた。



「それは良い。ですが、貴女ほどの方は、殿方が放っておかぬと思っていましたが……初めて貰ったから、対応に困っていたのですよね?」
「ええ……」
「はあ……見る目が無い男が多すぎますね」



何をしているのだか、と諸葛亮はぼやく。
どう反応していいのか分からず、は戸惑った。



「そうですね……大事に想っている方なのであれば、臆せずお受けなさい」



大事に。

はっきりと言葉にして言われて初めて、は思い知った。
この想いの種類と、大きさを。



「は、はい。ありがとうございます……」
「いえいえ。思いがけず春らしい話が聞けて、私も楽しませて頂きました」



そうそう、と諸葛亮は柔和な表情のまま続ける。



「魏延殿でしたら、あまり捻った表現をするよりも単純な方が良いかと思いますよ」
「!!!」



衝撃の一言に、は瞠目した。ぶわっと嫌な汗が噴き出る。まさか、そんな。
ただ、呆然と立ち尽くすことしかできない。



「丞相……き、気づいて?」
「いえ? 貴女が嬉しそうでしたから。魏延殿だろうな、と当たりをつけただけです」



態度に出した覚えは無いのだが。
そんなに露骨だっただろうか。いや、そうでもない筈だ。

の思考は回り出した。目眩がしそうだ。

魏延にできるだけ良く思われたい、という――見栄は、多少はあった。
できるだけ、優雅な態度をとろうとはしていたが。ただ、それだけで?

負けた。頭が真っ白になる。

は素直に頼み込むことにした。



「……内緒にしてくださいね。お願いします」
「勿論です」
「……」



不安だ。
は無言で念を押した。



「心配せずとも、からかったりはしませんよ」



改めて言われると、めちゃくちゃ心配だ。不安である。
あからさまに顔に出ているだろうなあと思うのだが、制御がどうにも難しい。

そんなを見て、諸葛亮はニヤリと笑った。



「……突いてみても面白いかもしれませんね」
「!? だ、駄目ですよ! 絶対に!」
「わかっていますとも」



わからない。読めない。敵わない。

こんなところでも、実感する事になるなんて。
やりかねない、とは釘をさしておいた。だが、効果は無いと思う。



「貴女の恋路を邪魔するほど、野暮なつもりはありませんから」
「……恋」



口から零れ落ちたその言葉は、あまりにも甘い響きを伴っていた。
胸がどきどきする。そうか、これが恋というものか、と。



「ああ、ですが……貴女が嫌がっているのなら、全面的に協力を惜しまないつもりですので、遠慮せず」
「い、嫌がってません!!」



からかわれている。

だが、曖昧なこと言って――もし言質を取られでもしたら、嫌がらせの口実にしかねない。
なので、全力で否定しておく。



「ふふ、そうですよね。……貴女の趣味をとやかく言うつもりはありませんが」
「趣味!? 趣味って何ですか!?」
「いえ、成程なと思っただけですよ?」
「だ、だから何が!?」



微笑みで返された。
完全に、手のひらで転がされている。

こんな意地悪な面もあったなんて、と初めて見る諸葛亮に翻弄されっぱなしだ。
はあ、と大きく肩を落とす。



「貴女を好いている方は居る。彼らに目もくれない理由が今日、わかりました」
「!」



は弾かれたように顔を上げた。
意味ありげな笑みを零しながら、諸葛亮は体の向きを変えた。



「それでは、殿。もう暗いので、気をつけて」
「……はい、丞相……お疲れさまでした……」



やっとの事で、それだけを口に出すことができた。










翌朝のこと。

は、諸葛亮に呼び出されていた。
てっきり、いつもの仕事の話だと思ったのだが。



「呉に!?」
「ええ。兄に。お願いできますか?」



書簡などの届け物をしに、孫呉へ向かって欲しい。

そう諸葛亮に言われ、は盛大に固まった。
いま何と言われたのか理解するまでに、少々時間が必要だった。

数拍おいて、ぎこちなく頷き了承する。



「……。はい……私でよろしいのでしたら」



邪魔はしないって言ったじゃないですかー!

と、声を大にして訴えたい所だが――は拳を握りしめた。

仕事なのだから。
これは仕事。仕方のないこと。

深呼吸をして、心を落ち着ける。公私混同は良くない。



殿でしたら、安心して任せられますから」
「……はい、ありがとうございます……」



それは嬉しいのだが、どうも素直に受け取れない自分がいる。



「使者となれば、もう少し着飾ってお行きなさい。月英、頼めますか」
「はい、孔明様。、いらっしゃい」
「はい」



別室へ、月英と二人で連れ立って歩く。
二人きりになったところで、月英はそっとに囁いた。



「……ふふ、貴女のそんな顔、初めて見たわ」
「え?」
「嫌そうね?」



ずばり言い当てられて、は慌てふためいた。



「! そ、そんな事はないですよ!」
「ふふふ、良いのよ。私には話しても、誰にも言わないわ」



月英はに優しい。
仕事でも何でも、が困った時はさりげなく支えてくれるひとだった。

思いがけず差しのべられた優しさに、甘えたくなる。
気が緩んだ口が、勝手に語り始めていた。



「……実は」



は、ぽつりぽつりと胸の内を話した。
初めて、魏延が誘ってくれたこと。魏延と梅を見に行きたいこと。



「……そうだったの」
「……」



は俯いた。

髪がほどかれ、丁寧に結い直される。
目は煌めく装飾品をぼんやり見ているが、頭は全く別のことを考えていた。

これから孫呉へ向かって帰ってきたとしても、梅の花は散っているだろう。それが――それだけが、残念でならない。

普段のであれば、また違った。
このような大切な役目を与えられれば、喜んで全力で励んでいただろうに。

残念に思うのは、梅のことだけではない。自分に対してもだ。自分にがっかりしている。

は目を閉じた。唇に、紅がひかれていく。
いつも使っている色よりも、より紅いものだ。

普段でさえ、あまり紅をひかないのに。そう思うと、なんだか緊張してきた。
常のは最低限の装いだけだ。化粧も然り。はっきり言って地味な方である。

とて綺麗なものは好きだ。
だが、新しい紅よりも新しい書を買う方が好きなだけで。

月英の腕を信じていない訳ではないが――大丈夫なのか、ここにきてちょっと心配になってきた。

筆が離れる感覚と、コトリ、と道具を置く軽い音。
それから、の両肩に温かな手が添えられた。



「何とかしてあげるわ。任せなさい」
「え……」



が聞き返す前に、扉が開かれた。
見れば、書簡の山を抱えた諸葛亮が入ってくるところだった。



「孔明様、できました」



月英がの手を取り、立たせてくれる。
じゃらじゃらと装飾品をのせた頭は、普段よりずっと重たい。

諸葛亮はの姿を確認すると、満足そうに頷いた。



「そうですか。それでは、すぐに出立して頂けますか」
「はい……」



これをお願いします、と書簡をいくつか持たされる。
受け取ろうと手を伸ばすと、しゃらりと綺麗な音が頭上で鳴った。



「孔明様」
「なんです? 月英」
「長い道中、女一人では危険ですわ。どなたか護衛をつけるべきかと。ね、?」
「は、はい……できれば、どなたか同行をお願いしたいのですが」



とて、戦場に行った事がない訳ではない。小部隊を任された事もある。
弓を嗜んでいるし、そう危険という訳でもないのだが――女一人というのは、物騒といえば物騒ではある。



「……そうですね。では」
「魏延殿あたりはどうか、と話していたのです。ね、?」
「!」



なるほど、その手があったか。

だが、顔を明るくしたとは対照的に、諸葛亮は渋い顔である。



「……魏延殿は、外交向きではありませんから。それならば、趙雲殿や」
「外交は、が担当するのでしょう? 問題はないかと思います」



月英は、有無を言わさぬ笑顔で諸葛亮に微笑みかける。
諸葛亮は月英との顔を交互に見つめた後、小さく嘆息した。



「……。はあ、わかりました。私とて、貴女方ふたりを敵に回したくは無い」



参った、と珍しく諸葛亮は降参したようだ。



「ですが、貴女一人の方が呉に警戒されずに済む。彼は迎えに寄越します。それで良いですか?」
「はい……ありがとうございます!」



それなら、と返事も明るくなるというものだ。
あからさまに喜ぶを見て、諸葛亮は思い悩むような仕草で額に手をあてた。



「……。
「はい?」



言っておきますが、と諸葛亮は言葉を続ける。



「……あなたと魏延殿を、引き離そうとした訳ではないのですよ?」



ぱちり、とは目を瞬かせた。



「そうなのですか?」
「……私も信用がないですねえ……」



諸葛亮は苦笑している。
は青ざめた。慌てて頭を下げる。



「も、申し訳ありませんっ! そ、その……」
「あら、。そんなに勢いよく頭を動かしては駄目よ」



正直なところ――この人は絶対にわざとだ、とは思っていた。
けれど、聞いて確かめてはいない。関係があるはず、と勝手に思い込んだのはなのだから。

月英の手が伸びてきて、ずれた飾りを直してくれた。
諸葛亮は目を細めた。さほど機嫌を悪くした訳ではなさそうで、はホッとする。



「貴女が動揺している様子でしたから、離れて考える時間を、と思ったのです」
「……丞相」
「勿論、仕事上あなたが適任だと思ったから、というちゃんとした理由もありますよ」



そもそも、諸葛亮は反対していない。
魏延の離反だけが懸念ではあるが――そうなれば一族郎党皆、粛清される。が彼の枷となれば良い。

を手に掛ける未来など想像したくはない、と諸葛亮は小さく零した。
幸い、月英やの耳には届いていないようだった。



「あ、そうだ……」



ふと思い立って、は急いで筆を取った。
すぐに出立する。このまま何も告げずに行くのはまずい、と思いついたからだ。

あまり愚図愚図と考えている暇はない。
色気も何もない単純な文章だけだが、返さないよりは幾分マシであろう。

魏延への書簡を仕上げ、手早くまとめる。
は月英に向けて、まとめたばかりの書簡をおずおずと差し出した。



「……取り急ぎ、魏延殿へお渡し願えますか?」
「ええ、確かに」



月英はニコリと笑って受け取ってくれた。
この人に託せば大丈夫だろう、とは安堵する。



「それでは、道中くれぐれもお気をつけて……」



諸葛亮は穏やかに時を告げる。
これを、とが愛用している弓矢を手渡された。それを手にして、の表情が切り替わる。

そうだ、浮かれている場合ではない。

は瞳を閉じた。
その顔は、何処か凛々しくもある。

これから向かう先は孫呉なのだ。



(敵の地にいく)



使者として。

油断しては命取りになりかねない――気を引き締めてかからねば。
魏延のことよりも、今は目先の仕事に集中しなければならない。

弓をしっかりと握りしめると、動揺する心が鎮まる気がした。



「行って参ります」
「いってらっしゃい、
「頼みましたよ」



は頷くと、しっかりした足取りで歩きはじめる。
夫妻にひっそり見送られ、この日、は蜀を発った。





  






===== あとがき ===

2話目でした。
諸葛亮さんめっちゃ出ました。

1話目は魏延側だったので、2話目はヒロイン側で。

読んで下さってありがとうございます。もうちょい続きます。


 2015.9.18 山藤