梅の香りの徒然に
冬の寒さも和らぎ、日中の陽気が心地よく感じられる頃のこと。
は書簡の山を手に、回廊を歩いていた。
「魏延殿、書簡を届けに……」
部屋の外から声をかけてみたが、返事がない。
居るはずだけれど、と首を傾げながら、は扉に手をかけた。
そうっと開いて、珍しい光景に目を丸くした。
「……まあ」
思わず零れた声の大きさに、は慌てて口元を抑えた。
この室の主である魏延は、卓に突っ伏して眠りこけて居た。
かなり熟睡しているらしく、呼吸も大きく穏やかだ。
音を立てぬよう、そろりと近づいてみる――が、ぴくりとも動かない。
床に転がり落ちていた筆を拾い上げると、音を立てぬよう慎重に卓の上に置いた。幸い、墨は零れていなかった。
「……お疲れなのですね」
囁いて、は微笑んだ。
子供のようだなあ、と失礼な事を考えてしまう。
戦を終えたばかりで、まだ体力が回復していないのだろう。
かなりの激戦だったと聞くから、無理もない。
この書簡は後回しにしよう。
そう急ぎの仕事でもなかった筈だから。
そんな事を考えながら、は室内をきょろきょろと見回した。
いつもながら、片づけられている部屋だなあと思う。余計な物は何一つ無い。
何か、かけるものがないだろうかと思ったのだが――無い。
少し考えた後、は床に書簡を置いた。起こさないように、静かにゆっくりと。
「お風邪を召しますから、ね」
まだ春先で、何もかけずに寝ていると流石に冷える。
は自分が羽織っていた布を、そっと魏延の肩口にかけてやった。
自分の物を使うのは失礼かな、とも思ったが、体調の方が心配だ。
「……」
魏延の姿をもう一度見て、目を細める。
どうぞ休んでくださいね、と小さく呟くと、は静かに退室した。
数刻ほど時が経っただろうか。
魏延は、ようやく目を覚ました。
目を覚ました事で、自分が寝入っていたことに気がついた。いつの間にか、あんなに陽が高い。
ここが執務室であることを、魏延はぼんやりと理解した。
「……?」
どうも、肩に違和感がある。
手を伸ばして掴み――しげしげと、それを眺め見た。
――布だ。紛れもない、布。
このような物が、ここにあっただろうか?
記憶が曖昧だが、魏延の持ち物ではないことは確かだ。
「……」
これは一体。
起きぬけの頭では、さっぱり理解できない。
魏延が首を捻っていると、扉ごしに声をかけられた。
「魏延殿、入ってもよろしいですか?」
「……入レ」
鷹揚に応えると、ゆっくりと扉が開かれた。
が茶器を手にし、にこりと微笑んでいる。
「こんにちは、魏延殿……よかったら、お茶でも如何でしょう」
魏延に断る理由は無い。
魏延が頷いたのを見てから、は部屋に入ってきた。
「どうぞ」
「アア」
魏延は茶器を受け取った。
良い香りがする。起きたばかりの鈍い頭には有難い。
茶を啜り、一息つく。
肩までバキバキにこっていたのが、緩んでいく心地がした。
「これも、良かったら。先ほど作ってきたのですが」
言われるまま、魏延は饅頭に手を伸ばした。
齧ると、じんわりと優しい甘みが口に広がる。もうひとつ、と手が伸びる。
黙々と食べている魏延の姿を、は嬉しそうに見つめていた。
は、この寡黙な武将の事を嫌いではなかった。
諸葛亮は蛇蝎のごとく嫌っているけれど。
蜀の為に、劉備の為にと彼が戦場で粉骨砕身している姿を見ている。
動きに注意しておけと口を酸っぱく言われているものの、この人が本当に離反するとは到底思えないのだ。
魏延が一息ついた頃合いを見計らって、は口を開いた。
「……そうそう、魏延殿。諸葛亮殿から、書簡を預かって参りました」
「ソウカ」
書簡を手渡すと、は立ち上がった。仕事の邪魔になっては申し訳ない。
「よろしくお願いします。それでは、私はこれで」
「……」
「はい」
片づけようと茶器に手を伸ばした所で、名を呼ばれる。
そのまま、しばらく言葉を待った。
魏延は何か言いたそうに、じっとを見つめている。
どうしたのだろう、と不思議に思っていると、目を逸らされた。
「……茶ヲ」
「もう一杯、ですか? わかりました。淹れますね」
快く承諾すると、は丁寧に茶を淹れた。
ふわり、と香りが立ち上る。
その様子を、魏延は観察するように眺めていた。
魏延は気づいていた。
疲労回復に良いとされる茶葉を、が選んでいる事を。
差しだされた茶器を、魏延は無言で受け取った。
「お口に合いますか?」
「……。アア」
「良かった」
しばらくゆっくりして行け、という事なのだろう。多分。
そう取ったは、再び席に腰をおろした。
のんびりしていても良いのだろうか。
急ぐ理由もないから、構わないけれど――魏延の視線が外に向けられていたので、もつられて庭を見やった。
「もうじき、梅が咲きますね」
「ソウダナ……」
相槌をうつ。
魏延は、ちらりとを盗み見た。
外を見つめる彼女の視線は柔らかい。こんな顔もするのか。
――花が好きなのだろうか。
「……」
魏延は迷った。
これは、絶好の機会ではないのか。
それくらいは分かる。だがしかし、どう生かせば良いというのだろう。
梅を見に行こう、と誘っても良いだろうか。
柄にも無い事をしては驚かれるだろうか。
空になった茶器を弄びながら、魏延は考え込んだ。
口が上手くはない自覚はある。不審がられず脅かさず、何か良い言い方は無いか。
「……」
「はい、魏延殿」
くるり、と視線を投げかけられる。
その目には、何の含みも感じられない。自分の事を恐れてもいない。
やけに緊張する。
戦で矛を振るっている方が、よっぽど気楽だ。
を前にすると、どうにも調子がおかしくなる。
言うか、言うまいか。
「……」
――やはり、言わないでおこう。
似合わないことはするものではない。
寸での所で、魏延は言葉を呑みこんだ。不器用な自分を殴りつけたい気分だった。
「……。仕事、ハ」
「私の、ですか?」
突如思いついた別の話題で誤魔化しながら、魏延は曖昧に頷く。
すると、はニコリと微笑んだ。
「私は、今日の分は終わりました。……あの、魏延殿の仕事……よろしければ、私にお手伝いさせて下さい」
「良イノカ?」
「ええ、勿論です」
「手伝っても良いか」ではなくて「手伝いたい」と言われては、駄目だと断りにくい。
苦し紛れの話題だったというのに、後に引けなくなってきた。何だか今日は特に酷い気がする。
は書簡に手を伸ばした。
「では、失礼して……ええと、これとこれは魏延殿お願いしますね。私は残りをやりますから」
「……頼ム」
魏延は観念して、大人しく流れに任せることにした。
は、魏延でなくてはならない類の仕事だけを、さくさくと選び取る。
「では、道具を取って参ります」
「アア」
茶器を手早く片づけると、一礼しては退室した。
残された魏延は、肩を落として額に手をやった。
「……」
ああ、無様だ。
はあ、と大きな溜息が零れる。色恋沙汰は大の苦手だった。
眉間に皺を寄せつつ、もうちょっと何とかならなかったのか、と自問自答していた。
二人がかりだと、やはり終わるのも早かった。
流石は文官だ。彼女の方が仕事量も多かった筈なのに、なるほど優秀である。
墨が乾いたのを確認すると、書簡を丁寧に巻いていく。
二人してすっかり片付けを終えてしまうと、は書簡の束を抱えて立ち上がった。
「では、諸葛亮殿に届けてきますね」
「……」
「はい」
声をかければ、が振りかえる。
妙に胸が詰まって、言葉にならない。
魏延は、肩にかけられていた布を指差した。
「……コレハ、オ前ノ?」
「あ、ばれましたか。そうです」
は悪戯っぽく笑った。
魏延が布を手渡そうとすると――その手に、の手が添えられた。
思いがけない温かさに、魏延はギクリと固まって動けなくなる。
「先の戦でのご活躍、聞いておりますよ。お疲れでしょう……どうか、今日はゆっくり休んでくださいね」
優しい声だ。
ぺこり、と頭を下げてから、は魏延の執務室を後にした。
「……」
魏延は茫然自失状態にあった。
壁に頭を打ちつけたくなる衝動と戦う。
――そうだ。
言葉が駄目なら、文字がある。
良い事を思いついた――と、魏延は片づけたばかりの筆を取った。
帰り支度をして、魏延は回廊を歩く。
途中で立ち寄る場所がある為、真っ直ぐは帰らない。
思いついて梅の小枝を手折ると、書いたばかりの書簡に添えてみた。
目的の部屋へ辿り着くと、魏延は迷わず扉に手をかけた。
きょろきょろと室内を見回し、誰もいないことを確認する。
の普段使っている机の上に急いで歩み寄る。
できるだけ目立たない場所に、そっと文と梅の小枝を置いた。
――気づいてくれるだろうか。どんな顔をして、これを読むのだろう。
じっと、祈るように見つめかけて――ハッと気を取り直し、魏延は慌てて部屋を後にした。
こんな姿を誰かに見られるのはまずい。特に、諸葛亮になど見つかった日には。
危ない橋を渡っているな、と我ながら思う。
扉をきっちり閉めると、魏延は足早にその場を立ち去った。
気づくのはきっと、明日以降だろうから。そう考えると、胸がむず痒いような気がした。
「あれ? 魏延殿……?」
自室に戻ろうとするに、ばっちり目撃されているとも知らず。

===== あとがき ===
ほのぼの。
穏やか!めっちゃ穏やか!
じたばた足掻く魏延を書いてみたく(・∀・)
読んで下さってありがとうございます。もうちょい続きます。
2015.9.5 山藤